第一話 なんとかしなきゃならねぇ
雪など珍しくなかったが、そんな白い雪を、真っ赤に染める事件がこの江戸で起きた。
安政七年、桜田門外での
地上の動きに天候が左右された訳ではないだろうが、この時期に雪が降るのは
だがこのときの歳三には、他に気になることがある。
江戸で暮らし初めてまだ二年そこそこだが、天井にある
(冗談じゃねぇ。傘差して
歳三は両腕を組むと、唇を
江戸・
門弟の多くは、多摩の人間が多い。
聞けば試衛館現道場主・近藤周助が多摩郡小山村の出身であったのと、当時は自ら多摩地方に
今や門弟の一人となり、試衛館に隣接した近藤家に身を置く歳三だが、武士になるという夢を叶えるよりも先に、道場が潰れかねない。
床から起き出して障子を開ければ、白く染まった庭先で三毛猫とたわむれている青年がいた。試衛館の若き師範代・沖田総司――、まだ十八だが九歳から天然理心流門下となり、その腕は近藤周助も
歳三は試衛館に正式入門する以前、初めて総司と木刀を交えたことがある。だが、それまで子供のような笑顔を見せていた総司の顔が、木刀を握った瞬間に変わった。相手を年下と
もしそれが木刀ではなく真剣であったなら――、歳三は今でも考えるとぞっとするのだった。
だが性格はというと――。
(なんだかんだと、
よくもまぁこの寒空の下、雪の中でしゃがんでいられるもんだと感心していると、総司と目が合った。
「おはようございます。土方さん」
「その猫……、どうした?」
「どうやら野良のようですよ」
三毛猫は白地に茶色や黒が縞になっている縞三毛で、短くて丸い尻尾がついていた。
「飼うつもりじゃねぇだろうな? 総司」
「若先生は、いいとおっしゃってくださいましたよ」
「猫の
「いいじゃありませんか。若先生のお許しはあることですし」
そう言って青年は「ねー」と、三毛猫に同意を求める。
若先生とは近藤周助の息子で、名を
(これだから、この試衛館はボロボロのまんまなんだ)
門弟から入る金は
総司は「この
「やつが消えたぜ」
総司は顔を向けず、猫の
「お前がこの間、稽古をつけていたやつさ。もう三日も稽古に来ていねぇ。ありゃあ、逃げたな」
普段は子供のように
総司の手加減なしの稽古に、門弟の誰もがついてこられるわけではない。
「あれしきのことで、だらしがないですねぇ」
「ガタガタ震えているやつに、本気であたるからだ」
「稽古であれ本気でやらなければ、いざという時には死んでいますよ」
そう言って顔をあげた総司の表情は冷たい。
商家や農村の人間なら
かつて近藤が、いつから侍の世は
武士が刀を抜く時は、相手が交戦の意思を示したときだけだという。
なのに一部の武士は、無抵抗の人間にも刀を向ける。
刀は武士の
歳三は今も、初めて刀を手にした時の重みは忘れていない。いつの日か、刀を抜くときが来るかも知れない。そしていざとなれば、人を斬らねばならないことが起きるかも知れない。
ゆえに、今でも腰に差した刀がその重みで歳三に問いかけてくる。
――お前に、命をかけるその覚悟はあるのか、と。
稽古場を出た歳三の眼の前で、近藤家の中庭に通じる
◆◆◆
近藤勇は今でこそ、次期試衛館四代目だが、生まれは歳三と同じ多摩農村の出だ。
調布・宮川家からその腕を買われ、近藤周助の
歳三が勇の部屋の前で声をかけると「トシか? 入れ」という声が帰ってきた。
障子を開けると火鉢の前で
歳は近藤の方が一つ上、がっしりとした
「……あんたが、そんなに寒がりだとは知らなかったよ。近藤さん」
「今日はよく冷えやがる。昨夜など天井から
(そりゃあそうだろうよ)
苦笑いする近藤に呆れつつも、歳三は言わずにはいられなくなった。
近藤の欠点はお人好しの他に、
「あんた、本気でここを継ぐつもりはあるのか?」
「
近藤は困ったことになると、太い眉をぐっと寄せる癖がある。
「俺が言いたいのは、ここの修繕だ。
「と言ってもなぁ。今の世、武士も
「そんな事はいってねぇよ。ただ、あんたが四代目となったとしても、本当にここをなんとかしねぇと潰れるぜ? 大先生のドデカい雷が落ちるのは確実だな」
近藤周助は今年六十八、今は道場を勇に任せて奥に引っ込んでいるが、彼の怒鳴り声は稽古中の打ち合いを止めるほどだ。そして決まって怒鳴られているのが、息子である近藤である。
「おどかすなよ。トシ」
「おどしてねぇよ。大丈夫などと言っていると痛い目に遭うことは、
歳三は立ち上がって腕を組むと、
「おいおい……」
近藤が慌てる。それも無理はない。歳三が睨んだ方角には江戸城があるのだ。
徳川二百数十年、幕府の徹底した鎖国体制がその年数よりもあっさりと崩れ去ったのは、嘉永七年に異国船が江戸湾までやってきたことがきっかけだという。
これにより、各港が異国船に開かれた。つまりこの国は外からみれば丸裸状態。
巷では食い詰め浪人たちによる人斬りや、開国に踏み切った幕府に異を唱える者による異人襲撃が横行している。
何かが起きてもおかしくないのが、今の世である。
「あんた――、
「いきなりどうした?」
「ただ、聞いただけさ。ま、あんたの
歳三が総司を試衛館後継者にと望んでいるのかと近藤に聞いたのは、周助がそう考えているかも知れないと思ったからだ。
周助にとって総司は
「確かに総司なら立派にやれると思うが、先のことはわからん。ま、義父どのの期待に添えるよう頑張るさ。それより、お前はどうなんだ? トシ」
「なにが?」
「女に決まってるだろ。
吉原と聞いて、歳三は
女性関係は多摩にいるころからあったが、ここ数年は女と知り合う機会も減り、そんな気力もなかった。歳三も二十代後半に差し掛かり、実家からは早く嫁を取れとうるさい。
遊びも本気の
そんな彼が訪れた
「……あんた、どうして俺が吉原に行ったと知ってる?」
「隠すことはないさ。吉原に行ったって別に良いだろう。実に
(しゃべったのは、総司の野郎だな)
歳三は、吉原に行ったことを誰にも話していない。別に隠していたわけではないが、帰宅した彼は庭から部屋に入ろうとして、そこを総司に見られた。
(なにが誰にもいいません、だ。あのおしゃべりめ)
「行ったのは一度だけさ。酒だけ呑んで帰ってきたよ」
「呆れた奴だな。何しに行ったんだ? 吉原まで」
吉原で部屋にやって来た遊女にも似たようなことを言われたが、今の歳三には女よりも夢を追うことしかない。
歳三は「
「また降ってきやがった」
このぶんでは、また積もるかも知れない。
果たして自分は、いつまでこのままなのか。
腰に刀を差しただけでは、満足できない自分がいる。
何とかなると江戸へ出てみたが、己の甘さを痛感させられる。
確かなモノが欲しい――、これと思う確かなモノが。
果たしてそれは何なのか、歳三にもわからないのであった。
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