第9話 青龍の記憶
柔らかな風が吹く草原の中に立っていた。
さわさわと、耳に優しい音を響かせて、若草色のさざなみがどこまでも遠く流れていく。空は青く、流れる風は清々しい。近くで聞こえる川のせせらぎに合わせて小鳥がさえずり、小鳥の歌に惹かれて小さな動物たちが草木の隙間から顔をのぞかせた。
女のそばには、いつしかたくさんの動物たちが集まってきていた。リスやウサギ、シカなどの大きなものもいれば、先ほど可憐な歌を披露していた小鳥や艶やかな羽を持つ蝶までいる。
女のことが大好きなのは動物たちだけではない。風は女を優しく抱きしめるように吹き、花は女をより引き立たせるために咲く。自然すべてが女を愛していた。そして女も自然を、国を、そこに生きるすべてのものを慈しみ愛した。
女が創りし国。
リーファの目の前には、長い銀髪の女性がひとり佇んでいた。陽光の反射なのか、その顔は靄がかかったように霞んでいて見えなかったが、女性の纏う、人とは違う特別な雰囲気に、リーファは彼女が虹龍であることを確信した。
青龍の泉で波に呑まれたところまでは覚えている。意識が戻ったかと思えば目の前には見知らぬ土地が広がって、動物たちと戯れる虹龍の姿を目にしていた。
虹龍の里で体験した時のように、また不思議な夢を見ているのだろうか。リーファの体はあの時と同じように自分の目で認識することができない。一緒に呑み込まれたユーシェンのことも気がかりだ。
『メイリン』
後ろから声がしたかと思うと、リーファの意識体を通り抜けてひとりの男が現れた。男の顔も霞みがかっていて見えない。けれど向かい合う二人がどんな表情をしているのか、リーファには手に取るようにわかった。
『ウェンリー』
虹龍――メイリンが男の名を呼んで駆け寄った。抱き合う二人を祝福するように花が咲き、動物たちは飛び跳ねて踊り、小鳥は歌う。
メイリンとウェンリー、二人の愛が世界を更に輝かせた。
『ウェンリー。私、あなたと同じ時を生きていきたい』
『俺も同じことを思っていた。メイリン。許されるなら、
只人……つまり人間の男と、世界を創った虹龍が夫婦の契りを交わそうとしている。リーファたちは虹龍の末裔だと聞かされてきたが、その理由がこれでより明確となった。夫婦となった二人の子から続く血脈が、やがて虹龍の里の民へと繋がっていったのだ。
単純に里の民は虹龍から力を授かったとしか伝わっていなかったが、種族を越えた愛によって誕生した事実を知ると、リーファの胸にあたたかい熱が生まれる。
幸せそうに抱き合う二人。二人を祝福する世界。愛に満たされた光景はやわらかな光に包まれていて、二人が惹かれ合ったのは必然だったのだと感じずにはいられなかった。
『本気か!? 虹龍!』
そんな幸せな空気に罅を入れるかのように、一陣の黒い風が吹き抜けた。光あふれる世界から一転し、リーファの目の前には濃い闇が広がっている。ずるりと動いたそれが首をもたげて、闇の中から巨大な龍の姿を現した。
艶めく漆黒の鱗。一等星の如く輝く金色の瞳。鋭い三本の爪には、水晶に似た龍珠が握られている。
『
荒げる声の奥には、必死に懇願する切ない色も混じっている。もたげた首をすぅっと寄せたその鼻先に、先程の女――虹龍の姿があった。
『この国はもう、
『あの人間と一緒にいたいのなら、せめて奴の寿命が尽きるまででもいいだろう? 何も人間に身を落とすなど……』
そう言った黒龍に儚い笑みを浮かべて、虹龍が緩く首を振る。
『たったひとりの人間を愛してしまった私は、もうこの国の創世龍には戻れないわ。愛するだけでなく、あの人に愛されたいと願ってしまった』
龍華国を創世した虹龍はすべてを等しく愛さなくてはいけない。何かひとつに肩入れすると、世界の均衡が崩れてしまうのだ。
けれども虹龍は男に出会った。男を愛し、男からも愛されたことで、彼女は虹龍からただの
『あの人と同じ種族になって、限られた命を生きていきたいの。共に、最期まで』
『我ら四龍を捨ててまで、その人間を選ぶというのか!』
『もうよいではないか、黒龍』
二人の間に割って入ったのは、穏やかな老爺の声だ。リーファが意識を二人から逸らすと、闇の中に白い光がぽうっと浮かび上がった。
『そこまでにしておけ。本当はお主も、わかっているのだろう?』
白い光の中から現れたのは、黒龍と同じく大きな龍だった。真っ白な鱗に金色の目を持つ白龍が、人の姿をした虹龍メイリンを見て静かに頷く。穏やかな声とやわらかな白龍の雰囲気に、場の空気がほんのわずか和らいだ。
白い光に呼応するように、今度は赤い光が瞬く。中から現れたのは、赤い鱗に金の瞳を宿す赤龍だ。
『ずっと国を見守り続けてきた虹龍の、最初で最後のわがままなんだ。聞いてやろうじゃないか』
少し男勝りな喋り方をする赤龍の声は女性のものだ。明るく元気な声は、情熱の色を宿す龍にとても似合っている。
『いなくなるのはさみしいけど、それで虹龍が幸せなら僕は我慢するよ』
次いで灯った青い光の中からは青い鱗に金の目を持つ青龍が現れた。一番年若いのか、少年の声をした青龍は、長い首を降ろして甘えるようにメイリンの足元に頭をすり寄せている。
次々と現れた同胞の姿を見て、黒龍がひどく不機嫌そうに顔を歪めた。
『揃いも揃って、虹龍に甘すぎるぞ』
