怖話(こわばな)『シキモウレイ』他2編の掌編

上松 煌(うえまつ あきら)

怖話(こわばな)『シキモウレイ』他2編の掌編

           怖話(こわばな)『シキモウレイ』



 シキモウレイは『引き亡霊』のことで、冬に海面と外気温の差で水蒸気が霧のように立ち昇る「気嵐(けあらし)」現象に似ている。

ただ、季節を問わず、立ち上がる影にはなぜか頭があり、胴体や手足があり、そして目鼻がある。

それが無数に海面を覆い、流れ、伸び上がり、入り乱れ、林を吹き過ぎる風のような音声を発するという。


 1989年6月~8月にかけて商船学校帆走練習船「海王丸」は最後の航海としてホノルルに旅した。

バーク型4本マストの帆船で、総重量2千200トンを越える白く美しい姿は多くの人目を引き、ラスト航海ということもあって大変な歓迎であったようだ。

楽しくも忙しい日程を無事にこなし、名残を惜しみながらも帰途に着く。

ハワイ諸島の島影も後方に消えていき、行きかう船もまばらになり、太平洋の真っ只中にポツンと取り残されたような心細さを感じる。

特に夜のワッチ(見張り)は寂しさを通り越してホーム・シックになるほどだ。


 水野義明は早目にベッドを抜け出る。

仲のいい練習生の小田一郎と少し雑談がしたい。

上甲板の見張り所に行くと、小田が不審げにキョロキョロしている。

声をかけると、

「シッ。なにか聞こえる。ほら、まただ」

と言う。

熱帯低気圧が近づく時などは大気が乱れ、とんでもなく遠くの船や陸地の音声が届いたりするので、それだろうと思ったが、よく聞くと確かに怪しげだ。

かすかだが若い女の甲高い声で、

「船、船が沈むわぁ~」

と泣き叫んでいる。

ゾッと身の毛がよだつが、その声がどこからするのかはっきりしない。

「小田、船でこういうことがあったら、出来る限り知らんフリする。チョッサー(一等航海士)に報告するんだ。走るな、歩いて行けよ」

水野の祖父は大型マグロ漁船の機関長だ。

遠洋航海の怪奇話はいくつか聞いたことがある。


 ワッチを交代して、そ知らぬ顔で海を見渡す。

他船の灯火を認めたら迅速に進行方向やスピードを判断し、ブリッジに報告しなければならない。

「船、船が沈むわぁ~」

声が近づいてくる気がする。

ジンワリ冷や汗がにじむ。

身近な帆桁を監視するが、見えるのは星明かりと闇に白い帆だけだ。

緊張のため息をついた時だった。


 彼は吹っ飛んでいた。

海王丸全体が巨人の鉄槌で叩きのめされたような恐ろしい衝撃だった。

「事故だっ」

硬い甲板で肩と頭をイヤというほど打ったが、構ってはいられない。

立ち上がろうとする耳にヒュルヒュルという落下音。

複数のプロペラ音が縦横無尽にかすめ、それが急速に数を増す。

腹に響く周り中の轟音は巨大な水柱を次々に吹き上げ、雪崩落ちる反動で甲板上の機器を木っ葉のように海に叩き込む。

ドンドンという機関砲の音に、バリバリという機銃の連続音が混じる。

闇を切り裂いて、危険な跳弾があたり一面を支配する。

「クソッ、やられた」

「一矢も報いられんのか。犬死だ」

「なにを言う。負けるな。日本はすぐそこだ」

脳味噌がつんざけそうな爆裂音の真っ只中でも、こんな言葉が聞き取れた。


「総員、ヘルメットとライフジャケットを着用の上、甲板に集合せよ」

聴き慣れた館内放送にフッと意識がよみがえった気がした。

途端にあれほどの恐怖的破壊音がピタリと止み、気だるい大気と帆の音が戻ってきた。

呆然とする水野の周りに167名の乗り組員が集まって、海を指差している。

なんと、真夏の気嵐(けあらし)だった。

いや、違う。

揺れ動く白い人影だ。

海一面に隙間なく湧き上がり、流動して船にまつわり、高いマストにわだかまっては、また離れて行く。

駅に着く電車のブレーキ音のような、ヒャアァァ~オオゥォォ~という混声合唱のような声も聞こえた。

近くの数人が耳を押さえてガタガタと震えている。


 船長の柳瀬徹は定年間近の老齢だったが、何か思い当たることがあるらしく、厨房係りに命じて酒と飯を供え、招くような動作をしながら、

「どうぞ、お乗りください。いっしょに日本に帰りましょう」

と、唱え続けている。

人の形をした気嵐は言葉につれて船に群がり、次第に薄くなって消えて行き、やがて静かな海と空が戻ってきた。

海王丸はその後、何事もなく日本に帰り着き、ラスト航海は成功裏に終わったのだった。


 あの「船が沈むわぁ~」と泣き叫んでいた女は何だったのだろう?

