三 「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらの婚約者と会うことになったのだが、聞いてほしい

「エイン! おかわりだ!」

 行儀悪く皿を持ち上げて催促するこのストロベリーブロンドに金茶の瞳の偉そうなお子ちゃまが、皆様お待ちかねのアホ殿下である。思ったよりアホっぽい顔ではない。多少タレ目だが中々に整った顔立ちである。猫目のシリアナ嬢と並ぶと途端に絵面が派手になる。そう。金髪に睫毛バシバシで作画コストが高い二人なのである。

 僕の隣に存在感を消して立っている護衛騎士のヒュースを盗み見る。この人も攻略対象なんだよな。騎士然とした男前だ。どちらかというと、暑苦しくない筋肉である。しかし静か過ぎてよく分からない。まだこの人が声を発しているところに遭遇したことがないのだ。

「かしこまりました、ア……アナルアルト殿下」

 うっかりアホ殿下と言いそうになる。アホ殿下アホ殿下言っていたせいだぞどうしてくれる。だからあれほどアホ殿下って言うのやめてって言ったでしょ!

 控えていたエロイアにパンケーキのおかわりをお持ちするよう指示した。アホ殿下を一瞥し、鼻で嗤ってから頭を下げて客室を出て行くエロイアの背中を眺める。王族相手でも態度が変わらない。あの子、ほんと胆が太いな。

「……? うむ。早くな」

 咳払いをした僕を、アナルアルト殿下は怪訝な表情で仰いだ。平静を装って殿下のティーカップへ紅茶を注ぐ。アホ殿下の向かいにはアホ殿下の弟であるシリアナル殿下がちょこんと腰かけている。アホ殿下は十六歳。シリアナル殿下は二つ年下の十四歳というが、実年齢より少し幼い印象だ。正直オシリスキナ公爵家の天使、エロシリダ令息の方がしっかりしている。

「公爵家はスコーンもおいしいですね、兄上」

「シリアナル殿下、次の一杯はミルクティーにしてはいかがでしょうか」

 小さな声でアホ殿下へ話しかけたシリアナル殿下へ微笑みかけると、恥ずかしそうにこくん、と頷いた。この大人しい子が本当に兄弟で毒殺未遂事件を起こすの? マジひろいんどんだけ魅力的なの。ひろいん怖い。シリアナル殿下のことを僕は心の中で小アホ殿下と呼ぶことにした。だってめんどくさい。

 王家ご一行にはオシリスキナ公爵家の力を見せつけるため、帰りはオシリスキナ公爵家の新技術で馬車ごと王都へ一瞬で送り返すと伝えてある。そう、僕が転移魔法を使うのだ。だってアホ殿下には学園が始まる九月ギリギリまでドエロミナに居て欲しいからね!

 ドエロミナへ到着して一日目には、王家ご一行はすっかり公爵家の料理の虜になった。アホ殿下と小アホ殿下は特にデザートがお気に召したようで、何も言わなくてもティータイムには食堂へ現れる。餌付け成功である。

「エイン、ロシィにも! ロシィにもミルクティーをください!」

「エイン! ボクにも! ボクにもだ!」

 王家ご一行より少し早くドエロミナへ帰還していたエロアナル令息も元気に手を上げている。つまりオシリスキナ公爵家勢ぞろいである。

「エインくん、パパにも!」

「わたくしもおかわりをいただこう、エイン君」

「皆様エインはわたくしの! わたくしの従者ですのよ!」

「わしにもぱんけぇきのおかわりを用意してくれたまえ、シリアナ嬢の従者よ」

「わたくし、こちらへ来てから食べ過ぎてしまっているので太るのが怖いですわ、あなた」

 なんでメスアナ王と王妃まで居るの。まぁ賓客扱いだから居るのは仕方ないとしてもさ、なんで当たり前みたいに公爵家に混じって毎回デザートのおかわりを要求してるの。でもエロシリーナ妃の発言で僕はひらめいた。そう。食べ過ぎたら運動すればいいのよ。公爵家の人々がめちゃくちゃ食うのに痩せているのは何故だと思う? そうだね、筋肉だね。全て筋肉のせいだね。

「アフタヌーンティーが済んだら、両殿下は腹ごなしに狩りへお出かけになるのはいかがでしょう? 王妃は陛下と共にプライベートビーチをお楽しみくださいませ。泳ぐのはボディラインを美しく保つための運動として最適と聞き及んでおります。ですが……」

 一呼吸置いて、王妃へ微笑みかける。

「それ以上にお美しくなられては困ってしまいますね」

「まぁ、エインたら」

 まんざらでもなさそうな王妃と対照的に陛下の目が怖い。だが僕は陛下へこっそりと耳打ちする。

「陛下、我がオシリスキナ公爵家では泳ぐことを目的とした衣装『水着』を開発しております。まだ発売前なのですが、特別に王妃への水着を数着ご用意いたしました。ご一緒に選ばれては? ご婦人とは、好みの衣装を愛しい殿方に選んでいただくことを喜ぶものですので」

 「水着とは、非常に官能的なデザインになっておりまして。是非、何の邪魔も入らぬプライベートビーチでお寛ぎくださいませ」囁くとメスアナ王は何ともだらしなく鼻の下を伸ばした。

「むふっ? うむ」

 アナルアルト殿下の母、ドエロイナ妃は出産の際に薨去こうきょされたという。その後、王妃として迎え入れられたのがシリアナル殿下の母、エロシリーナ妃である。アナルアルト殿下とシリアナル殿下は一つしか年が違わない。つまりはそういうことだ。どすけべ王め。

「子供たちが五歳の頃から駆け回っている狩場です。危険はございませんよ、陛下」

 優美に笑みを浮かべたシリネーゼ公爵夫人が告げる。

「ボクも初めて一人で獲物を狩ったのは五歳の頃です。ねぇ、シシィ」

「ええ。わたくしもお兄さまと一緒に幼い頃より慣れ親しんだ森でございますわ、陛下」

「ロシィもこないだ、ようやくひとりでかりをしました!」

 な、なんと! 天使までもが既に脳筋熊の片鱗を覗かせているとは。泣きたい気持ちをぐっと堪える。バレてはいけない。

 オシリスキナ家の子供たちは、十歳になると素手で剣を折る特異体質です陛下。そんな子供たちが幼い頃から駆け回る狩場なんて、一般人からしたら地獄でしかないに決まっている。

 僕は到底発することのできない言葉を飲み込んだ。

「そうか。ではアナルアルトたちは子供らだけで遊ぶがよい。我らは海へ行くとしよう。のう、エロシリーナ」

「はい、陛下」

 そわそわとおかわりを平らげ、メスアナ王と王妃は食堂を出て行った。残ったアホ殿下は何とものん気に「狩りか。得意だぞ!」などとエロシリダ令息へ自慢げに話している。

 よし! メスアナ王と王妃、両殿下を引き離すことに成功したぞ!

 ああ、お可哀想なアホ殿下。この筋肉一族の「狩り」が普通の狩りの訳がないのである。今からそれを魂に刻み込んでいただこう。そう。シリアナ嬢の実力とオシリスキナ家の人々がどれほど規格外なのかをしっかりと脳に刻んでいただくのだ。僕ならこんな恐ろしい一族から嫁を貰わない。申し訳ないがアホ殿下には逃がさず現実を叩き込ませていただく。

「このカウパーはオシリスキナ家の馬の中でも一番、勇猛果敢で自ら獲物へ向かって行くアナルアルト殿下に相応しい馬でございます」

「うむ。エイン、貴様は本当によくできた従者だな」

「お褒めに預かり光栄でございます。シリアナル殿下には、大人しい馬であるこのチクニーを用意しました」

 そう。シリアナル殿下には逃げ足の遅い馬を準備した。逃さない。君たちはこれから、この世のものとは思えぬ恐怖を味わうのだよ。済まないな。

 心の中で謝罪して唇の端を何とか吊り上げた。

「シリアナ、猟犬、猟犬はどこだ!」

「猟犬など必要ありません、己が追い込むのです! オシリスキナ家の人間であれば己が猟犬よりも鋭くあれ!」

「行きますよ、殿下! シシィ! ロシィ!」

「エリィお兄さま、回り込みますわ!」

「頼むぞシシィ! 殿下、胴など狙ってどうします! 狙うのは眉間の間、頭です! 一撃必中です!」

「えええええ?!」

「殿下、殿下、危険ですお下がりください殿下あああああああ! 熊が、熊がああああ!」

 僕、初めて護衛騎士のヒュース卿が喋るのを聞いたよ。大声出せるんだね。

「邪魔ですわ、ヒュース卿! 役に立たないのならばせめて脇へ退いてくださいませっ!」

 シリアナ嬢に槍で脇へ退けられたヒュース卿が白目を剥いている。うん。普通の公爵令嬢は熊に弓で向かって行かないよね。

「ロシィにもできることが何故できないのです殿下! 頭蓋を貫通させなければ、熊は倒れませんわよ! 即死させないと熊が向かってまいりますわ! 手負いの熊を侮ってはいけませんのよ!」

「貫通というか、エロアナルは矢で熊の頭を粉砕しているが?!」

「あの程度、できて当たり前ですよ殿下!」

「ロシィはまだすででくまのくびをねじきれませんが、おおきくなればできるのがふつうですよね! はやくロシィもできるようになりたいです!」

 馬の足音と怒号が飛び交う森の中、シリアナル殿下はすでに顔色が真っ白なまま手綱を離さないようにするのが精いっぱいの様子である。アホ殿下は中々豪胆でどうにかエロアナル令息とシリアナ嬢に付いて行こうとしているが、大分混乱しているようだ。

 だろうね。僕も天使が思ったよりしっかり脳筋一族の血を引き継いでいて泣きそう。

「シシィ、今だ!」

「はい、お兄さま!」

 シリアナ嬢の放った矢が、シリアナル殿下を追いかけていた熊の眉間に命中した。砕け散った熊の頭部が赤とか黒とかピンクとか諸々をまき散らしながら弾け、シリアナル殿下の顔面を真っ赤に染めた。

「んぎゃあああああああ!」

 この世のものとは思えないような声を上げたのち、シリアナル殿下は空を見上げてうっすら笑い出した。

「うふふ。あはははは」

「シ、シリアナル?」

 アホ殿下の声にも反応せず、小さな声で笑い続けている。ああ。あかん。イってしまった。

「すみません。わたくしが早く仕留めなかったがために、シリアナル殿下のお顔を汚してしまって」

 シリアナ嬢。心配するところはそこじゃない。シリアナ嬢が心配しながらシリアナル殿下の顔を拭うも、されるがままだ。しかし、ぼんやりとしていた眼球がシリアナ嬢を捉えた途端、見たこともない速度で震え出した。何だろう、何かに似ている。そう、あれだ。ぴんと張った紐が風でびぃぃんと音を立てて震えるみたいだ。ヒュース卿に至っては、何やらぶつぶつと小声で下草に話しかけている。

 狩場からの帰り道、頭部のない熊を引き摺りながら魂の抜けてしまったアホ殿下へ耳打ちする。

「アナルアルト殿下。幼き頃、エロアナル様と遊ぶ時は常に一緒だった金色の子熊を覚えておられますか」

「……?」

「それ、シリアナ様です」

「――っ、バカな! 子熊が人になるわけないだろう!」

「今日の狩りの様子をご覧になってもまだそう、思われますか」

「……っ」

 そこで黙るなよ。肯定したも同然だろうアホ殿下。アホ殿下は別にものすごくアホなわけではない。ただちょっと自分の感情を隠すのが下手な上に、他人の言葉を素直に受け止め過ぎるだけだ。

「……婚約が決まってからまさか、まさかと何度も疑ってはいたが俺の記憶違いだろうと……ウソだろう? ウソだと言ってくれ……」

「素手で熊の首をねじ切る公爵令息も規格外ですが、男ならばまぁ常識的ではないですが、なくもないかも知れません。しかし……素手で熊の首をねじ切る公爵令嬢ですよ?」

「……そういえば、シリアナは特S級冒険者……」

「お二人の間に生まれるお子様は、おそらくシリアナ様そっくりの子熊でしょうね……」

「ウソだろう?! 俺は熊の親になるのか?!」

 親が熊なのだから子は子熊になるのだよ、アホ殿下。今日は髭を剃っているけれど、アナルジダ公爵は顔がいい熊だものアホ殿下。どこからツッコんだらいいのか僕にはもう分からないよ、アホ殿下。

