第二話 左利きの男

  西の空に太陽が傾き始めた頃、ばたで稽古の汗をぬぐっていた歳三は、が開く音にその手を止めた。その枝折り戸は試衛館と直結し、出入りしているのは周助と勇、歳三ら内弟子数名、たまに野良犬と野良猫が入って来るだけである。

 だが枝折り戸を開けたのは、その誰でもなかった。

「やっと捕まえたよ。あんたを」

 そう言って、一人の青年が不敵に笑って立っていた。

 歳は総司と変わらないだろう。着物袴に二本差し、頭髪は総髪で、歳三のように高く束ねて背に流すものでなく、勇と同じくちよんまげを作っている。

 名を、はちろうという。

「お前に追われるほど、何かした覚えはねぇが?」

「よく言うよ。今じゃ吉原では俺のきようはボロボロさ。あんたを誘うんじゃなかったと後悔しきりだ。一度、うらぶしを言ってやろうと思えば、あんたはなかなか捕まらない」

 歳三を吉原に連れ込んだのは、この伊庭である。

 伊庭八郎は江戸・かちまちにある、しんぎようとうりゆうそう・剣術道場「れんぺいかん」は道場主、なりあきの息子だが、この試衛館に何故か出入りしている。

 ふらっと現れてはたわいもない話をして帰って行くだけの男が、この日は違った。

「逃げているつもりはねぇぞ」

「ああ。俺も道場があるからな。お互いの会う時機が合わなかっただけさ。本当なら一発勝負をしたい所だが、感情ゆえの立ち合いは当然として、他流試合は親父どのの許可が下りない。ま、立ち合ってみたいのは本当だぜ? 土方さん」

 彼の父・伊庭秀業が試衛館との他流試合を拒む理由は、天然理心流が無名で、門弟も知られたものがおらず、さらには今にも傾きそうな貧乏道場としての見た目ゆえだろう。

 それは練兵館に限らず、他の道場にもいえることだが。

「お前、かんちがいしてねぇか? 俺をあそこに引っ張り込んだのは、てめぇじゃねぇか、伊庭八郎。それに俺は、娼妓おんなにも手を出しちゃいねぇ。それがどうして、お前の矜持とやをボロボロにする?」

「その通りだよ、土方さん。吉原に連れ込んだのは俺だ。あそこじゃ俺はかなり女にもてたんんだが――、あの日を境に娼妓たちが、あんたのことばかり聞く。客の男を前にして他の男の話だぜ? しかもどうきんもせずに酒だけ呑んで帰っちまった男のことを、だ」

 歳三は昔から、己の見た目にはとんちやくだ。

 顔について恨まれても、自然に形成されたものにうんぬんとされてもである。

「お前の話はよくわからん。それに、立ち合いしてみてぇなら俺じゃなく、総司とすればいいだろ。あいつの腕は、俺より確かだぜ」

「俺は、あんたとしたいのさ。もちろん、余計な感情など一切なしの真剣勝負をさ」

「俺に天狗とかりんと言われているお前とやる力はねぇよ」

 伊庭八郎の剣の腕は確かなようで、『伊庭の小天狗』『伊庭の麒麟児』とあだがついているらしい。

「ところで、神田でてんちゆうさわぎがあったのを知ってるかい? 異人相手にもうけている商人が、侍に斬られたそうだ」

「そう言やぁ、総司の野郎がかわらばんを俺の部屋に持ってきたな。だが瓦版には、しゆにんは侍だと書かれてなかった筈だぞ。なぜ下手人が侍だとわかる?」

「襲われる所を見た奴がいるのさ。うちの道場に北町きたまち(※北町奉行所)のりきを父親にもつ門弟がいてね。やられたほとけの切り口まで教えてくれたよ」

 何処にも、口の軽い人間はいるらしい。

 昔から武士によるつじりならあったことだが、天誅と称する今回のようなことは起きていなかった。ただ辻斬りにしろ天誅にしろ、らしで刀を抜いていいことにはならない。それがどんなに悪党であれ、裁くのは役人だ。斬った武士が浪士なら奉行所、旗本なら評定所がを判断する。

 町奉行所はときばしもんないに南町奉行所、ばしもんないに北町奉行所があるが、その日は北町のつきばんだったらしい。

「だが結局は逃げられたたんだろ? その野郎に」

「問題は、そいつが左利きだということさ」

 歳三は井戸からつるを引き上げようとして、その手を止めた。

「左利きだと……?」

 武士は左腰に刀を差し、右手でばつとうする。ゆえに左利きであれば、子供の頃に右利きにきようせいされる。その男の場合――、矯正を拒んだのかそれとも矯正してくる人間がいなかったのか、それとも病などで右が使えなくなったか。

