酔いどれと、素晴らしき友

AZUMA Tomo

酔いどれと、素晴らしき友

「有奇くん、そろそろお開きにしよう。もう日付も変わる頃合いだ」

「いやだ……まだ飲むぞ。付き合え、東雲祥貴……」

「明日は休みだからいいけど……君は仕事があると言っていたじゃないか」

「……明日が来てほしくない……」

「有奇くん。時間というのは平等に過ぎていくものだよ。嫌だと思っても明日は来てしまう」

「ド正論ばかりかますな……まだ酒は残っている。せめてこれを飲んでからでもいいだろう」

「……僕はいいけど、君が良くないだろうという話をしているんだ」

 東雲祥貴はその麗しい顔に珍しく呆れに似た表情を浮かべていた。常に人好きのする微笑みを浮かべているような男がそういった呆れた視線を誰かに向けるということはほとんどない。その視線が向けられているのは東雲の高校時代からの友人であり元同僚の美術商・邑神有奇だった。

 ふたりは照明がほどよく暗く落とされたバーカウンターに肩を並べて座っていた。気の利くバーテンダーのおかげでカウンターは一見綺麗に保たれているものの、東雲も邑神もかなりの量を飲酒していたことがわかる程度にカウンターの天板はグラスからこぼれ落ちた結露やつまみのカスなどで汚れていた。ふたりは人よりアルコールに耐性がある体質をしていたため、酒盛りをする機会がよくあるのだが、その日は珍しく邑神は酔い潰れそうになっていた。いつも眠たげな目をしているのにさらに眠そうに細められ、姿勢を保っているのがやっとという様子で両肘をカウンターに預けて項垂れている。邑神という男は酒が入ればいつもの無愛想具合が一変して楽しげに酒盛りをするタイプの人間だった。そんな男がいかにも気分の波が負の方向へ向いている状態なのは妙だった。酒が入りすぎて記憶が一時的に飛ぶことがあっても、それでも普段であれば大層機嫌が良いのだ。なのに今日は機嫌が悪い。いわゆる「バッドに入っている」という状態だ。その状態で飲み続けている。邑神の限界がすぐそこにあるのは明白だった。

 東雲は長身で刑事という職業柄体格も良いため人ひとり運ぶくらいは可能だったが、自身も酒が入っている状態で成人男性を抱えるのは御免被りたかった。何より邑神は元同僚だ。刑事時代の名残で見た目のわりにずっしりとしている。現在考え得る最悪の事態を避けるために東雲は内心必死で邑神を説得していた。しかしその説得も虚しく、今にも眠りに落ちそうな視線はカウンター上のグラスへ注がれていた。

「いや、いいんだ。これを飲ませろ。勿体ない」

「勿体ないとか、そういう問題とは思わないが……」

 東雲は基本的に人のやりたいようにやらせる人間だった。自分が好き勝手にしている自覚があればこそ、親しい人には特にやりたいようにさせてやろう、そう思うのだが。いつもの調子であれば東雲も止めなかっただろう。しかし今日の邑神は異様なのだ。

 ――普段なら飲めばいいと言うが……もしかしてこの男、体調が悪いのか……いや、それにしても妙だ。どうしたものか。

 そんな風にどう言葉を続けるべきか迷っている間に、左手首に巻かれたデバイスは深夜の零時を二分ほど過ぎたことを東雲の視覚に訴えてきていた。

「ほら、見てごらん、有奇くん。日付が変わったよ」

「いやだ! 明日なんか来なければいい。お帰り願いたい!」

「いやも何も……もう来てしまったんだよ。『明日』は既に『今日』になってしまったんだ」

「『明日』が来なければ仕事もしなくていいだろう。『明日』には早急に帰ってほしい」

 東雲は重要な証言が引き出せたと思った。謎を解決へ導く光り輝く糸をみすみす逃すような男ではない。

「……君、明日の仕事が嫌なのかい? 珍しいね」

「仕事なんかやらなくていいならやってない」

 眠そうな目に頑なな意思が宿っている。邑神はまだ半分以上は酒の残っているグラスに手を伸ばすと琥珀色の液体を一口含む。そのあまりにも緩慢とした動きに東雲は今以上の呆れの表情が表へ出て来そうなのを顔を引き攣らせることでなんとか抑えた。

