第一話 なんとかしなきゃならねぇ

 ぶんきゅうがんねん、三月中旬。昨夜の夜半から一気に冷え込み、忽ち雪が舞い始めた。

 雪など珍しくなかったが、そんな白い雪を、真っ赤に染める事件がこの江戸で起きた。

 安政七年、桜田門外でのたいろうなおすけしゆうげきである。

 ばつかくじゆうちんが江戸城・桜田門外で暗殺される――、異国船来航、鎖国の解除とまたも人々に衝撃を与えた。

 地上の動きに天候が左右された訳ではないだろうが、この時期に雪が降るのはまれだ。

 だがこのときの歳三には、他に気になることがある。

 江戸で暮らし初めてまだ二年そこそこだが、天井にあるあまみを見るたびに、妙な危機感を抱かずにはいられない。その染みは最初は小さなものだったが、雨が降るたびに大きくなり、このまま放置すれば部屋の中でかさを差す羽目になる。しかも、この日には屋根には雪が乗っているだろう。

(冗談じゃねぇ。傘差してぼくとうを振れってっか?)

 歳三は両腕を組むと、唇をんだ。

 江戸・いちがこうしき――、山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に、小さな剣術道場がある。流派はてんねんしんりゆう、道場の名は試衛館しえいかんという。

 門弟の多くは、多摩の人間が多い。

 聞けば試衛館現道場主・近藤周助が多摩郡小山村の出身であったのと、当時は自ら多摩地方にひんぱんに出稽古に赴いて、門人を集ったからだという。

 今や門弟の一人となり、試衛館に隣接した近藤家に身を置く歳三だが、武士になるという夢を叶えるよりも先に、道場が潰れかねない。

 床から起き出して障子を開ければ、白く染まった庭先で三毛猫とたわむれている青年がいた。試衛館の若き師範代・沖田総司――、まだ十八だが九歳から天然理心流門下となり、その腕は近藤周助もたいばんを押すという剣才。

 歳三は試衛館に正式入門する以前、初めて総司と木刀を交えたことがある。だが、それまで子供のような笑顔を見せていた総司の顔が、木刀を握った瞬間に変わった。相手を年下とあなどっていたわけではなかったが、歳三の木刀は弾かれ、総司の木刀の先が歳三ののどもとちかくでぴたりと止まっていた。

 もしそれが木刀ではなく真剣であったなら――、歳三は今でも考えるとぞっとするのだった。

 だが性格はというと――。

(なんだかんだと、総司あいつだな)

 よくもまぁこの寒空の下、雪の中でしゃがんでいられるもんだと感心していると、総司と目が合った。

「おはようございます。土方さん」

「その猫……、どうした?」

「どうやら野良のようですよ」

 三毛猫は白地に茶色や黒が縞になっている縞三毛で、短くて丸い尻尾がついていた。

「飼うつもりじゃねぇだろうな? 総司」

「若先生は、いいとおっしゃってくださいましたよ」

「猫のえさまでまかなえるほど試衛館ここふところはよくねぇぞ」

「いいじゃありませんか。若先生のお許しはあることですし」

 そう言って青年は「ねー」と、三毛猫に同意を求める。

 若先生とは近藤周助の息子で、名をいさみという。

(これだから、この試衛館はボロボロのまんまなんだ)

 おやそろって来る者拒まずという楽天家な試衛館次期四代目(※勇)は、貧乏神まで招き入れたようた。

 門弟から入る金はわずか、出稽古に行けば謝礼は出るが、それでも他の道場に比べれば火の車である。向こうからすると天然理心流は田舎剣法、試衛館は芋道場らしい。

 総司は「このの名前どうします?」と聞いてきたが、歳三には猫の名前などどうでもよかった。

「やつが消えたぜ」

 総司は顔を向けず、猫ののどでながら「誰のことです?」と返してきた。

「お前がこの間、稽古をつけていたやつさ。もう三日も稽古に来ていねぇ。ありゃあ、逃げたな」

 普段は子供のようにじやで明るい総司だが、剣術となるとひようへんする。

 総司の手加減なしの稽古に、門弟の誰もがついてこられるわけではない。

「あれしきのことで、だらしがないですねぇ」

「ガタガタ震えているやつに、本気であたるからだ」

「稽古であれ本気でやらなければ、いざという時には死んでいますよ」

 そう言って顔をあげた総司の表情は冷たい。

 商家や農村の人間ならえいのためにと多少は力をつけてもそんはないが、その逃げ出した門弟は、生まれも育ちも武士だ。まさか本気で当ってくるとはおもっていなかったのか、総司を前に木刀の切っ先は小刻みに震え、翌日から稽古に来なくなった。

