二 「バッドエンドしかない」という悪役令嬢とやらの領地で暮らすことになったのだが、聞いてほしい

「シシィ~! パパによくお顔を見せておくれ! ああ、何てかわいいんだパパの大事な大事なかわいいシシィ、パパの地上に一つしかない宝石姫」

 オシリスキナ領の領主が住まう城塞都市、ドエロミナに到着するなり二メートル以上ある熊に襲われた。熊なのに明るい金色の毛、フラクスンだ。ところがシリアナ嬢は熊に抱きついて嬉しそうである。

「お父さま……!」

 シリアナ嬢、シリアナ嬢。その熊喋ってる。あはは。うふふ。笑いながらものすごい勢いで高速回転する熊とシリアナ嬢。高速回転する二人を見ていたら目が回って気分が悪くなって来た。

 熊の飼い主だろうか。背後からやってきたフルアーマーの騎士が、熊を引き剥がしてシリアナ嬢を抱き上げた。

「お母さま。大事な社交シーズンだと言うのに戻って来てごめんなさい」

「いいさ。金のある奴らはどうせ冬になったらこぞってドエロミナへ来るのだから、ドエロミナにとっての社交シーズンは冬が本番だ。お帰り、シシィ。さぁ、久しぶりにこの母と超絶高い高いしようではないか!」

 優しい声音だが最後がおかしい。声からしてご婦人だろう。フルアーマーで完全武装しているが、まるで薄布でも纏っているかのように軽やかな動きである。混乱する僕の前で、フルアーマーのご婦人がシリアナ嬢を空へ放り投げた。シリアナ嬢が見る見る小さくなって行く。

 ちなみにシリアナ嬢は今日も、暗器満載バッスルスタイルのドレス姿である。

「おかあさまぁぁぁ」

「シシィ~!」

 天へ高く突き出されたご婦人の手を掴んで、シリアナ嬢が倒立している。ちょ、シリアナ嬢おおおおおおおおおおおおおお! 足が! 丸見えでしょうが! 君、仮にも公爵令嬢でしょうが! 足を! 隠しなさいはしたない! ドロワースを隠しなさい! 僕は断じてシリアナ嬢のドロワースがシンプルな白だったことなど見ていない! 見てないったら!

 ナニコレ。人間の親子ってこんな再会の喜びの表し方するの。周りの騎士たちもにこにこ見守っている。いやこれおかしいよね? え? これが普通なの? 戸惑う僕を置き去りに、ご婦人はいつの間にか熊も宙に放り投げ、シリアナ嬢と熊を交互に受け止めている。僕以外は和やかに眺めているが、これおかしな風景だよね? 普通じゃないよね?

「ごめんなさい、エイン。お父さまもお母さまも久しぶりだからはしゃいでしまったようですわ」

 うん。お母さまはフルアーマーだが人間っぽい外見だから分かる。けどひょっとして、あの熊がお父さまか? 本気か? そうなるとシリイタイ兄弟の言っていた子熊は大げさではないのではないだろうか。シリアナ嬢がどういう過程で子熊から今のご令嬢に進化したのか全く分からない。「子熊=越えられない進化の壁=シリアナ嬢」の間が想像力豊かな童貞である僕にすら埋められない。

「ふむ。彼がエリィの手紙にあったエイン君だね」

 ご婦人がフルアーマーのヘルメットを外した。白に近いトウヘッドが風に煽られて広がる。シリアナ嬢にそっくりの少しキツめに整ったアースアイの美貌が破顔した。碧と青に黄色の混じった瞳はまるで燃えているようだ。不思議な雰囲気のある人物である。威圧感、というのだろうか。王者にしかない覇気のようなものが抑えても漏れ出している。

「おやおや。シシィはわたくしに似て面食いだね?」

「あっはっはご冗談を。僕は熊だったことは一度もありません」

「おや? アナルジダは今は熊だが髭さえ剃ったらとてもハンサムなのだよ? ちょっと国境付近で盗賊を討伐していてね。一ヵ月ほど野外で生活していたらこの有様だ」

 今は熊なんだ。そこは否定しないのか。

「パパは許しませんよ! かわいいシシィが自ら連れて来たとはいえ、こんな美形を傍に置くなんて! パパよりいい男を連れて来ないと結婚など許さないとは確かに言ったがさすがパパのかわいいシシィ、有言実行が過ぎる優秀ぅぅ! 我が娘大変有能ぉぉぉ! 勝負しなさい!」

 向けられた剣先から一歩横へずれる。淫らな肛門令息よりさらに関わり合いになりたくないタイプだ。

「お父さま、剣を人に向けたら危険ですのよ」

 切っ先を人差し指と親指で挟んで折り畳み、シリアナ嬢がふわりと微笑む。折り目がきっちり三センチ単位である。

「お父さま、とにかくお話がありますので城の中へ参りましょう?」

「シシィ~、パパが肩車してあげようね」

「お父さま、わたくしもう肩車していただくほど子供ではございませんわ」

「シリネーゼ、私のかわいいシリアナが反抗期だ! どうしよう! パパお口臭い、パパのパンツと一緒に私の服を洗わないでとか言うやつだ! かわいいシシィに嫌われたらもう生きていけない!」

「このわたくしが愛しているというのに、生きて行けないのか? アナルジダ」

「生きる」

「そうだ。わたくしが生きている限り、わたくしを愛し続け生きるのが君の役目だろう? アナルジダ。愛しいあなた」

「シリネーゼ」

「あなた」

「シリネーゼ、私の女神」

「アナルジダ、我が命の炎」

 濃厚なキスを始めたシリアナ嬢の両親から目を背ける。止めてやれよ、子供の前だろ。シリアナ嬢もそっと目を背けているじゃないか。やっぱダメだ。エロアナル令息と同じ香りがぷんぷんする。

