第8話 穢れた祠

 川に沿って山を登っていくと、辺りに満ちる腐臭がより濃くなっていった。やはりこの辺りの土地が穢れている原因は、青龍の祠が機能していないことにあるのだろう。里長代理の男は祠が近いから、かろうじて里は大丈夫だと言っていたが、山の中は破魔の力が及ばないほど穢れが溜まっている。


「破魔の力で穢れを相殺して、この状況なのかしら。昨夜の村よりも土地の状態は悪いように思うけど」

「見た目まで戻す力がないんだろう。水も濁ってはいるが、ギリギリ飲めるくらいには浄化されているはずだ。だから青龍の里は、まだ保っているんだと思う」

「これも黒龍の封印が弱まっているせいなの?」

「それもあるが、大元の原因はおそらく……」


 背後でユーシェンがつるぎを抜くのがわかった。


「来るぞ」


 ざわざわと風もないのに木々が揺れたかと思うと、頭上から奇声を上げて妖魔の群れが一斉に襲いかかってきた。

 予め張っておいた結界によって、飛びかかってきた妖魔のほとんどが弾かれた。その間にユーシェンはリーファに手綱を渡し、右手に剣、左手に呪符を構えて次の妖魔を迎え撃つ。狭い馬上でもリーファを傷つけることなく戦えるユーシェンにさすがだなと感心したのも束の間。


「伏せろっ!」

「ぶっ!」


 真後ろで怒号が聞こえたかと思えば、リーファはユーシェンに背を押され、馬の背にベしんっと上半身を倒されてしまった。背中のすぐ上を奇声が通り過ぎていったので、妖魔の攻撃からリーファを守ってくれたのだということがわかる。それでも不意打ちのように押されて胸は強かに打ったし、顔をくすぐるたてがみにくしゃみが出そうだ。そんな状態でも手綱を放さなかった自分を褒めてやりたい。

 馬の首に半ば抱きついた状態で必死に手綱を握っていると、ようやく背後の気配が静かになっていく。恐る恐る上体を元に戻すと、後ろから回された腕がリーファの手から手綱をやんわりと受け取った。


「倒したの?」

「襲ってくるヤツはな」

「ユーシェン。助けてくれたのはありがたいけど……ちょっと痛い」


 帽子のうすぎぬを上げて非難めいた視線を向けると、ユーシェンが困ったように目を泳がせた。そんな表情を見るのはずいぶんと久しぶりで、一瞬だけ子供時代に戻ったような錯覚にリーファの胸が優しい音を鳴らす。


「悪い。お前なら大丈夫だと思った」


 ついでにそう付け加えられると、まるで自分が特別だと言われているようで怒るに怒れない。いや、助けてもらったのだから怒るのは筋違いなのだが、こういうやりとりをするのが懐かしくて、リーファはついわざと不機嫌な表情を浮かべてしまうのだった。


 その後も何度か襲い来る妖魔を撃退しつつ進んでいると、ふいに木々が開け、目の前に大きな泉が現れた。

 中央にひっそりと建つ小さな祠は、虹龍こうりゅうの里で見たものと似ている。祠へは石造りの道が敷かれており、水中にあってもそばまでは歩いていけるようだ。

 けれども泉の水は妖魔の死体が溶けて一体化でもしているかのように、黒ずんだ茶色に変色していた。普段であれば清浄な水がこんこんと湧き出ているであろう泉の水面には、ぶくぶくと汚れた泡が絶え間なく弾けている。

 黒龍の解けかかった封印と、この地に蔓延る妖魔のせいで穢れた土地は、ユーシェンが妖魔を一掃したところで正常に戻る気配はまるでなかった。


「ここが、私たちに伝わっていた青龍の里に間違いないのなら、里を守る結界があるはずだけど……。それがこの祠になるのかしら。そもそもどうして虹龍の里に間違った情報がずっと伝わっていると思う?」

「虹龍の民はそもそも外界にあまり出ないからな。出ても龍属りゅうぞくの村辺りまでだ。歴代の姫巫女たちは封印を成し遂げているから、ここに立ち寄ったのは間違いないだろう」