「私の口からは、お気持ちお察しいたしますとしか申し上げられません……」

 憐みの目を向ける。アホ殿下は顔面に「絶望」の二文字を貼り付け、力なく馬に揺られている。落馬しないのが逆に不思議なくらいである。しかし心を鬼にして、僕はアホ殿下をさらに追い込んだ。

「ご安心なされませ、ア……殿下。これ以上恐ろしいものを見る前に、殿下から婚約を破棄してしまえば良いのです。一生、あの一族と関わる覚悟がおありですか」

「……」

 ふるふると首を横に振るアホ殿下、可哀想。あ、アホ殿下ちょっと涙目じゃんごめんね意地悪言って。でも本当のことだから仕方ない。

「殿下。私は殿下にはお幸せになって欲しいと願っております。殿下には素手で熊の首をねじ切らない普通のご令嬢がお似合いでございます。よろしければ、殿下のために尽力させてください」

「……エイン……お主だけだ、俺の味方は」

 アホ殿下が顔を背けて目元を拭う。嘘は言ってない。嘘は。

「ええ。私は殿下の味方にございます」

 殿下だけの味方だとは言ってないが。ほんとごめん。君の信頼より僕の童貞が大事なんだ。

 シリアナ嬢がおかしいだけで、帝国には普通に刺繍や読書が趣味のラストダンジョンを一人で制覇しない令嬢しか居ない。いいんだよ、アホ殿下。君は敢えてシリアナ嬢やひろいんを選ぶ必要はないんだ。あらかじめリストアップしておいた貴族令嬢の内からお見合いをセッティングするなんて造作もないことさ。これが君のためだ、アホ殿下。僕、君のこと嫌いじゃないよ。

「ドエロミナ滞在期間中に、このエインめが必ずや殿下に相応しいご令嬢を見つけて差し上げます。ご安心くださいませ」

「エイン……シリアナの元で働くのがつらければ、いつでも俺に相談するのだぞ。お前を俺の従者に推挙しよう」

 この子、温室育ちで世間知らずなだけで素直ないい子なんだけどもなー。王太子殿下の従者ってお給料いくらくらいいただけるのだろう。ぐらつく心をぐっと抑える。

「アナルアルト殿下」

「なんだ、エイン」

「正直に申し上げましてシリアナ様にお仕えして私は日々、己の中の女人への幻想が音を立てて崩れ落ちるのを感じております。殿下にはそのような思いをしてほしくないのです……」

 嘘は言ってない。だって僕も普通はご令嬢が貞操を奪えなどと言ってラストダンジョン単独制覇してくるだなんて思ってなかったし、鼻血をまき散らしながら迫ってくるとは思わなかった。

 そう。僕には分かる。これは童貞同士の絆だ。アホ殿下。君もおそらく夢見がちな童貞に違いない、と。そして訴求すべきはここだ! 僕はここに活路を見出す!

「エイン……お前……、苦労……しているのだな……」

「殿下……」

「あえてこう呼ばせてくれ。友よ……!」

 ここに僕とアホ殿下の熱いようで薄っぺらい友情が芽生えた。ごめん、君は僕の童貞を守るための生贄だ。でも僕、君のこと嫌いじゃないよほんとだよ。だから精いっぱいの良縁を君へ運ぶと約束しよう。童貞の繊細な股間に優しい大人しいご令嬢を見つけてあげるから安心おし。できれば僕も、シリアナ嬢のような得体のしれない迫力があるご令嬢に鼻血を垂れ流しながら鼻息荒くのしかかられるのではなく、お淑やかな普通のご令嬢に頬を赤らめて遠巻きに視線を送られてみたかった。君にはそんな恐怖を味わわせないと誓おう。君への友情は薄っぺらいが、君が嫌いじゃないという思いは本物だよ!

「殿下、ロマンチックはお好きですか」

「好きだとも。夢見がちな童貞ゆえに」

「……!」

「友よ!」

 僕らは馬上でがっちりと手を握り合った。夢見がちな童貞同盟ここに締結である。童貞には、童貞同士にしか通じ合えない言葉を越えた感覚があるのだ!

「ロシィ、見てはいけません。変な童貞が感染ってしまうよ」

「でもあにうえ、エインはおかおがてんさいなのです」

「ええ、ロシィ。言っていることはバカらしくかつ童貞くさくとも、エインのお顔は国宝級なのですわ」

 童貞の! 何が悪い! 童貞が! 夢を見てはいけないのか!

 オシリスキナ兄弟をキッと睨み、再びアホ殿下と頷き合う。必ずや、夢見がちな童貞に似合う夢見がちなご令嬢を見つけてみせる。僕の股間の危機を脱するためにも!

「公爵家怖い……公爵家怖い……」

 気遣えないでいたが、小アホ殿下は何やらすっかり怯えた様子で弾いた弓の弦がごとく震えている。これでオシリスキナ公爵家に自ら近づくようなことはないだろう。知らない間に特大のトラウマが植え付けられてしまったようで気の毒である。

 そっと前を行くエロアナル令息へ指でサインを送る。

 目標捕捉。これより僕は単独任務に入る。

 目で頷いたエロアナル令息が、シリアナ嬢へとサインを送る。エロアナル令息の意図を察したシリアナ嬢が、少し馬の速度を下げてアホ殿下と僕へ並んだ。

「アナルアルト殿下。エインをお気に召した様子ですので、バカンスの間は殿下の侍従としてお使いくださいませ。エイン、殿下に誠心誠意お仕えするようにお願いいたしますわね」

「はい、シリアナ様」

 バカンスが終わる頃には、アホ殿下自ら公爵家へ婚約破棄を申し入れさせてみせる。なんせエロアナル令息とリストアップしたご令嬢はすでにプライベートビーチへご招待済み、夢見がちな童貞のこの僕が精査した選りすぐりの夢見る乙女ばかりである。僕には確信があった。

 アホ殿下と僕、多分ご令嬢の趣味が合う!

 熊の首を素手でねじ切るご令嬢ではなく、二人でロマンチックに夜空の星座について語り合うことを喜ぶご令嬢を選びました! 下ネタ叫んで変な鳴き声上げないご令嬢ばかりを選びました! ド変態の精霊王を椅子にしていないご令嬢を選びました! つまりシリアナ嬢以外は皆まともなご令嬢だよ! シリアナ嬢だけが異常だよ! 選び放題ですよ、殿下!

 御者へ馬を預けてアナルアルト殿下へ割り当てられた客室へ同行する。

「狩りで汗をおかきになったでしょう。湯あみなさいますか」

「ああ。そうしよう」

 侍女へ申しつけてアナルアルト殿下の客室を出る。エロシリダ令息の護衛騎士が廊下の先からこちらを見ていた。

「可憐な従者殿が、殿下に売り渡されてしまった……」

 誤解しかしていない。売り渡されてないし! 僕はまだ、誰のものでもないんだからネッ!

 反対側の廊下の奥で待っていたエロアナル令息と短く会話を交わす。

「今現在ドエロミナへ観光にいらっしゃっているご令嬢方の身上書は?」

「ここにある。抜かるなよ、エイン」

「承知しております」

 先日、オシリスキナ一家が飲み物かと言う勢いでゴクゴク食べた対胃袋専用秘密兵器トライフルを準備した。フィストファック商会でドライフルーツの入ったケーキを食べて思い付いたのだ。スポンジケーキやパイ生地、生クリームとカスタードクリームと生のフルーツを何層も重ねたものだ。スポンジ生地はだな、オシリスキナ公爵家の筋肉たちの筋肉をふんだんに使って卵白を極限まで泡立てたらとてもふわふわになったのでそれを使って焼き上げたのだよ。そう、これは僕と筋肉たちのコラボレーションの賜物だ。筋肉は暑苦しいが美味しいものを作るために、筋肉も時には必要だと僕は知ってしまったのだ。

 そのふわふわのスポンジ生地にこれまた僕の気まぐれでバターと卵黄、砂糖や小麦粉を混ぜたものに牛乳を加えて温めたら出来上がったカスタードクリームを重ねたら、素晴らしいスイーツが誕生してしまったのだ。味だけではない。季節の果物の彩りが目も楽しませる美しい仕上がりになっている。オシリスキナ一家に出した時は見た目の美しさにこだわりリキュールグラスに作って出したが、足りないとおかわりされて何度も作る羽目になったので今回はロックグラスを器にした。サワーグラス辺りで作ってプライベートビーチで貴婦人向けに売り出そうかな。それならカクテルグラスじゃなくてなんか専用の器欲しいな。かわいくてキレイなやつ。

 トライフルと命名したのは言わずもがなのシリアナ嬢である。前世で同じ食べ物があったそうだ。

 これで殿下の口も心も軽くなるというもの。美味しいものの前では、人は無防備になるのだっ!

 湯あみを終えてバスローブですっかりくつろぎ、ソファへ凭れたアナルアルト殿下の前へ紅茶とトライフルを置く。皆、気を抜くと殿下の名前を忘れてしまうだろう? 僕がちゃんと時々アホ殿下の正式名称を呼ぶので忘れてはいけないぞ。

「これは……また見目の美しい甘味が出て来たな」

「殿下のお気に召していただけると良いのですが」

「うむ」

 光速でグラスの中を往復する銀の匙。殿下、殿下。無言やめなさいよ。僕を一人にするな。寂しくて泣くぞ。

「おかわりを所望する」

 満足気に背もたれへ体重をかけ、ロックグラスを差し出すアナルアルト殿下へすでに準備させておいたトライフルのおかわりを出す。

「エイン」

「はい」

「ほんと、シリアナの侍従が嫌なら俺のところへ来い。それくらいの交渉はしてやるから」

 ぐぬ。シリアナ嬢よりお給料くれるなら、アホ殿下の侍従になるのもやぶさかではないがそうするとシリアナ嬢が僕の純潔を奪いに来てしまうのでごめん殿下断腸の思いでお断りします。僕は思慮深い上に分別もありなおかつ紳士的な童貞なので、例えシリアナ嬢より強かろうと女性へ手を上げることはできない。例え深刻な貞潔の危機であろうとも、だ!