「……まあ、そうだね。でも君は趣味が高じて美術商をやっているようなものじゃないか。仕事に大変なことは付き物でも、そんな風に言うだなんて本当に珍しいと思うんだが」

「聞け、東雲祥貴。自分は美術商がしたいわけじゃない」

 今までずっとグラスを見つめていた眠そうな目が一度だけ瞬くと、男は東雲の方へゆっくりと顔を向けた。橙色のアンダーリムメガネの奥には漆黒の瞳が不機嫌と睡魔と確たる思いをごちゃ混ぜにした色を投影していた。

「自分は美しいもの、感動するものに囲まれていたいだけだ」

 東雲は旧友のそういう表情が案外嫌いではなかった。口が悪く、誤解されがちなこの友人は、胸の内へ真に秘めた思いを表現するのが得意でない。しかし、その目は雄弁だ。そして酒の入ったときは普段は秘めた思いを曝け出すこともある。この時間を東雲は好ましく思っていた。

「……確かに、君はそういう人だったね」

「結果として美術商を営み、美しいものがあるべき場所へ住まいを移すのを見守っているというだけの話だ」

「十分に知っていたことだが、君は美しいものを本当に愛しているんだね。そのように物事を愛でられるのは素晴らしいことだと思うよ」

 東雲祥貴は邑神有奇の趣味や性格を褒めたつもりだった。実際に男のことを悪様に言う表現はない。しかし邑神は重く切り揃えられた前髪の下でこれ以上は寄せられないというくらいに両眉を引き寄せて、眉間の皺を深く刻んだ。漆黒の瞳はまるで東雲を睨むかのようだった。邑神の機嫌を損ねる要素がどこにあっただろうか。東雲は思い当たる部分がなく困惑しながら曖昧な微笑みを浮かべる。

「……お前」

「どうかしたかな」

「東雲祥貴。お前も、自分の目の届く範囲に置いておきたいんだ」

 世界の静止する感覚とはこのことだと思った。バーカウンターには音楽が流れていたが、その刺激も一瞬己の聴覚から遠のいた。

 邑神有奇という人間は高校時代からの大切な友人だ。そしてその友人がただならぬ思いを己に抱いているということも東雲は自覚していた。それは単純な恋だとか愛だとかそういうものではなく、執着に似た感情だ(副次的に愛情も存在しているのは言うまでもないが)。出会った当時の東雲祥貴という幻覚めいたものが邑神の心にへばりついて離れない。それは互いに大人になった今でも同じだ。しかし、それを邑神が口に出したことなどない。相手に伝えるような感情ではないし、その感情の存在を暗黙のうちに互いに知っていたからわざわざ言うほどのことでもなかったためだ。

 だが、邑神が実際にそれを具体的な言葉にしてしまった瞬間、その感情の重みを東雲祥貴は真正面から受け止めざるを得なかった。

 東雲は曖昧な微笑みをそのままに数秒の沈黙の後ようやく口を開く。

「……とても重大な愛の告白じゃないか。ありがたいね」

「美しいものがあるべき場所へ行くのを見届けたい。それまでは自分の手で守りたい。それはお前も例外じゃないというわけだ」

「僕という人間は君という聡明な人物の目すら盲目にしてしまうらしい。困ったものだね」

「盲目だと? 美しいものを見極める目は持っているつもりだが。そうでもなければお前を目の届く範囲に置いておきたいなどと感じない」

「ロマンチックなことを言ってくれるね……君の言葉のおかげで僕という人間がどこまでも素晴らしいもののように感じるよ」

「素晴らしいだろう……お前の心根も、見た目も。一筋の光明、名の通りの幸いの報せ。お前は祝福を与えてくれる。美しい以外になんと表現すればいいんだ」

 まるで女性を口説き落とさんばかりの勢いで次から次に紡ぎ出される賛辞とエゴイズムに、東雲は心のままにカウンターへ頬杖をつき、そして心のままに最大限の呆れをその美しい顔に表現した。邑神への気遣いでその表情を作ることを押し留めていたがとうとう我慢ならなくなってしまった。

「まったく君は……その発言、明日の朝にでも後悔するよ。訂正しておかなくていいのかい」

「訂正? 自分の本心を偽ってまで訂正するものなどない」

「酒が入ると饒舌になるな、君は」

「どうしてそんな不満そうな顔をする、東雲祥貴。もっと自分自身のことを誇っていけ。素晴らしく美しい東雲祥貴という人間のことを」

「……その助言はありがたく受け取っておくとするよ」

「そうしろ、そうしろ」

 邑神の言葉を渋々という様子で受け入れた東雲であったが、邑神は特にそれを気にせずに、むしろ満足げに何度も頷くと手に持ったグラスの中の酒を一気に煽った。その行動の速度感と邑神の機嫌の落差に着いていけず、東雲は邑神の飲酒を制止することができなかった。

