舟を編む/三浦しをん

『舟を編む』三浦しをん

光文社文庫、2015年



 「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」

 「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかない」

 「海を渡るにふさわしい舟を編む」

(一章より引用)



 作品冒頭のこの台詞は、『舟を編む』という作品が示すメッセージそのものです。本作では、「舟を編むこと」=「辞書の編纂」にかける編集部員たちの奮闘と、その15年間の軌跡が描かれています。

 彼らの “辞書愛” はすさまじく、ときに偏屈だったり突拍子もなかったり、そんな “言葉への偏愛” が時も場所も選ばずに披露されていきます。例えば「あがる」と「のぼる」のささいな違いを書き留めるために、言語表現にこだわり抜き、その解を閃いた瞬間にはもう思考のアクセルがベタ踏みになって、周りも見えなくなるほど夢中になってしまう……そんなことが場面を問わず展開されます。そのズレが愛おしくて、その真剣さに圧倒されました。

 辞書編集に関わるスタッフたちは、それぞれの姿勢で「舟を編む」ことへと向き合っていきます。彼らは言葉を愛し、言葉に情熱を注ぎます。そうした営為の形はさまざまで、それは本や用例集との対話であったり、取引先との折衝であったり、大切な人と言葉を交わすことであったり。複数の人物の視点を経ることで、「言葉」のもつ不思議な力のありようが、小さな光のように浮かび上がってきます。


 ところでこの本の目次を開くと、そこには「巻末特典・馬締の恋文 全文公開」の文字があります。「恋文!? しかも全文公開って何?」と困惑しましたが、これもしっかり作中のキーアイテムでした。

 編集部員の一人で、下宿を古本で埋め尽くすほどの言葉偏愛者である馬締(まじめ。れっきとした本名)という登場人物がいます。彼は下宿を訪れた大家の孫・香具矢(かぐや)に恋焦がれるあまり、10ページ超の恋文を書き送りました。その中身もまた、かしこまった時効の挨拶やら漢文の引用やらツッコミどころ満載なのですが、これが物語にどのように影響したのか、気になる方は是非ご一読を。

 作品全体が「言葉というものへの壮大なラブレター」といっても過言ではない、そんな小説でした。

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