第2話 過去と今なら

 大きな白百合が見事に花を咲かせる王宮の西にある庭は王弟ゼストの為に作られたものだった。植えてある花の如く、ゼストは大輪の白百合のような清楚で華やかな美貌を持つ青年だった。

 そのゼストに瓜二つの三女アントレーネは、その日お気に入りの紅茶を庭の東屋に用意させて仲の良い姉たちとお喋りに花を咲かせていた。

 王弟は王を助ける職務である外交を担い、城には留守がちであった。だからアントレーネは父のことはよく知らない。姉たち、兄たちは優秀で城でも役職を貰い仕事をしていたが、彼女は何に秀でたところもなく、ただ庭いじりが大好きで王宮お抱えの庭師マシューの手伝いをよくしていた。

 白百合の香りに包まれて彼女たちは無邪気な笑顔ではしゃいでいた。

 突然、その場に怒り狂った王がなだれ込んでくるまでは。

 伯父に当たる王は彼女たちにもたっぷり愛情を注ぎ、良き理解者として相談にも乗ってくれる頼もしい存在だった。その伯父が、文字通り鬼の形相で乱入してきたことに彼女たちは反応できなかった。その手に握られた磨き抜かれた銀の剣が彼女らに振り下ろされる時まで、彼女らは伯父のことが大好きだったのだから。

 侍女の悲鳴、衛兵たちの叫び声、そして伯父の怒号。

 アントレーネが覚えているのはそこまでだった。

 目を覚ました時、ひどい痛みと熱で朦朧としていたものの、そこがスナトレイルの屋敷だと分かった。幼馴染として育ったスナトレイルはエステラント侯爵の長男で文学青年である。よく本の貸し借りをしていた。最近は顔を見なかったが、彼の部屋は覚えている。

「アントレーネ姫?」

 近くで彼の声がした。

「ああ、よくぞ目を覚まして……」

 言葉にならない嗚咽を彼は漏らした。

「わたし、は?」

 喉がカラカラだ。でも体が痛くてどうにもできない。

「よく聞いて下さい。あなたは一週間もの間、生死を彷徨っていらっしゃったのです。王城であなたは襲われて、なんとか脱出させることができましたが、あなたが生きていると知られたら、また同じことが起こるかもしれない。父上と相談して、あなたを匿い、逃すことにしました」

 スナトレイルの言葉を理解することができない。

 アントレーネは目を閉じて眠りについた。

 再び目が覚めた時、スナトレイルはそこにいなかった。しかし、侯爵が側についていてくれたらしい。

「姫、あなたをマシューの家へ移します。あなたがた一族は全て病死だと発表されました。残念ながらもう、城には戻れません」

 その言葉にアントレーネは頷いた。

「匿って下さって、ありがとうございます」

 かろうじて言えたのはそれだけだった。

 それから、アントレーネはその名前を捨てた。庭師マシューの娘として生きていくために。王宮を辞したマシューはエステラント侯爵に雇われたのだった。

 体が回復するとアントレーネは自分の姿に違和感を覚えた。髪の色が、目の色が違う。

 豊かな銀の髪、藤色の澄んだ瞳、白磁の肌はきめ細かく、とても生きている人間とは思えないとよく言われたものだ。それが栗毛に変わっている。瞳はミルクチョコレートのような色だ。

 マシューが新たな名前を付けたいと申し出てくれた。

 エデン。

 素敵な名前だと思った。

 それからはマシューの手伝いをしたり、家のことをしたり、それなりに忙しく暮らしている。時々、発作のように伯父に襲われた時のことを思い出して息が止まりそうになることもあるが、助けてくれた人々のことを想い、生きていることに感謝するとおさまる。

 だから、これからは恩返しの日々なのだ。

 生きていて欲しいと思ってくれた人々の役に立つように。

 エデンは多くを望まない。

 マシューの育てる花のように、愛情を受けて綺麗な花を咲かせて、そして太陽の方を向くのだ。

 エデンは生かされたのだから。

 

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