 どちらにしろ、左で刀を使うには左腰から右手で刀を抜いて、左に持ち帰るという便べんさがある。ならば右腰にさせばいいが、武士ならばありえない行動だという。

 目撃したというその人物に寄れば、その男は左腰に刀を差していたらしい。当然、すじは、右利きとは逆になる。

 案の定、斬られた男は左上から右下に斬られていたらしい。

「そいつ、腕はいいようだな」

 伊庭がふっと笑う。だが、歳三は違った。

「腕がいいかわからねぇが、中身はくさってやがる

 歳三はそういまいましげに、言葉を吐き捨てた。

 現在いまの江戸市中には、きんもくてきで人を斬る者と、異人をこの国から追い出す攘夷目的で刀を抜く者がいる。

 商人を斬ったというその男ははたしてどちらなのか。どちらにせよ、身を守るすべのない人間を襲うのは非道。

「そういえば、沖田を見かけないが?」

 周りを見渡した伊庭が、首を傾げた。

 いつもなら腹が空いたとうるさく騒ぐ総司が、ひつじこくを告げる鐘が鳴って以降、姿を見かけていない。しかし歳三は、総司の行き先はわかっていた。

「うぐいすもちが食いたくなったとよ」

「は……?」

 井戸からつるを引き上げた歳三の横で、伊庭は口を半開きにしたまま固まっていた。

 

                  ◆


 江戸・かんみようじんしただいどころちよう――、神田明神の裏手であるこの地に〝うぐいす餅〟を出すちやみせがある。こぢんまりとした店で、さして珍しいわけではない。

 その店の前で、沖田総司は足を止めた。

 刻限はさるじようこく(※午後十五時)――、午に蕎麦そばを食べたが、小腹の訴えと甘味の誘惑には逆らえない。

 うぐいす餅はその名の通り、うぐいすいろの餅にきなまぶされたもので、この時期によく出回る餅だ。総司はこの時期になると、この餅が食べたくなる。

 まだ元服前だった総司は、師匠である近藤周助から相伴に預かった。総司のうぐいす餅好きは、間違いなく師匠の影響である。

「――うぐいす餅を一皿。あ、あと土産に何個か」

 れんせんり、左腰から刀を抜いた総司の注文に、応対に現れた店主はげんな顔で奥へ戻っていく。この店に、侍が来るのは珍しかったようだ。

 確かに店内にいる客の中に、侍はいない。

(土方さんも来ればいいのに)

 床几に腰を下ろした総司は、うぐいす餅が運ばれてくる間、通りの往来を見つめながら歳三の顔を脳裏に浮かべた。

 総司は出かける前、歳三を誘ったがあっさりと拒まれた。

 きっちりと障子を閉ざし、顔を見せぬ部屋の主は、総司が声をかけると動揺する気配をさせた。なにをしているのか察しはついたが、そこをつくと怒鳴られるため、一緒に出るのを諦めた。

 実を言えば、総司が神田まで来たのは、うぐいす餅が目的ではない。

 神田で起きた天誅騒ぎ――、瓦版にも載ったそのてんまつは、呉服商・ずさあるじが何者かに斬られて殺されたという。

 上総屋は、異国と取り引きを始めてかなり儲けていたという。

(罰当たりだなぁ……)

 この地には、江戸のそうちんじゆとされる神田明神がある。元和二年に江戸城の表鬼門守護の場所にあたるこの地に移したという。

 総司にはじようとか、世の侍が何を考えているかはわからない。だが、武器を持たぬ者を斬り伏せる行為は、同じ侍としてゆるせなかった。だからといって、総司にその人物を裁く権利はない。さらに顔も住まいもわからぬその人物を、往来の中から見つけるなどぼうぎた。

 神田明神の祟りでも起きない限り、その男は大手を振って町を歩き続けることだろう。

(土方さんのように、鼻が利かないからな)