「あの……何かすみませんうちの両親が……。こうなると小一時間離れてくれなくて……」

「いや、気にしなくていい。苦労……しているのだな」

「お気遣い痛み入りますわ……」

 終わりそうにない濃厚なキスシーンに、気まずさが限界を突破したのだろう。シリアナ嬢が思い付いたという様子で付け加えた。

「ちなみに父の名前はわたくしの前世住んでいた国の言語で尻の穴が痔だ、という意味で、母は尻がないという意味ですのよ」

「あ、うん」

 いや、うん。別にそこが聞きたかったわけではない。シリアナ嬢のお父上の尻の穴が痔だとか、お母上の尻がないとか、できれば聞きたくなかった。君の一族は尻に呪われているのか。いや、この世界では普通の名づけだが。

 すっかり何かが削られた僕は、削れた何かをため息と共に吐き出した。いたたまれない。

「荷物を運ぼうか、シリアナ嬢」

「あ、はい。お願いいたしますわ」

 荷解きが終わる頃には話ができる……といいな。しかしこんなご両親でオシリスキナ家には子供が二人しかいないとは不思議だな。顔に出ていたのだろう。シリアナ嬢は恥ずかしそうに顔を伏せながら、自分の鞄を持った。受け取ろうと手を出して、その重さに肩が抜けそうになる。

「実はわたくしの下に次男が居りまして」

 むしろこのいちゃいちゃぶりから三人しか子供が居ないことの方が不思議だ。さして驚くこともなく、シリアナ嬢の話に頷く。

「そうか」

 エロアナル令息似か、シリアナ嬢似か、熊なのかどれだ。できれば人の姿であってくれ。シリアナ嬢は片手を胸へ当て、目尻を下げた。

「端的に言って天使なのですわ」

「おねいちゃま!」

 子供特有の高い声に目を向ける。走り寄って来た小さな影は、やはりシリアナ嬢そっくりのトウヘッドである。愛らしさを体現したような垂れ気味の瞳、大きな虹彩はペリドット。幼いながらにすでに完成された美が凝縮された甘やかな容姿。小さな体には愛くるしさが詰まっている。

 弟に抱きつかれて荷物を持つ手を離したシリアナ嬢のお陰で、僕の肩は完全に脱臼した。何が入っているんだこの小さな鞄の中に納まるような重量じゃないぞこれ。

「エイン。我が家の天使、ロシィですわ。ロシィ、ご挨拶できるかしら?」

「はじめまして。エロシリダ・キワメ・テ・オシリスキナですっ」

「天使なのに極めてお尻が好きなエロ尻だなんて神を呪いますわ! シリアナ、エロアナル、エロシリダ……! みんな違ってみんなケツなのでございますわ……ッ!」

 うん。うん? またか。またなのか。君の一族は尻から離れられない運命なのか。気にせず天使に向き直る。

「初めまして、エロシリダ様。僕はエイン・ナゾルト・カイカーン。シリアナ嬢の護衛兼従者兼協力者でございます」

「ほわぁ……おねいちゃま、エインはおかおがとってもきれいですぅ。ロシィ、でんかよりエインのほうがすきです」

「まぁ、ロシィ。アホ殿下と比べてはエインに失礼と言うものですのよ?」

 はっきりアホ殿下って言ったな。肩を戻しつつ、天使に跪いて見せた。

「おいくつですか、ご令息」

「いつちゅです!」

 にこにこ笑顔で言い放ったが、立てた指は四本だ。つまり五歳になったばかりなのだろう。かわいい。なるほど天使だ。

「ではエロシリダご令息。僕がご令息を肩車する名誉をお許しいただけますか?」

「うわあい! よろしいのですか、エイン」

「ええ、ぜひ」

「おねがいします!」

 ぱああ、と笑顔になった天使を肩車するべく向かい合う。抱っこされ慣れた様子で両手を伸ばす様かわいい。うわぁ、お手々も体もやわらかぁい。なにこの生き物かわいい。このまま育ってくれ。素手で剣を折るような熊に育たないで欲しい。

「端的に言って天使でございましょう?」

「うん、かわいい。何でこんなにかわいい弟を置いて王都に行ったんだシリアナ嬢」

「その発想がなかったのですわ。これからは天使を愛で放題ですのね。感謝いたしますわ、エイン」

「エロシリダお坊ちゃまは、エロアナルお坊ちゃまの小さい頃に瓜二つなのでございます」

 背後から声がして飛び退る。何この人! 一切気配がなかったんですけど!

「エイン、オシリスキナ家のハウス・スチュワードですわ」

「初めまして。屋敷を管理しております家令のボールギャグ・ヨダ・レタレルと申します」

「SМですのよ……」

 うん。分からんがまた尻だの尻の穴だの関連なんだろうなぁ。遠い目をしているシリアナ嬢を無視して軽く会釈する。だって肩車してる天使が落ちちゃうから。

「初めまして。エイン・ナゾルト・カイカーンと申します。エインとお呼びください」

「わたくしの護衛兼従者兼協力者ですの。最大限に礼を尽くしてくださいませね」

「かしこまりました。エイン様、お嬢さまのお荷物はわたくしめがお運びいたしましょう」

「あ、でもこれ激重で……」

 どう見ても初老の紳士全白髪のボールギャグが、片手で荷物を受け取った。何なのこの家の人間。主から家令まで筋肉お化けだらけか。僕がひ弱に思えてくる。

 オシリスキナ領に着いてまだ一時間経たない。肩車している天使以外は皆、規格外の筋肉ばかりなのだが。この天使もそのうち規格外筋肉になってしまうのだろうか。この世はなんと無常なのだろう。天使はきらきらした目で僕を見ている。

「おねいちゃま、エインはうつくしいうえにかれんなのですね」

「ええ、ロシィ。お美しい上に可憐なのですわ。筋肉とお金はございませんけれども、お顔の美しさと心と股間の清らかさはこの世の誰よりもお持ちなのですよ。それに筋肉とお金以外では誰にも負けませんの。オシリスキナ領の男性は皆、熊か野獣なので可憐なエインをロシィも守って差し上げてね」

「すごぉい! きんにくはないのにおつよいのですね!」

「ええ、お金と筋肉はありませんがお強いのですよ」

 おいシリアナ嬢。さらっと何度も金はないって言ったな? ないけど。筋肉もないけど。あるのは清らかな心と股間だけで悪かったな! 君その金と筋肉のない魔王に助けてもらおうとしてるんだぞいいのかっ!