「だったら私たちと同じように、疑問を持ったはずだわ」

「持っただろうな。それでお前はどうする? 疑問を確かめに虹龍の里へ戻るか?」


 問われて、ハッとする。

 そうだ。リーファだって、歴代の姫巫女たちと同じだ。里の伝承が違っていても、リーファは虹龍の里へは戻らない。このまま封印の儀を遂行するために先へ進むだろう。それが今、リーファたちが何よりも優先すべきことなのだから。


 けれどそう気付いたすぐあとで、またひとつの疑問がリーファの頭に浮かんでしまった。


「でも……ねぇ、ユーシェン。封印の儀を終えて里へ戻った姫巫女が、それを伝えていないのはおかしくない?」

「封印を成功させ、気持ちが高揚して伝え忘れたのかもな。そんなに重要なことじゃないのかもしれない」

「確かに青龍の里だと思っていた場所が祠だっただけで、私たちが四神を巡るのには変わりないんだろうけど」

「ずいぶん気になってるな。何か不安に思うことでもあるのか?」

「不安ってほどでもないんだけど、何か気になっちゃって……。もしかして姫巫女は里へは戻らなかったとか? 共に旅した龍の爪牙と一緒に添い遂げるとか、何なら駆け落ちみたいに二人で……二人、で……」


 思考がずいぶんと自分の妄想寄りになっていることに気付いたのは、そのほとんどを口にしてしまった後だった。嫌な汗が全身に噴き出して、ユーシェンの顔をまともに見ることができない。こんな時に限って帽子を脱いでいた自分が恨めしい。


「あー……あー、えーと……その、あれよ! ほら! やっぱりそんなことないんだわ。だって封印を成功させたのなら里に報告に戻るはずだろうしっ!」

「……お前も……と、添い遂げたいと思うのか?」


 動揺しすぎてユーシェンの言葉が、しかも肝心なところが聞き取れなかった。激しく胸を打つ鼓動がリーファ自身の鼓膜を刺激して、ユーシェンの声を――いや、気付けばすべての音をかき消している。

「え……?」と呟いた自身の声さえ聞こえず、リーファの耳に届くのは波紋を揺らす鈴のような音色だけだ。その音を拾った瞬間、額に鈍い痛みが走り、虹色の鱗が淡い光を放ち始めた。


 声は届かないが、ユーシェンが「リーファ」と名を呼んでいるのがわかる。大丈夫だと頷いてみせると、少しだけ安心したようだった。

 さっきから絶え間なく聞こえてくる涼やかな鈴の音に振り返ると、泥沼と化した泉の水面に、浮き上がる泡とは違う青白い波紋が生まれていた。


 りぃん。

 波紋が揺れるたびに鈴が鳴る。まるでリーファを呼んでいるかのように優しく広がる波紋は、少し飛べば届く距離で静かに生まれ続けている。


 りぃん。

 りぃん。


 鈴の音は舞いのリズムのように。額からあふれるやわらかな光は羽衣のように。

 たんっ――と、軽やかに地面を蹴って、リーファは泉の波紋めがけて跳んだ。

 リーファの爪先が波紋の中心を蹴る。そこから広がる青白い波紋にリーファの光が伝い流れて、泥水を浄化していく。リーファが跳んだその先、また新しく生まれた青白い波紋を蹴って、跳んで、浄化して。そうして祠をぐるりと一蹴するように水面を蹴って進むたびに、穢れた泉が清浄な水の輝きを取り戻していった。


 とん、と最後に爪先を置いたのは祠の前。リーファの爪先から震えて広がる波紋が泉全体に響き渡って、揺れる水面から霧ほどに細やかな光の粒子が舞い上がる。

 きらきらと、陽光の加減で虹色に輝く光の中、最後の鈴の音が透明な余韻を残して消えた瞬間――。まるで龍が水底から勢いよく飛び出したかのように、泉の水が渦を巻いて噴き上がった。


