第3話 気ままな旅人のように

 エステラント侯爵領はその大半が長閑な田舎である。領主の館がある地域は王都に負けないくらいに都会を模して作られた商業の街になっているが、それ以外は温暖な気候を生かした農業や放牧業を生業とする自然な暮らしの場が守られていた。

 マシューの家には広い庭とその後ろに森が広がる。王宮で働いていただけあって普通の庭師よりも財産があるのだが、それをこの家を買うために費やしたらしい。

 王都にあるエステラント侯爵の屋敷を離れ、エステラント領にあるカレントという街の領主館の庭師になったマシューは王都に持っていた全ての土地を売払い、ここへ越してきた。その中には庭師であるマシューの作品で名高い公園や憩いの森といった土地も含まれていた。

 全てエデンのためである。

 王都にいては王に見つかるかもしれない、という恐怖はエデンを追い詰める。心配したマシューは侯爵に願い出て、新天地を目指した。

 どうしても付いて行く、と聞かなかった弟子の一人マルコとマシューの妻アメリ、そしてエデンの四人で新しい生活が始まった。

 エデンは日中はアメリについて家事をしたり、庭の一部を使って花の苗の販売をしたりと何かと忙しい。若い頃はパティスリーを営んでいたアメリに習っている焼き菓子も苗と一緒に販売したりして、一日が終わる頃には疲労でぐっすり眠れている。

 そんな毎日の中に、ちょっとした変化があった。

 マシューの家では朝食はみんな一緒に取るのが約束で、その日も朝から市場に出かけるマルコの為に早起きして食事を共にしていたエデンは彼から噂を聞いたのだ。

「広場に行くと会えるって話だよ」

 マルコは青い瞳をエデンに向けて言った。エデンと一緒の栗毛は短く刈り込まれていて、作業で日焼けした肌が健康的な青年だ。

「それは見に行く価値のあるものなの?」

 エデンの言葉にマシューがぶっと飲んでいたお茶を吹き出した。

「ちょっとエデン、それって何気に失礼な言い方」

 マルコが注意するとエデンはきょとんとしてアメリに説明を求める眼差しを向ける。アメリは苦笑して口を開いた。

「エデンの知っている音楽家というものは貴族のパトロンがいて、そのお屋敷で演奏したりするのでしょうけれど、市井では違うのよ。広場や公民館で演奏してお金をもらうの。それに噂になっているくらいの音楽家でしょう?きっと素敵な演奏を聞かせてくれるに違いないわね」

 おっとりしたアメリの言葉にエデンは、ふうん、と頷いた。

「すごい人気で人だかりができているから、近くで見られないって話だよ。見に行くのなら午前中から並ばないといけないそうだよ。それに日金を稼ぐような身なりでもないし、どこかの著名な音楽家が腕試しにここにお忍びで来たんじゃないかって噂。イーゼルなんて、目をハートにして演奏そっちのけでカッコいい、カッコいいってずっと言ってるらしいし」

 マルコは近所に住む年頃の娘のイーゼルの様子を持ち出して言った。

「イーゼルは面食いだものね」

 エデンもイーゼルを思い浮かべて言うとマシューはソワソワと落ち着かない目線でエデンを見る。

「どうしたの、お祖父様」

「……都からの刺客とか、そんなことはないかね」

「まさか。吟遊詩人や大道芸人は地方を回ってお金を稼ぐもんですよ。先生、考えすぎですって」

 マルコが笑って否定したことでマシューは安心したらしい。エデンに恥ずかしそうに笑いかけ、アメリに入れ直してもらったお茶を飲み直した。

 しかし、エデンは知っている。時に吟遊詩人に扮した騎士にスパイをさせる貴族がいることを。実際、エデンの、いやアントレーネの父はそうやって間諜を放っていたし、身分を偽って旅人のフリをする暗殺者もいる。用心するに越したことはないな、と彼女はそっと息をついた。

 そんなこともあって、エデンは仕事がひと段落するとアメリに「広場に行ってくる」と断ってから家を出た。一度その人物を見てから判断したいと思ったのだ。アメリはエデンも年頃ね、と笑っていたが、そんな浮ついた気持ちがカケラもあれば気が楽なのに、と逆に憂鬱になってしまう。

 広場に到着すると、すでに人の波ができていて、その中心にいるのがマルコの言っていた音楽家なのだと分かった。姿は見えないが、弦を調整する音が聞こえているからだ。

 そういえば、吟遊詩人と音楽家の違いは何かしら、とエデンは空いているベンチに腰掛けて考える。

 ああそうか、と思い至る。歌を歌うのが吟遊詩人なのか、と演奏が始まってから理解した。

 切なく鳴り響く美しい弦の音色に耳を澄まし、エデンは思い出す。王城の我が家でも音楽家を招いた観客は家族だけの小さな音楽会をしていた。父と母はそういうことが好きで、自らも一緒に演奏して楽しんでいた。

 それが、こんなことになるとは。

 息が乱れないように自分を制しながら、エデンは思い出すことを止めた。

 外では余計なことを考えないようにしなくては。

 そう思いながら、演奏が終わるまでじっと聞き入っていた。

 何曲か演奏されるとお開きになったらしい。帰ろうとする者、まだその場で余韻に浸る者、演奏した彼と話をしようと待っている者、色々だ。

 自分も旅人のようになって世界を放浪するのはどうだろうか。

 ふと、そんな想いに気を取られる。

 どこへ行くのも自由。何をするのも自由。気ままに、心の赴くまま。

 それは意外にも楽しい妄想だった。

 エデンはそこで初めて演奏していた彼に興味が持てた。どんな国へ行って、どんな人々に出会ったのだろう。ここではない景色を見て、何を思ったのだろう、と。

 話してみようか、とそんなことを思ってしまった。

 でも、あまりに多くの人が彼を待っている。少しは人垣がなくなって、遠目に彼の姿が目に入る。

 珍しい白髪が目に入った。お日様に照らされて輝いている。老人のものではないその光沢ある白髪は、よく見れば薄い色の金髪が混じっていて後ろで一つにくくられている。動きやすい旅装だが、刺繍が入っていたりと見るものが見れば高価だと分かるものだ。

 密偵や暗殺者ではないことは一目瞭然だ。こんな目立つ様相では隠密行動に向かない。

 安心したエデンは、それ以上に彼に興味が湧いてしまった。

 どうしてこの地へ?

 事件以来落ち込んでいたエデンの好奇心に火が灯る。しかし、無理だと諦める。まだ知らない人と話すのは怖かったのだ。

 帰ろうとして、目の端にイーゼルが音楽家に猛アタックをしている姿が映る。

 思わず笑みが溢れる。

 彼女が彼の心を射止めたら紹介してもらおう。

 だからイーゼルには頑張ってもらわないと。

 楽しい想像をしながら軽い足取りでエデンは家路に就いた。



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