「殿下」

「うむ」

「シリアナ嬢は強者を求め、私の棲み処までドラゴンの巣があるシリズキーネ山脈を一人で越えるご令嬢でございます。……生半な理由で私を侍従から外すとは思えません」

「……シリズキーネ山脈だぞ? ミナエロイ大陸で唯一、ドライオル・ガズムを主神として崇めていないこのアナルファック帝国が長年戦禍に見舞われずに済んだ最大の理由と言ってもいい、シリズキーネ山脈を? あのいけ好かない神聖メ・スイキ法王直属騎士団、デラエロイケツですら越えられないあのシリズキーネ山脈をか? そんなの、そんなの……っ!」

「断れるわけがございません」

 再び「絶望」と顔に書いたアナルアルト殿下がそれ以上沈み込めないというのに、さらにソファへ体重をかけた。それはアナルアルト殿下の絶望の重さを示している。だよね。普通の公爵令嬢がドラゴンの巣を一人で通過したりしないんだよね。

「私はシリアナ様に逆らえません。しかし殿下。殿下は違います。殿下はまだ間に合う」

 瞳を潤ませ、小刻みに顔を左右へ振りながら、片膝をついてアナルアルト殿下の手を祈りを捧げるような形にそっと両手で包み込む。

「殿下には、私のような思いをして欲しくないのでございます」

「……エイン……! お前と俺の友情だけは本物だ!」

 うん。君への友情「だけ」は本物だよ。それ以外は全部嘘だけども。ごめんね。君にはシリアナ嬢に怯えながら一生過ごすなんて似合わない。アホだけど死ぬほどチョロいけど悪い奴じゃないもん。普通の貴族令嬢を娶って幸せになって欲しい。これは本心だ。

「殿下、シリアナ嬢との婚約を破棄する方策がこのエインめにはございます」

「……な……に……? そんな秘策があるのか?」

「ございます。人は恋に落ちると多少、無理でも押し通したくなるものでございます。また恋が理由の無理は承諾せざるを得ない空気というものが存在するのでございます、殿下」

 んな訳あるか。まともな社会人ならそんな人間とっとと放逐するわい。だが現王ならアホ殿下を擁護しそう。

「うむ」

「恋をなさいませ。清らかな童貞に相応しい、美しくも初々しい恋を。このエイン、必ずや殿下のお眼鏡に適うご令嬢を探し出して参ります」

 アナルアルト殿下の手を包んだ僕の手を今度は寝かせ、手の甲を優しく叩く。そう、赤子の背をあやすようにあくまでも優しく、だ。

「幸せを、殿下ご自身で選んでいただきたいのでございます」

「……~っ、エイン……っ、お前は本当に童貞の繊細な心の機微の痒い所に手が届く……っ!」

 分かるよ! だって僕も夢見がちな童貞だからねっ! 例え他人にお膳立てされたものだろうと、偽りだろうと「自分で選び」たいんだ。王族にそれは許されていないから余計にだろう。しかも与えられた相手が見た目は最高に美しかろうが、幼い頃は熊だった特S級冒険者のドラゴンすら相手にならない公爵令嬢とか怖いよね。僕も怖い。

「というわけで殿下の好みを把握するべく、ここに今現在ドエロミナへ観光にお越しのご令嬢をリストアップしてございます。まずはごゆっくり、トライフルのおかわりを召し上がりながらお選びくださいませ」

「うむ!」

 アホ殿下がアホでよかった。ヒュース卿も身上書が準備されていることに疑問を感じないらしい。ヒュース卿が殿下と同じくらいアホで良かった。もうちょっと知恵があったらこんな準備よくお膳立てされてるのおかしいと思うでしょ、普通。なんだろうな、攻略対象皆チョロいのか。アホ殿下、将来騙されないか僕心配になって来た。これが終わっても時々会いに行ってやることにするか。友達だからな。

「できたぞ、エイン!」

「殿下のお手を煩わせて申し訳ありません。さすが殿下。仕事がお早いですね」

 とりあえず褒め千切っておく。さすがも何も己の未来の嫁候補を選ぶのだから己がやって当然だが、アホ殿下にここで疑念を抱かれては困る。結局アホ殿下はトライフルを三つおかわりした。しかし魔法念写で僕が絵姿を焼きつけ、エロアナル令息がフィストファック商会に頼んで調べさせた身上書を眺めるとアホ殿下のご令嬢の趣味が丸分かりだ。

 つまり大人しそうなリスが如く容姿のご令嬢ばかりで、シリアナ嬢とは真逆である。シリアナ嬢はというと花に例えれば白とかピンクとかうっすらした色ではなく血のように濃い赤の、輪郭も存在感もくっきりはっきりした薔薇といったところだ。アホ殿下の選んだご令嬢たちは皆、雑草……野の花が如く可憐で控えめなご令嬢である。どちらかと言えば何と言うか、ぼんやりふんわり印象がうっすらした感じの。

 とにかくアホ殿下の好みは把握できた。ここからさらに、素敵な出会いを演出し、その中からアホ殿下が「これぞ!」と思ったお相手と夢見がちな恋愛街道を突き進んでいただく所存だ。そしてついでにヒュース卿の好みも把握しておいた。

「ヒュース卿は豊満な女性がお好きなのですね」

「自分は口下手なので、気にせず話をしてくれる方が良いです」

 嘘を吐いてはいけないヒュース卿。君、豊満なご令嬢の身上書をちらちら見ているのを僕は見逃さなかったよ。豊満でぐいぐい来てくれるご令嬢が好み、と。魔王、覚えましたし!

「ふむふむ」

 エロアナル令息と作戦を練ること数日。作戦決行の日がやって来た。いざ、観光地に浮かれて開放的になった貴族で溢れるドエロミナの目抜き通りへ繰り出す。

「活気があっていいな!」

「ええ。このシリエロイ通りはドエロミナ一の観光スポットでございます」

 ところで、だ諸君。ヒュース卿は子爵位を賜っている。しかも殿下の護衛騎士だ。それなりに実入りもいい。下級貴族のご令嬢からすれば中々の優良物件である。そんなヒュース卿の好みに合いそうな豊満なボディを持つ男爵家のご令嬢がたまたま「偶然」路地から飛び出して卿にぶつかり、足を捻挫した。あくまでも偶然だ。断じてオシリスキナ家の暑苦しい筋肉の裏工作などあったりなかったりあったりしない。

「ヒュース卿、殿下の護衛はこのエインめにお任せください。ご令嬢をお屋敷まで送って差し上げてくださいませ」

 帝国最強の女傑であるシリアナ嬢が直接スカウトした僕という侍従を、ドエロミナ城の全員が認めている。何より妹を溺愛しているエロアナル令息がそれを許しているのだから、ヒュース卿も僕の実力に疑問を差し挟むことなく素直に頷いた。

「……そう、ですね……」

「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんわ、騎士様」

「ヒュースとお呼びください、レディ」

「レディなんて。パイズ・リシテ・クレールと申します。貧乏子爵家の行き遅れですのよ。イズとお呼びくださいませ。……年上は、お嫌い?」

 ご令嬢が狩人の表情になった。うん。がんばれ。そのまま奪っておしまいなさいください。既成事実が出来上がってしまったらもう逃げられないのだよ、ヒュース卿。君にもここで戦線から離脱していただく。美味しくいただけれてしまってくれ。パイズ嬢が僕へ向けて密かにサムズアップして見せた。

「ありがとね、オシリスキナの侍従さん。いいモノ持ってるのに気が弱そうで押しが弱そうで口下手とか、超好みよ。うふふ」

 やる気だ。馬車を呼び、ヒュース卿と子爵令嬢を見送る。馬車が動き出した瞬間、「レディ・パイズ?! おやめください、レディ、あっ」と叫ぶ声がした。しばらくガタガタ揺れる馬車を眺めていると、寡黙なヒュース卿の口から出て来たとは思えないほどの甘ったるい低音で「あふぅん」と聞こえて来たが僕は何も聞いていない。聞いていないったら。

 さよならヒュース卿。さすがに童貞ではないだろうが、さして経験がありそうでもないヒュース卿にパイズ令嬢が御せると思えない。陥落すると見ていいだろう。

 さて、お目当てのご令嬢が雑貨店から出て来たようだ。殿下を誘導し、色とりどりのプルメリアが咲く通りを進む。ちょっとご令嬢の足止めをするためにオシリスキナ家の精鋭筋肉たちが通りを走って行った。暑苦しい筋肉に押し留められたご令嬢がこちらへやって来る。ご令嬢の胸から、ブローチが弾かれ前方、つまり殿下の足元へ落ちた。

「拾ってご令嬢へお渡しするのです、殿下」

「う、うん」

 花の舞い散る通りで、暑苦しい筋肉に弾き飛ばされ落ちたブローチを拾って颯爽とご令嬢へ差し出す殿下。

「失礼。レディ、ブローチを落とされたようだ」

「あら、まぁ。ご親切にどうも」

「留め金が壊れているようです。よろしければ、こちらのブローチは修理に出されては? 俺の侍従がご案内します」

「何から何までご親切にしていただいて……わたくし、アナルジワ・ナ・メマクールと申します」

 昨夜、ご令嬢の身上書を見たシリアナ嬢が「そんな所舐めまくらないでいただきたいのですわっ!」と鳴いていたので、おそらくこのご令嬢の名前も下ネタであろうことは想像に難くない。伯爵令嬢である。中立派の令嬢でアホ殿下のお相手として最良ではないが悪くはないと言ったところか。多分、候補に残らなかったのは微妙な立ち位置と野草のように素朴な容姿のせいだろう。だがアホ殿下の好みドストライクである。

「アナルアルト殿下、ブローチの修理が終わるまでの間にご令嬢へ新しいものをプレゼントなさってはいかがでしょう」

 僕がさりげなく殿下の名前を呼ぶと、アナルジワ令嬢は小さく息を飲み非常に可憐な仕草で自分の口を押さえた。そりゃそうだよねー、まさか王子に出会うとは思わないよね。その反応も殿下好みだったらしい。殿下がキメキメでポーズをつけてアナルジワ令嬢へ礼をする。

「うむ。レディ・アナルジワ。あなたに贈り物をさせていただけるだろうか」

「もったいないお言葉でございます、殿下。存じ上げないこととはいえ、失礼をお許しください」

「よいのだ。お忍びゆえかしこまらないでくれ」

 いきなり目の前に現れた王子様に周りの景色が見えなくなったアナルジワ令嬢をさりげなく宝飾店へ誘導する。アホ殿下にうっとり見惚れている間に二人は宝飾店の中、というわけだ。

「このトパーズなどはどうだろうか」

 うんうん。ここまでは順調に予習通り進んでいる。オレンジがかったトパーズはアホ殿下の瞳の色だ。アナルジワ嬢が鈍感だとしても、周囲の人間が指摘してくれるだろう。己の瞳の色の宝石を贈るのは恋人同士でよく行われることだ。

「わたくしなどに恐れ多いことでございます、殿下……」

「よい。受け取ってもらえぬか」

「殿下、修理にもう少々お時間がかかるようでございます。近くにティールームがございますので、そちらでしばしお休みになられては?」

「うむ。行こう、レディ・アナルジワ。俺のことは殿下ではなくアルトと呼んでくれ」

「そんな! 尊きお方をそのように……」

「俺が許すと言っているのだ。さぁ」

「それではわたくしのことは、アニーとお呼びくださいませ……あの、……アルト……様……」

 いいよ、いいよぉ! その調子! かなりいい雰囲気なんじゃない? がんばってアホ殿下! 昨夜伝授したように、押して引いてを繰り返してアホ殿下!

「そこで手を握り締めるべきですわ、アホ殿下。ああもどかしいこれだから童貞は!」

「――っ!」

 何してんのシリアナ嬢、どうしてここに居るのシリアナ嬢! あと僕のお尻をさり気なく撫で回すのをやめたまえよシリアナ嬢! 絶句する僕の様子など一向に気にせずシリアナ嬢は背中へぴったりと張り付き僕の愛らしくもきゅっと絞まったかわいい小尻を撫で回しつつ、耳元で指示する。

「カフェの後は川沿いを散歩してゴンドラに乗って水上市場で花を買うのです。さぁ、参りますわよエイン」

 シリアナ嬢の後ろにはエロアナル令息も控えていた。

「さぁ、行くぞエイン。何をぼうっとしている! 今日中に海沿いの絶景ポイントでキスくらいまで進んでもらわないと!」

「明日は旧オシリアナ神殿の遺跡でデートですわよ! アホ殿下が一見アホそうに見えて実は知的なところを見せつけるのですわ!」

「さすがボクのかわいいシシィ! ギャップ萌えというヤツだな!」

「親密になったところで王室専用プライベートビーチで素肌の触れ合いを増やすのです。会うたびに花束を用意することを忘れないように指示するのですよ、エイン」

「……」

 もうやだこの人たち。ノリノリじゃん。何でそんなに楽しそうなの。あとシリアナ嬢は僕のかわいい臀部からいい加減手を離したまえ!