「熊は、見飽きたのですわ……」

 シリアナ嬢だってかつて子熊だったのでは。喉まで出かかった言葉を苦労して飲み込む。

「あ……うん。いやでもアホ殿下は熊じゃないんじゃないのか?」

「熊ではなくても、アホなのですよ?」

「……う、うん……?」

 いやでもアホ殿下は一応、聖女が惚れる相手だろう。いいところが一つもないとかそんなわけないだろう。聖女はそんなに男の趣味が悪いのか。それとも男なら誰でもいい感じのあれかそれか。

「百歩譲って脳筋なのならばまだ納得ができますわ。体を鍛え過ぎた結果ならば脳筋は努力の結晶と言えます。けれど、脳筋でもないのにアホだなんてただのアホではございませんこと?」

 厳しいなシリアナ嬢。ちょっとアホ殿下が気の毒になって来た。というかアホ殿下と言い過ぎてアホ殿下の名前を忘れかけている僕が居る。よいこのみんなはアホ殿下のフルネームを思い出せるかな? はい、言ってごらん。そうだね、アホ殿下はアホ殿下だね。

 僕はアホ殿下の名前を思い出すことを放棄した。

「お父さまは熊ですけれども、身なりを整えればハンサムですしお金もありますし、何より一途にお母さまを愛しておられます。尊敬しておりますのよ」

 悪かったな、金も筋肉もない童貞で。我、魔王ぞ? 真顔でシリアナ嬢の後を付いて行く。何だろう、何でこんなにみじめな気持ちになっているんだ僕は。無言になった僕に気を使ったのか、シリアナ嬢は何やら不思議な笑みで慰めの言葉を口にした。

「エインはそれらを帳消しにするほど美形なのでご安心なさってくださいませ」

「褒められている気がしない」

「美しさが天元突破ですのよ」

 金も筋肉もないけどな! 拗ねてなんかないぞ! あと君、僕が今エロシリダ令息を肩車していて手が出せないからって尻を揉むのはやめたまえ。天使に姉が変態だということを知らせたくないので黙っている僕の気づかいを、逆手に取るのは卑怯だぞシリアナ嬢。ちょ、割れ目に指を入れるのはやめなさいっ! 本気で怒るぞ、魔王おこですよ!

「それと、エインの部屋なのですけれど……」

「タウンハウスと同じでいいぞ。侍従用の部屋で。ただし、勝手に魔法であれこれ拡張や細工はさせてもらうが」

「本当にそれでよろしいのですか? お父さまとお母さまに話をすれば、客間を使わせてもらえますのよ?」

「表向きには侍従ってことにした方が色々都合がいいこともある。そんなことを気にするくらいならこの話、初めから受けていない」

 お金もらえるしな。侍従という建前がなくなったらお給料もらえなくなるだろ、それは困る。金なし魔王なので。拗ねてないぞ。金もないけど。僕はこれ以上シリアナ嬢の指が僕の可憐な尻の穴に侵入するのを防ぐため、括約筋を最大限に活躍させた。指をへし折るつもりで。だがなんだこの指は! これが貴族令嬢の指か。オリハルコン製か! がんばれ僕の括約筋。大活躍だ括約筋。

「言っただろう。僕は過酷な環境で暮らしていた。だから僕にとってここは、とてつもなく暮らしやすい夢の国なのさ」

「……陛下には、感謝してもしきれませんわ」

 初めて会った翌日、魔王城から外の様子を見たシリアナ嬢の憂いを含んだ横顔を思い出す。魔界はとてもじゃないが、人間が歩き回れる環境ではない。あの日と同じに憂いを帯びた瞳を伏せ、シリアナ嬢は噛み締めるようにぽつりと零しながら僕の尻の割れ目をこじ開けた。ぐふんっ。何とか変な声を上げるのを堪えた僕はえらい。魔王泣かない。だって男の子だもん。

「気にするな」

 僕の童貞を奪うとか恐ろしいことを言わなければそれでいい。むしろそのためだけにここに来たんだお礼に抱いてくれとか言わないでくれれば全然いい。あと今すぐに僕の尻の割れ目から指を退けてくれればなおいい。弟の前で君という令嬢は一体何をしてくれているのか。

 あの激重鞄を置いて戻って来たらしいボールギャグがこちらへ向かって来るのが見えた。早くないか? なぁ、この城、魔王城より遥かに立派だし大きいしどう考えても中も広いぞ? 令嬢の部屋だから警備的に一番奥に近い部屋なんじゃないのか。なぁおい。そして僕の括約筋の限界が近づいている。これは僕の魔王としての尊厳との戦いだ。負けるわけにはいかない。

「ボール、エインを自室へ案内して頂戴。荷解きが終わったら、わたくしの部屋へ連れて来てくださいな。ではエイン、お願いね」

「はい、シリアナ様。さ、エロシリダ様。ボールめとエインはここで一旦、失礼させていただきます」

「エイン、またね!」

「はい。のちほど」

 シリアナ嬢と並んで小さな手を振る天使を見送る。いいなぁ癒しだ。それから僕の可憐な尻の穴に平和が訪れたことに心底ほっとする。シリアナ嬢は未練がましい視線を僕の臀部に送っていたが君、後で説教だからな覚えてろ。

 ボールギャグに案内されて侍従用の部屋に入る。備え付けの簡素なベッドと小さな机。最低限の造りだが、文句はない。どれだけ荘厳な城に住まおうと、陽の光がない魔界に比べればここは快適だ。

