第2話 隠された祠
頬を濡らす冷たいしずくに目を覚ました。慌てて飛び起きると軽い目眩に襲われて、視界がぐらりと傾ぐ。倒れまいと体を支えた手は、冷たい石の感触がした。
「ここは……」
周りを見回すと、リーファが倒れていたのはどうやら洞窟のようだ。壁も床も剥き出しの岩に覆われており、天井からはゆっくりとした間隔で水がこぼれ落ちている。先ほどリーファの頬に落ちたのはこの水滴だろう。
日の差さない洞窟の奥深く。なぜ周囲の様子がこれほど鮮明に見えるのかは、周りを囲む岩が仄白く光っているからだと気が付いた。
「……ユーシェン」
遡る記憶に一番に浮かんだのは、妖魔に襲われ大怪我をしたユーシェンの姿だ。
無事でいるだろうか。傷の応急処置なら、符術を使ってユーシェンでもできるはずだ。軽傷と呼べるほど軽いものではなかったが、それでも止血と簡単な体力の回復には繋がるだろう。それを見越して、リーファはユーシェンの手をはねのけたのだ。
自分は大丈夫だと、あの時はなぜか強く確信していた。結果としてリーファは自分でもよくわからない術を発動し、そして見知らぬ洞窟の中で目を覚ましている。体は異常な疲労感に襲われていたが、目立った外傷はどこにもない。無茶をした自覚はあるが、あのままではきっとどちらかが――きっとユーシェンの方が無事では済まなかっただろう。
妖魔を退けた力も、場所を移動した不思議な術もわからないことだらけだが、まずはここを出て里に戻らなくては。
軋む体を何とか起こして、前か後ろか、どちらへ進もうか逡巡した時、ふと誰かに呼ばれた気がしてリーファは洞窟の奥を振り返った。
辺りを照らす仄白い光が、さざなみのように緩やかにうねる。まるで呼び寄せられるかのように、リーファはその光の波に揺られて洞窟の奥へと進んでいった。
***
ゆっくりと意識が覚醒し、自分が眠っていたと自覚した途端にユーシェンは勢いよく飛び起きた。一瞬からだがぐらついたが、立ち上がることに難はない。深く息を吸い込んで乱れていた体の気を整えると、意識も視界も次第にはっきりと冴えてくる。
ユーシェンがいるのは、崖の崩落を免れた滝のそばだ。手を離されたリーファをすぐさま追おうとしたのだが体が思うように動かず、一旦首の傷を塞ごうと後方へ飛び退いたのだ。
治癒のまじないを施した呪符を乱暴に首に貼り付けて、応急処置の簡易な呪文を唱える。失った血は戻らないが、傷が塞がれば脳を突き刺すような痛みも消えた。これなら問題ないと一歩踏み出したところで目眩がし、ほんの一瞬まぶたを閉じただけだった。
けれども次に目を開けた時、ユーシェンは地面に突っ伏して気を失っていたのだった。
リーファが放ったあの光は里の裏山を覆うほどに大きく膨れ上がった。その力に耐えきれず崩れ落ちた崖の轟音も里には届いているはずだ。なのにユーシェンのところに様子を見に来た者がひとりもいないということは、崩落から時間はそんなに経っていないのだろう。ユーシェンが意識を落としたのは、せいぜい一、二分くらいか。そのわずかな時間でも、少しだけだが力が回復しているのを感じた。
目を閉じて、意識を集中させる。
突如現れた魔法陣がリーファをどこに連れて行ったのかは見当も付かないが、何となくこの里のどこかにいるような気がした。
眩しくてあたたかいリーファの気配なら、子供の頃から知っている。いつもそばで明るく笑い、ユーシェンの内に潜む孤独な闇を無自覚に照らしてきた。その、時に強引で強烈すぎる光にも似たリーファの気配を、ユーシェンが見つけられないはずがない。
『ユーシェン』
かすかに聞こえた声にハッと目を開くと、ユーシェンは一切の迷いなく駆け出していった。
***
東の青龍。南の赤龍。西の白龍。北の黒龍。それらを束ねていたのが、リーファたちの祖先にあたる虹龍だ。
しかしいつの頃からか黒龍が自らこそ王だと驕るようになり、国さえ一から作り直そうとして破壊と暴虐の限りを尽くしたのだ。その暴挙に嘆き悲しんだ虹龍によって封印されるも、邪龍と化してしまった黒龍は百年ごとに必ず復活したという。そのたびに、虹龍の力を継ぐ龍の姫巫女によって黒龍は封印されてきた。
