江戸市谷事件帖~誠への道

斑鳩陽菜

序章

 安政二年十月――、しゆう・日野。

 江戸を起点として地方へ伸びる五つの街道――、その一つに甲府へ繋がる街道がある。

 甲州街道と呼ばれるその道は途中、多摩川にぶつかる。

 普段から水量の多い川だが、大雨が降ればはんらんするため、暴れ川とありがたくない名がついている。当然、多摩川に直結する支流も影響されるが、人は自然の驚異に遭いつつもたくましく生きている。

 日野は多摩の西部、多摩川とその支流である浅川流域に位置し、豊かな田園が広がっている。多摩川と浅川からは農業用水路が引かれ、総延長は約四十三里(※160キロメートル)、多摩の米蔵と呼ばれた穀倉地帯を支え、実収三千石ともいわれた石高を日野にもたらしているという。

 この日――、そんな多摩川の支流・浅川までやってきた男は、川岸で風に揺れるすすきを横目に家路を辿っていた。

 使い古した行商用の薬箱を背負い、墨文字で『家伝・石田散薬』と書かれたのぼりを片手に、ひとごとを終えたこの薬売りの心の中に、諦めきれぬ夢へ情熱の炎がメラメラと燃えているとは、誰が知ろうか。

「誰かと思いきや、石田村のトシじゃないか。今、帰りか?」

 掛けられた声に男――歳三の視線がくわを担いだ村人を捉える。

 石田村には、現在の実家・土方家がある。農家ではあったが裕福な方で、六人兄弟の末っ子として生まれた彼は、のちにそんな兄や姉を悩ませる存在となった。

 役人の世話になるような悪さはしなかったが、少々暴れていたのは確かだ。

 ついたあだが、バラガキ――。

「ああ。今日はよく売れたんでな。あれから腰の方はどうだ? 良かったら安くしておくぜ?」

 彼の言葉に、村人は「間に合ってるよ」と軽く手を振って去って行く。

 売れ残った薬を売りつけてやろうと思ったが、向こうはいち早く察知したようだ。

「けっ。最近の村の連中は、巾着※財布)の紐が堅くていやがる。やっぱり稼ぐなら、あそこか」

 歳三は、にっと口角を上げる。

 彼がいうあそことは、剣術道場のことである。

 この多摩の地には、てんねんしんりゆうたいへいしんきようりゆうこうげんいつとうりゆうの流派が広まっており、剣術道場ならあちこちにある。

 彼が売り歩く薬は、打ち身やねんに効果があるという。剣術道場なら、その手のはつきもの。ゆえに得意先でもあったが、甲源一刀流のどうじようだけはここ一月、足が遠のいている。

 小さな道場ならよく顔を出していた歳三だが、薬を売る目的と同時に、代わりに門弟たちと手合わせをさせられる。

歳三は行商に出かけるときは、木刀を携帯する。

 普通行商人はそんなものは持ち歩かないが、歳三を知らぬ者は護身用と勝手に判断する。

剣術を少しなどとけんそんぎみにいえば、片手間に剣術をやる薬屋など軽くあしらえると踏んだのか、立ち合っていけという。

 比留間道場でも同じ反応だったが、道場主の実弟にして師範代だと男を倒したことが災いした。

あまりにも相手が見下してくるため、いつもより力が入った。

 それ以来、比留間道場の門弟が近隣をろつはじめた。自分を捜しているなと思った歳三は、めんどうをさけるために比留間道場の周辺には近づかないようにしていたのである。

 幸い、彼らは歳三の実家近くまでは来ていなかったが、見つかるとただではすみそうにはない。門弟たちの目の前で師範代が薬屋に負けるなど、武士ではない歳三にもどんなに屈辱的かはわかる。

 と言って逃げ隠れするのもどうか――。

「――ンだとぉ!?」

 土手に座り川面を見ていた歳三は、突然聞こえてきたドスの利いた声に振り返った。

 その方角は歳三が先ほどまで歩いていた場所で、一人の村人がやくざ者らしき男たちに囲まれていた。

(あいつ、確か――)

 歳三はその村人に、見覚えがあった。

 子供の頃、一緒に連んでいた一人に似ていたのだ。

 