「制服はこちらに」

「ありがとうございます。のちほど途中で見かけた侍従の詰所に寄れはいいでしょうか」

「はい。お嬢さまのお部屋へ後程案内致します」

「あ、あと」

「はい?」

「僕に敬語は止めてください。一応、ここではただの侍従なので」

 ボールギャグはハウス・スチュワードだ。屋敷の管理全般を任された、使用人の中で一番地位が高い人間である。おそらく領地の管理を任された家令も別に居るのだろう。そんな人間が敬語を使う従者など居てはならない。

「かしこまりました」

 ほらぁ、敬語じゃん。それだと誰もが察してしまう。僕がただの侍従ではないこと。それじゃ困るんだよなぁ。色々やりにくい。口調が中々直せない僕も悪いんだけど。オシリスキナ家の家令は聡すぎて困る。

「シリアナ嬢も承知の上ですから、他の侍従と同じ扱いでお願いします。別に後から不敬だなんて言いませんから」

「分かりました」

 うん。まぁ幾分マシになったかな。エロアナル令息同様、僕を身分を隠したどこかの国の王族だとでも思っているんだろう。まぁ、この家の人たちは僕が魔王だと言ってもさして驚かない気がする。部屋に諸々小細工をして、ボールギャグが置いて行ったお仕着せを手に取る。普通、侍従の服と言えば黒だろうにシリアナ嬢の趣味なのかシャンパンゴールドのディナージャケットに空色のカマーバンドと同色のボウタイが添えられている。これはマズいんじゃないか。完全に「シリアナ嬢」専用と周囲に知らせるためなんだろう。色々と誤解されるぞ。こんなの。

 シリアナ嬢の部屋に着いてから僕の衣装と貴族令嬢にあるまじき手癖について少し説教したが、全く耳に入らぬ様子で胸の前で両手を握り締め目を瞑っている。

「ふおおおお! 美麗スチル! 神様アホな名付けと引き換えに陛下をこの世に生み出してくださいましてありがとうございますありがとうございます、あとはこの美貌の尊さを網膜に焼きつけるだけでは足りませんので何某かの写真っぽい魔法が開発されますようにそれらしい魔法がある日突然わたくしにひらめきますように」

「いつもより長めに鳴いたな。とにかく、こんなの君の男妾かと勘違いされるだろ。婚約者の居るご令嬢としてはよろしくないぞ」

 シリアナ嬢は反省するどころか、くすくすと笑う。

「エイン、どんなに気を配ったとしてもあなたの身分は隠せませんわ。所作が優美すぎますもの。だから他国の高位貴族を故あってわたくしの傍に置いているのだと思わせておいた方が良いのですわ」

 だって僕は生まれてこの方ずうっと魔王だったんだぞ? この世で最も高貴な魔王だぞ? 滲み出る高貴さを隠すことなど不可能だろう、そうだろう? 褒めたって童貞は捧げないんだからねッ!

 一つ咳払いして話題を変える。断じて赤くなってなどいない。

「……まぁいい。それで、いつ父上と母上に話すつもりだ?」

「そうですわね……。昼食後、巡回を兼ねてお父さまとお母さまが森に行かれる時にご一緒しましょう。夕食後、お父さまの執務室で話しますわ」

「分かった。僕も付いて行けばいいのか?」

「ええ。お願いしますわ」

 シリアナ嬢は優美な仕草でお茶を飲んでいる。部屋を見渡したが、ソファ以外の椅子がこの部屋には存在しない。涎を垂らしながら僕を見た、闇の精霊王から目を逸らす。

「ぬふぅ……んっ」

 満足気に吐息を漏らした闇の精霊王など、僕は見ていない。見ていないったら。

 シリアナ嬢を背中に乗せ、四つん這いになりぷるぷる震えながら嬉しそうにしている闇の精霊、あれ何でしたっけね。あれが精霊王? 嘘言っちゃいけませんよ。やめてください。あんな変態、知り合いじゃありません。

 もう嫌だトア、僕は気が狂いそうだ人間界怖い。公爵令嬢怖い。

 昼食後、早速馬を準備しシリアナ嬢を迎えに行く。付いて来いと言われたのだから当然だが、馬に乗って後から付いて行く僕を見て、シリアナ嬢はまたくすくすと笑う。

「何だ?」

「いいえ。自分の姿を他人の視点で見ることはできませんもの。エインはとても、ただの従者には見えませんのよ」

「それじゃ困るだろ、今後」

 全く。年寄りをからかって何が楽しいんだか。近頃のご令嬢は何を考えているのか分からん。

「さすがですね。馬の質がいい。手入れも行き届いている。騎士からもここが国防の要であるという自負と緊張感が伝わって来る」

 というか、馬も大変筋肉質だ。何だろう、僕この領地にすごく筋肉による筋肉のための筋肉の圧迫感を覚える。

 ぼそりと呟くと、シリネーゼ公爵夫人が唇を不敵に吊り上げる。

「わたくしは聡い子は好きだよ。なるほど、シリアナが気に入るわけだ」

「シリネーゼ、君が誰かを褒めるのも珍しいな。しかしパパは悔しいので君のことは認めない。認めないんだからねっ!」

「お父さまとお母さまに付いて来られるというだけで、エインの乗馬の腕前が分かりますわね。わたくしは最近になってようやくお二人に付いて来られるようになったのですよ」

 筋肉で全てを解決しそうなこの一族に褒められるのは何だか複雑な気分だ。しかしこの人たちまるで花でも摘むみたいにひょいひょい熊を矢で射る。何この人たち怖い。矢って熊の頭を貫通するのが普通だっけ。そして城郭から離れただけでこんなにゴロゴロ熊が出て来るの怖い。そんな森の付近にある街道を普通に領民が行き来してるのも怖い。何もかもが怖い。なんなのこの領地。大丈夫なのこの領地。

「済まないな、小さな獣は粉々になって食べるどころではなくなってしまうので、どうしても大物狙いになってしまうんだ」

「本当はこの森の奥にある洞窟がダンジョンだったのですが、お母さまが殲滅してしまいましたの」

 あああ、突然住人が泣きながら避難して来たオシリスキナ領のダンジョンってここだったのかああああ! 何てことするんだよ! 善良なスライムとゴブリンに謝れ! 自治会長のオークなんか家が全壊したんだぞ! 保障した魔界の懐すっからかんだよ! 慰謝料請求するぞ!

