第二話 左利きの男
西の空に太陽が傾き始めた頃、
だが枝折り戸を開けたのは、その誰でもなかった。
「やっと捕まえたよ。あんたを」
そう言って、一人の青年が不敵に笑って立っていた。
歳は総司と変わらないだろう。着物袴に二本差し、頭髪は総髪で、歳三のように高く束ねて背に流すものでなく、勇と同じく
名を、
「お前に追われるほど、何かした覚えはねぇが?」
「よく言うよ。今じゃ吉原では俺の
歳三を吉原に連れ込んだのは、この伊庭である。
伊庭八郎は江戸・
ふらっと現れてはたわいもない話をして帰って行くだけの男が、この日は違った。
「逃げているつもりはねぇぞ」
「ああ。俺も道場があるからな。お互いの会う時機が合わなかっただけさ。本当なら一発勝負をしたい所だが、感情ゆえの立ち合いは当然として、他流試合は親父どのの許可が下りない。ま、立ち合ってみたいのは本当だぜ? 土方さん」
彼の父・伊庭秀業が試衛館との他流試合を拒む理由は、天然理心流が無名で、門弟も知られたものがおらず、さらには今にも傾きそうな貧乏道場としての見た目ゆえだろう。
それは練兵館に限らず、他の道場にもいえることだが。
「お前、
「その通りだよ、土方さん。吉原に連れ込んだのは俺だ。あそこじゃ俺はかなり女にもてたんんだが――、あの日を境に娼妓たちが、あんたのことばかり聞く。客の男を前にして他の男の話だぜ? しかも
歳三は昔から、己の見た目には
顔について恨まれても、自然に形成されたものに
「お前の話はよくわからん。それに、立ち合いしてみてぇなら俺じゃなく、総司とすればいいだろ。あいつの腕は、俺より確かだぜ」
「俺は、あんたとしたいのさ。もちろん、余計な感情など一切なしの真剣勝負をさ」
「俺に天狗とか
伊庭八郎の剣の腕は確かなようで、『伊庭の小天狗』『伊庭の麒麟児』と
「ところで、神田で
「そう言やぁ、総司の野郎が
「襲われる所を見た奴がいるのさ。うちの道場に
何処にも、口の軽い人間はいるらしい。
昔から武士による
町奉行所は
「だが結局は逃げられたたんだろ? その野郎に」
「問題は、そいつが左利きだということさ」
歳三は井戸から
「左利きだと……?」
武士は左腰に刀を差し、右手で
どちらにしろ、左で刀を使うには左腰から右手で刀を抜いて、左に持ち帰るという
目撃したというその人物に寄れば、その男は左腰に刀を差していたらしい。当然、
案の定、斬られた男は左上から右下に斬られていたらしい。
「そいつ、腕はいいようだな」
伊庭がふっと笑う。だが、歳三は違った。
「腕がいいかわからねぇが、中身は
歳三はそう
商人を斬ったというその男ははたしてどちらなのか。どちらにせよ、身を守る
「そういえば、沖田を見かけないが?」
周りを見渡した伊庭が、首を傾げた。
いつもなら腹が空いたとうるさく騒ぐ総司が、
「うぐいす
「は……?」
井戸から
◆
江戸・
その店の前で、沖田総司は足を止めた。
刻限は
うぐいす餅はその名の通り、
まだ元服前だった総司は、師匠である近藤周助から相伴に預かった。総司のうぐいす餅好きは、間違いなく師匠の影響である。
「――うぐいす餅を一皿。あ、あと土産に何個か」
確かに店内にいる客の中に、侍はいない。
(土方さんも来ればいいのに)
床几に腰を下ろした総司は、うぐいす餅が運ばれてくる間、通りの往来を見つめながら歳三の顔を脳裏に浮かべた。
総司は出かける前、歳三を誘ったがあっさりと拒まれた。
きっちりと障子を閉ざし、顔を見せぬ部屋の主は、総司が声をかけると動揺する気配をさせた。なにをしているのか察しはついたが、そこをつくと怒鳴られるため、一緒に出るのを諦めた。
実を言えば、総司が神田まで来たのは、うぐいす餅が目的ではない。
神田で起きた天誅騒ぎ――、瓦版にも載ったその
上総屋は、異国と取り引きを始めてかなり儲けていたという。
(罰当たりだなぁ……)
この地には、江戸の
総司には