 アホ殿下とアナルジワ令嬢は実によい雰囲気で会話も弾んだようで何よりである。ドエロミナ城の客室に戻ってから、僕を呼びつけてどれほどアナルジワ令嬢が控えめで可憐でかわいらしかったかを語ったアホ殿下の伸びまくった鼻の下を見れば分かる。僕は次の日からエロアナル令息とシリアナ嬢の指示通りにアホ殿下とアナルジワ令嬢の密会を支援しまくり、シリアナ嬢に尻を撫でまくられたのであった。少し減ったかもしれない。僕のかわいいお尻のほっぺ。

 その全てはもちろん、オシリスキナ家公認である。公爵家公認で僕のお尻を撫でるな。精神的苦痛の慰謝料を請求するぞ。それくらいぽんと払いそうだから困る、この公爵家の人たち。

「アニー、君の瞳と同じ色のアメシストだよ」

 普通、アメシストと言えば深い紫色だよね。もちろん、紫色が濃ければ濃いほど、深ければ深いほど価値は高い。さらに濃い紫の中でも黒に近いインクルージョンが見られる石は特に価値が高い。とはいえドインラン連峰のメ・スイキ法王領側で多く産出されるのでこの世界ではどこにでも流通している一番安価な宝石と言えよう。メ・スイキ法王領は光の神、ドライオル・ガズムを信奉している宗教国家であるため利益目的の採掘はしておらず、救済措置として受け入れた難民にアメシストの採掘を一切任せているのだ。逆に、難民以外はアメシストの採掘を禁止されている。そのため、メ・スイキ法王領のお土産として定番の、安い上に慈善活動にもなる貴族ならばいくつも持っていて当たり前の一石二鳥な宝石なのだ。しかもアナルジワ令嬢の瞳と同じ色の宝石を探したら、一番安いアメシストの中でもぼんやりとした薄紫色しかなかったんだ。つまり色が薄いから安価なアメシストの中でも最も安い宝石というわけだ。そんなところも雑草……野の花っぽい外見のアナルジワ令嬢らしい。

「まぁアルト様。嬉しゅうございますわ。わたくし、この身に余る光栄に返すお礼がございませんわ……」

「礼などいいのだ、アニー。どうせ安い宝石だ。次はもっと貴重な宝石を探すとしよう」

 わぁ、共感性羞恥ハンパないぞアホ殿下! 贈った宝石が安いとか本人目の前にして言っちゃうところが童貞たるゆえんなんだぞ、アホ殿下! そういう無神経なところが令嬢に嫌われるんだぞ、アホ殿下! 童貞がやらかしがちな無神経も、他人がやらかしているとよく分かるものだな。僕も気を付けよう。

「それではこの、アルト様を想って刺繍したハンカチなどお礼にちょうど良うございますわね」

 おいアホ殿下。軽くディスられているぞアホ殿下。この令嬢、うすぼんやりした顔をしているが中々イイ性格をしているな。つまり「安い宝石にはこの安い手作りハンカチの謝礼がお似合いですわね」と言ったところか。アナルジワ令嬢の嫌味を理解できず、アホ殿下が嬉しそうに笑う。

「何を言う、アニー。それこそ君が俺への想いを込めた刺繍に見合う宝石などあるはずもない」

 アホ殿下が素直で良かった。アナルジワ令嬢も内心が全く見えないうすぼんやりした笑みを浮かべて口元を扇子で隠す。

「まぁ。下手の横好きでお恥ずかしいですわ」

「アニーが手ずから刺繍をしてくれたことが大事なのだ。大切にする」

「……光栄ですわ」

 ほんと、いい子なんだよなアホ殿下。疑うことを知らない君のこと、僕は嫌いじゃない。だが僕は僕の貞操が大事なんだごめんねアホ殿下。

「ですがアルト様。会うたびに宝石を贈っていただいては、わたくしお礼の返しようがございませんわ」

「よいのだ、アニー。微笑みの裏に軽い侮蔑を覗かせて見つめてくれればそれでよいのだ。さらに贅沢を言うならば、優しく踏んでくれればそれだけで十分だ」

 やだこの子、突然何を言い出したの。どうしたの。癖が極まってる怖い。

「そんな……! 尊き帝国の次代の太陽を踏み付けるだなんて恐れ多いにもほどがありますわ……!」

「よいのだ、よいのだ、アニー! これこの通り、優しく踏んでくれんふぅぅぅぅ!」

「恐れ多いですわ……! こうですか?」

「んおほおおおおお、そうだ、そこだアニー! もっと優しく、しかし時に容赦なく踏んでくんふうううううう!」

「ここですか、アルト様? ここですのね、アルト様!」

「そうだ、そこだ! もっと右も踏んでくれへっへぇいいい!」

 恐れ多いとか言いながら踏んでる。踏んでるねアナルジワ令嬢。容赦なく仰向けに寝転がったアホ殿下の柔らかい腹部へつま先がかなりめり込んでいるね。この国には変態しかいねぇのか! 気が狂いそうだよ僕は! やだもうこの国。やだもう貴族令嬢怖い。アホ殿下とアナルジワ令嬢が逢瀬を重ねるたび、この光景を見せられるわけである。僕の胃が変調を来たすのが先か、アホ殿下が婚約破棄をするのが先か。できれば後者であれ。

 ぐったりと疲れ切ってドエロミナ城に帰りつく。アホ殿下は応接室でソファにどっかりと座り、満足気に目を閉じた。

「はぁ……アニーがかわいらしくて世界が尊い」

「よろしゅうございました、アナルアルト殿下」

「兄上、少し疑った方がいいのでは? なんだか上手く行きすぎておかしいと僕は思います」

 ぬ? 兄がアホな割に弟は鋭い。賢いではないかシリアナル殿下。弟ですら疑う状況を疑わぬとはさすがアホ殿下。アホである。やりやすい。嫌いじゃない。

「……失礼ながら、シリアナル殿下。少々、わたくしの意見を申し上げてもよろしいですか」

 僕は恭しく胸へ手を当て、シリアナル殿下へ頭を垂れた。

「うん?」

「恋というものは、理性でできるものではありません。ましてや殿下は童貞」

「ど、童貞がなんだというのだ?」

 当然ながらシリアナル殿下も童貞である。僕も童貞だからよく分かる。童貞は童貞という単語に敏感なのだ。

「『童貞』と書いて『惚れやすい』と読み、『惚れやすい』と書いて『童貞』と読むのです! 童貞のチョロさを舐めないで欲しいものでございます!」

「そうだぞ、夢見がちな童貞の騙されやすさを舐めるなよ!」

「さらに殿下の場合温室育ちゆえチョロさ倍増でございますよ! 見くびってはいけません!」

「その通りだ、我が心の友エインよ! 俺たち二人、清く正しい童貞を貫こうではないか! ……だが俺が先に童貞を卒業してしまいそうだ。その時も、俺たちの友情に変わりはないと誓ってくれるな? エイン」

「もちろんでございます、殿下」

 友情に、偽りはない。友情には、ね。

 見つめ合い、力強く頷いて硬く手を握り締める。そう。僕らは心の友だ。童貞同士と書いて「親友」と読む。こんなに気の合う童貞初めて。でもごめん、僕は君を僕の純潔のために元子熊令嬢に売り渡す。だって自分の身がかわいいんだもん。

「チョロくて騙されやすくてはいけないのではありませんか、兄上!」

「だがそれがイイ! イイのだ、シリアナルよ! お前にはまだこの良さが分かるまい。清純そうなご令嬢ですら、チョロい童貞を手のひらで転がすことを知っていると察知した瞬間の得も言われぬ興奮! どこまでもチョロくなって令嬢の手のひらで転がされたい! ソフトに時にハードに……戸惑い躊躇いながら、しかし時に困惑に満ち、そして侮蔑を含んだ視線で踏まれたい!」

「あ、あにうえ……」

 なんかよく分からない性的嗜好に目覚めたっぽいアホ殿下怖い。常軌を逸した兄の姿に怯えるシリアナル殿下にほんの僅か罪悪感が芽生えたが、シリアナ嬢が興奮して鼻血を噴射している姿を思い出し心を鬼にする。

「つまり、それくらい普段の理性を欠いてこその恋愛と言えるのでございます。シリアナル殿下」

「れ、恋愛怖い……」

「ええ。げに恋とは怖ろしいものでございます……」

 ここはシリアナル殿下にえげつないくらいトラウマを植え付けておこう。シリアナル殿下も、ひろいんと恋に落ちるかもしれない危険性は残っている。

 僕はアナルアルト殿下にはアナルジワ令嬢との逢瀬を演出し、シリアナル殿下にはご令嬢の裏の顔を見せるべく、冷たい腹の探り合いをしているカフェなどに連れて行き恐怖を刻み込んだ。しかし一番効いたのは、アナルジワ令嬢に踏まれて恍惚の笑みを浮かべるアホ殿下の姿を見せたことである。

「あにうえ……令嬢怖い、令嬢怖い。もう令嬢なんて信じない」

 すっかり女性不不信になったシリアナル殿下に、特に性格がよく優しく穏やかな良家の令息と交流させた。次男や三男、跡取りにはならない令息ばかりで、後継ぎではないので金もない。そこが狙い目だ。シリアナ嬢の前世世界で行われていたラクロスやテニスという球技を広めて欲しいと、潤沢な公爵家の資金に物を言わせて雇ったご令息たちだ。

「殿下、ご尊顔を拝謁できて光栄です」

「堅苦しいのはやめてよ、シリアナルでいいよ」

「でも……」

「君の名前を、教えてくれる?」

「はい。ビンカン・サキバシリーの三男、ガマンジル・サキバシリーと申します」

「よろしくね、ガマンジル」

 シリアナル殿下は人懐こいガマンジル令息と打ち解けたらしい。ガマンジル令息は愛嬌がありよく気の付く、社交的な性格の好青年だ。三日もすれば、僕が案内せずとも一人でスポーツクラブへ出かけるようになった。大変楽である。なのでアホ殿下にかかりきりの僕は気が付かなかった。

 シリアナル殿下が、毎日スポーツクラブへ入り浸るようになったこと。そしてその理由に。

「オシリスキナ公爵はゆくゆくはラクロスやテニスのトーナメント大会を開いて、優勝者に賞金を出すという形式にしたいらしい」

「へぇ、そうなんだ」

「さすがオシリスキナ公爵だよ。予選から観戦できるようにして席を売り出すんだそうだ」

「じゃあ、優勝者の賞金もそこから?」

「何でも上流貴族向けに優勝者を予測する賭けも行うらしい」

「抜け目ないな」

「いずれは王都でも試合を行う予定だそうだよ。君もやってみないか、シリアナル」

「ガマンジル……。君が、教えてくれるなら……」

「こっちに来て。まず、ラケットの握り方から。こうして……そう。さすがだな、覚えが早いよ、シリアナル」

 ガマンジル令息、距離が近いなぁ。シリアナル殿下に対しても屈託がないというか。そんなガマンジル令息を、シリアナル殿下も気に入ったらしい。

「ナルと呼んでくれ」

「じゃあオレのことも、ジルと」

 似た立場のもの同士。王族としてではなく、同じ境遇の優しい同性に囲まれるという初めての経験。程よい運動、育まれる絆。体を動かした後の湯あみという裸の交流。僕の知らぬところで、いつしか友情が育まれていたらしい。

「エイン、僕は明日からジル……、サキバシリー邸で過ごすことにするよ」

「サキバシリー……。ガマンジル・サキバシリー伯爵令息の別邸でございますか?」

 仕込んだ令息の中でも一番穏やかで優しく、そしてマッチョな伯爵家の三男坊の日に焼けた人の好さそうな顔を思い浮かべる。サキバシリー伯爵家は代々、オシリスキナ公爵家に仕えている騎士の家系だ。そう。穏やかで優しいが、暑苦しい筋肉である。そういえば仲良くなったみたいだったな。

 押しこまれた廊下の奥から、食堂へ続く廊下が見える。廊下の先に、公爵令嬢がしてはいけない類いの笑みで柱に貼り付くシリアナ嬢が僕からは見える。あれが見えない位置で良かったね、シリアナル殿下。あれを見たら女性不信が悪化すると思う。僕は心を無にして廊下の先へ向けた目を鈍らせた。魔王、何も見てない。

「う、うん。あの、ジルに招待されていて……その……どうしても、パパたちに内緒で数日宿泊したいんだ……エイン、どうにかできないか……?」

「宿泊、でございますか」

「う、うん……」

 何やらもじもじしているシリアナル殿下を前に首を傾げる。まだ何かあるのだろうか。

「あの、ちょっと聞きたいことがあって」

「はい」

「お、男同士って……その、どうやって、す、スルか知っているかな……」

「!」

 ピンときました、僕は勘がいいんだ! 普通の童貞ならば気づけないことも僕は気づける。童貞も二千年越えるとデキる童貞、ハイパー童貞になるのだよ! つまりそういうことだな、シリアナル殿下。友情を越えた感情が芽生えてしまったのだな、シリアナル殿下。予定していたことではなかったが、僕は応援しているよシリアナル殿下。