「本来、そのダンジョンは当家の子供たちが狩りに慣れるための練習場だったのだがな」

「五才になるとダンジョンに練習に行くのが、代々オシリスキナ家のしきたりですのよ」

 ダンジョンを練習場にするな! この脳筋一家め! そして代々練習場にして来たダンジョンを気まぐれで更地にすんな! 血なまぐさい! 血なまぐさいよこの一家。

「倒した獲物は後で回収させなくてはね、シリネーゼ」

「そうだな、アナルジダ。愛しいあなた」

 ソウダネ。いくら脳天に一撃で即死とは言え、あんなに巨大な熊をゴロゴロ放っておくわけにもいかないもんね。

「シリネーゼ」

「アナルジダ」

 娘の前で以下略。ほんともうやだこの夫婦。まぁ夫婦仲が良いのはいいことだ。

 しばらく走ると、アナルジダとシリネーゼは小高い丘の上で馬の手綱を引いた。

「ごらんなさいな、エイン。ここからドエロミナ城が一望できますのよ」

 ドエロミナ城を中心に、広い平野へ放射状に街並みが広がっている。最外殻は六芒星を描くように堀が巡らされていて、農地で働く領民の姿が見えた。

「ああ……見事な城塞都市ですね……。だが灌漑設備が十分ではないのか……治水事業がどうなっているか確認したい所だな……せっかくの肥沃な土地だ、有効活用しないと」

「ははは、後で君にランド・スチュワードのビットギャグを紹介しよう。きっと話が合う」

「ビットギャグはボールギャグの兄で、領地に関わる仕事を総括している家令ですわ。レタレル男爵家には代々家令を任せておりますの」

 なるほど、昔からの家臣ということか。シリアナ嬢の説明に頷く僕を、熊が見ている。いや、もじゃもじゃでどこに目があるか分からないけど多分、見ている。

「そういえば、汚水工事は君の発案だったね。エイン。ドエロミナ城は古いから雨が降ると臭気が籠って酷い臭いだったんだが、君の考えた汚水処理工事を行ってから城の中が清潔で助かっている」

 上に立つ者の鷹揚さを滲ませ、シリネーゼが表情を緩ませる。これは「下の者を褒める」顔だ。生まれついての貴族、という雰囲気が漂っている。

「……ひょっとして、アナルジダ様は入り婿ですか」

「そうだよ? それが何か? 文句でもある?」

 熊が頬を膨らませた。多分。髭なのか毛皮なのか分からないもじゃもじゃだからどこが頬なのかは想像だが。

「いいえ。シリネーゼ公爵夫人がオシリスキナ家のお血筋なのですね」

「良く分かったな。わたくしの祖母が何代か前に公爵へ嫁いだ王妹の血筋でね。一応第六位だかなんだか、王位継承権もあるのだ。だがわたくしには兄弟が居なくてわたくしが公爵家を継いだ。公爵家を継いだ後に、わたくしがこのアナルジダに惚れてしまってね。口説き倒して婿にしたのだよ」

 振る舞いからかなりの女傑であると推察できる。おそらく騎士としても一流なのだろう。

「夫人がお望みになるのですから、アナルジダ様は武人として誉れ高いお方なのでしょう。エロアナル様とシリアナ様の聡明さは夫人から。お強さは閣下から受け継がれたのですね」

「いや? 今はもじゃもじゃだが、顔に惚れてしまってね」

「顔に」

「ああ、顔に」

 熊だが? 口から転がり出そうになるのをぐっと堪えて目を閉じる。もう一度目を開いて凝視してもやはり熊だ。

「顔ならやはりエインが一番なのですわこの顔面はもはや至宝ですわオシリスキナ家総力を挙げて保護しなくてはいけませんのよ」

「あっはっは、しかしわたくしのアナルジダも君には劣るな! さすが我が娘、わたくしの愛しいアナルジダよりも顔のいい男を連れて来るとは。だがわたくしには君が一番愛しいよ、アナルジダ」

「シリネーゼ……」

 もじゃもじゃだが何となく分かる。乙女のように頬を赤らめている。どこが目か鼻か口かも分からないもじゃもじゃだが。

 なるほど~、こうやって口説かれたんだへぇ~。他人の親の馴れ初めなど一切興味ないな!

「シリアナ嬢、着いたばかりで荷解きもまだでしょう。お先に失礼しては?」

 また小一時間いちゃいちゃされては困る。主に目のやり場に。僕の提案の意味を悟ったシリアナ嬢が深く頷く。

「お父さま、お母さま。わたくしたちはお先に失礼いたしますわ。夕食後、お話したいことがありますの。お時間作っていただけますかしら」

「ああ、帰ったら知らせるよ」

 シリネーゼ公爵夫人がもじゃもじゃのどこにあるか分からない口にむっちゅむっちゅしている音がする。不潔よ! 耳が汚される! 童貞には大変目の毒だ。

「シシィ、パパも一緒に行かなくていいのかい?」

「お父さまはお母さまとごゆっくりどうぞ」

 子供に皆まで言わせるなよゆっくりいちゃいちゃして来いよすっきりしてから話を聞いて欲しいんだよ、目の前でまたいちゃいちゃされたら話をしにくいんだよ真面目な話がしたいからな!