「もういっぺん言ってみな?」

 すごむ相手に、その村人の声は弱々しい。

「で、ですから無理です。十両だなんて――」

「てめぇ、いい度胸をしているじゃねぇか? 借金を踏み倒そうなんてよ」

「おいらが借りたのは、一両です……!」

「黙れ。利息がついてンだよ。借りたモンはきっちり返すのが人間ってモンだ。いるんだよなぁ、てめぇのようなクズが」

 最近この多摩に、やくざ者の高利貸しが棲み着いているという。

 悪党なら昔からいるにいたが、関わるとろくなことにならない。結局泣き寝入りさせられるのが落ちで、短刀をチラつかせた男に村人は黙るしかなかったようだ。

「――やっぱり、与助じゃねぇか」

 歳三が村人が誰か確認すると、その親玉がおにがわらのような顔を歳三に向けた。

「――ンだぁ? てめぇ……」

「と、トシさん……!」

 凄む男の顔と、救いを求めてくるおさなみの顔を同時に向けられて、歳三は内心やれやれと自身の悪運をなげく。

 昔から面倒ごとが、何故か歳三に転がってくるのだ。

 歳三はわらった。

「なるほどね。よってたかってよわものいじめかい? クズというのは、お前らのことを言うんンじゃねぇのか?」

「薬屋風情が!!」

 ほこさきを歳三に向けたやくざ者たちに、歳三も背から木刀を引っ張り出した。

 くれぐれも喧嘩はするなと兄たちに言われたが、相手を下に見てくる人間だけはかんさわった。

「今日はまだこいつを振っていなかったからちょうどいいぜ。俺が勝ったら、とっととこの多摩から失せな」

 帰れば説教間違いなしだなと鼻で笑い、歳三は木刀を構えた。


                     ◆

 

 四年後――、日野宿本陣。

 

 日野宿名主・佐藤彦五郎は、天然理心流の剣術道場・佐藤道場をやしきの隣に構えていた。

 板敷きの床を踏みならす音と木刀が交わる音が交差する稽古場で、柱に寄りかかっていた歳三は欠伸をした。

 稽古中に欠伸とは普通なら怒られるが、彦五郎は顔を見せた彼を怒るわけでもなく、苦笑していた。

 一年前の安政六年、歳三は江戸・天然理心流宗家の内弟子となった。たが、彦五郎の妻にして歳三の実姉ノブの反応は、彦五郎とは真逆だ。

 なにせ歳三は江戸で武士になると言って実家を離れ、未だにその夢を追っているのだ。

 薬売りとして生きていても、なんら生活に困ることはない。なのになにゆえ、なれもせぬ武士になろうとするのか――と、歳三の二人兄と姉ノブは現在も歳三の夢には否定的だ。

 石田村の豪農・土方家の末っ子に生まれ、躯を動かすことが好きだった彼は畑仕事は嫌いではなかったし、薬の行商の楽しかった。

 しかし、彼は出会ってしまったのだ。

 周りが無謀という、武士になる夢に。

 今や農民であれ、自衛のために剣術を習う。

 年貢米を襲う者や、金品を強奪する者、幕府直轄地であっても悪党はのさばる。もちろん彼らを取り締まる役人はいたが、その役人自体が役に立たないこともある。

 自衛する以外に、他にどんな方法があるだろうか。

 多摩に剣術が広まったのは、そうした背景からかも知れない。

 彦五郎も名主ながら剣術を始めたきっかけは、自衛が目的だったという。

 歳三が武士になるという夢を抱いたのは、この多摩の地でやくざ者の悪事を見ぬ振りをした役人を見てしまったことだ。

 護ってくれるはずの役人に、無視されるほど辛いことはないだろう。噂によるとその役人は、多額の袖の下で肥えているという。役人が動かない筈である。

 もちろんそんな人間は一部だろうが、役人も武士。腰に差している刀が、凶器となることもある。

  ――あんな奴らに泣き寝入りなんざ、まっぴらご免だぜ!

 ならば強くなってやる。お前らのような腐った武士じゃなく、本物の武士になって見返してやる。

 まだ十代後半だった歳三は、そう決意した。

 そして彼は、ついに夢の一歩を踏んだのだ。 

「眠そうだな? 歳三」

「昨夜は、遅くまで姉貴の説教さ。久しぶりに帰りゃあ馬鹿だの、しようなしだの、よくまぁえやがる。あんた、よくあんなうるさい姉貴を妻にしたな」

 歳三がつくづく呆れていると、彦五郎が笑った。

「それだけ、お前の心配をしてるんだろうよ。何せ、江戸はもう以前の江戸じゃねぇって話だ。そんな江戸に周りの反対を蹴って出て行った末っ子が、今でも気になるのは当然だ」

 現在の江戸は、長年の鎖国から一気に開国にかじを切った徳川幕府に対し、不満を抱く者が出没している。異人襲撃は言うに及ばず、異国と取り引きを始めた商人も一部の武士に襲われるという事件も起きた。

 江戸に行くと言ったとき、兄たちは武士になってなにをするのかと、歳三に聞いてきた。その答えは、現在も出てはいない。

「あんたも、俺が武士になることは反対か?」

 歳三は、彦五郎を見上げた。

「俺はこの日野から出たことはないが、剣の道を目指してみたいと思ったことはあるが」

「現在もこうして、道場を構えているじゃねぇか」

「確かに。だが俺は武士ではない。この日野宿の名主に過ぎん。だがお前は、身分を越えて武士になった。あのバラガキが」

「まだなっちゃいねぇよ。みてくれだけさ。中身はなにも変わっちゃいねぇ。俺がなりたいものは、そこらにいる武士じゃねぇ」

「帰るのか?」

 きびすを返した歳三を、彦五郎が呼び止める。

「ああ。今日はうるせぇのがもう一人いるんでな」

 歳三が身を置く、江戸・天然理心流宗家、試衛館。

 歳三の帰郷は、この佐藤道場が出稽古先からだ。

「――うるさいのって、私のことですか? 土方さん」

 そんな歳三の言葉を聞いていたのか、一人の青年が背後に立った。

「ちっ。おまけに地獄耳でいやがる」

「何処かの誰かさんのように口が悪くて、喧嘩っ早くはありませんけど?」

 姿は歳三と変わらないが、歳は若い。

 試衛館門弟にして師範代の、沖田総司である。

「総司、お前なぁ――」

 歳三は言い返そうとするが言葉が見つからず、彦五郎が吹き出した。

「歳三、お前の負けだな」

 彦五郎はそう言って笑った。


 