『だって虹龍のこと大好きだもん』
『それとこれとは話が違うだろう』
反論して首をもたげた青龍に、黒龍が軽い頭突きをして
『同じことだ、黒龍。お主も虹龍を大事に思っているからこそ、引き止めたいのだろう?』
『黒龍は一番厳ついのに、一番さみしがりだからねぇ』
『黙れ、赤龍。締め上げるぞ』
『あら怖い』
龍たちの登場で少し気持ちが落ち着いたのか、黒龍の表情や声にさっきまでの荒々しさはない。やはり彼らは家族に近い絆で結ばれているのだろう。
四龍たちをゆっくり見つめて、メイリンが噛み締めるようにひとりずつ名前を呼んだ。
『
龍たちに向けてメイリンがそっと手を差し伸べると、白龍は白髪の老爺に、赤龍は赤髪の女性に、青龍は青髪の少年に姿を変える。けれども黒龍だけは龍の姿を保ったままだ。金色の瞳が揺らいでいることから、彼の中で自身の思いとメイリンの願いがせめぎ合っているのだろう。
『ヘイシェン』
メイリンが黒龍の名を呼んで、その大きな顔の両側に手を添える。そのままゆっくりと引き寄せたかと思うと、互いの額を合わせて角の付け根辺りを優しく撫で下ろした。
『わがままを言ってごめんなさい』
角を撫でていたメイリンの手が、人の、大きな手のひらに包まれる。黒髪の青年の姿になった黒龍が、まだ少し迷っているような難しい顔をしてメイリンを見つめていた。
けれど、おそらくこれが最後だ。四龍として虹龍とまみえることも、人の姿でより近く触れ合えることも、この先彼らが直接交わることはない。
ならば最後くらいちゃんと触れて確かめたいのだと、黒龍がその腕に強くメイリンの体を抱きしめた。
『お前が少しでも悲しい顔をしたら、すぐにでも連れ戻すからな』
人として生きることを認められない。けれど大切なメイリンの願いをはねつけることもできない。
絞り出すように呟いた言葉は、黒龍にとって苦渋の決断であり、最大の譲歩だ。だからメイリンも約束する。彼ら四龍が、この先メイリンを思って煩うことがないように。
『私……必ず幸せになるから。だからどうか心配しないで』
相変わらずメイリンの顔は靄がかかっていてはっきりとは見えなかったが、リーファには彼女が笑う姿が容易に想像できた。
『愛しているわ』
その言葉を最後にして、メイリンたちの姿がリーファの目の前からゆっくりと薄れて消えていく。
夢が終わるのだ。そう自覚した瞬間、メイリンを抱きしめていた黒龍の幻影がわずかに動いて金色の双眸をリーファへと向けた。
『愛している』
まるで耳元でささやかれたように声が近い。びくりと震えて横を見ると、いつの間にか隣にはユーシェンが立っていた。
「……っ、ユーシェン?」
「リー、ファ……?」
ユーシェンも同じ幻を見ていたのか、少しだけ意識がぼんやりとしている。辺りはさっきの夢の名残を欠片も感じさせないほどに青く透き通っていて、頭上からはきらきらとまばゆい光が降り注いでいた。
見上げればはるか上には薄い水の膜が張っていて、風に流されて落ちた木の葉が緩やかな波紋を広げている。まるで水中から水面を見上げているような感じだ。
泉の中へ呑み込まれたことは覚えているが、だとすれば今リーファたちがいる場所は泉の底ということになるのだろうか。確かに周囲は青く、時折空気の泡が上がっていくのも見える。けれどもリーファたちは言葉も出せるし、呼吸も問題なくできていた。
「大丈夫か?」
手を取られ、そのぬくもりにホッとする。四龍たちの幻があまりに生々しくて、どちらが自分の世界なのか混乱していたが、手のひらから伝わるユーシェンの熱がリーファの居場所を確かにしてくれた。
「……ユーシェンも、見た?」
リーファが訊ねると、ユーシェンは無言で頷いた。
「あれは……現実にあったことだと思う?」
「そう、なんだろうな。この状況で見えたというのなら、それはこの地……青龍の祠に残っていた記憶のようなものなのかもしれない」
「半分正解!」
突然、真後ろから少年の声が聞こえた。リーファが驚いて肩を震わせている間に、ユーシェンはもう剣を抜いて身構えている。盾となって自分を守ってくれているユーシェンの背中から顔をのぞかせて見てみると、そこにはいつの間にか巨大な青い龍がとぐろを巻いて座っていた。
「あなたは……」
「ようこそ、龍の姫巫女。そしてやっと戻ってきたんだね、メイリン」
虹龍の名を口にした青龍が、長い体をずるりと動かしてユーシェンとリーファを囲うように円を描いた。一周して二人の前に戻ってくると、その首をにゅっと上げてリーファの方へ顔を近付ける。反射的にユーシェンがリーファを庇う素振りを見せると、「あっ」と短く声を上げてわずかに首を仰け反らせた。
「ごめんごめん。この体だと大きすぎるよね」
巨大な龍の体を持つのに、ぱたぱたと両手を振って狼狽える姿はまるで子犬のような愛らしさがある。そんなことを思っていると、龍の体が青くやわらかな光に包まれた。光はあっという間にユーシェンの腰くらいまでの大きさに収縮して――。
「僕は青龍ランツァン。君たちがさっき見たのは僕の記憶だよ」
ふわりと弾けた光の中から現れた青髪の少年が、リーファたちを見てにっこりと笑った。
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