白百合に捧ぐ物語

@nanami-tico

第1話 失ったもの

 ああ、エステラント侯爵のエスコートは今日も完璧ね。

 彼女は節目がちな視線の中でも観察を欠かさない。

 目立たぬように伏せた顔はとても美しい。ありふれた茶色い目に栗毛の髪だが、雰囲気のある美貌は隠すことはできない。

 ここはエステラント邸のサロンだ。広いサロンは仕切りなしで外の庭と繋がっていて、外なのか中なのか境界の曖昧な趣のある場所だ。

 お茶会という名の親睦会には男性も多く招待されている。多くの貴族、商人、学生と貴族も平民も入り混じっている。警備も万全で、名高いエステラント家の騎士団がそこかしこで目を光らせている。

 彼女はホストであるエステラント侯爵の動向を確認している。

 まだ年若い。青年と少年のあどけなさが混在する見た目は年齢よりも若く見られる。病弱な父親に代わり、最近彼が爵位を継いだ。

 彼は女性にはとても優しく、気遣い溢れるエスコートには定評のある侯爵だ。男性にも受けが良く、誰からも好かれていると言える。

 その彼が到着したマーブル侯爵家のご令嬢アンヌのエスコートの為、彼女に手を差し伸べる。

 ほんのり頬を染めたアンヌ嬢が彼の手を取る。

 優雅にサロンを歩いていく姿はまるで物語の中の王子と姫のようだ。

 誰にでも親切で優しいエステラント侯爵がアンヌ嬢を見る瞳の中に一層の親愛が灯る。いや、これは恋情か。

 胸にずきりと痛みが走る。

 侯爵もアンヌ嬢も幸せそうだ。

 二人は似合いの夫婦になるだろう。近く婚約発表がなされるらしい。

 彼女は誰にも分からぬように吐息をついた。

 アンヌが羨ましかった。愛されて、無邪気に微笑むその姿が。

 彼女はしがないメイドの自分の姿を思い出し、背筋を伸ばす。


 今朝のことだった。

 養父のマシューが困りきった顔で彼女を起こしにきた。

 いつもなら休日で、手伝いもなくゆっくりの朝だった筈だが、と寝ぼけ眼で年老いた養父を見上げると、泣きそうな顔になっている。

「お祖父様?」

 養父のことをそう呼ぶまでに色々問題があった。今はこれに落ち着いてお互いにしっくりきているから、この先はずっとそう呼ぶことになるだろう。

「姫様」

 言ってしまって、彼は口元を押さえて周りを確認した。

 誰もいないことに安堵して、マシューは手に握った帽子がぐしゃぐしゃになっていることも気がつかないまま膝を折る。

「申し訳ございません、あの、旦那様のお願いで、あなたにメイドをして欲しいと頼まれたのです」

「メイド?」

 彼女は目をパチクリさせてマシューを見る。

「本気なの?」

 マシューに聞いているのではない。マシューが今仕えている旦那様、ことエステラント侯爵に向けての言葉だ。

 彼女は訳ありだ。

 本来はこんなところ、つまりマシューがいるような市井にいる身分ではなかった。大勢にかしずかれ、世話を焼かれる側の人間。

 それなのに、今は姿を変えてマシューの家に居候して手伝いをしている。

 何もできやしない無力な娘だ。

「分った。行くわ」

 マシューを困らせるわけにはいかない。

 それに、と彼女は考える。

 エステラント侯爵には返しきれない恩がある。できる限り、彼の望みは果たしてあげたい。

 洋服ダンスから数少ないお出かけ着を取り出す。小花がらの地味なワンピースだが、一番のお気に入りだ。

「すぐ向かえばいいのかしら」

「わしが送ります。エデンはまずはご飯を食べて下さい。それから……」

 オロオロとマシューが言う姿に彼女、エデンと新しく彼に名前をつけてもらった娘は微笑んだ。

「お祖父様、娘に敬語はいらないでしょ」

「まだ、慣れませんなあ」

 マシューは悲しそうに目を伏せた。

「この命がある限り、あなたに恩返しして生きていくって決めたの。まだ大勢の人に恩返ししなきゃいけないけど、これから、ね」

「エデン。そんなことは考えず、町の娘らしく生きればいい」

 マシューがエデンの手を取った。

「幸せに暮らしてくれればいい。皆の願いはそれだけだ」

「ええ」

 返事をしたものの、その言葉は彼女の胸に重くのしかかる。

 まだ生々しい記憶が胸の中に広がって、息ができなくなった。


 襲いかかる白刃、怒号の中に込められた責め立てられる言葉たちに足がすくんで、息すらできなくなる。怖い。助けて。


