第二章
15 - 出会い
出会いの季節と言えば、春を思い浮かべる。
入学したり進級したりして、今まで会ったことが無い人たちと出会い、話して、友達になっていく時期。あるいは、初めて会った人と恋に落ちる人だっているかもしれない。
でも、春じゃなくても出会う人はいると思う。
私の新しい出会いは、うるさい蝉の声とうだるような暑さがまだ残る一年生の晩夏だった。
夏休みが終わって最初のイベントは席替えだった。くじ引きの結果、私の新しい席は黒板に向かって左の窓際、前から四つ目になった。教室の真ん中とは違い、カーテンが開けられている時は窓から庭園と正門、その向こうにある街の様子まで見渡せる。天気が良い日には清々しいくらいの青空をめいっぱい独り占めできる。私はすぐにこの席を気に入った。
まわりにはあまり喋ったことがない子たちが座っていた。最初は話しかけてみようかと思ったけど、みんなすでにどこかの友達グループに所属していて、休み時間になるたびに各々のグループへとばらけていくので、私は早々に交流を諦めた。そんな私も休み時間はもっぱら千夏たちと固まっていたので、今さら話しかけたり特別仲良くなったりする必要もないかと思っていた。
だから、私の前に座る女の子がはじめて話しかけてきたとき、正直ちょっと驚いた。
「ね、春菜さん」
授業の間の
「教えてほしいところがあって」
明らかに「ユキ先生」に話しかけるときの態度だった。向こうは私のことを知っているらしい。彼女の細い指が、ぱらぱらと数学の教科書をめくり、さっき授業で習ったばかりのページの上をなぞる。彼女の爪は、ラメが入ったピンク色のネイルできらきらと彩られていた。
「さっきの演習の答え、この式からなんでこれが出てくるのかわかんないんだけど」
「あー。そこ、わかりにくいよね」
私も同じところで詰まったので、ノートに答えを導く過程を書き下していた。ノートからそのページを開いて、彼女が見やすいように向きを百八十度回転させる。
「いくつかやり方はあると思うんだけど。一番わかりやすいのはこれかな、先にここの括弧の中を展開する、この時に正負が反転するのに気を付けて、こうなる。あとは普通に解いていったらいい感じ」
「おー、なるほど、天才」
急な誉め言葉に私は顔を上げて、そこで初めて彼女の顔をしっかりと見た。可愛い、と言うよりは、中学生とは思えない垢抜けた顔をしていた。最初見た時は気付かなかったけど、たぶんこの頃から、わずかにメイクをしていたのだと思う。
彼女は私を見て、目を細めた。
「さすがユキ先生。噂通り」
「誰に聞いたの」
「秘密、てかこのクラスの人はみんな知ってるでしょ」
「それもそっか」
入学した時から千夏があちこちで私のことを言いふらしていたし、そうでなくても、私の知らないところで私のことを知られていてもおかしくはない。中学校なんてそんなものだ。
「一度話してみたかったんだー、どんな人なのかなって思ってたの。席替えで前後ろになったから、ラッキーって」
「どんな人って、別に普通の人だと思うけど」
「普通の人は自分のこと普通って言わないんだなー」
ごもっともなことで、何も反論できず私は黙る。そんな私の様子を見た彼女は、なぜかニコニコと嬉しそうにしていた。
「ね、ユキって呼んでいい?」
別に拒否する理由はない。友達はみんな私のことを「ユキ」と呼んでいる。
「じゃあ、
席替えした後のまわりの子たちの名前は一応頭に入れていた。
この子の名前は雪谷秋穂。どんな子かは知らないけど、ぱっと見の雰囲気と話し方で、なんとなくの予想はつく。明るくて楽しいことが好きそうな性格。ちょっとりんに似てるけど、たぶんりんの方がもっと素直で真面目そうな気がする。雪谷さんは不真面目、というわけではないけど、悪戯好きのような、そして私たちよりも人生経験が豊富で垢抜けているような、そんな第一印象だった。
「知ってるんだ、私の名前」
「知ってるよ、だって同じクラスだし」
「えー、同じクラスでも名前知らない人いっぱいいるよー」
さすがにいっぱいはいないでしょ、と思いつつ口をつぐむ。
「あ、ちなみにここも教えてほしくて」
「それ、私も悩んだ。えっと……」
他にも秋穂の質問にいくつか答え終えて、ちょうどいいタイミングで次の授業のチャイムが鳴った。
「ありがと、また教えてね、ユキ」
そう言って、秋穂は手をひらりと振って前に向き直った。
それから秋穂は、授業の間の十分休みのたびに、私のほうを向いて話しかけてくるようになった。ときどき授業のわからなかったことを聞いてくることもあったけど、大抵は雑談だった。
「大西先生ってさー、かっこいいよねえ」
「保健体育の?」
「そうそう! かっこいいでしょ」
「うーん、普通じゃない?」
「えぇー、見る目が無いっ」
「まあ、整った顔はしてると思うけど」
そんな話もすれば。
「ユキって休みの日何してるの?」
「宿題やって、本読んで、あとは……」
「まじめー。インドア派?」
「あんまり出かけたりはしないかな」
そんな話もしたり。
あるいは私が次の授業の予習をしていると、きまって秋穂は「予習? 先生さすがっすねー」とからかってくる。
そうやって何度も話すうちに、なんとなく、授業中も前に座る秋穂の背中を意識するようになっていった。
秋穂は他の子に比べて明らかに浮いていた。ふわふわとカールしたミディアムロングの髪は、ぎりぎり染めていないと言い逃れできそうな珈琲色をしている。スカートも短めで、私のほうを向くたびに細い足の腿がスカートの裾から覗く。夏服になった瞬間、秋穂はクラスで最初に、制服のスカーフを赤くて可愛らしいリボンに変えた。
でも、別に何か問題を起こしているとか、先生や大人に反抗的な態度を取ってるわけじゃない。むしろ授業は真面目に受けているようだし、勉強を教えている時にも、ある程度の基礎は理解している印象があった。
「髪、染めてるの?」
英語の授業が終わった後の休み時間。ふと気になって私が聞くと、秋穂はなぜか得意げに笑った。
「先生にチクる?」
「いや、単なる興味。なんでかなって思って」
「んー」
秋穂が髪の毛を手櫛でとかすようにふわふわと揺らす。そのたびに、シャンプーの花の香りが鼻をくすぐった。りんや千夏たちと一緒に居る時には絶対に感じない香り。髪の色といい、ネイルといい、秋穂は私や他の子たちが持っていないものを持っていた。
「自分が自分らしく思えるから、かなあ。誰かに染まるんじゃなくて、私が私であるっていう証明、みたいな」
急に真面目な、しかもすぐには呑み込めない回答をされて面食らう。
「哲学みたい」
「そのうちわかるよ、ユキも」
まるで無知な私を馬鹿にするかのような言い方に、内心むっとする。
私が秋穂のその言葉を理解することになるのは、もっとずっと後のことだった。
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