「それはサキバシリー伯爵令息も承知のことでございましょうか」

「……う、うん……」

 俯いたシリアナル殿下の赤く染まった項越しに、シリアナ嬢が僕へ目で合図を送って来る。「受けか攻めか確かめろ」。受けとは何だ。攻めとは何だ。知りたくない。知りたくないが、今ここで聞かなければ僕がなにがしかの聞きたくもない話を後ほど聞かされる羽目になるのは必然である。僕は僕の身がかわいい。ごめんね、シリアナル殿下。心を鬼にして口を開く。

「ではわたくしめがサキバシリー伯爵令息への指南役を手配いたしましょう。もちろん、殿下にも手ほどきしてくれる人物を用意いたします。差し出がましいようですが殿下」

「うん?」

「殿下はどちら側を想定していらっしゃいますでしょうか。それによって準備する人物が変わりますので」

 興奮のあまり大理石の柱に指を食い込ませたシリアナ嬢の手元から、パラパラと割れた石の粉が廊下へ落ちるのを心を無風状態にして眺める。僕の心は凪いでいる。あんな変態令嬢、僕は見ていないし知り合いでもない。

「あ……う……ぼ、ぼくが……かわいがる側です……」

「それでは分かりかねますね。アナルアルト殿下のように、女性に踏まれてかわいがられるのが癖の方もおられますので……」

 いいぞ! もっとやれ! 仰け反って握り締めた拳を上下に振りまくるシリアナ嬢を僕は死んだ魚の目で見つめた。

「ぼ、僕が! ジルを抱く側です!」

 意外だシリアナル殿下。あの暑苦しい筋肉をこの細身な殿下が組み敷く、だと……? まぁ他人の癖に興味はない。興味はないが、今僕の目の前にある光景がすごく精神を攻撃してくる泣きたい。

 シリアナ嬢が、ニチャアと粘膜質な音が聞こえて来そうな満面の笑みを浮かべたのが見える。多分、近くに居たのならば「ぐえっへっへ」と貴族令嬢にあるまじきおぞましい笑い声も聞こえただろう。

 僕はサキバシリー伯爵家の別邸へシリアナル殿下が宿泊する準備を整え、その後も誰にも邪魔されない静かな個室(ベッド付)を二人に提供し続けた。たまに健全なデートもしていたようだが、箍の外れた童貞怖い。そりゃもう獣のように毎日げほんごほん。

 「あっ、あっ、お尻だいすきぃぃぃぃ!」ってガマンジル令息の野太いのに甲高い声が毎回響き渡ってたからもうあのほんとに童貞には刺激が強すぎる。童貞以外は帰ってくれないか。シリアナル殿下はもう、童貞仲間ではなくなってしまったんだな。童貞、複雑な気持ち。

 兄のアホ殿下は毎日のようにアナルジワ令嬢に踏まれ悦び、弟の小アホ殿下はガマンジル令息と励みまくり、僕は二人をサポートし続けた。

 もちろん、その全ての場所において僕の名前を出しオシリスキナ公爵家へのツケ払いにして。

 というわけで今、アナルジダ公爵の前でメスアナ王が大量の脂汗を垂れ流している。

「メッシィ。ぼくとメッシィの仲だから、特別に内々で処理してあげるって言ってるんだよ? 分かるよね」

「……ぐぬぅ、はい……」

 冷や汗を文字通り滝のように流し続けるメスアナ王へ、紅茶とマカロンを差し出す。薄桃と緑のころんと丸いフォルムを愛でる暇もないのだろう。拭っても拭っても源泉かけ流しの冷や汗がオシリスキナ公爵家の絨毯へ染みを作る。

「うちとしてもさ、さすがにこうも遠慮なく我が家の名前で浮気相手と豪遊されちゃ見過ごすわけには行かないわけ。しかも殿下が過ごしやすいようにとの配慮で付けたシリアナの侍従を連れて。分かる?」

「う、うむ。愚息が申し訳ない……」

「いいよ」

「いいのか、ジッド!」

「シリアナとの婚約を解消してくれたら、この件には目を瞑るよ。いいよね?」

「そ、それは……!」

「大体さぁ、ぼくは殿下との婚約には反対だったけど、メッシィがどうしてもって土下座するから渋々了承したんだったよね?」

「……はい」

「我が家は変わらず王族派ではあるけれど、アナルアルト殿下個人への支援は打ち切らせていただくよ。当たり前だよね?」

 プライベートビーチお披露目と同時にエロアナル令息と貴族派筆頭であるメシャブリ子爵家の令嬢、ソクシャ・クマラナ・メシャブリとの婚約が発表された今、簡単に頷ける話ではない。分かるよ。退路が断たれたこの状況。僕が提案したとは言え、メスアナ王の心中を察すると胃が痛くなる。

 貴族派筆頭家門メシャブリ伯爵の令嬢を娶る、王族派筆頭家門オシリスキナ公爵の次期当主。しかもアホ息子がやらかしたお陰でシリアナ嬢との婚約が消し飛びそう。オシリスキナ公爵家に不利なことをしようものなら、いつでも貴族派と手を組むぞ。そういう脅しである。下手なことができない。

「うぐ……っ」

「不満ならそれで構わないんだよ。でもこんなことしでかしてまだ婚約を継続したいんだったら、それ相応の誠意というものを示さないといけないよね? メッシィ」

「もちろんだ!」

 藁にも縋るって気持ちなんだろうな。王の威厳など微塵もない様子で、メスアナ王はアナルジダ公爵の腕を掴んだ。

「今までうちがシリアナの婚約者だからという理由でアナルアルト殿下へ融通してきた資金、全額返済してくれるなら考えてもいいよ」

 できるわけがないのである。少なくともシリアナ嬢が十歳の頃にはすでに決まっていた婚約、年間国家予算の二割に匹敵する金額を結婚支度金という名目で支払って来たという。それを五年。返せと言われて、はいそうですかと捻出できるほど国家予算というのは甘くない。黙り込んで再び冷たい汗を流し始めたメスアナ王へ、アナルジダ公爵が鷹揚に問いかける。

「婚約、破棄でいいよね? メッシィ」

「シ、シリアナ嬢をシリアナルの婚約者にするというのはどうだろう……!」

「中立派の中でも貴族派寄りの偏屈で有名なテガ・ムチャエ・ロイ公爵に頼み込んでロイ公爵の愛娘であるナキボ・クロエ・ロイ令嬢をシリアナル殿下の婚約者にしたのにかい? そんなことしたら激怒したロイ公爵は完全に貴族派になってしまうんじゃないかな。別にぼくは構わないけど、責任はメッシィが取るんだよね?」

 メスアナ王、無能ではないんだよな。ちゃんと打つべき手は打ってる辺り。でも計画が狂った時のことまでは考えてなかったらしい。メスアナ王が有能なんじゃなくて、部下が有能なのかもな。

「あとねぇ、シリアナル殿下の恋人知ってる? ガマンジル・サキバシリー伯爵令息。後戻りできないほどの仲みたいよ? ぼくはそういうの偏見ないけど、ロイ公爵が知ったら婚約は破談だろうねぇ……」

「令息? れいそく……?」

「うん。シリアナル殿下、もうすっかり惚れこんじゃってるみたいだよ? あの子、女の子と子供を成せると思えないけどなぁ」

「れいそく……」

 アナルジダ公爵の遠回しな物言いでもメスアナ王は多くを察したようだ。人ってあんなにゆっくりな動きで膝から崩れ落ちるんだね。汗が止まったみたいで良かったね、メスアナ王。メスアナ王は、公爵家の天井を仰いで長い間動かなかった。

「じゃあ、うちのシリアナとアナルアルト殿下の婚約は破棄でいいよね? あと、殿下との婚約を理由に王室への輸入品の関税を免除していたのを撤廃するから」

 すっかり魂が抜けて真っ白になったメスアナ王には、力なく頷く以外にできることはなかっただろう。

 王族一家がプライベートビーチを満喫して王都に帰った直後、ひっそりとアナルアルト殿下とシリアナ嬢の婚約解消と、新たにアナルジワ・ナ・メマクール伯爵令嬢との婚約が結ばれたことが伝えられた。それから、サキバシリー伯爵家の三男がシリアナル殿下の専属侍従になったという話を小耳に挟んだ。荊の道だろうけど、彼らの幸せを願って止まない。

「さすがだよ、エイン。いい仕事をしたね!」

「さすがですわエイン! 全てが万事、計画通りですわね!」

「アホ殿下の護衛騎士も子爵令嬢との結婚が決まったそうだよ」

 アナルジダ公爵が満面の笑みでカスタアドプディングを頬張る。一足飛びに結婚とは。やっちまったんだな、パイズ嬢。やられちまったんだな、ヒュース卿。

「お相手のお名前はなんとおっしゃったかしら、エイン」

「パイズ・リシテ・クレール子爵令嬢だ」

「まだ見ぬヒロインよりパイズリしてくれるご令嬢が……まさったのですわね……ヒュース卿……。寡黙だけれども穏やかで優しいという設定だったのに、おっぱいに弱いだなんて意外ですわ……」

 性格と性的嗜好は別だぞシリアナ嬢。ヒュース卿がおっぱいに弱いんじゃなくてヒュース卿のおっぱいが弱いのかもしれないじゃないかシリアナ嬢。いつも通りにシリアナ嬢が何か呟いているが、無視をする。

「これで事実上、現時点で何の障害もなくひろいんと出会って恋愛に発展する攻略対象はオシリエ卿のみだ」

「そうですわ、ロイ先生はどうなっていますの?」

「キリーとイヴォが頑張ってくれているようだよ」

 フィストファック商会のシリイタイ伯爵令息兄弟か。そばかすが印象的な赤毛レディシュの兄弟を思い浮かべる。

「頑張ってくれている、とは?」

 エロアナル令息に尋ねる。エロアナル令息は腹黒さを内に秘め切れず、黒さがダダ漏れた爽やかな笑みで答えた。

「ボクとイヴォはただ、勉強のことで悩んでいた後輩に卒業生として学園の教師を紹介しただけだよ。それに元々はエインの考えた作戦だ」

 ああ、僕のお願いにシリイタイ卿とイヴォヂ卿だけではなく、エロアナル令息も加わり後押ししていたのか。

「なるほど、ヒロインは平民から突然子爵令嬢として引き取られたのですものね。入学までに準備が必要なのですわ。さすがエイン目の付け所が違いますのね」

 優美な仕草で紅茶を飲みながら、シリアナ嬢が微笑む。こういう姿だけを見れば間違いなく公爵令嬢らしいのだけれども。

「ああ。だから学園の勉強に付いて行けないかもしれない、と悩んでいるミコス嬢に声をかけて、ロイ先生と引き合わせるよう依頼したんだ。二人が勉強する場所も提供してもらうように、ね」

「フィストファック商会に依頼して、と言うわけだね? エイン君」

 シリネーゼ公爵夫人が四つ目のカスタァドブディングを飲み干した。

「そう。キリーとイヴォは親切な先輩というわけさ。この一ヵ月疑いもせず二人きりで勉強をしてすっかり気の緩んだ今こそ、作戦決行のよい時期だと思わないか?」

「エリィお兄さま、作戦とは?」

「ロイ先生の飲み物に媚薬を盛るのさ」

「さすがお兄さまですわ!」

「もっと褒めていいよ、シシィ」

 おいいいいいいいいいいいいいこの公爵令息おいいいいいいいいいいいいい!

 僕そこまでのことはシリイタイ卿に指示してないよ! さらっと笑顔で抜かしてんじゃねぇぞ、媚薬を盛って二人きりの部屋ってそんなお膳立てして淫行教師が我慢するわけないでしょうが! 天才か! だが人としてはいかがなものか! 僕もヒュース卿に同じ手を使おうとしたので人のことは言えないが! だって他人の貞潔より自分の股間の平和が大事なんだもん!

