第4話 真夜中の約束

 久しぶりにユーシェンを交えての食卓は懐かしくて、うれしくて、ほんの少しだけ落ち着かなかった。

 昔は当たり前にあった日常なのに、見える景色はまるで違う。隣に座るユーシェンは、もう子供ではない。声も手もすっかり男のひとになっていて、子供の頃にはなかった色気すら感じられるほどだ。

 今まで何度も目にしているはずなのになぜだろう。この家で見るユーシェンは幼馴染みとは違う見知らぬ男性のような気がして、リーファはまともに彼の顔を見ることができなかった。


 そのせいなのか、リーファは夜が更けてもなかなか寝付けないでいた。隣の部屋にユーシェンがいるということも理由のひとつだ。別にユーシェンが部屋に忍び込んでくるなんてことは考えていないが、隣の部屋から聞こえるわずかな物音にいちいち反応してしまい正直眠るどころではない。


 それでも必死に目を閉じていると、キィ……と扉の開く音が聞こえてリーファは体を起こした。耳を澄ませてみると、隣の部屋から外へ出ていく音がする。


(ユーシェン? こんな夜更けに、どこへ……)


 水でも飲みに行ったのかとしばらく待ってみても、ユーシェンが戻ってくる気配はない。深まる夜陰に黒龍の影を重ねてしまい、いてもたってもいられなくなったリーファはユーシェンのあとを追って部屋を飛び出していった。



 紺青こんじょう色の空に輝く月が幽かな光を落とす庭先に、ユーシェンはいた。

 夜空を見上げて佇む姿はまるで月に焦がれる花のように儚げで、このまま夜に消えてしまうのではないかと心配するほどだ。

 天女がいたら、きっとこんな感じなのだろう。ユーシェンは男だが、性別すら霞んでしまうほどの美貌を前にするとそう思わずにはいられない。彼の纏う気配はどこか神々しくもあって、むしろリーファよりも龍の姫巫女が似合いそうな気がした。


「眠れないのか?」


 柱の陰に身を隠すことも忘れて見惚れていたようだ。いつの間にかユーシェンがこちらを振り返って、怪訝そうな顔を浮かべている。


「う、うん。今日は、ほら……いろいろあったでしょ。周りの状況が変化しすぎて、心の方がちょっと追いついてないっていうか……。ユーシェンは? ユーシェンも、眠れなかったの?」

「そうかもしれない」


 ユーシェンは、いつもひとつに結んでいる髪紐を解いていた。

 昼と夜とで姿の違うユーシェンを見ることができるのは、里の娘たちの中ではリーファだけだった。けれどそれも幼い頃の話だ。互いが大人になった今、リーファも知らないユーシェンの顔があるのだろう。そんなユーシェンの未知なる部分を知る娘がどこかにいるとしたら……。そう思うと、途端に胸の奥が黒いもやもやに埋め尽くされてしまった。


「ねぇ、ユーシェン。私……うまくやれると思う?」


 先代の姫巫女が黒龍を封印してから百年。綻びの見え始めた封印のせいで、各地では妖魔による被害も増えていると聞く。花桃の結界に守られている虹龍こうりゅうの里に妖魔が現れたのもその影響だ。


 里の、同年代の娘たちは皆、高い志を持って姫巫女の修行に臨んでいたというのに、龍の姫巫女に選ばれたのはいまいち能力の伸びないリーファだった。もちろんリーファだって虹龍の里の一員として姫巫女になるべく修行はしていたけれど、自分の力が姫巫女になるためには遠く及ばないことを実感していた。


 それがどういうわけかリーファは姫巫女の力を覚醒させ、あまつさえ瞳が金色になるという不可解な状況だ。里では隠された祠が発見され、謎めいた女性に託された龍珠はいまリーファの胸元で揺れている。


 今までの封印の儀とは何かが違う。リーファでもわかる明らかな変化は、時間が経てば経つほど大きな不安となってリーファにのしかかっていた。


「選ばれたのなら、やるしかないだろう」


 大丈夫だとか、心配ないとか。そういう安易な慰めは一切口に出さず、ユーシェンは現実だけを淡々と語った。確かに今更やめられるわけでもないので、無責任な発言をユーシェンだってするわけにはいかない。でも、ちょっとだけ甘えたかったリーファは、無意識に唇を尖らせてしまった。