 さながら豪雨のように降り注いだ水は澱んでいた空気を浄化し、乾いた大地を潤しながら麓の里にまで流れていく。泉がよみがえったことでこの地を蝕んでいた穢れが一掃され、妖魔の巣窟と化していた山には美しい自然が戻ってきた。


 久しぶりに嗅ぐ瑞々しい草と水のにおいを胸いっぱいに吸い込んで目を閉じると、薄く水に覆われた石造りの道を歩いてくる足音が聞こえた。


「ユーシェン」

「よくやったな」


 龍の爪牙として完璧すぎるユーシェンに褒められれば、リーファの頬も自然と緩んだ。彼がリーファを守るために戦ってくれるのなら、守る価値のある姫巫女に成長したい。穢された泉の浄化をやり遂げられたことで、リーファはユーシェンの隣に一歩近付けたような気がして純粋にうれしかった。


「体が勝手に動いちゃったけど……無事に浄化できてよかった」


 鈴の音が聞こえた辺りから体は無意識に動いていたが、不思議と恐怖や不安は一切感じなかった。虹龍の里で、崖から落ちた時と同じ感覚だ。

 リーファの意識すら包むあたたかく清らかな力は、やはり虹龍のものなのだろう。自分が浄化した泉を見て、リーファは少しだけ姫巫女としての自分に自信を持つことができた。


「水がぶわーって溢れてきた時は正直どうしようって思ったけど……あ、あれ?」


 浄化され、澄んだ水をたたえた泉を見ていると、一瞬だけ目の前が暗くなった。軽い浮遊感を覚えたかと思うと強い力に体を引かれ、リーファはユーシェンに抱きとめられる形で倒れ込んでしまった。


「ごめん……」

「姫巫女の力を使って体力が消耗したんだろう。気にするな」

「う、うん」


 気にするなと言われても、この状況は抱き合っているようで落ち着かない。おまけに二人とも竜巻のように噴き上がった水でびしょ濡れだ。服は肌に張り付いていて、体温であたためられた湿った熱が何だかとてもなまめかしい。密着しているせいで濡れたシューシェンの匂いが濃く脳に響き、リーファは力を使った反動とは別の衝撃で意識を飛ばしそうになってしまった。


「だ、大丈夫よ。もう平気」

「お前の大丈夫は当てにならない」

「何それ……っ」


 思わず顔を上げて睨みつけると、予想以上に近かったユーシェンの顔にリーファの呼吸が軽く止まった。ユーシェンの長い前髪から滴り落ちる水滴が頬を滑り、首筋を伝って流れていく様は何というか刺激が強すぎて目の毒だ。

 このままだと確実に挙動不審になってしまう。意識をユーシェンから逸らさなければと、リーファは視界の隅に映った祠を指差して声を上げた。


「ユーシェンっ、祠! 祠見てみよう!」


 声が若干裏返ったが、ユーシェンの腕の力が弱まったので動揺には気付かれていないことにする。


「虹龍の里でも祠に龍珠が祀られていたし、ここにも何かあるのかも」


 腕をすり抜けて逃げるように祠に近付くと、焦ったように腕を引かれた。


「だからお前は……っ。不用意に触るな」

「あ、見て。やっぱり似たような珠が祀られてる。これが青龍の龍珠になるのかしら」


 ユーシェンに目配せして一応確認を取ってから、リーファは祠に祀られていた龍珠に顔を近付けて覗き込んだ。透明な龍珠は水鏡のように二人の姿を反射し、その中でリーファの首から提げた虹龍の龍珠がきらりと光る。


虹龍メイリン


 聞いたことのあるような、でもまったく知らない少年の声が頭の中に直接響いてきた。

 ざわざわと、空気が揺れる。泉が揺れる。視界が揺れる。

 異変に気付いたユーシェンが、再びリーファの腕を引いて抱き寄せた。泉の水がなめらかに立ち上がり、うすぎぬのように跳ね上がった瞬間――。リーファたちは水の境界線を通り抜けてへと吸い込まれていった。



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