 かつて近藤が、いつから侍の世はすたれたのかと嘆いたことがあった。今の武士は、出世大事。剣の腕より学問と金。そのことをどうのこうのというつもりは歳三にはないが、侍の中には金を得るために、刀をその道具にする者もいる事だ。

 武士が刀を抜く時は、相手が交戦の意思を示したときだけだという。

 なのに一部の武士は、無抵抗の人間にも刀を向ける。

 刀は武士のしようちよう――、左腰に大小差すその重みには覚悟と責任があるという。

 歳三は今も、初めて刀を手にした時の重みは忘れていない。いつの日か、刀を抜くときが来るかも知れない。そしていざとなれば、人を斬らねばならないことが起きるかも知れない。

 ゆえに、今でも腰に差した刀がその重みで歳三に問いかけてくる。

 ――お前に、命をかけるその覚悟はあるのか、と。

 稽古場を出た歳三の眼の前で、近藤家の中庭に通じるが大きく傾いた。雪の重みのせいもあるだろうがその以前から外れ出し、簡単なしゆうぜんでそのままにしておいたのだから壊れるのも無理はない。とりあえず今はこのボロ道場をなんとかしないとと、歳三は庭に背を向けた。

                    

       ◆◆◆

 

 近藤勇は今でこそ、次期試衛館四代目だが、生まれは歳三と同じ多摩農村の出だ。

 調布・宮川家からその腕を買われ、近藤周助の養子むすことなった。

 歳三が勇の部屋の前で声をかけると「トシか? 入れ」という声が帰ってきた。

 障子を開けると火鉢の前で褞袍どてらにくるまった近藤が「よぉ」と言った。

 歳は近藤の方が一つ上、がっしりとしたたいに、岩に目と鼻と口がついたような顔には伸びかけた髭がある。性格はごうほうらいらくでお人好しなのがたまきずだが、歳三はそんな勇にかれた。いは歳三がまだ多摩の地で薬売りをしていた頃で、歳三の義兄・彦五郎の道場に勇が出稽古に来ていたのがきっかけである。

「……あんたが、そんなに寒がりだとは知らなかったよ。近藤さん」

「今日はよく冷えやがる。昨夜など天井からつゆが頭に落ちてきてな。これが冷てぇのなんのって」

(そりゃあそうだろうよ)

 苦笑いする近藤に呆れつつも、歳三は言わずにはいられなくなった。

 近藤の欠点はお人好しの他に、のんすぎることだ。

「あんた、本気でここを継ぐつもりはあるのか?」

おやどのと同じことをいうなよ。継ぐつもりがなかったら、ここにはいないさ。まさかお前まで早く嫁を迎えろなぁんていうんじゃないだろうな? トシ」

 近藤は困ったことになると、太い眉をぐっと寄せる癖がある。

「俺が言いたいのは、ここの修繕だ。あまりするわ、床に穴が空くわ、壁は剥がれる。なんとかしねぇと、吹きさらしの中で眠ることになるぜ」

「と言ってもなぁ。今の世、武士もさんじゆつが必要であってもだ、俺にそろばんは無理だぞ?」

「そんな事はいってねぇよ。ただ、あんたが四代目となったとしても、本当にここをなんとかしねぇと潰れるぜ? 大先生のドデカい雷が落ちるのは確実だな」

 近藤周助は今年六十八、今は道場を勇に任せて奥に引っ込んでいるが、彼の怒鳴り声は稽古中の打ち合いを止めるほどだ。そして決まって怒鳴られているのが、息子である近藤である。