 総司は一人笑みつつ、餅を口に入れる。

おそらく歳三も、総司と同じいきどおりを抱いているだろう。

 生まれも育ちも武家の総司と違って、歳三は多摩農村の出身。武家のしきたりも知らなければ、腰に刀を差し始めたのもまだ数年である。

 それでも剣の腕は上達し、実戦でも真剣を振るえるだろう。

 彼の勘の良さは、才能だろう。

 背後から足音を立てずに近づいても、すぐに気づかれてしまう。背中に目と鼻があるのでは? とらかうと怒鳴られたが。

 歳三曰く、血の匂いがかんでわかるという。

それは、ある出稽古先から帰る日のことだ。

 もうすぐ市谷というところで、二人は一人の浪士とすれ違った。他にも町人数人とすれ違ったが、歳三は険しい顔で歩を止めた。 


 ――わかるんだよ。一度、その手を血で染めた人間の匂いが。


 歳三はそう言って、嫌そうに眉を寄せた。

 その浪士が誰かを斬ったという証拠はない。あくまで、勘である。

 それから数ヶ月後、総司はとうまるかごすずもりけいじように運ばれる罪人を見かけた。その罪人が、二人がすれ違った浪士だった。

 武士ならば切腹が名誉ある死だが、主家をもたぬ一介の浪士にそれはない。しかも人を斬って逃げ続ければ、その罪はさらに重い。


 ――奴に同情なんざしねぇ。自分のしたことに落とし前をつけらねぇ奴を、俺は武士とは認めねぇ。


 鈴ヶ森刑場に向かうその男の話をしたとき、歳三は振り向くことなくそう言った。

 あのとき彼は、どんな顔をしていたのだろう。

 人は罪を犯せばつぐなわねばならぬ。農民だろうと町人だろうと、そして武士だろうと。

 総司は本人には言わないが、歳三のさいかくも性格も嫌いではない。

 彼は店主から土産用に包んでもらったうぐいす餅を手にすると、晴れ渡る江戸の町に再び身を運んだのだった。

 

               ◆◆◆


 暮六つともなると、近藤家のくりや(※台所)から、しるの匂いが漂ってくる。

 歳三が足を運ぶと、まないたで狂いなく何かを刻む音がはっきりと聞こえてきた。

 歳三は柱に寄りかかると両腕を組み、かまの前にいる男に声を掛けた。

「今夜の味噌汁は、とうかぶかい? げんさん」

「ああ。今朝の余り物だけどね」

 源さんこと、井上源三郎はそう言って振り向いた。

 井上源三郎は歳三と同じ、武州多摩・日野の出身である。

 につこうきんばん、甲州街道・日光街道の整備、けいと開拓、八王子及び周辺地域の治安維持などにあたるはちおうせんにんどうしんやくの家に生まれたが、近藤周助に弟子入りし、近藤にとっては兄弟子である。

 しかし源三郎は、どんな場でも年下である近藤のことを「近藤さん」と呼ぶ。

 師匠である周助の息子となり、天然理心流宗家・試衛館次期四代目となる彼ゆえだろう。

 だが、歳三と同じ内弟子である源三郎は、稽古以外は厨にいるか、まきりをしているか、近藤家の庭に造られた畑にいる。

 着物袴にたすき掛けをした彼は、しやくで味噌汁を掬って小皿に盛って口をつけ、満足げに「うん」とうなずいた。

ぜいたくは言えねぇさ。米を食えねぇ人間だっているんだ。それに比べりゃあ、ここの飯はまだマシさ」

 歳三はそう、源三郎に返す。

 農民出身である歳三は、農民の暮らしがどんなものか知っている。

 ねんまいを幕府に納めても、米を食べられるのは一部だ。おかずも、漬物だけという時もある。ゆえに歳三は、食事に関しては文句をいうことはなかった。

「近藤さんに女っ気があったら、あんたもゆっくり稽古に励めるんだがな」

 その近藤は未だに独り身だ。

「私は別に構わないよ。好きでやっているんだから。人のことより、お前はどうなんだ? 女遊びに関しては、お前の方がくろうとだろ? トシ」

「俺に身を固める気はねぇよ」

 歳三がプイと顔を横に向けると、源三郎も背を向けた。

「そういえば――、町でまた騒ぎがあったそうじゃないか?」

 騒ぎとは、呉服商人が武士に斬り殺されたことだろう。

「らしいな」

「攘夷を叫ぶ気持ちはわからんではないが、法を犯すことはあってはならん。ましてや――、日頃から武器を携帯する武士が」

 源三郎は振り向くことはなかったが、彼も憤っているのだろう。

 いつも物静かで、歳三のようにげきこうすることがない源三郎の声が、少し苛立っているように聞こえた。

 そんな二人の耳に「ただいま!」とやけに明るい声が聞こえてくる。

「ちっ。うるせぇのが帰ってきやがった」

 歳三が舌打ちをすると、源三郎が再び振り向いた。その顔は、歳三が知るいつもの井上源三郎だった。

「江戸に来て、いいあいぼうが出来たな? トシ」

「よしてくれ。子供ガキの相手をするほど俺は暇じゃねぇよ」

 そんな歳三の背後に、総司が立った。

「誰が子供ですって?」

「うるせぇな。そういちいち絡むから子供だってンだよ! お前は」

「言いましたね? せっかくのお土産、あげませんからね」

「いらねぇよ。食い物に吊られるほど俺は飢えてねぇ」

 下らぬ口論を始めた歳三と総司に、源三郎が口を開いた。

「やっぱり、お前たちは――」

「やっぱり――、なんです? 井上さん」

 総司の問いに、何かを言いかけた源三郎は「何でもないよ」と苦笑して、再び調理を始めたのだった。

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