「あっ!」

 落ち着いたバーにそぐわない東雲の驚嘆の声が響き渡った次の瞬間、邑神は眠りの底へ急降下してしまう。男は音を立ててグラスをカウンターの上へ置くと顔を天板に突っ伏して寝息を立て始めた。


 寝息を立てる旧友の隣で、暗闇の中にも光りだす美貌の男が飲みかけのカクテルが入ったグラスにそっと唇をつける。アルコール濃度が高いそれを一口飲むと、カッと喉と胸が熱くなるが、この胸の熱さはおそらくアルコールだけが原因ではない。

「――君という友人がいるだけで、もう十分に誇らしいんだけどな、僕自身のことは」

「いやあ、ええこと言うやん、祥ちゃん。ほんで面白いもん見れたわ、おおきに」

 カウンター奥からひょっこり顔を覗かせたのはふたりの友人であり、バー『ユートピア』スタッフの千葉恵吾だった。天然の癖がついた黒髪をふわふわと揺らしながら、濃い隈の上に嵌まる明るい茶色の目に楽しそうな笑みを浮かべ、グラスをひとつ手に持ってカウンターの客席側へ回ってくる。

「そろそろ君も休憩かい」

「もうとっくの前から休憩時間。ふたりがえらい話し込んでたから聞き耳立ててたわ」

「千葉くんもお行儀が悪いね」

 千葉の行動を諌めるものの東雲はクスクスと笑いながら邑神が眠る席とは反対側の席に千葉を手招く。野生味を感じさせる彫りの深い顔には人懐こい笑みを刻みながら、千葉は招かれるままに東雲の隣に腰を下ろした。

「もしかして、僕が来る前から有奇くん、相当飲んでたのかな」

「かなり。今日の商談相手が気に食わんやつやったらしくて荒れてたな」

 千葉はベストのポケットから電子タバコを取り出すとカートリッジを本体に挿しながら肩をすくめる。そして東雲は目をぱちくりと瞬きを繰り返し首を傾げた。

「有奇くん、客を選ぶタイプなのに。珍しいね」

「出向での取引で拒絶できんかった客やったらしいわ。自分の画廊やったらカミサマの能力で客も選べるけど、外に出ていってるなら拒否できへんやろ?」

「なるほど……それで様子が変だったわけか」

「金になれば云々とか美術を理解してない云々言うてたな」

 つまらなそうに邑神の客の話をしていたかと思えば、千葉は煙を吐き出しながら再び満面の笑みを浮かべて真っ直ぐに東雲の目を見つめる。 

「祥ちゃんにお行儀悪いって言われたけど、行儀悪いついでに録画もしたったわ。あー、この動画を見たカミサマの反応が楽しみやなあ」

「まったく、行儀も悪いのに趣味も悪いときたか」

「録画に気づいてたくせに止めへんかった祥ちゃんも大概趣味悪いで」

「それは否めないね。僕にもそのファイル転送しておいてくれよ」

「えー、お金もらうけど?」

 千葉の笑顔が人懐こいものからイタズラっぽいものへ変化する。その笑顔を見た東雲はまだまだ残っていたはずのグラスの中身を一気に飲み干し、大輪の華が開いたかのような誰をも魅了する笑顔を浮かべて、ジャケットから電子煙管の新品のカートリッジを取り出した。東雲はまだ帰宅する意思はないらしい。

「君が今飲んでいるものと今から飲むものも奢ろうか。僕は飲み直すつもりだけど、それに付き合ってくれるだろう?」

 状況を知らぬ人間からすれば美青年ふたりが何やら妖しい取引をしているようにしか見えないが、実際は悪ガキふたりが共謀して友人にイタズラを仕掛けようとしているだけだ。

「勿論、付き合うに決まってるやん。ところで祥ちゃんはこのデータどうするつもりなん」


「後日有奇くんに見せて、飲み過ぎを改善させるんだ」

 先程と変わらず、見る人全てを惹きつける美しい満開の笑顔だった。しかし灰色の目の奥に紅に煌めく閃光を見出した千葉は、己の笑顔を一ミリたりとも変化させることはなかったが、東雲祥貴という男の本気を感じ取った気がして、自分のイタズラ心を棚上げに邑神のことを少しだけ気の毒に思った。


<完>

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