第2章 青龍の里
第6話 情念を纏う生霊
昼の休憩を終えて、再び馬を走らせる。途中何度か休憩を挟んだものの、予定通り日が暮れる前には宿を取ろうとしていた村が遠目に確認できた。
村の入口に着く頃には日もすっかり落ちて、空は昼と夜の境目を曖昧にした妖しげな色に染められている。幽鬼や妖魔たちが活発になる逢魔が時だ。
花桃の結界で守られていた虹龍の里と違い、外界の夜は何だか不気味で夜陰さえ泥沼のようにじっとりと重く感じる。外の夜はこんなにも重苦しいのかと不安になっていると、リーファの気持ちが伝染したのか、ユーシェンの纏う気配が変わった。
「人の気配がしない」
確かに、もう日も落ちて暗くなり始めている時分なのに、連なる家々には明かりがひとつも灯っていない。廃村なのかと思ったが、家屋が朽ちているわけでも、井戸が埋まっているわけでもなかった。ただ、井戸の中からはかすかに異臭がしており、その
「もしかして妖魔に襲われて……?」
「いや……。血のにおいはしない。襲われた形跡もないが……少し妙だ」
「妙って、この変なにおい? 村全体が……何だか腐ってるみたいだわ」
悪臭ではあるが、まだ我慢できる程度だ。においの出所を探そうとしても、ちょっとした風で流されていくほどに薄い。けれど作物はその影響を強く受けているのか、畑に植えられた野菜はすべて無残に枯れ果てていた。
何かに気付いたらしいユーシェンが手に取った土のにおいを嗅いだ後、無表情のままその手をリーファの方へ差し出した。何事かと顔を近付けてにおいを嗅いでみると……。
「くっさ!!」
想像以上の強烈な悪臭に、リーファは軽く嘔吐きそうになった口元を押さえて後退した。ユーシェンが変わらず涼しい顔をしていたので、無警戒で思いきりにおいを嗅いでしまったのが悔やまれる。
「ちょっ……と、何で平気なの!? その土すっごく臭いんだけど!」
「臭いな」
「臭いなら臭いでそれらしい顔してよ。思いっきり吸い込んじゃったじゃない」
「原因は土壌の穢れかもしれないな。作物が育たなくなった村を捨てたのか。……このぶんだと井戸も使えないだろう」
「サラッと無視しないで」
そういった言葉も無視……ではないが返答をせず、ユーシェンは近くの家に無断で入ると中の様子を確認し始めてしまった。外にひとりで残されるのも嫌だったのでリーファも後に続くと、ユーシェンはちょうど奥の部屋から出てくるところだった。
「寝るだけなら使えそうな部屋があるが、どうする?」
「どうするって……勝手に寝台を使っちゃうの?」
「この感じだと住人も戻って来ないだろう」
「でも……」
「固い地面と夜に活動する毒虫と、たまに襲ってくるかもしれない妖魔の中でお前が眠れるというのなら、俺は別に野宿でも構わない。慣れてるからな」
「寝台を借りるわっ!」
野宿でも別に構わなかったのだが、寝ている間に蛇やら蜘蛛やらが体を這うのは勘弁したい。リーファがそう言うのを見越していたらしく、ユーシェンが案内した寝室には既に簡易の結界を張るための呪符が貼られていた。おかげで室内の空気に、あの悪臭は混じっていない。
「最初からここで寝るって言えばいいのに」
「一応お前の意見も聞いておくべきだと思っただけだ。今はお前が
「そう思ってないくせに」
「畏まってほしいのならそうする」
「やだ。ユーシェンのままがいい」
「そう言うと思った」
部屋のことといい、今といい、ユーシェンはリーファのことを何でもお見通しだ。一緒に過ごしたのは子供の頃だけだというのに、今でもリーファの性格をよくわかっている。それは純粋にうれしくもあり、同時にほんの少しだけ焦ってしまう。
何でもわかるというのなら、リーファの恋心はもう完全にばれているのかもしれない。
「俺は少し外の様子を見てくる。結界を張ったから妖魔の類いは入って来られないだろうが、一応は用心しておけ。念のため、これも渡しておく」
そう言ってユーシェンが取り出したのは、人型に切り抜いた小さな白い紙――式神だ。
「すぐ戻ってくる?」
「何もなければな。この土地を穢す原因も調べたいから、お前は気にせず休んでろ」
「だったら私も一緒に……」
「初めて里を出て、一日中移動してきたんだ。今は気持ちが昂ぶっていて気付かないかもしれないが、お前が思ってる以上に体には疲労が溜まってるはずだ。先は長い。旅の初めから無理はするな」
式神を枕元に置いて、ユーシェンはそのままひとりで部屋を出て行ってしまった。
何もすることがないので、とりあえず寝台にごろりと寝転んでみる。寝具は少し埃っぽかったが、毒虫の這う地面に直に寝転ぶよりは断然いい。それに今は勝手に借りている状況なので、文句のひとつでも言おうものなら罰が当たるだろう。
枕元に置かれた人型の式神を手に取って、じっと見る。白い紙にユーシェンの姿を重ねながら、リーファはその式神をそっと胸に抱いて目を閉じた。
ユーシェンの言った通り、体はしっかり疲れていたらしい。目を閉じてから数分後、リーファはあっという間に意識を手放してしまった。
***
『……』
誰かが耳元でささやいていた。何を言っているのかはっきりとは聞き取れないが、鼓膜を震わせる声音は低く、呪詛のように不気味な韻を孕んでいる。皮膚の内側を濡れた手で撫で回されるような感覚に、リーファはぞくりと体を震わせて飛び起きた。