龍華国の神話は虹龍の里に住む者なら誰もが知っている。そもそもリーファたちの生きる意味こそ、神話の中にあるのだから。虹龍の里の民は、黒龍封印のために生きていると言っても過言ではない。里の者が一丸となって、百年ごとに行われる儀式の成功を使命としているのだ。
もちろんリーファも、大事な節目の年に生まれた者のひとりとして、黒龍封印の成功を願っている。けれど、その大役が自分の肩にのし掛かったかもしれないという現実を前に、気持ちが少しだけ弱気になっていた。
静かな洞窟内を、ひとりでさまよっているからだろうか。洞窟に満ちる不思議な気配と、自分の中で目を覚ました大きな力。どちらも自分に害をなすものではないと頭ではわかっているのに、ひとりぼっちの心細さから不安がどんどん押し寄せてくる。
とにかく今は早くここから出て里に戻らなければ。考えすぎて止まっていた足を再び動かし始めた瞬間、突如として背後から冷たい風が吹き抜けていった。
そのあまりの冷たさにびくんと肩を震わせて振り向いた先に、瘴気渦巻く荒れ果てた大地が広がっていた。さっきまで歩いてきた洞窟は綺麗さっぱりと消えており、リーファはなぜか見知らぬ地にひとりで立ち尽くしている。驚いて周囲を見回した視線の先に、空をも覆い隠す瘴気の中から一匹の巨大な黒い龍が姿を現した。
(黒龍!? うそ……。封印はまだかろうじて保たれているはずなのに)
息を呑んだはずが、リーファの唇から音が漏れることはなかった。声どころか、体そのものが存在していない。手を動かす感覚はあるものの、その手も体もリーファの目には映らない。まるで意識体となって、どこか別の景色を眺めているような感じだ。
それでも目の前の黒龍はリーファの存在を認識しているのか、深淵の如く深い闇の瞳をまっすぐにこちらに向けている。
獣の唸り、あるいは
『なぜだ。なぜ、
絶望に声を張り上げて、黒龍が泣いている。その怒りの矛先は、人間だ。
『愚かなお前たちのために大地を潤し、豊穣の実りを授け続けてきたではないか!』
吐き出される嘆きは毒の霧となり、轟く雷鳴は怒りの鉄槌となって、龍華国の大地を蝕んでいく。緑は枯れ、乾いた大地に龍の爪跡の如き亀裂が深く穿たれていった。
『あぁ、やはり止めるべきだった。人になど、なるべきではなかったのだ。我ならお前を守ってやれた。お前を傷つけるものすべてに、死よりも苦しい呪いを与えてやれるのに……っ。なぜ死んだ! なぜ我を選ばなかった! 虹龍……メイリン。お前を真に愛してやれるのは、我しかいないのに』
黒龍の、人間に対する怒りの裏で虹龍に対する激しい思慕の念が垣間見える。ただその思いはあまりに強すぎて、脆く、
『お前のいない世界に意味などない。お前を殺した世界など、我がこの手で壊してやろう。
リーファの見ている光景が、だんだんと白く薄れ始める。
『
その声を最後に、黒龍も瘴気もすべてが仄白い光に包まれて消えていった。
夢が覚める。漠然とそう感じて目を開けると、リーファはさっきの洞窟の中にいた。黒龍も、空気を穢す毒の瘴気もここにはない。けれど怒りと執着に満ちた呪いの声は、まだリーファの鼓膜を揺らしていた。
「……今のは」
夢にしては黒龍の禍々しさと歪んだ愛憎の叫びが生々しすぎた。現実に対峙したかのように、かすかに震えるリーファの体には嫌な汗が噴き出している。
龍華国を滅ぼそうとする黒龍の行動は、リーファたちの間で語り継がれてきた神話と同じだ。
黒龍は自身が王として君臨するため、虹龍の作った龍華国を壊し、新たな国を作ろうとした。龍華国を守護する四龍の
けれど、さっきの夢はどうだ。黒龍が国を滅ぼそうとしたことに変わりはないが、あの夢の中では虹龍が既に死んだものとされていた。神話では虹龍が死んだことなど伝わっていないし、そもそもリーファたちの祖先が虹龍であるはずなのだ。だからこそ、虹龍の力を継ぐ龍の姫巫女が里に生まれてくる。
(聞いてた話と微妙に食い違ってる……? 虹龍は死んでいて、黒龍は虹龍を……愛していたというの?)
