龍華国恋綺譚

紫月音湖*竜騎士さま~コミカライズ配信中

第1章 龍の姫巫女

第1話 虹龍の里

 里の春は、まるで桃源郷のようだ。

 いたるところに植えられた花桃の木が一斉に芽吹き、吹き抜ける風にひらひらと花びらを舞わせる様は、修行に疲れたリーファの心を癒やしてくれる。清らかな風と桃の花の香りを胸いっぱいに吸い込んで、リーファはすももの入った袋を掴むと里の裏山を目指して駆け出した。


 ユーシェンのいる場所なら見当がつく。そよぐ葉擦れの音に重なって水のせせらぎが聞こえてくると、リーファは歩く速度を落として前方を窺った。


 深緑の木々が開けた先にあるのは、虹龍こうりゅうの滝だ。岸壁を伝い落ちる水流は天女の羽衣を思わせるやわらかさで、陽光を浴びて水辺に舞う水飛沫がまるで羽衣に施された刺繍のようにきらきらと光り輝いていた。


 ザッと、草を踏む音がする。木々の隙間からそうっと顔を出してのぞくと、思った通りユーシェンが滝の近くで一人稽古をしている姿があった。

 今日は体術の稽古だろうか。構えたかと思うと右拳を前に突き出し、引き戻した勢いで上体を低く屈め、回転を加えながら右足を蹴り上げる。そのまま今度は逆回転で左足を振り上げると、いつの間にか手にしたつるぎを真横に薙いで一直線に斬り裂いた。

 ユーシェンが激しく動くたびに、ほうの黒い裾が翻る。頭の高い位置でひとつに結った長い黒髪は龍のひげのように揺れ、武術の稽古であるというのにまるで美しい演舞を見ているかのようだ。それほどまでにユーシェンの動きは滑らかで無駄がなく、細身であるのに繰り出される一撃は重く、鋭い。少し離れたところで見ているリーファのもとにまで、空気を斬り裂く音が生々しく届くほどだ。


(さすが龍の爪牙そうがに選ばれるだけあるわ。動きのひとつひとつが鋭くて、とても綺麗)


 地面に手をついて、片足で円を描くようにくるりと回る。その衝撃なのかあるいは意図的なのかはわからないが、ユーシェンの足を掠めた小枝が宙に浮く。ユーシェンは地面に手をついたままの状態で腰を捻り、落ちてくる小枝を全体重をかけて蹴り飛ばした。砕けた小枝の破片が行き着く先は、リーファの隠れていた木の幹だ。


「きゃっ!」


 思わず声を上げて身を竦めた拍子に、持っていたすももの入った袋が地面に落ちる。緩い坂をころころと転がっていくすももをひとつ手に取って、ユーシェンが冷めた目つきでリーファを見つめた。


「そんなところで何をしている。今は修行の時間だろう?」

「きゅ、休憩よ、休憩。あんまり根詰めちゃうと逆によくないでしょ。せっかくだからユーシェンも一緒にどうかなって思って」


 そう言いながら木の影から姿を現すと、ユーシェンがあからさまに呆れた顔をして溜息をついた。


「サボってばかりだと、いざという時に体が動かないぞ」

「休憩だって言ってるでしょ!」

「昨日は修行をすっぽかしたと聞いたが?」

「あっ、あれは……その、ちょっと……いろいろあるのよ」


 狭い里だから話はすぐに広まるのだろう。とはいえリーファもただ怠けたいからサボったわけではなく、理由は一応あったのだ。けれどもひたむきに修行するユーシェンの姿を見てしまうと、自分の弱さを突き付けられたような気がして反論はできなかった。


里長さとおさが嘆いていたぞ。娘たちの中では一番素質があるのに、修行に身が入っていないとな」


 リーファをはじめ、虹龍こうりゅうの里に住む今年十七になる娘たちは皆、龍の姫巫女になるための修行を毎日決まった時間に行っている。

 龍の姫巫女とは、この龍華りゅうか国にわざわいをもたらす黒龍を封印できる、唯一の存在だ。姫巫女に選ばれた娘は封印の儀の一環として、龍華国を守護する四龍の加護を得るため里を旅立たねばならない。その旅の護衛として姫巫女に同行するのが龍の爪牙であり、今回爪牙に選ばれたのはリーファの幼馴染みのユーシェンだった。


 彼が爪牙に選ばれたと聞いた時、「やっぱりな」と納得すると同時にリーファはものすごく焦った。ユーシェンが他の娘と旅に出る姿を見たくなくて必死に勉強もしたが、瞑想や祈祷といった静かな修行ではなかなかリーファの能力は上がらなかった。