「……重ね重ね、両親が申し訳ございませんのですわ」

「うん、何かごめんね? でも童貞には刺激が強過ぎてどうしたらいいのかどこを見たらいいのか分からない」

 もうやだ。繊細で夢見がちな童貞にもう少し気を使ってくれまいか。

「陛下、あれに慣れるためにもぜひここで一発」

「魔界に帰る」

 僕へ向かって伸ばされたシリアナ嬢の手をはたき落す。どこを触ろうとしていたんだ、どこを。君はもう少し、貴族令嬢としての恥じらいというものと童貞はとてもチョロくてちょっとした身体接触ですぐに惚れてしまうという事実を理解しなければならないようだな。いいのか! 意味などない身体接触だとしても、優しく触れられたら惚れてしまうぞ! 僕が!

「陛下は大変繊細な股間をお持ちなのでしたわね……」

 見るな! 憐れむような目で僕の股間を見つめるな! はしたないでしょ、君貴族令嬢でしょうが! 慎みを! 持ちたまえよ!

 僕の視線で何かを察したのか、シリアナ嬢は生温い笑みを唇へ刻んだ。

「大丈夫ですわ。わたくしに怯えてしんにゃりした陛下の陛下もおかわいらしかったですわよ?」

「言い方あああああああああああ!」

 それなら君に怯えてどれだけ僕の股間の魔王が縮み上がっていたか、分かっているだろう! そりゃもう、かつてないほどにしょんぼりした僕の股間の魔王が可哀想だと思わないのか君は! しかもいつ触ったんだよほんと君、ほんと君そういうとこだぞ!

 ドエロミナ城に戻ると、涙目の僕とうっすら笑みを浮かべたシリアナ嬢を眺めて騎士たちが気遣うように視線を逸らす。

「……シリアナ様さすがシリネーゼ様のご息女……」

「なるほど肉食……」

「野外で……」

「手籠めにされた乙女の表情ですな、あの従者……」

 違うからね! まだ違うから! 手籠めになんてされてないから! まだ僕、清い体だから! やだもう、視線で汚される!

「まぁ……悪い熊に噛まれたと思って……な?」

 近づいて来た御者が憐れみを含んだ視線を投げかけ、僕の手から手綱を受け取った。やめて、優しく肩を叩かないで。僕まだ清い体だから。あと熊に噛まれたら死ぬからね。致命傷だからね。僕のガラス細工のように繊細な童貞心はすでに瀕死だけど。

「うっうっうっ……」

「怖いのは最初だけですわよ、エイン。慣れたら好くなりますわ」

 おいそれが令嬢の言うことか。きっ、と睨みつけると、シリアナ嬢はうっそりと頬へ手を当て笑みを浮かべる。

「ああ、堪りませんわ……涙目のエイン、美麗スチル眼福ご馳走様ですのよ……」

 ちょ、何口走ってんのこの子! だからすちるってナニ! 騎士たちがざわめく。

「ご馳走様」

「ご馳走様とおっしゃったぞ」

「シリアナ様が侍従殿を美味しく頂いてしまわれた」

「誤解だあああああああああああああ!」

 ドエロミナに着いて半日ほどしか経っていない。だが僕の精神的疲労は上限値を越える勢いだ。鬼おろしでガンガン下されているくらいの勢いで荒く削られている。このままここに居たら僕は精神がすり減って病になってしまうのではなかろうか。あと、ここの住人単純に男も女も筋肉質でデカい怖い。

「シリアナ様、従者殿を手荒に扱っては壊れてしまいますぞ。きっと。だってこんなに可憐でいらっしゃる」

「そうですよ、お嬢さま。こんな可憐な成人男性見たことない」

「まるで聖女のように可憐ですな」

 やめて? 齢数二千年越えの魔王に可憐を連発するのやめて? 耐えられない。

「そうですの、首都でもエインほど可憐な男性は中々見かけませんわ」

「やはりそうですか」

 そうですかじゃねぇわ、よく見ろ! お前らのお嬢様より僕が可憐なわけがなかろうが! ……ない、よな? ない、はず。ないって言って。

「エイン~!」

 あ、城の奥から天使がやって来る。癒されよう。抱っこの体勢を整えるべく、片膝をついて手を広げる。どぅわっ! このかわいい体のどこにこんな衝撃が隠されているのか。天使だがさすが熊一族の子息。危うく後ろへ転がりそうになるのを堪えて、小さくて柔らかな体を抱きとめた。幼児独特の甘い香りに頬が緩む。

「どうなさったのです、エロシリダ様」

「ロシィはエインのおかおがだいすきなのです。だってかれんだもの」

「ロシィは確かな審美眼を持っているのですわ。エインの顔面は至宝。これは世界の常識ですわ」

「そんな常識ありません」

「エインのがんめんはしほう。ロシィ、おぼえましたおねいちゃま!」

 君もか。君もなのか天使よ。君はこの純粋な瞳で筋肉を見すぎているんだ。

「うふふ、ロシィも熊を見飽きたのですわね……」

「はいっ」

 姉弟の会話に居並ぶ熊が少しだけ体を縮めている。可哀想でしょ、いい人たちっぽいよ? 熊だけど。筋肉の印象しか残らないけど。隣国が気の毒になって来た。いい人たちそうだけど、この熊の集団が敵になったらと考えるとげんなりする。こんな筋肉集団が隣をうろついているだなんて怖すぎるでしょ。国境越えようなんて考え起こす気にもならないよ。猛獣注意の看板立てるでしょ。

 馬の足音に振り返ると、シリネーゼ公爵夫人とアナルジダ公爵が城門の中へ入って来るところだった。天使が僕に抱き上げられたまま、両親へ無邪気に手を振っている。

「おかあさま、おとうさま」

 思ったよりお早いご帰還で。もうちょっといちゃいちゃしているかと思ったのに。シリネーゼ公爵夫人とアナルジダ公爵が満足気な表情で馬を降りた。アナルジダ公爵の襟が大きく開いているが僕は何も見ていない。見ていないったら。