神田明神の祟りでも起きない限り、その男は大手を振って町を歩き続けることだろう。
(土方さんのように、鼻が利かないからな)
総司は一人笑みつつ、餅を口に入れる。
おそらく歳三も、総司と同じ
生まれも育ちも武家の総司と違って、歳三は多摩農村の出身。武家のしきたりも知らなければ、腰に刀を差し始めたのもまだ数年である。
それでも剣の腕は上達し、実戦でも真剣を振るえるだろう。
彼の勘の良さは、才能だろう。
背後から足音を立てずに近づいても、すぐに気づかれてしまう。背中に目と鼻があるのでは? と
歳三曰く、血の匂いが
それは、ある出稽古先から帰る日のことだ。
もうすぐ市谷というところで、二人は一人の浪士とすれ違った。他にも町人数人とすれ違ったが、歳三は険しい顔で歩を止めた。
――わかるんだよ。一度、その手を血で染めた人間の匂いが。
歳三はそう言って、嫌そうに眉を寄せた。
その浪士が誰かを斬ったという証拠はない。あくまで、勘である。
それから数ヶ月後、総司は
武士ならば切腹が名誉ある死だが、主家をもたぬ一介の浪士にそれはない。しかも人を斬って逃げ続ければ、その罪はさらに重い。
――奴に同情なんざしねぇ。自分のしたことに落とし前をつけらねぇ奴を、俺は武士とは認めねぇ。
鈴ヶ森刑場に向かうその男の話をしたとき、歳三は振り向くことなくそう言った。
あのとき彼は、どんな顔をしていたのだろう。
人は罪を犯せば
総司は本人には言わないが、歳三の
彼は店主から土産用に包んでもらったうぐいす餅を手にすると、晴れ渡る江戸の町に再び身を運んだのだった。
◆◆◆
暮六つともなると、近藤家の
歳三が足を運ぶと、
歳三は柱に寄りかかると両腕を組み、
「今夜の味噌汁は、
「ああ。今朝の余り物だけどね」
源さんこと、井上源三郎はそう言って振り向いた。
井上源三郎は歳三と同じ、武州多摩・日野の出身である。
しかし源三郎は、どんな場でも年下である近藤のことを「近藤さん」と呼ぶ。
師匠である周助の息子となり、天然理心流宗家・試衛館次期四代目となる彼ゆえだろう。
だが、歳三と同じ内弟子である源三郎は、稽古以外は厨にいるか、
着物袴にたすき掛けをした彼は、
「
歳三はそう、源三郎に返す。
農民出身である歳三は、農民の暮らしがどんなものか知っている。
「近藤さんに女っ気があったら、あんたもゆっくり稽古に励めるんだがな」
その近藤は未だに独り身だ。
「私は別に構わないよ。好きでやっているんだから。人のことより、お前はどうなんだ? 女遊びに関しては、お前の方が
「俺に身を固める気はねぇよ」
歳三がプイと顔を横に向けると、源三郎も背を向けた。
「そういえば――、町でまた騒ぎがあったそうじゃないか?」
騒ぎとは、呉服商人が武士に斬り殺されたことだろう。
「らしいな」
「攘夷を叫ぶ気持ちはわからんではないが、法を犯すことはあってはならん。ましてや――、日頃から武器を携帯する武士が」
源三郎は振り向くことはなかったが、彼も憤っているのだろう。
いつも物静かで、歳三のように
そんな二人の耳に「ただいま!」とやけに明るい声が聞こえてくる。
「ちっ。うるせぇのが帰ってきやがった」
歳三が舌打ちをすると、源三郎が再び振り向いた。その顔は、歳三が知るいつもの井上源三郎だった。
「江戸に来て、いい
「よしてくれ。
そんな歳三の背後に、総司が立った。
「誰が子供ですって?」
「うるせぇな。そういちいち絡むから子供だってンだよ! お前は」
「言いましたね? せっかくのお土産、あげませんからね」
「いらねぇよ。食い物に吊られるほど俺は飢えてねぇ」
下らぬ口論を始めた歳三と総司に、源三郎が口を開いた。
「やっぱり、お前たちは――」
「やっぱり――、なんです? 井上さん」
総司の問いに、何かを言いかけた源三郎は「何でもないよ」と苦笑して、再び調理を始めたのだった。
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