 そうしているうちに他の娘たちはどんどん精神力を高め、リーファよりも龍の姫巫女に近付いていく。焦りばかりが募り、その不安はリーファを更に姫巫女から遠ざけた。

 昨日の修行をサボったのも、いろいろと考えすぎてしまったので、少し気持ちを切り替えたかったのだ。


「何か悩んでいるのか?」


 ユーシェンが近場の岩に腰掛けたので、休憩自体は拒絶されていないのだろう。リーファもそばに近寄ると彼の隣に腰掛けて、持ってきたすももをのろのろと食べ始めた。


「これでも精一杯がんばってはいるのよ。でもみんなと違って、なかなかうまくいかなくて……。姫巫女の修行も座学ばかりじゃなくて、ユーシェンみたいに武術とか身体を動かすものがあると気が紛れていいんだけど」

「姫巫女を守るのは、龍の爪牙の役目だ。お前にはお前の役割がある」

「それはそうなんだけど……。もし私が姫巫女に選ばれたなら、守られるだけじゃなく一緒に戦いたいし……私もユーシェンを守りたいわ」


 はっきりと告げると、ユーシェンがわずかに目をみはった。けれどそれだけだ。何も言わず、表情もあまり変えないユーシェンが何を思っているのかリーファにはまだわからない。

 距離だけで言えば、リーファは里の娘たちの誰よりもユーシェンに近い立場であるのに、ある時を境に二人の関係は少しずつ形を変えてしまった。


 ユーシェンの両親は、彼が小さい頃に妖魔によって命を奪われている。里の結界に綻びができ、そこから侵入した妖魔によって数名の者が犠牲になったのだ。ユーシェンがリーファの家に引き取られたのは、両親同士が友人だったからだと聞く。

 はじめは塞ぎがちだったユーシェンも次第に心を開いてくれるようになり、リーファも幼心に兄ができたようでうれしかったのを覚えている。その思いが家族に対する愛情と違うものだと知ったのは、リーファが十二歳の時だ。

 十五になったユーシェンが、家を出てひとり暮らしを始めたのだ。ちょうど龍の爪牙としての修行も始めた頃だったので、リーファよりも里の男衆と一緒にいることが多くなった。ずっと当たり前にそばにいたユーシェンが突然いなくなり、リーファの心にはぽっかりと虚しい穴が空いてしまった。


 離れてから、ようやく気付いたのだ。リーファはユーシェンを家族としてではなく、とっくの昔からひとりの男性として見ていたことを。

 それから五年。リーファはずっと、ユーシェンに秘めた恋心を抱いている。


「それを食べたら、もう戻れ。午後の修行に間に合わないだろう」

「バレてたの!?」

「当たり前だ。姫巫女になりたくないのなら、俺はそれでも構わないがな」

「ユーシェンは……誰が姫巫女になってもいいの?」

「誰がなっても、俺のやるべきことは変わらない」

「それが私でも?」


 ユーシェンがひとり暮らしをするようになってから、彼は少しずつリーファと距離を置くようになったと思う。何なら避けられているような感じもするが、姫巫女と爪牙の関係になれば今後はそうもいかないだろう。二人で里を旅発つのなら嫌でも接点は多くなる。それを見越して問えば、案の定ユーシェンは少し言い淀んだあと形の良い唇からわずかに息を漏らした。


「俺は……、っ!? リーファっ!」


 突然腕を掴まれ、リーファはユーシェンの後ろに引き寄せられた。何事かと驚くリーファの前では、ユーシェンが既につるぎを構え戦闘態勢に入っている。彼が警戒する視線の先、先程まで自分たちが座っていた岩の上に青黒い肌の妖魔が立っていた。

 鋭く伸びた爪を持つ腕が岩に深く突き刺さっている。ユーシェンに引き寄せられなければ、あの腕に貫かれていたのはリーファ自身だ。


「妖魔……っ! こんなところまで入り込んでくるなんて」


 周りを見ればいつの間にか数体の妖魔に取り囲まれていた。裾の長い服を着たリーファではどうやってもまともに戦える気がしなかったが、それでも足手まといにはなりたくないと指を絡めて印を組む。右手に取り出した呪符に気を込めて、自身を囲む結界を展開した。


 妖魔は黒龍の吐き出す瘴気から生まれる異形の者だ。人に似た姿の者もいれば、人と獣が入り混じった亜種もいる。そんな妖魔相手にユーシェンは少しも怯むことなく、流れる水の如く滑らかな動きで敵の数を確実に減らしていった。


 この場でリーファができることは、ユーシェンの邪魔にならないように距離を取り、可能であれば妖魔の足止めを狙って術をかけるくらいだ。けれどもリーファの補助など必要ないくらいにユーシェンはあっという間に敵を屠り、最後の一体すら難なくその首を斬り落としてしまった。


「ユーシェン。大丈夫!?」


 すべての妖魔が倒されたのを確認して、リーファは結界を解き、ユーシェンのそばへ駆け寄った。簡単な傷ならばリーファの術で癒やすことができる。退屈な座学がここで役に立つとは何とも皮肉な話だ。