「ロシィ、何てことだ! 最近パパに抱っこさせてくれないのに何故その従者に抱っこされているんだい!」

「エインはおかおがとってもかれんで、むさくるしいきんにくではないのですきです」

「パパだって顔はいいよ?」

「おとうさまはいま、もじゃなのでいやです」

 容赦ないなこの天使。強い拒否にアナルジダ公爵は顔を覆って泣いている。

「あっはっは、ロシィはわたくしに似て面食いだな」

「エインは顔面が国宝級ですもの。国で保護するべきご尊顔ですわ。絶滅危惧顔面ですわ」

 人を珍獣みたいに言うな。もじゃもじゃが大声を上げながらシリアナ嬢を抱きしめる。腰が折れるんじゃないかと心配になるが、シリアナ嬢はスカートの中に暗器満載の普通ではないご令嬢なので熊に抱きつかれた程度で折れるわけがない。

「パパは? パパは違うのかいシシィ!」

「お父さまは今、むさくるしい熊ですわ」

 大声を上げて泣く熊、うっとおしいし怖い。シリアナ嬢は僕より冷たい表情でアナルジダ公爵を嘱目している。

「久々にゆっくり晩餐を楽しもうではないか。ここにエリィが居ないのが残念だな、アナルジダ」

「エリィが居れば久しぶりに家族全員で食事ができたのにね、シリネーゼ」

「ではお父さま、お母さま。またのちほど」

「ああ、また後で」

 馬を御者へ渡して城の中へ戻って行く夫人と公爵はぴったり寄り添ってお互いの腰へ手を回して、うん。人目も憚らずやはりむっちゅむっちゅと音を立ててキスしている。童貞どこを見たらいいのか分かんない。視線を逸らせば筋肉、筋肉、筋肉。筋肉が目に痛い。筋肉は目に優しくないことを僕は二千年以上生きて来て初めて知った。目も心も疲れたよパトラッシュ。パトラッシュって誰だ。そんな知人は居ないはずだが。気を取り直して腕に抱えたエロシリダ令息へ声をかける。

「どちらまでご一緒致しましょうか、エロシリダ様」

「えっと、ロシィはおねいちゃまとエインのおかおをながめながら、おちゃがしたいです」

「んぐんっ! 天使と国宝級顔面の奇跡のコラボレーション」

 僕の首にしっかり手を回してにこにこご機嫌のエロシリダ令息かわいい。やだかわいい。何この子怖い。将来老若男女問わず誑かしそう怖い。危ない、油断すると心持って行かれる。相変わらず変な鳴き声を垂れ流すご令嬢なんて僕は見てない。見てないったら。

「どこまでもご一緒致します」

 かわいい天使に目尻を下げて歩き出す。僕はこの天使以外、何も見てない。所構わずいちゃつく公爵夫妻も、人の良さそうな筋肉熊の集団も元子熊のスカートの中に暗器ずらりの公爵令嬢も何も。何もだ。

「天使と陛下の美麗スチルキタ――っ! スマホ……スマホが欲しいですわ……写真を撮らなくてはいけませんわ……っ! 心のエイン様ベストショットファイルが一杯で容量が足りませんのよ……」

 また新しい単語出た。すまほとは何だ。しゃしんとは何だ。べすとしょっととは一体何なのだ。だが聞かぬ。断じて聞かぬ。あとさらっと陛下とか言っちゃダメでしょ君気を付けないとバレるでしょ。

 何やらわけの分からぬことを興奮気味に呟く元子熊の公爵令嬢も、何も見てない。見てないったら。天使かわいい。遠くのお山、てっぺんに雪がかかってきれい。あはは。うふふ。

 晩餐までの間、シリアナ嬢の部屋でエロシリダ令息を膝に乗せてお茶を楽しみ、乞われるままに絵本を読む。いいなぁこの天使。かわいい。癒し。

「エインのきんにくはみぐるしくないので、とてもおちつきます」

 見苦しい筋肉が悲し気な顔でエロシリダ令息を見つめている。エロシリダ令息付きの護衛騎士だ。切ない。

「しかしエロシリダ様。彼らはこの国の盾なのです。あの筋肉はまさに国境線。他国へ『ここに帝国在り』とその強さと堅牢さを体現することで、侵略者から民を守っているのですよ」

「にくのかべ……」

 ちょ、天使ぃぃぃぃぃ! 今天使が言っちゃいけないこと言ったよね!? ダメだよ誰だ天使に肉の壁とか教えたの! マジこの公爵家の子女殺伐としすぎだよね! 教育どうなってんの!

「エロシリダ様。彼らは『帝国は誰にも屈しない、誰にも侵略できない』ことを知らしめているのです。断じて屠られること前提の肉の壁などではありません」

 静かに首を横へ振る。

「ぎゃん顔がいい」

 シリアナ嬢のいつもの発作を完全に無視して天使は素直に頷いた。

「ほこりたかききしたちなのですね!」

「そうです。彼らは崇高にして気高き筋肉なのですよ。その長であるオシリスキナ家、エロシリダ様もまた、気高き騎士なのでございます。気高いひとにおなりなさいませ」

「うっ……! お嬢様に美味しくいただかれてしまった従者殿……っ」

 見苦しい筋肉が拳で目を拭った。ちょっと内股になってないか筋肉。がんばれ筋肉。僕は君たちを応援している。あと気遣ってもらっておいて何だけど、僕はまだ童貞だから。美味しくいただかれてはないから。それを阻止するために君たちのお嬢様に協力してる最中なんでしょうが! 縁起でもないこと言わないでくれないかな!