爆沈した戦艦陸奥や筑波でも同様のことがあったというから、船の変事を告げる「ものの気」でもあったのだろうか?

もちろん、変事は海洋丸ではなく戦時中の艦船であったわけで、水野が体験した戦闘の恐怖は日本兵の最期の無念の有様であったのだろう。


     ★このお話は創作であり、海王丸のラスト航海にこのような事実はありません★





          怖話(こわばな)『出られない室』



 室を出ようとして、辺りをうかがう。

まるでタイミングを計ったように、ガラスに近づくボクを確認しているのだろう、黒い車がやって来て少し先に止まる。

そのままだれも降りて来ない。

おそらく後部ドライブ・レコーダで、ボクの所在と行動を監視しているはずだ。

油断がならない。

奥の死角に隠れた。


 いったいだれが??

いや、正体は「ルフィ」などという支持役にあやつられる闇バイトだ。

彼らは金になるなら何でもする。

ボクはボクにとっても彼らにとってもおいしい大切な物を、背中のザックにも両手にも所持している身だ。


 現に自転車が1台、変に徐行してこっちを探りながら通り過ぎる。

続いて歩行者が4,5人、わざわざ向こうの歩道から移動して、覗き込むようにして去って行った。

いちおう、ガラスは内側から施錠してあるが、それで安心できるはずもない。

とにかくボクはこの室を素早く出なければいけない。

それは必然で、ここに居続けることなど不可能なのだ。


              

 

 靴音が近づいて止まった。

こじ開けようと、ガタガタとガラスを揺さぶる。

ドンドンと無遠慮に叩く音。

最近の半グレたちはやり口が荒っぽい。

押し込み強盗被害者の90歳にもなるお婆さんが、虫けらのように殺害されたのは記憶に新しい。

ガラスを破られたら、ボクも同様の目に遭うのだろうか?

大切な物をかかえたまま、体を思い切り縮めて床にひれ伏す。

ガッ、ガッとガラスを蹴る響き。

恐ろしさのあまり、癲癇のように強く震えた。


 パタッと音が止む。

深夜の大きな物音はマズイと気づいたのだ。

それっきり気配が消え、あきらめたのだろうか、シ~ンと静かになった。

ボクは用心深くそろそろとガラスに近づき、抜け出すチャンスを伺う。

しめたっ、黒い車も人影もない。

そ知らぬ顔で街に出た。

成功だ、ただの歩行者にしか見えない。


 だが、次の瞬間、ボクは仰天して逃げていた。

右腕が異様に長く、海賊クック船長の義足のように棒状に細くなっている。

頭はイカ状に張り出したホームベース形で真ん中に輝く星か旭日のような金色の目が1つ。

こんなモノが地球上に?

しかも不気味な黒い影は2匹。

意外に機敏な行動が恐怖だ。

とにかく全力で逃げる。

これしかないっ。


 ボクのおいしい大切なものの重みで息が切れ、眩暈がする。

前方に人影が見えた。

その人はボクを見つけ、こっちに向かって走って来る。

「た、助けてっ」

だが、なんの勘違いか、全力でタックルしてくる。

「うそっ、バケモノはあっちっ」


「くぉんぬやろうっ、2回も盗みやがって。お巡りさん、こっちぃ」

「えっ?」

よく見ると胸には「無人高級ギョーザ販売」の文字が。

店長だった。

ショックで呆然とするボクに、バケモノが追いついてくる。

2重のショックに、ボクは思わず座りションベンしてしまったほどだ。



 目撃者がしゃべっている。

「いつもどおり、通るのは通行人・自転車・車で、客が何人か来たんだけど、鍵が閉まってるらしく入れない。ドア蹴ってる人もいて。そのうちにコイツが出てきてキャアとか言って逃げ出した。なんなんでしょうね、すごく怖そうで。ま、悪いことしてる罪の意識でモンスターでも見たんじゃないっスかねぇ。あははは」