 は、と短く息を吐いてから呼吸を整える。

 時々白昼夢のように繰り返されるあの時の映像が現実に彼女の息を止めるのだ。

「エデン、やはり断ってこようか」

 心配そうにマシューがエデンの腕をとった。

「いいの。ごめんね、心配させて」

 彼女は微笑んで見せる。

「エステラント侯爵が待っているわ。急いで支度しないと」

 エデンは自分で着替えをして身なりを整え、そして食事もせずにマシューの操る馬車、と言っても馬に繋いだ台車に幌を被せただけの簡素なものだったが、そこに乗って、彼女は侯爵邸へ向かった。

 マシューは庭師だから屋敷の裏口から中へ入れてもらう。

 時々マシューの手伝いに来ていたエデンは顔馴染みのメイドから制服を申し訳なさそうに渡され、案内される。

 立っているだけでいいから、と家政婦長とパーラーメイド長に笑顔で送り出され、訳もわからないままお茶会の中に放り出された。

 ランチにはまだ早く、朝というには少し時間が過ぎている頃合いだ。

 エデンは周りに注意を引かないように気を付けながら、空いた食器を片付けたり、お湯を用意したりとこまめに働く。

 立っているだけなんて本当にはできない。

 エデンが動いている目の端でエステラント侯爵が皆の注目を集める。

「皆さま、ここで発表があります」

 彼の隣にはアンヌ嬢が緊張した面持ちでいる。

「私とこのアンヌ嬢はこの度、婚約を交わすことになりました。どうぞ皆さまの祝福を与えてくださることを願っております」

 その言葉に大きな拍手が送られる。アンヌは侯爵を見上げて安堵したように微笑んでいる。

 良かったわね、アンヌ嬢。

 心からそう思い、エデンも拍手を送った。


 エデンは片付けまできちんとこなしてから、エステラント侯爵に呼び出される。彼の書斎まで行くと中にはアンヌ嬢もいた。

「エデン、来てくれて嬉しいよ」

 握手をしようと差し出された手に戸惑いながら、エデンはその手を握った。

「正直言って、あの場に立たされて冷や汗ものだった」

「だよね」

 気軽な様子で言葉を交わせば、アンヌが申し訳なさそうにエデンを見て、それから彼女の手を握った。

「私が、どうしてもエデン様に来て頂きたくて」

「まあ、そうなの?嬉しいわ」

 婚約発表の場だと分かれば緊張しないで済んだかもしれない、と思いながら、エデンは幸せそうなアンヌの様子に笑顔を浮かべながらも、胸の痛みがおさまらない。

 ひとしきりエデンが祝福を述べるとエステラント侯爵は、「それにしても」とエデンをじっくり見つめる。

「案外、誰も気が付かなくてホッとした」

「そうね」

 本来の姿でなければ気が付かれないということだろうか。

 エデンはメイド服のままの自分の姿を見回した。

「顔は変わってないと思うのだけど」

「ああ。色彩を変えるのと少し反射の魔法がかかっている」

 彼の言葉にエデンは頷いた。

 あの事件で彼女はエステラント侯爵に密かに助けられたのだ。そして身分が分からぬように姿を変える魔法を施してくれた。それから庭師マシューを雇い、その養女となるように手配して、おまけに金品まで持たせてくれたのだ。命の恩人であり、得難い友人だ。

「あなたには感謝をしてもしきれないくらいの恩があるわ」

 エデンが言うと彼は首を振った。

「それは私のセリフだ。社交界でいつも私を助けてくれただろう?君が困ったときは絶対に助けると決めていた」

 それでも、自分の命にも危険が及びそうになるのを顧みずにエデンは彼に助けてもらったのだ。普通はできないことだ。

「アンヌは幸せね。こんなに素敵な旦那様に愛されて」

 エデンが言うとアンヌは大きく頷いて熱っぽい瞳を彼に向ける。

 以前のエデンにもアンヌのように恋情を抱く相手がいた。彼に触れられると舞い上がるように喜んだものだ。もう会えないし、会えたとしても彼はエデンに気が付かないだろう。

 私も、あの方にもう一度……。

 想いが宙に浮いたまま彼女は感情を押し殺した。

 失ったものは、もう元には戻らない。

 エデンはエステラント侯爵に挨拶をしてからマシューの待つ家に戻って行った。





 



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