「そしてつい先日、ロイ先生に媚薬を盛った後ミコス嬢が何やら服が乱れた状態で部屋から出て来たと報告があったばかりだよ」

「それはよい知らせだね。だが駄目押しでもう二、三回はその淫行教師に媚薬を盛った方がいいんじゃないかな」

「はい、父上。すでにそのように指示をしましたが、先日は媚薬を盛っていないのにミコス嬢のあられもない声が聞こえたとのことですよ」

「それは良かったねぇ」

 あっはっはっは。アナルジダ公爵の朗らかな笑い声がティールームに谺するが、話の内容は最低である。やだこの公爵家の人たち怖い。

 これでもし、奇跡的にアホ殿下や小アホ殿下がひろいんとやらに出会って恋に落ちたとしてキレヂ令息とイヴォヂ令息が証言してしまえばおしまいである。親切に二人きりの部屋を提供してくれたシリイタイ伯爵令息兄弟の証言であれば、ひろいんもオシリエ卿も嘘だとは強く言えまい。だって事実だし。

「ミコス令嬢は、オシリエ卿とただならぬ仲である」

 さすがに王太子殿下の婚約者になる令嬢が他の男に純潔を捧げた後ってのはマズいもんね。良くて側室、悪くて愛妾止まりだろう。王太子妃にはなれない。

 アナルファック帝国は英雄王の血筋であることを王族の正当性として治めて来た国だ。ゆえに本当に王太子殿下の子供かどうか疑わしい子を生みかねない王太子妃なんて、据えられるわけがない。僕なら据えない。さらにシリアナル殿下とサキバシリー伯爵令息の関係がああなってしまった今、そんないつ爆発するか分からない爆弾みたいな令嬢を妾にも迎えられるわけがない。僕が家臣なら確実に止める。

 あとはミコス令嬢が学園に入学し、三年後の洗礼式で聖女ではないと判定されれば一安心である。

「さて。残りの三年、僕はどうしたらいいと思う?」

「お好きにお過ごしになってよろしいと思いますわ!」

 笑顔でシリアナ嬢が答える。いいのか。好きにしちゃうぞ。だってオシリスキナ家のお賃金大好き! 仕方ないな、とりあえず三年間は見守る約束だしな!

「……まぁ、シリアナ嬢が無事に過ごせると確信できるまでは見届けるとしよう」

「良かったですわ、よろしくお願いいたしますわね、陛下!」

 あ、シリアナ嬢今さらっと陛下って言ったな。ダメだろうそこ最後まで気を抜いちゃダメなとこだろう。だが気づいているのかいないのか、公爵家の人たちは笑顔で空になった皿を持ち上げた。

「良かったね、エインくん! さっそくこのカスタアドプディングとやらをおかわりだよ、そしておかわりだよ!」

「エイン君、このまま我が家の執事補佐として就職しないか? そしてわたくしもプディングのおかわりを所望する」

「おねいちゃま、エインはずうっとロシィたちのおうちにいてくれるということですか?」

「どうでしょう。三年はここに居てくださいますわよ、ロシィ」

「ちょっと離れている間にロシィまでエイン大好きになっていてボクは嫉妬で目から魔法が放てそうだよ憎いボクにもおかわりをおくれ」

「……皆様、プディングは飲み物ではございません」

 そう、僕は砂糖を少し焦がすという暴挙に出て、この苦味と香ばしさと甘味のマリアージュに辿り着いてしまったのだ。だからその焦がした砂糖を存分に使ってスイーツを作って行く。シリアナ嬢が命名した、キャラメルソースというものである。しかしほんとこの公爵家の人間は作り甲斐のある食べっぷりしてくれるよ。だが熊公爵はプディングを一気飲みするのはやめてくれ。

「とりあえず、あと三年は公爵家で好きなだけスイーツを作らせていただきますよ」

「やったぁ! エイン、ロシィはエインにえほんをよんでもらうのだいすきなのです!」

 抱きついて来たエロシリダ令息のまろい頭部を撫でる。そうだね。僕もここが嫌いではないよ。それに少々、欲が出て来た。三年で、もしできるなら。

「まぁ、何はともあれあと三年は世話になろう。シリアナ嬢」

「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」

 アフタヌーンティーを終え、晩餐の準備に慌ただしく動きだした厨房へ指示を出し、シリアナ嬢の部屋へ戻る。ノックをして返事を待って入った部屋では闇の精霊王ニイがシリアナ嬢の下で恍惚としている。

「シリアナ嬢、相談なんだが」

 声をかけてソファへ座る。無意識にティーポットへ手を伸ばし紅茶を淹れている自分が怖い。シリアナ嬢へも紅茶を注いだティーセットを差し出し、自分のティーカップへ口をつける。

「何でしょう?」

「ドエロミナ城下で商売をしたい」

「……どのようなご商売をなさるのでしょう、陛下」

「氷菓子、かな」

「いいですわね、前世ではアイスクリームとかき氷というものがありまして!」

「その話、詳しく」

「かき氷はそのもの、ズバリ氷を細かく削って甘いシロップ……蜜をかけて食べるのですわ。アイスアクリームは乳製品を高速で撹拌しながら冷やし固めるんだったと思いますの。エリィお兄さまのような水系の魔法使いの協力が必要ですわね」

「僕は全属性の魔法が使えるからエロアナル令息の協力は要らないな」

 というか、あの妹バカ令息にうっかり頼み事などしたらどんなお礼を要求されるか分からない。絶対に嫌だ。

「ふむ。かき氷はすぐにできるな。あいすくりぃむとやらはまず試作開発からだな……。あとはかき氷にかける蜜か」

「陛下、そのご商売の売り上げで何をなさるおつもりですの?」

「土地を買うんだ。僕らが住んでも気づかれないような」

「……わたくしと、陛下がですか?」

「なんで君と僕が一緒に住む話になってるのさ。僕と魔物たちが住んでも人間に見つからない土地だよ」

「ああ!」

 ああ! って君ね。当たり前だろ。どうして君と過ごす別荘を買う、みたいな話になってるんだよ。住まないよ。そんなことしたら君、僕の貞操を狙うだろうが。僕の股間が寛げないでしょ! 男の股間はね! のんびりゆったり寛がせないといけないんだよ! 心はホット、股間はクールがデキる童貞の正しい姿だよ!

「でも、魔物は地上の『昏き場所』にしか留まれないのですわよね?」

「うん。そういう約束だが、人の暮らしていない土地については言及されていないからね」

「ところで陛下」

「うん?」

「その『約束』は一体、どなたとなさったものですの?」

「……」

 ティーカップをソーサーへ置いて背を伸ばす。シリアナ嬢は聡い。おまけに彼女が言うにはこの世界はげぇむで、しなりおとやらを知っている。つまりこの世界のこと、この世界の未来を知っているのだ。彼のことも知っている可能性が高い。だが僕は、話をはぐらかした。

「神と約束したに決まっているだろ」

「……そう、ですの」

 シリアナ嬢はカップの中へと視線を落とした。シリアナ嬢へ目を向けると自然と闇の精霊王ニイが視界に入ってしまうが、断固記憶から排除した。

「陛下」

「なんだ?」

「土地ならこれまでのお礼にわたくしに買わせてくださいませ。父と母もきっと恩人へのお礼としてそうさせていただきなさいとおっしゃいますわ。陛下はその土地で必要になるものをドエロミナでご商売なさりながら揃えればよろしいのでは?」

「そこまで甘えられない」

「いいえ、それくらいのことはさせてくださいませ」

「……では、お言葉に甘えよう」

 やったね! とにかく僕にはお金がないのは事実だからね! それにお礼と言われれば貰っておかないとね! 公爵家からすれば離島の一つや二つ、屁でもないだろうし。

「で、どちらに土地をお買いになるつもりですの?」

「この、メ・スイキ法王領の東にある無人島だ」

「ああ、あの断崖絶壁に囲まれた上陸の難しい上にこれと言って資源のない法王領も領有を放棄した島ですわね」

「やけに具体的だな」

「ダンジョンがあるかと行ってみたことがありまして」

「あの島に上陸した冒険者って君か、シリアナ嬢」

「周りに難所が多くて地元の漁師もあの島に行きたがりませんの。海からは潮の流れが上陸を阻み、空からは常にドインラン連峰から吹き下す風に阻まれて生き物も植物も独自進化しているのです。しかもあの島固有種の蔦植物が大地を占めていて、農耕にも向かないそうですの。命がけで上陸しても特に得るものがないのです。ですので一応、あの島はアナルファック帝国領ということになっていますわ」

「それはますます好都合だな」

「安全に上陸するには転移魔法を使うのが最適ですの」

「普通は転移するのに一度その場所へ自力で到達する必要があるから、それも難しい、ということか」

「その通りでございますわ」

「さらに都合がいいな。調べたら一応、シリイタイ伯爵家が所有者ということになっていたから譲ってもらえないかと思っているんだ」

「あら、イヴォお兄さまたちのおうちが所有しているんですのね」

「そう。交渉し易いだろ?」

「……」

「……」

「時にシリアナ嬢」

「なんでしょう、陛下」

「僕の股間に向かって語りかけるのは止めたまえ」

「使っていただけないのであれば、せめて真摯に向き合いたいというわたくしの気持ちの表れですのよ」

「表すなって言ってるでしょ! 君、令嬢としての恥じらいはないのか!」

「隠すから恥ずかしいのですわ、陛下! いっそのことお使いになられればもう恥ずかしいことなど何もございませんわ!」

「そういう問題じゃない!」

 この間、ずっと闇の精霊王がハァハァゆらゆらしている為、シリアナ嬢も微妙に揺れている。それを無視して話を続けていられる僕はとても偉いと思う。僕はニイを殴りたい気持ちを懸命に堪えた。殴ったらヤツが悦ぶだけだ。僕に変態を悦ばせる趣味はない。我慢だ。我慢するんだ僕。シリアナ嬢の一言が僕の努力を全て、ぶち壊しにする。

「せっかく陛下の美麗なお顔を堪能しているというのに、椅子ごときがじっとしていられないなんて家具以下ですわね」

「ああんっ! 本気の蔑みキタああああ! もっと罵って欲しい!」

 もうやだこの公爵家。もうやだ人間界。もうやだこの精霊王。もうやだ僕おうち帰る。

 しかしおうち帰ってもシリアナ嬢の行く末を見届けねばまた魔界に来てしまうこの令嬢。僕は何としてもひろいんと淫行教師をくっつけねばならぬ。シリアナ嬢が残念そうに「もう陛下は魔界に帰って大丈夫ですわ」と言ってくれるまでは安心できない。

「ある程度、ドエロミナでの商売が軌道に乗ったら首都に行ってひろいんや他の攻略対象の様子を見ようと思っている」

「! 陛下! わたくしぜひ、シリアナル殿下とサキバシリー伯爵令息の近況を知りとうございます! 是が非でも! 切実に! 二人の愛の軌跡を!」

 何なんなの突然大興奮じゃないかシリアナ嬢。本当に怖いなこの令嬢。怖いしかない。泣きたい怖い。アホ殿下も大分濃い癖をお持ちだったしさぁ。寡黙なヒュース卿もあられもない声出してたし。変態だらけで人間怖い。

 別に気にならないし見たくもないが、何となくシリアナ嬢のベッド脇に置かれているイチの宿った剣へ顔を向けてしまった。このド変態精霊王も確か殴られて喜ぶタイプだったはずだが、大人しいものである。考えが表情に出ていたのか、イチがカタカタと鞘を鳴らしながら得意げに放った。

「シリアナ嬢は毎日剣の稽古をするからな! 毎日、雑に殴ってもらえて大満足だ!」

 いや、いい笑顔で何言ってんのこの精霊王。お前、光の精霊王だよね? 殴られて喜んでんじゃないよこの変態が! ドン引きだよ。魔王ドン引き。

「陛下! わたくしシリアナル殿下とサキバシリー伯爵令息の様子をつぶさに観察しとうございます! 何かこう、写真とか動画的な魔法を開発できませんかしら……眼球に焼きつけたい……」

 アホ殿下にご令嬢の身上書を見せる時、魔力転写でご令嬢方の姿を転写したことはシリアナ嬢には黙っておいて正解だったと実感する。そんなことができると知った日には、きっとシリアナル殿下とガマンジル令息の姿を転写しろと言うに決まっている。童貞、学習した。