 浅川・まんがんふな――、江戸と甲州を結ぶ甲州街道は、まず多摩川を越えなければどちらに行くことはできない。

 なにしろ『暴れ川』と言われる川である。水量が増せば船は出ない。

 歳三も昨日中に帰る筈が、日野についたとたんに土砂降りとなり、帰りは川を渡れなかったのだ。おかげで、夜遅くまで姉の小言を聞かされて気分は最悪だ。

「危うく、帰りの船がなくなるところでしたよ」

 総司が愚痴を言う。

 渡船はあと一歩遅ければ、次の船を待つところであった。

 土手まで二人がやって来たとき、船の側で煙管をふかしていた船頭が腰を上げたからだ。

「俺のせいにするんじゃねぇ。稽古中に消えやがって」

かわやに行くって言いませんでしたっけ? それに、ちゃんと戻ってきたじゃありませんか」

「ああ。口に、あんをつけてな。義兄さんは苦笑していたが、てめぇの顔を見た俺は、思わず木刀を落っことすところだったんだぞ!」

 歳三から見れば、年下だろうが総司は兄弟子であり、試衛館師範代である。しかし、この総司という青年、人をらかうのが趣味なのか、歳三を刺激しにかかる。

 しかも、たまに子供のような行動に出る。

 まだ正式入門して間もない歳三を稽古場に残し、総司が何処にいたのかというと、なんと歳三の姉・ノブと部屋で仲良く茶を飲んでいたらしい。

「つい、姉上どのと話が弾みましてね。土方さんの子供の頃の話とか」

 どうせろくな話ではないなと思った歳三は、総司に釘を刺した。

「いいか? 帰ったら余計なことはいうんじゃねぇぞ」

「どうしてです? 若先生も興味あると思いますよ。土方さんがおねしょをした話とか」

「馬鹿野郎! それは子供の頃の話だ!!」

 ふんがいする歳三の前で、総司の顔が急に真顔になる。

「冗談ですよ。ところで――、たいぞうという男をご存じですか?」

「何処かで聞いた名だな」

「甲源一刀流・比留間道場の師範代だったという人物です」

「そいつがどうかしたか?」

「江戸にいるそうです。気をつけた方がいいですよ、土方さん」

 総司はそう言って、歳三に警告した。

 そしてようやく歳三は、比留間道場の師範代の顔を思い出した。

 四年前、比留間道場で歳三が立ち合った男だ。

「どうして気をつけなきゃならん」

とぼけてもですよ。この多摩では土方さんはちょっとした有名人です。道場破りをする薬屋がいるって、ね」

「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇ。立ち合えとしつこいからだ。それに、世年も前のことを今ごろ突っつくか?」

 四年前に比留間道場を訪れた後、しばらくは門弟たちが武士髷の薬屋を捜しているようだったが、十日もすると諦めたのか、帰って行ったらしい。

「そうですけど、人によっては、憎い相手の顔というのはいつまでも覚えているものです」

「奴が江戸にいると、どうして知った?」

「比留間道場近くの出稽古先で聞いたんですよ」

 総司の返答に、歳三は「またか」と思った。

 出稽古は同門である他の道場に赴き、お互いの腕を磨く場だが、中には酒や茶を出す所がある。歳三の場合、身内当然の彦五郎の所は別としてその誘いは断っているのだが。

「お前……、また茶に呼ばれたな?」

「ご厚意を断るのは申し訳ないでしょう? わたしはやっぱり比留間泰蔵は、土方さんのことは現在も覚えていると思いますね。なにせ、土方さんは口が悪い。相手を刺激て敵を作る質ですから」

「それはお前のほうだろ。総司」

「私は、相手をボコボコにして薬を売りつけていた何処かの薬売りのような芸当はできませんよ」

 歳三は「ふんっ」と鼻を鳴らして、前を見据えた。

 二人を乗せた船は岸を離れ、対岸のちゆう宿じゆくへ向かっている。

 江戸までは十里、夕刻までは帰れるだろう。

(俺は、必ず武士になってやる……!)

 実戦の経験は歳三にはなかったが、もし比留間泰蔵が当時のことを今も根に持ち刀を向けてくるなら、戦わねばならないのだろう。

 形だけは武士になったが、彼が夢見る武士は現在の自分ではないのだ。

 江戸に多くいる浪士の一人に過ぎず、所詮は百姓上がりと馬鹿にされる。

  遠ざかる故郷の地を船の上から見つめ、歳三は己の理想とする武士像を求め、決意を新たにしたのだった。

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