「それはそうなんだけど……ちょっと怖じ気づいてるというか」

「里長も言っていただろう。娘たちの中では、お前が一番素質があると。お前の中に虹龍の力はちゃんとある。裏山で妖魔を退けた力は、確かに姫巫女の力だった」

「あの時は私も何が何だかわからなくって……。ユーシェンが死んじゃうと思ったら体の中から、何かこう……ぶわーっと」


 力があふれ出す仕草を真似て両手をユーシェンの方へ向ける。そのうち片方の手をユーシェンに握られて、リーファの口から「ひゃぃ!?」と気の抜けた声が漏れた。

 手首を掴む力は強く、まるでリーファの心まで絡め取るかのようだ。びっくりして見上げると、ユーシェンはまた何かに耐えるような苦しげな表情で眉間に皺を寄せている。リーファが里長の家で目覚めてから、何度か目にした表情だ。


「ユーシェ……」

「あんなことは、もう二度とするな」


 いつも以上に低い声音に、怒られているのかと体が震える。けれどもどちらかと言えばユーシェンの方が泣きそうな顔をしていて、リーファを失うまいとするかのように、更に手首をぎゅっと握りしめてきた。


「俺の力が未熟だったことは十分に理解している。だがお前は姫巫女だ。姫巫女は何があろうと黒龍の元へ辿り着かなければならない。あんな風に……俺一人のために自分を犠牲にするな」

「犠牲じゃないわ。あの時は自分でもよくわからないけど、大丈夫だって確信が持てたんだもの。だから私」

「今回はうまくいったかもしれないが、この先も同じようになるとは限らない。根拠のない自信に自分の命を安易にかけるな」

「でも! ああでもしないとユーシェンが……っ」

「俺はお前の爪牙だ! お前を守るために血を流すことなど厭わないっ!」


 夜の静けさを斬り裂いて、ユーシェンが声を荒げた。普段の落ち着いたユーシェンからは想像もできないほど怒りの感情をあらわにして、リーファをまっすぐに見つめている。射抜くようなその視線は睨みつけるようでもあって、でも、夜より深い瞳の奥には強い悔恨が見え隠れしている。


「ユーシェン……」

「お前があんなことをしないで済むように、俺はもっと強くなる。だから……だから、もう二度と俺の手を離すな」


 なおも強く掴まれる手首は痛いくらいだ。なのにリーファはユーシェンの手を振り払うことができなかった。

 手首の痛みは、リーファがユーシェンに与えてしまった心の痛みだ。ならばその痛みをちゃんと受け取らなくてはと思った。逆の立場だったなら、リーファもきっと同じように苦しみ、後悔したはずだから。


 大事な人を守りたいと、リーファはこれからもそう思うだろう。気持ちに自身の力がまだ追いついていないことは嫌というほど実感しているし、わずかな力を使うだけでも今は体力を大幅に消耗してしまう。けれどそれも四龍の加護を得る度に解消されていくだろう。

 姫巫女の力がより正確に、強く扱えるようになったのなら、ユーシェンにもうこんな顔をさせなくて済むのかもしれない。リーファは守られるだけの姫巫女ではなく、ユーシェンと肩を並べて同じ道を歩いていきたいのだ。姫巫女の力も弱く、武術に至っては遠く及ばないが、それでもいつかは胸を張ってユーシェンの隣に並びたい。


「リーファ」


 やっと手を離したかと思うと、今度はその指先で額に浮き出た鱗に触れられた。たったそれだけなのに、額の鱗から全身にぞくりとした熱が駆け巡る。かすかに震えてしまったリーファをどう感じたのかはわからないが、額に触れた指先はすぐに離され、ユーシェンはまるで自身を戒めるように拳を強く握りしめた。


「お前は俺が必ず黒龍の元まで連れていく」


 さらりと黒髪を揺らして流れる夜風に乗って、淡い桃の花びらが舞い上がる。夜闇を控えめに照らす月光の中、まるで旅立ちを祈って降り注ぐ花雨のようだ。


「黒龍封印の使命を果たし、無事にこの里へ戻ってこよう」

「うん」


 誓いは願いとして、リーファの胸に刻まれてゆく。

 二人だけの夜に降る、桃色の花の雨。まるで密やかな逢瀬にも似た夜のひとときを、リーファはずっと忘れないようにしようと心に刻んだ。





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