勢いよく体を起こしたつもりが、実際は目を開けただけだった。体は石のように重く、指先さえ動かせない。
(何……? 体が動かないわ)
うっすらと月光が差し込む部屋の中、扉の近くに黒い人影が見えた。ユーシェンが戻ってきたのかと安堵したのも束の間、それは音もなく寝台のそばに近付いてリーファの顔をぐうっと覗き込んでくる。そこで初めて、リーファはそれがユーシェンでないことを確認した。
『……しい』
影が呟く。するりと垂れる長い黒髪の向こうから現れた顔は、女だ。血の気のない青白い肌には
長い髪を振り乱し、血走った目をリーファに向けてくるその女を知っているような気がする。けれども記憶に残るその姿はこんな狂気じみた形相ではなく、水仙のように清楚な雰囲気を持つ女性だったはずだ。
「ど、どうしてあなたが……」
『……妬ましい。使命を振りかざして、あの人をひとり占めする姫巫女が羨ましい』
動けないリーファの上に、女がのし掛かった。体重はまるで感じないのに、胸が押さえつけられたように息苦しい。
女の手がリーファの首筋に触れた。およそ人とは思えない冷たさに背筋が震えた瞬間、リーファの首を掴んだ女の両手にぐっと力が込められる。
「……っ!」
『ずるい。ずるい。憎らしい。姫巫女さえ……お前さえいなければ、あの人の目が私を向いてくれたかもしれないのにっ!』
リーファを絞め殺そうとする女の手から伝わってくるのは、姫巫女に対する激しい嫉妬と、そしてユーシェンに対する強い思慕の念だ。
恋しい。いとしい。憎らしい。
募る思いが強すぎて歪んでしまった感情が、きっと本人ですら知らないうちに体を離れて怨念と化してしまったのだろう。それがリーファたちに渡された、あのお守りに宿ってしまったと考えられる。その証拠に、リーファの持つ飾り紐のお守りが瘴気に包まれて黒く変色していた。
『その瞳に私だけを映してほしい。その手が触れるのは私だけがいい。ずるい。憎い。羨ましい。姫巫女というだけであの人のそばにいられるお前が……!』
女の力が更に増し、リーファの意識が朦朧とし始める。それでも死ぬわけにはいかないと必死に伸ばした指先に、かさりと乾いた紙の感触がした。
無我夢中でその紙――ユーシェンが置いていった式神を掴むと、リーファは自分にのし掛かる女の胸元に思いきり式神を押し付けた。
『ギャアアッ!』
女の放つ黒い怨念に触れた瞬間、式神からまばゆいほどの白い光があふれ出した。光は細長く棚引いて、一本の縄のように女の影を締め上げていく。清浄な光は毒になるのか、女が自身の体を締め付ける光の縄に苦悶の表情を浮かべて寝台から転がり落ちた。
やっと体が動かせるようになったリーファが咳き込みながら体を起こすと、女の生霊が床をのたうち回りながら呪詛のような暴言を吐き続けていた。
『死ね。死んで私と代われっ。その体を私に明け渡せ!』
光の縄を引き千切ろうともがきながら、黒い靄と化した唾を吐いてリーファを罵る女から怨念の塊のような瘴気があふれ出した。そのあまりに濃く歪んだ感情を直にぶつけられ、リーファの意識がむりやり体から引き剥がされそうになる。
「リーファ!」
まるで一陣の清浄な風のように響き渡ったユーシェンの声が、部屋に満ちる毒々しい瘴気を斬り裂いた。
声だけでそれが誰なのかわかったのはリーファだけではなく、女の生霊もまた動きを止めて部屋に飛び込んできたユーシェンの方を振り返る。光の縄に縛られたまま床を這い、愛しい者を見るように恍惚とした表情を浮かべてユーシェンへ近付いた。
『あ……あぁ、いとしい人。……私の、ユーシェ……』
最後まで言葉を発する間もなく、女の首がユーシェンの薙ぎ払った
「大丈夫か?」
「ユーシェン……今の……」
「情の念を断ち切っただけだ。本体には影響がないから心配するな」
そう言われても、目の前で見知った女の首が斬り落とされる光景は見ていて気持ちのいいものではない。黙って殺されるわけにもいかなかったが、ユーシェンを恋い慕う女の気持ちもリーファには嫌と言うほどわかってしまう。
生霊となるまで膨れ上がってしまった恋情と嫉妬。あの女性の思いを、すべて否定し恐れることはできない。
歪んだ感情に狂った生霊となったのは、もしかしたらリーファのほうだったかもしれないのだから。
「あの人は……このことを覚えているの?」
思い人に首を刎ねられる。そんな記憶が本体の方へ流れてしまったらと思うと、やるせない気持ちにリーファの胸が痛んだ。
「覚えてはいないだろう。それに繋がりを切ったことで、無意識に澱んでいた彼女の気も正常に戻るはずだ」
「あの人、こんなになるまでユーシェンのこと……」
繋がりを切る、といったユーシェンの手には、彼に渡された方のお守りがある。ユーシェン自身によって真っ二つに斬り裂かれたお守りは、熱のない青い炎に包まれて跡形もなく燃え尽きてしまった。
炎の青い色はまるで叶わなかった恋心のようだ。旅の無事を祈ってお守りを渡してきた彼女の姿がよみがえり、リーファの胸はずっと切なく軋んだままだった。
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