そうかも知れない。

いや、そうなのだろう。

それ以来、ボクはこのイカ状ホームベース頭と不ぞろいな腕、金色一つ目のモノをちょくちょく見かけるようになったからだ。

例えば路地の隅っこで軽犯罪法を犯しちゃおうかなって時や、鍵のかけ忘れの自転車のそば、この間なんか女の子のケツをちょっとだけタッチした途端、満員電車全体がこのバケモノで満たされていた。

なんとなく警棒を持った警官のシルエットに似てるよな、と思いながら、ボクはバケモノを見ないように気をつけながらマジメに生きている。

だって、怖いんだもん。





        怖話(こわばな)『小雨の夜のことだった』

               


 気楽な仲間と都心で飲んだ。

終電で立川駅に着き、タクシー溜まりを見るが、雨模様のせいか一台もいない。

市会議員程度では専属の運転手は持てないから、ハイヤー契約はしてあるものの深夜では気の毒だ。

高松町のマンションまでの2キロ足らず、たまには歩くのもいい。

小ぬか雨が涼しくて気持ちがいいくらいだ。

西部バスの営業所前を過ぎた。

さぁ、もう少しだ。


 車の往来もまばらな深夜の大通りから1本、緑道にそれると木々の香りが爽やかだ。

寝静まった住宅街を歩いてゆく。

コッ、コッ、コッ、コッ……。

どこからかヒールの音。

(こんな夜更けに無用心だなぁ)

と、思うが、大して気にならない。

現代人は多忙なのだ。

おれのように飲み会もあるし、残業だって、遅番早番だってある。


 だが、待てよ。

この足音はどこからだろう?

前、後ろ、いない。

道は碁盤の目状に区画してあるから、隣の道路から響いてくるのだろうか?

それにしては4~5メートルの範囲から聞こえてくるのがおかしい。

音が近すぎるのだ。

ちょっとゾッとしてしまう。

足早になり、住宅の向こうに聳える白亜のマンションに急ぐ。


 コッ、コッ、コッ、コッ……。

遠ざかりも近づきもしないヒール音。

後ろを振り返るが人影はない。

緑道の黒々した木々が、不安を煽るように揺れ動く。

雨足が蜘蛛の糸のように体にまつわりつく気がする。

深夜の正体不明の音はやはり気味が悪い。

コッ、コッ、コッ、コッ……。

耐えられず、走り出そうとしたときだった。


 コンッ、コ、コ、コンッ。

かかとで床を打つ、優しいモールス信号のような響き。

まるで、私のことを忘れたの? とでも言いたげに。

「えっ?」


『おい、美紀ちゃん、疲れただろ。ハイヤー使って。もう、帰っていいから、』

『いえ。ハイヤーは議員さんのための契約です。それに秘書は24時間在戦場ですから。この3丁目の事案、もうちょっと纏めてからにします』

『大丈夫? これから選挙戦でもっと忙しくなる。いい加減にして帰ってよ』

そんな会話を交わした翌日だった。

彼女は突然、亡くなった。

国道での3台を巻き込む「もらい事故」だった。

信じられない。

運転は男並みに上手いのに、やはり疲れでとっさの回避行動が遅れたのだろうか?

この選挙戦が終わったら、彼女への思いを告白するつもりだった。

その矢先になんということだろう。

意気消沈のあまり、出馬を断念しようとした。

それでも公設秘書たちに励まされ、鞭打たれて、何とか再選には勝利したのだ。


 驚きと懐かしさが言葉になる。

「美紀ちゃん、帰ってきてくれたの? 姿見せて。おれ、もう泣きそうだよっ」

静まり返った周囲に向かって声高に言う。

深夜に闇としゃべる怪しげな市会議員。

市民に見られたら問題だが、おれは今現在正常で狂っているわけでは決してない。


 コンッ、コ、コ、コンッ。

再び、まるで返事のような小さな靴音。

生前の彼女の本当に機嫌のいい時のボディ・ランゲージだ。

「ああ。美紀ちゃんだ。やっぱ美紀ちゃんだね」

哀しさとうれしさが綯い混ぜになって、涙がとめどなくあふれる。

あやうく慟哭してしまうところだったが、男のプライドでかろうじて抑えた。

やがて、

コッ、コッ、コッ、コッ……。

さぁ、行きましょ、とでも言うようにマンションに向かう足音がいざなう。

そう、いつまでもこんな所に突っ立っていても始まらない。

おれは飼い主の足元にまつわる忠実な猫様のように、いそいそとヒール音に並ぶ。

横目にボンヤリと、彼女の愛しい横顔が見えた気がした。







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