「おどかすなよ。トシ」

「おどしてねぇよ。大丈夫などと言っていると痛い目に遭うことは、うえ(※幕府)が証明してくれたじゃねぇか」

 歳三は立ち上がって腕を組むと、ふすまにらんだ。

「おいおい……」

 近藤が慌てる。それも無理はない。歳三が睨んだ方角には江戸城があるのだ。

 徳川二百数十年、幕府の徹底した鎖国体制がその年数よりもあっさりと崩れ去ったのは、嘉永七年に異国船が江戸湾までやってきたことがきっかけだという。

 これにより、各港が異国船に開かれた。つまりこの国は外からみれば丸裸状態。

 巷では食い詰め浪人たちによる人斬りや、開国に踏み切った幕府に異を唱える者による異人襲撃が横行している。

 何かが起きてもおかしくないのが、今の世である。

「あんた――、総司あいつに五代目を、なぁんて思ってるか?」

「いきなりどうした?」

「ただ、聞いただけさ。ま、あんたのじつが継げば問題はねぇが、どちらにしろ、それまでに試衛館が残ってるかどうかだ」

 歳三が総司を試衛館後継者にと望んでいるのかと近藤に聞いたのは、周助がそう考えているかも知れないと思ったからだ。

 周助にとって総司はじきであり、総司の腕は確かである。しかし周助は総司ではなく、近藤を四代目候補として養子にした。だがその周助はまもなく七十、おのれが築き上げた天然理心流宗家・試衛館のすえが気にならないはずがない。近藤に五代目となる実子が望めない場合、総司にと思うのは無理はない。

「確かに総司なら立派にやれると思うが、先のことはわからん。ま、義父どのの期待に添えるよう頑張るさ。それより、お前はどうなんだ? トシ」

 ほこさきが自分に向いて、歳三はろんに眉を寄せた。

「なにが?」

「女に決まってるだろ。みの女の一人や二人、いるんじゃないか? 吉原に」

 吉原と聞いて、歳三はどうもくする。

 女性関係は多摩にいるころからあったが、ここ数年は女と知り合う機会も減り、そんな気力もなかった。歳三も二十代後半に差し掛かり、実家からは早く嫁を取れとうるさい。

 遊びも本気のこいも、武士になるという夢を優先させればさせるほど遠のいた。しかし歳三本人は気にならず、実家からせっつかれても無視し続けた。

 そんな彼が訪れたよしはらゆうかく――、きっかけはある男に酒を呑もうと誘われ、連れてこられたのが吉原だったのだ。

「……あんた、どうして俺が吉原に行ったと知ってる?」

「隠すことはないさ。吉原に行ったって別に良いだろう。実にうらやましい」

(しゃべったのは、総司の野郎だな)

 歳三は、吉原に行ったことを誰にも話していない。別に隠していたわけではないが、帰宅した彼は庭から部屋に入ろうとして、そこを総司に見られた。わずかにおしろいの匂いがついていたらしく、総司は「大丈夫です。誰にもいいませんから」と笑った。

(なにが誰にもいいません、だ。あのおしゃべりめ)

 のうに浮かんだ総司をにがにがしく思いつつ、歳三は勇の言葉を否定した。

「行ったのは一度だけさ。酒だけ呑んで帰ってきたよ」

「呆れた奴だな。何しに行ったんだ? 吉原まで」

 吉原で部屋にやって来た遊女にも似たようなことを言われたが、今の歳三には女よりも夢を追うことしかない。

 歳三は「まぐれさ」といって、障子を開けた。

 どんてんは相変わらずだったが、止んだはずの雪がちらちらと再び舞っていた。

「また降ってきやがった」

 このぶんでは、また積もるかも知れない。

 果たして自分は、いつまでこのままなのか。

 腰に刀を差しただけでは、満足できない自分がいる。

 何とかなると江戸へ出てみたが、己の甘さを痛感させられる。

 確かなモノが欲しい――、これと思う確かなモノが。

 果たしてそれは何なのか、歳三にもわからないのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る