考えれば考えるほどわからないことだらけだ。もしもあの夢が本当にあったことならば黒龍と虹龍、そして人間の間に何かしらの確執があったように感じる。長い時が過ぎる中で、神話自体が少しずつ歪んで伝わっている可能性もありそうだ。
『――おねがい』
ふいに、天井から滴り落ちる水滴の音に紛れて、女の声が聞こえた。洞窟で目覚めた時に、リーファを呼んだあの声だ。
今度ははっきりと聞こえた声に視線を巡らせると、前方にさっきまではなかった古びた祠が建っていた。祀られているのは、両手で包み込める大きさの透明な珠だ。それはリーファが近付くたびに呼応して、淡い光を点滅させた。
光は白く、青く、光るたびに赤く、黒く、様々な色に変化した。水に湿った洞窟の壁がその光を反射して、周囲は淡い七色の光彩に揺らめいている。美しいけれど、どこか物悲しい光のさざなみだ。
『黒龍を……ヘイシェンを、とめて』
導かれるように珠を手に取ると、光がより一層強くなった。瞳を刺激しない、柔らかな光だ。その虹色の光のヴェールを隔てた向こう側に、うっすらと、ひとりの女性が垣間見える。
「あなたは……」
『リーファ。新たな龍の姫巫女。お願い。もうこれ以上、彼に罪を背負わせないで』
光の中の女性が、ゆっくりとリーファに手を伸ばした。その指先がリーファの額に、そっと触れる。幻とは思えないほどに指の感触がして、驚きに肩を竦めた瞬間、女性の指先からリーファの中へ光の激流が押し寄せた。
まるで光の渦に溺れてしまいそうだ。触れられた額が熱い。体の中を駆け巡る光はリーファの血を激しく揺り動かし、その奥のもっと深いところにまで手を伸ばしてくる。
『彼を止めて、リーファ』
細胞のひとつひとつにまで染み渡る光の波が、女性に触れられたままの額の一点に集中する。それは彼女が手を離してもなお額に留まり、更に凝縮して、小指の爪ほどの小さな鱗に変化した。
『それができるのは、あなたしかいないの』
洞窟内を照らすやわらかな光が、リーファの手に持つ小さな珠の中に吸い込まれて消えていく。光がすべて吸収されると同時に、リーファの体にはとてつもない疲労感が押し寄せてきた。立つことも、目を開けていることもできず、リーファは糸の切れた人形のように崩れ落ちてしまった。
手から落ちた珠が、リーファの顔の近くに転がる。透明な珠を通して見えた女性の姿が、ゆっくりと棚引くように消えて――代わりにその向こうから、黒い人影が慌てたように走ってくるのが見えた。
ユーシェン、と名を呼んだつもりだったが、声が音になるよりも先にリーファは意識を手放した。
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