「怪我してない?」

「あぁ、平気だ。妖魔がここまで侵入してくるとは……外は思った以上に黒龍の力が広がっているのかもしれないな」

「里の結界に綻びができているのかも。私、里長様に知らせてくるわ」

「そうしてくれ」


 結界が綻んでいるとしたのなら、いつまた侵入してくるかわからない。新たな妖魔が現れる前に人手を集め、里を守る結界の修復に取りかからねばと、リーファが駆け出したその瞬間。


「ガァァッ!」


 ユーシェンに切り落とされたはずの妖魔の首が、リーファの喉元に喰らい付こうと大きく口を開けたまま飛びかかってきた。


「……っ!?」


 すんでのところで身を捩り、リーファは襲い来る妖魔の首から体を横に逸らした。けれどホッとしたのも束の間、妖魔の首はしぶとく服の裾に噛み付いており、その重さと勢いに引きずられてリーファの体は大きく後ろへと傾いてしまった。その先にあるのは崖だ。


「きゃあっ!」

「リーファっ!」


 咄嗟に伸ばした手をユーシェンに掴まれる。落下することは免れたが、リーファの体は崖に宙吊り状態になってしまった。引き上げるには、ユーシェンの体が前に傾きすぎていて力が入らない。


「ユーシェン……っ」

「大丈夫だ。落ち着いて、足をかけられそうな場所を探せ」

「う、うん……」


 リーファの服に噛み付いた妖魔の首はとっくに消滅していたが、崖下から吹き上げる風に翻った服の振動が、二人を繋ぐ手に余計な負荷をかける。元々間に合ったのもかなりギリギリのところだったので、ユーシェンの方も十分な対応がしきれていないのだ。

 このまま焦らずゆっくりと体勢を整えられれば、何とかよじ登ることができるはず。そう自分を落ち着かせて足を動かした瞬間、再び辺りに重く澱んだ空気が満ち始めた。

 ハッとして見上げた視界。ユーシェンの背後に、いつの間にか新たな妖魔が出現していた。


「ユーシェンっ、うしろ!」


 リーファの絶叫と重なって、奇声を上げた妖魔がユーシェンの背に覆い被さった。鋭い爪をユーシェンの肩にずぶりと突き刺し、飢えた獣のようにその首筋に喰らい付く。短く呻いたユーシェンは苦悶の表情を浮かべるものの、それでもリーファを掴んだ手を決して離そうとはしなかった。


「ユーシェンっ!」


 肉を噛み切り、血を啜るおぞましい音が響き渡る。見開いた視界に飛び散る赤はリーファの頬にも服にも飛び散って、辺り一面に鉄のにおいを振りまいた。


「手を……っ、手を離して! 私なら何とかするからっ」


 必死に訴えかけるも、ユーシェンは答えない。声すら発することができないのだ。それでも更に強く握られた手に、リーファはユーシェンの答えを知った。

 ユーシェンは何があろうとリーファの手を離さない。けれどそれは、彼の死を意味してしまう。


(……だめ。ユーシェンを奪わないで)


 視界に映るすべてが絶望の色に染め上げられていく。苦痛に耐えるユーシェンの顔も、彼の首を噛み切ろうとする妖魔も、噎せ返るほどの濃い血臭も。この状況を好転させる術をリーファは何も持ってはいない。

 十一年前、里が襲われ、ユーシェンの両親が殺されたあの日と同じように、今度はユーシェンが殺されてしまう。


「……いや」


 体は絶望と恐怖に震えているのに、心の奥底が燃えるように熱い。体中を巡る血が大きくうねり、その奥に眠っていた「何か」を強引に引きずり出すような感覚に、リーファの視界が明滅する。

 瞳に映るユーシェンが、の姿と重なり合った瞬間。リーファの中で膨れ上がった熱が、額の一点に集中した。


「だめーーっ!!」


 。切なる思いに応えるように、リーファの額を中心にしてまばゆいばかりの光が炸裂した。


「ガアァッ!」


 リーファの光をまともに食らった妖魔が、一瞬で粉々に吹き飛んだ。妖魔を消し去る光の威力は圧倒的で、周囲に残る瘴気の名残さえ浄化していく。けれどその力はあまりに強すぎて、脆くなった崖の一部が崩壊を始めた。

 低い音を立てて地割れを起こすその先にいるのは、未だリーファの手を掴んで離さないユーシェンだ。このままでは二人とも崖下へ転落してしまう。そう思った瞬間、リーファはほとんど無意識にユーシェンの手を振り払っていた。


「リーファっ!?」

「逃げて、ユーシェン」


 私なら大丈夫だと、微笑んでみせる。根拠などない。けれど体が無意識に動いて、両手で素早く印を組んだ。

 何のための術なのか、印を組んだリーファ自身にもわからない。空中に発動した魔法陣に体を受け止められたかと思うと、リーファはそのまま魔法陣の中に吸い込まれてユーシェンの視界から消え失せてしまった。


「リーファっ!!」


 ユーシェンの声も姿も呑み込んで、崩落の轟音は虹龍の里全体に響き渡っていった。



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