「君は首都に行っちゃダメだよ。何のために今まで僕が苦労してきたと思ってるの、君とひろいんを会わせないためでしょうが」

「はい……」

 いくら温厚な童貞魔王の僕でも、さすがに怒るぞ。真顔で叱られてさすがのシリアナ嬢も大人しくなる。

「陛下」

「うん?」

「シリアナル殿下とサキバシリー伯爵令息の濡れ場を見学しとうございます。大丈夫、腐女子は壁や天井にすぐ擬態できますわ。訓練と言う名の妄想はばっちり前世からできておりますので。シリアナル殿下とサキバシリー伯爵令息の濡れ場だけ見学させていただければ他は何も望みませんの。さきっちょだけ、さきっちょだけでございますわ陛下」

「言い直しても却下なものは却下だ、懲りてないのか君は!」

 カッと目を見開いた僕を、それ以上の迫力でシリアナ嬢は見開き返した。何なのこの子ほんと怖い。魔王が公爵令嬢に迫力負けするとかどうしたらいいのか僕もう魔王辞める。ああ、辞めてやるとも。

「懲りるくらいで諦められるなら腐女子になんてなっていないのですわ! 『生まれ変わっても腐女子は腐女子』を見事に立証したわたくしですのよ?! 大豆は一度納豆になったらもう大豆に戻れないのです! 腐女子は魂に刻まれし運命と書いてさだめと読むなのですわよ?! 我が腐人生に一片の悔いなしですわ!」

「なるほど分からん! だが分かりたくもない! 僕は何も聞いてない! あと何度でも言うが公爵令嬢が濡れ場とか言っちゃダメでしょ! 君、女の子でしょ!」

「だってサキバシリー伯爵令息の絵姿を拝見したのですけれども、わんこ系豊満ボディメス兄さんだったのです。シリアナル殿下は今は儚い系美少年ですけれども、成長中の発展途上ですのよ?! ショタおに大変おいしゅうございますし、リバも美味しくいただけますわ! ビジュアルが追いつき追い越した時はもう、ビジュアル下剋上と呼んで差し支えございませんわ! 下剋上大好きな腐女子、ええわたくし下剋上大好きな腐女子なのでございますのよ! 敢えて成長してご立派な攻めに成長したシリアナル殿下をサキバシリー伯爵令息が下剋上するのもアリですわ! 固定派にリバは否定されがちですけれども、そこに穴と竿があるのに両方楽しまないだなんてもったいない、そうもったいないの精神は日本人の心なのですわ!」

 何を言っているかさっぱり分からないが、ろくなことは言っていないということだけは分かる。実物も爽やかな好青年だなどとシリアナ嬢に余計なことは言わない方がいいんだ。僕は知ってる。僕は学習できる魔王なんだもん。

 そんなこんながありつつ、僕はドエロミナ城下のドエロイゾ川沿いのシリエロイ通りに小さなかき氷屋台を出店する運びとなった。ドエロイゾ川はドエロイ湾へと続く流れが穏やかな川である。観光のゴンドラも行き交う。その、ゴンドラ乗り場に近い場所だ。ドエロイ湾の先はシリズキー海で、交易の要所である。つまり観光客も、地元客も望める絶好の場所である。

「陛下、私こんなにたくさんの金貨を見たのは生まれて初めてです」

「悲しいことを言うな、トア。これからはもっとたくさんの金貨を見せてやるぞ」

「陛下、このシリトア・ナル・デイクどこまでも付いて行きます」

 とはいえシリトアは由緒正しき名門吸血鬼一族。太陽の光が弱点……と人間には思われているらしいが、シリトアの一族は太陽光を克服している。ちなみに心臓に杭を打たれたらさすがに死ぬ。ダンジョンで大ダメージを受けた魔物が消えるのは、瀕死の重傷を負った時点で自宅転送されるからである。魔族といえど、不老不死なのは僕くらいだ。

 先ほどシリトアからかき氷を受け取った子供が、甲高い笑い声を上げて屋台の前を通り過ぎて行く。揺れるブーゲンビリアの鮮やかな桃色越しの陽射しがきらきらと輝いた。

「陛下」

「うん?」

「光とは……陽射しとは、こんなに美しいものなのですね」

「……うん」

 手を翳し、空を仰いだシリトアの額に汗が光る。木々の緑を渡って来た風が銀の髪を揺らした。

「楽しゅう、ございますね」

「……そうだな」

 オシリスキナ公爵が褒美として購入してくれた無人島への魔物たちの移住は、すでに始まっている。過酷な環境の魔界に比べれば快適な無人島に、魔界の貴族たちも魔物たちもはしゃいでいる。かき氷を削る腕に力も籠るというものだ。

「あの島の……国の名前を決めねばな」

「よろしゅうございますね。皆で決めましょう」

「……そうだな」

 島に作った新たな国の名前は、魔物たちの厳正なる投票によって「キヨラ・カーナ・ドウテイ魔王国」という名前に決まった。キヨラ島とか、カーナ島とか呼んでいる。島の名前を告げた時、シリアナ嬢は生暖かい瞳で僕を見つめていた。この顔はろくなことを考えていないと僕の経験が告げている。

「清らかな童貞。清らかな童貞ですものね、陛下。ぴったりの良き名前ですわ」

 「きゃっは童貞」などと呟いて両手で顔を覆って嬉しそうにしていたが、僕はいつも通り何も聞かなかったことにした。魔王知ってる。どうせろくな意味ではないのだ。

 僕がレシピを考え、シリトアや魔界の貴族たちが順番に売り子をする。人型の魔物は少ないので、人間界を出歩ける人材は限られている。インキュバス三兄弟の長男ナオシタ・イ・チンポジーや次男のサダマラナ・イ・チンポジー、三男のサリゲナ・イ・チンポジー、人狼族のガンボリー家次男であるキジョウ・イ・ガンボリーや、シリトアの従弟のチクビトア・ナル・デイク辺りは客に人気らしい。

 魔界の貴族で人型の者は美形が多いからな。創造主の趣味だ。

 相変わらず、彼らの名前を聞いたシリアナ嬢は「尻とアナルでイク従兄と乳首とアナルでイク従弟なんて業が深いですわ。あとチンポジくらいお好きに直しあそばせでございますのよ」と言っていたが気にしてはいけない。気にして尋ねたが最後、公爵令嬢にあるまじき下ネタを連呼されてしまう。

「ムッキムキのメス兄さんが騎乗位でガン掘り……きゃはっ……ガン掘りですのね……」

 キジョウの名前を聞いた時も嬉しそうに両手で顔を覆っていたが、僕は何も聞いていない。キジョウの兄はセイジョウ・イ・ガンボリーという名だが、言わない方がいい気がした。

 しかしちょいちょいシリアナ嬢の会話に登場するメス兄さんとは何だ。キジョウはオスだが訂正するとろくでもないなにがしかの説明を聞かせられてしまう気がしたので、僕は貝になった。これ以上シリアナ嬢の口から公爵令嬢にあるまじき言葉を聞いたら僕の繊細な童貞心が傷つけられてしまう。そう、童貞は魔王でも繊細なのだ。

「陛下は脱いだらすごいんです絶世の美男子系正統派攻めですわ」

 うん。僕のことは聞いてない。というか聞きたくない。君の前で脱いだことなどないはずだ。誤解されるような言動は慎みたまえ。

「キヨラ島に移住するとなると、ラストダンジョンはいかがなさいますの?」

「人間がラストダンジョンに入ったら、自動的に幹部が転送されるようにしてあるよ」

「ということは」

「うん?」

「お風呂に入っている時にも自動転送されるのでしょうか」

「いや、一応本人が承認してからしか自動転送されないようにはなってるよ。嫌でしょ、ご飯食べてるボスキャラが転送されて来て君、戦える?」

「申し訳なさでいっぱいになりますわ。とりあえずお食事が済むまで待たせていただくことになるでしょうね……」

「こっちとしても食事が済むまで待ってもらうとか、すごく気を遣うじゃん……」

 それで仕切り直して戦える? 僕なら帰るよ。シュール過ぎるでしょ。

「でも近いうちにラストダンジョンは閉じようと思ってるよ。キヨラ島で暮らせるなら、もう誰とも戦いたくないってみんな言ってるしね」

「……そうですの」

「うん。みんな、本当は争うのが嫌いな優しい子たちばかりだからね」

 そう。だからずっと心苦しかった。魔界に人間が迷い込まないよう、人間界と魔界の間にラストダンジョンを設けたのはそもそもが人間が魔界に踏み込んで命を落とすことがないようにという計らいだったのだ。魔界の環境では、人間は生きて行けない。ラストダンジョンはこの先に人間の住める場所はないという警告だ。

「魔界に誰も住まないなら、ラストダンジョン同様閉じてしまえばいい。危険な植物も多いしね。みんな島が気に入ったようだし」

「文通友達のジュンケ卿も喜んでおられましたわ。人間界の本を手に入れることが容易になった、とお手紙に書かれておりましたの」

「ジュンケは貴族の中でも特に大人しい子だから、喜んでいたよ」

 まぁ、ケンタウロスは人型魔物の中でも下半身が馬なのでおいそれとは人間の住む街に来られない。ジュンケの代わりに街で本を買ってくれる人型の魔族が行き来しやすくなったということだろう。いつかジュンケも自ら、人間の住む街で本を選べる日が来るといい。

 かき氷屋台の方は魔界の貴族令息たちが交代で店番をすることにも慣れ、僕がドエロミナを離れても問題なく経営できている。魔界の貴族令息たちは店番を楽しみにしているらしいと、シリトアが嬉しそうに報告してくれた。そうだね。陽の光や爽やかな風、彩り豊かな植物は魔界では見られないもんな。みんなが喜んでいるなら何よりだ。

「来週の予定だが、月曜にはかき氷屋台とドエロミナ城の厨房それぞれへの新メニュー説明会があるのでドエロミナ滞在。火曜から首都で情報収集のためフィストファック商会に木曜まで滞在、金曜にはアナルアルト殿下と謁見、土曜にキヨラで魔界の貴族と会合、日曜にはドエロミナに帰って来る予定だ」

「お忙しいのですわね……」

「それから、三年経って君の身の安全が確認された後もドエロミナ城の厨房外部指南として定期的に新メニュー開発に携わることになった」

「本当ですの? とても嬉しいですわ。ロシィも喜びますわね」

「君の母上はやり手だな。カ・ツヤクキィン共和国出身の料理人を紹介されては断れまい。あの国は毒のある食べ物でも毒抜きの方法を編み出して食用にしているものが多いそうだな。魔界の植物も食用として流通できるかもしれない」

 そうしたら、今よりもっと稼ぐ方法が増えるじゃない! とにかく僕は金がないんだっ!

「毒があっても食べようとする国民性に見覚えがありすぎますわ……」

「そうなのか?」

「ええ……毒のある魚とか、腐らせて食べるとかが大好きな国民性ですわ……」

「腐……それは苦行の末に習得したとか、罪人への刑罰として生み出されたとかそういうことか?」

「いいえ、とりあえず何でも醤油をかければイケると信じている島国の人間の話ですわ……」

 何だか遠い目をしているシリアナ嬢のカップへ紅茶を注ぐ。すっかり給仕が癖になってしまっている。自分が魔王だということを忘れてしまいそうだ。

「まだキヨラ島の開発も始まったばかりだからな。人型の魔物たちが住む建物も、獣型の魔物たちが住む環境も整えなくてはならないし」

「ドエロミナから、技術者を貸し出しましょうか?」

 ドエロミナからってことはその技術者、みんな暑苦しい筋肉を纏っているのだろう? かわいいマンドラゴラが怯えて泣いてしまう。

「さすがにそこまでは甘えられない。魔物たちを見せるわけにもいかないしな。それに皆、楽しんでいるからな。苦にならないらしい。……ありがとう、シリアナ嬢」

「……いいえ、陛下の努力の賜物ですわ」

「それでも君が訪ねて来なければ、僕はきっとあのまま閉塞していく魔界で今も足掻いていただろう。いつか滅びが来ることを知りながら、何もできずにただ足掻いて絶望すらできないくせに諦められずにいただろう」

「……」

 黙って僕を見つめ返す空色の瞳には、慈愛に似た光が宿る。幼い彼女に僕は確かに救われた。

「だから僕は、君に感謝している。ずっと世界が見たかったんだ。それから、魔界のみんなに世界を見せてあげたかった。ありがとう。初めはちょっと困ったけど」

 君に会えて、良かった。だから会いに来てくれて、ありがとう。

「陛下……」

 シリアナ嬢が僕の手を両手で包む。感謝を込めて微笑むと、シリアナ嬢は少し顔を傾けた。

「その感謝を、ぜひわたくしの処女と引き換えに」

「しません! 君ってヤツは! ほんとに! 童貞の気持ちと股間のさじ加減は繊細だって何度言えば分かるのかな!」

「陛下の陛下は繊細。かしこまりましてございますわ」

「言い方ああああ!」

 なんか普通に「股間」って言われるより嫌だ。その気づかい感が嫌だ。扇で「ぐふ」って笑うのを隠しているのが分かるのが何より嫌だああああ!

「かわいい童貞じゃのう」

「椅子は喋りませんことよ?」

「ひゃいんっ!」

 嬉しそうに鳴いたニイから目を逸らす。ベッドの脇に置いてあるイチの宿ったフランベルジュが目に入り、さらに顔を背ける。この部屋には見たくないものがたくさんで、童貞の繊細な心には耐えられない。イチが興奮して光を放つたびに揺れるベッドの天蓋とかもう、耐えられないッ! 耐えられないよ僕はッ! 童貞気が狂いそうッ!

「……かき氷屋台の様子を見に行って来る……」

 ふらりと立ち上がる。嫌なものを見た時は、お金を見るに限る。いいなぁ、うふふ。価格はトッピングなしの一番シンプルな安いかき氷で十エロイ銅貨だというのに、一エロイ銀貨がいっぱい。金貨に変えたら何ドエローになるだろう。魔王、お金だぁい好き。

 冬でも温かなドエロミナでは、かき氷は通年売れた。おまけにドエロミナの社交シーズンは冬。貴族たちが珍しがってこぞってかき氷を買ってくれて、正直魔王ウハウハである。キヨラ島の開発は順調に進みまくっている。オシリスキナ公爵領様様である。

 かき氷屋台で儲けながら週一で首都へ攻略対象の現在状況を確認に通い、淫行教師とひろいんが破局しないようにシリイタイ兄弟に指示を出し一年が経った。

 あのねぇ、素朴な疑問なんだけど。何故、僕は僕自身の恋愛も放って他人のすれ違い行き違いをサポートしているんだろう。すれ違いからの破局の危機が二人の愛を深めるよね。分かるよ。僕が恋愛する時、僕が君たちにしたように君たち僕のことをサポートしてくれるかなああああああ! もう僕淫行教師の顔もひろいんの顔も見たくないよ! もうお腹いっぱいだよ! 昼ドラも真っ青の愛憎渦巻くアレやソレなんか、知りたくなかったよ! 夢見がちな童貞にはキツ過ぎる。

 なのに何も知らない淫行教師とひろいんと来たら、幸せそうな顔しやがって!

「……シリアナ嬢」

「どうしましたの、陛下。なんだかぐったりお疲れになって」

 疲れもするよ。僕はね。僕は、人間って本当に信じられないなって今人間不信になっている。ソファへ頽れるように座り、僕の顔を心配そうにのぞき込むシリアナ嬢へ告げる。

「ひろいんが、妊娠した」

「ええっ?! 予定より早くございませんこと? 父親はどなたですの?」

「もちろん父親は淫行教師」

「そう……ですの。それはよろしゅうございましたわ……ね?」

 よろしい、のかなぁ。入学前の生徒に手を出して、在学中に妊娠させるようなド畜生をひろいんとくっつけてよかったのかなぁ。僕は己の童貞を守ることと引き換えに、何か大切なものを失ったんじゃないかなぁ。

 戸惑っているのはどうやら僕だけのようで、オシリスキナ公爵家の人々は手を取り合って喜んでいた。

「お祝いしなくちゃね、エインくんの料理で!」

「そうだな、エイン君! よろしく頼む!」

「いつの間にか公爵家の胃袋をがっちり掴んでいる君が憎いが君の料理は好きだ憎い!」

「エイン、ロシィはエインにだっこしてもらいたいです!」

「宴ですわね! エイン。スイーツ祭りですわ!」

 宴は三日間続いた。特別手当がいただけたので、キヨラ島の僕の執務机と椅子を良いものに変えた。魔王、お金大好き。ひろいんへの罪悪感はさっぱり忘れましたし!

「そりぇで、ヒロインはどうなりましたの?」

 口の中のものを飲み込んでから話しなさい。公爵令嬢でしょうが。シリアナ嬢の前へティーカップたっぷりの紅茶を差し出して答える。

「ゼンリツセェン学園は中退して、ヘンタイ子爵がイカセル家へ婿入りするようだ」

「まぁ、イカセル家も子爵だし、家格も釣り合うよね。オシリエ卿は三男だっけ? 婿入りしても問題ないだろうし」

「ロイ先生は次男、次男ですわ」

 むぐむぐ言いながらどうでもいい訂正を入れる。だから口の中のものを飲み込んでから話しなさいと何度言ったら理解するのかなこの公爵令嬢は。

「オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵が、オシリエ・ロイ・ド・イカセル子爵になるのかしら……微妙に違和感がありますわね……」

「語呂が悪いからミドルネームは省くんじゃないか? オシリエ・ロイ・イカセル子爵とか……」

「元の名前より悪化していますわね……作者の執念を感じますわ……作者、恐ろしい子……!」

 何のことかさっぱり分からないが、ろくなことではないのは確かなので僕はいつも通りに無視を決め込んだ。魔王、何も聞かなかった。

「アホ殿下は順調に癖を拗らせてアナルジワ令嬢に尻を踏まれて心底幸せそうに微笑んでいたよ。すっかり四つん這いが板についていた。小アホ殿下もガマンジル卿と穏やかに過ごしているようだ。あと、ナキボ令嬢がシリアナ嬢みたいに二人を遠くから眺めながら拳を握って楽しそうにしていて怖かった。ヒュース卿は、もうすぐ二人目が生まれるらしい」

 あと、ヒュース卿は雄っぱいが成長している気がしたが、そこは報告から省いた。

「ナキボ令嬢とは一度、じっくり二人きりでお話をせねばならないと腐った掛け算の神様のお告げが今、ございましたわ。親友になれる予感がいたしますの」

「会いたくないな、その神様」

 ろくでもない神に決まっている。そう僕の本能が警告している。

「……だから、君の従者ももう要らないと思うのだが、どうだろうか」

 むぐ。シリアナ嬢の年頃の娘独特のふっくらと張りのある頬が咀嚼を止めた。どちらかと言えばシリアナ嬢はほっそりした方で、決して太っているわけではない。ただ僕がストレスに任せて小麦粉を無意味に練り込んでいるうちに出来上がったシリアナ嬢曰く「うどん」というものを口いっぱいに頬張っているせいもある。

「……」

 皿を見つめて停止を続けている。それから大分経って、叱られた幼子のように不安げな表情で僕を仰ぐ。

「陛下は、もうわたくしと一緒に居てくださりませんの?」

「きぃぃぃぃぃぃ! 邪魔で邪魔で仕方ないけどシシィにこんな顔させるだなんて許さない! 許さないよ、エイン!」

「そうだよエインくん! きみ、ぼくのかわいいシシィとは遊びだったのかい! パパ許しませんよ!」

 落ち着け熊親子。遊びも何も、どちらかと言えば捕食者はシリアナ嬢で獲物が僕だというのにこの兄バカ親バカめ。

「オシリスキナ公爵夫人と契約したから、月に一度は厨房指導のために顔を出す。あと二年は様子を見なくてはならないだろうし、かき氷屋台の様子も見に来る」

 永遠にさよならではない。むしろ、いつか永遠に僕を置いて行くのは君の方だろう。だからこそ、僕はあまりここに長居したくないんだ。だって、いつか離れ難くなる。そうなった時、悲しむのはいつだって僕の方なんだ。

 膝をついてシリアナ嬢の脇へしゃがみ込む。幼子へ諭すように、シリアナ嬢の手を包んで揺らす。

「君は適齢期のご令嬢だ。新しい縁談の話もあるだろう。僕のように得体のしれないものを長く傍に置くものではないよ。分かるね?」

 これは常識ある大人の僕から告げねばならぬことだ。僕は魔王で、シリアナ嬢とは時間の進みが違う世界の住人である。

「君が貰ってくれればいいだろうに。エイン君」

 さらっと恐ろしいことを言ってくれたな公爵夫人。僕は淫行教師のオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵のような、子供に手を出す非常識で悪辣な大人ではないのだよ! シリアナ嬢と僕、一体何歳差だと思ってるの! 二千歳以上年の差があるんだよッ!

「まぁいいさ、シシィ。本当にモノにしたい男ならば自分の力で勝ち取りなさい」

「何を恐ろしいことを言っているんだ公爵夫人、シリアナ嬢のような規格外のご令嬢を手玉に取れる器用さがあったら僕は二千年以上も童貞でいたりはしないのだが? そんな簡単に了承しないでいただきたい!」

 驚き過ぎて正直な本心が口から転び出てしまった。責任を取って嫁に来るとか言い出したらどうしてくれるんだ! それを阻止するために頑張った僕の二年弱は何だったんだ! 僕が払う代償が大きすぎるだろう!

「なるほどやはり童貞か。シシィ。童貞はいいぞ」

 嫣然と微笑む公爵夫人を見て、僕は悟った。血筋だ。間違いなくシリアナ嬢は捕食者の血筋だ。

「陛下は心も股間も清らかで正直者ですわ」

「心も股間も清らかなまま死んでやるううううう!」

「大丈夫、怖いのは最初だけだよ。すぐに好くなるから安心してシシィに身を任せなさいよ、エインくん」

「そういう気づかいは要りません!」

 そういえばあんたも童貞を奪われて公爵夫人と結婚したんだっけね! 怖いよこの一族! 何でそんなにアグレッシブなの! もう薄々どころか完全に僕の正体分かってて言ってるよね! 魔王に娘を嫁入りさせようとか、親として躊躇いはないの! そこは躊躇おうよ、止めるとこだよ! だって魔王だぜ?

「このかわいくも強く気高いシシィの一体何が不満なんだエイン! 憎い!」

「憎いならお勧めしないでいただきたい、エロアナル令息!」

「ロシィは、エインがおにいさまになってくれたらとってもうれしいです!」

 うわぁ、エロシリダ令息天使。かわいい癒し。天使にお義兄さまとか呼ばれたいここが天国か。だが断る。

 喧々諤々けんけんがくがく。好き勝手に言い放つ公爵家の人々へ、公爵夫人が一言笑顔で言い渡す。

「シシィ。三年あげよう。三年で、エインを落とせるね? なんせ君はわたくしの娘だもの」

「はい! お母さま!」

「何元気よく返事してくれちゃってるのおおおおおお! 僕にロリコンの趣味はないよ、ダメでしょ絶対ぃぃぃぃぃぃぃ!」

「あっはっは」

 何朗らかに笑ってくれちゃってるのこの一家。この先まだ三年、シリアナ嬢と童貞喪失に怯える日々が続くのか。冗談じゃないぞ。

「陛下、お覚悟してくださいませね」

「いや……いやだ助けて、シリトア! シリトアああああああ!」

「あらあら陛下ったら泣き顔も大変麗しくとても興奮いたしますわ」

「いやああああ」

 半泣きの僕の腕を、シリアナ嬢が掴む。あ、あかんこれ覚えがあるヤツや。

 ごきん、と嫌な音がして肩が外れた。これだけ強ければ僕なんか居なくても自力で解決できたんじゃないのか。攻略対象とやらにこの恐怖を植え付けるだけで問題は解決したんじゃないのかシリアナ嬢よ。令嬢怖い。

 僕の前途多難な「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらから童貞を守る生活は、まだしばらく続くらしい。

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