「はいっ。でもできればロシィはみぐるしくないほこりたかききんにくに、なりますっ!」

 きりっと僕を仰いだエロシリダ令息は純真でかわいい。この天使は熊になりませんように。

「エロアナル様も見苦しくない筋肉だと思いますが……」

「エリィおにいさまは……みぐるしくないけどあつくるしいきんにくなので」

「エリィお兄さまは知性より前に筋肉で解決できることが多すぎるのですわ……」

 うん。分かる。エロアナル令息は存在自体が暑苦しいんだよね。結構細身なのに。この天使が兄のようにならないよう、切に願う。何よりエロアナル令息に外見も中身もそっくりに成長したエロシリダ令息を想像すると今から泣きそう。

「シリアナお嬢様、エロシリダお坊ちゃま、晩餐の用意が整いました」

「参ります」

「ロシィはエインといっしょにいきたいです」

 僕の肩へ小さな頭を寄せ、万人が己を抱っこすることを望んでいると知っている仕草でエロシリダ令息が微笑む。やだ天使。控えめに言って天使。つまり控えめに言わなくても天使。この天使、人の心を鷲掴みにして離さない。天使を抱えたまま大理石の廊下を行く。オシリスキナ領は帝国の西に位置し、冬は短く、春と秋が長い。夏はそれなりに暑いが、湿度は少なく過ごしやすいので西南の沿岸部は貿易と観光で成り立っている。辺境というには気候も恵まれている。農作物も豊かに実る。観光収入も多い。領地自体が潤っているのだ。そのため、当然であるが領主であるオシリスキナ公爵家も昔から資金が潤沢なのだろう。贅沢に透明度の高いガラスをふんだんに使った大きな窓が柔らかく城内を照らしている。アナルファック帝国はミナエロイ大陸の東南にあり、元々全体的に温暖な気候の国である。常春の国。冬が短く通年温かいアナルファック帝国はそう呼ばれている。首都アナルナメルは帝国の北に位置するから、城塞都市ドエロミナはアナルナメルのタウンハウスより温かいくらいだ。

 食堂に入ってエロシリダ令息を椅子へ座らせる。ふと顔を上げると、シリネーゼ公爵夫人の向こうに座るエロアナル令息によく似た面差しの男性が見えた。エロアナル令息とそっくりな垂れ気味の瞳はアイスブルー。高く大きく通った鼻筋、ぽってりとした唇。愛嬌たっぷりで人好きする顔立ちだ。ちょ、待って? え、ちょ、え? 熊が人間になってる。嘘だろあれ、アナルジダ公爵だよな? なるほどもじゃがなくなったら美形。この一族、美形なのにもじゃると熊なの? 何なの? 熊になる呪いでもかかってるの? 給仕をする侍女たちが働く中、シリアナ嬢の侍従である僕は端に控える。

「それで、もう王都に戻る気はないのだよね? シシィ」

「ええ、お父さま。お許しいただけるのならば領地にて家庭教師をつけていただいて、学園へは通わないで済ませたいのです」

「シシィおねいちゃま、かえってくるの?」

「そうだよ、ロシィ」

 アナルジダ公爵は満面の笑みだ。アナルジダ公爵の中では既にシリアナ嬢がドエロミナへ帰って来ることは決定らしい。

「ふむ。では殿下との婚約破棄の件も進めてしまっていいのだね? シリアナ」

「はい、お母さま。他にも手紙では伝えきれないことを相談したいのです」

「では食後にわたくしの執務室へ移動しようか」

「その件についてはエインも一緒でよろしいでしょうか、お母さま」

「うむ……。なるほど。そこで仔細は聞くとしよう」

「エロシリダ様はお食事が済みましたら、お風呂に入ってお休みいたしましょうね。このエインめがご一緒いたしますよ」

「ほんと? いいの? シシィおねいちゃま」

「ええ。ロシィは本当にエインがお気に入りになってしまったわね」

「エインはおかおがいいので!」

「分かりますわ」

 シリアナ嬢が頷いたのはまぁいつものことだ。呆れつつも僕はエロシリダ令息のみを目路に入れて心を無にする。

「分かるな」

 シリネーゼ公爵夫人が深く頷く。いやあんたもかい。

「悔しいがパパも分かる」

 そこは嘘でも自分の方が顔がいいとか言っておこうぜ、アナルジダ公爵。

「わたくし顔面の良さが筋肉をねじ伏せる瞬間をこの目に焼き付けてしまったのですわ、お父さま」

「エインのおかおがゆうしょうです、おとうさま」

 そんな瞬間ありませんでしたよ! ええい、面食い一族め! それでいいのか! 高偏差値の顔面で頷くな!

「このドエロミナでは顔が良くて強いものが一番なのだよ、エイン」

 真顔でシリネーゼ公爵夫人が宣う。それで脳筋美形だらけなんですね、この土地。呪われてる。風土や気候の爽やかさに反して住人が暑苦しいんだよ。

「学園へ行きたくない理由は、のちほどお母さまの執務室でお話いたしますわ」

「シシィが理由もなく学園へ行きたくないなどとは言い出さないだろうからね」

「お母さま……」

「アナルジダは理由もなく嫌だと言い出すが」

「シリネーゼ……理由ならあるよ? シシィと離れたくないとかシリネーゼと離れたくないとかロシィと離れたくないとか」

 いやいやいやいや、駄々っ子か。仮にもアンタ公爵だろうが。

「ロシィはちゃんとおやさいもたべたので、ごほうびにエインにごほんをよんでもらいながらおねんねしたいです!」

 わぁい天使、空気が読める子。しかも五歳にして完璧なテーブルマナーである。

「では、抱っこさせていただいてもよろしいでしょうか。エロシリダ様」

「はぁい」

 天使かわいい。天使の入浴を手伝い、絵本を読んで添い寝して戻って来たら一時間くらい経っていた。ボールが公爵の執務室へ案内してくれる。

「こちらへどうぞ」

「ありがとうございます」

 ノックをして返事を待つ。意外にも扉が開いてシリアナ嬢が顔を覗かせた。

「待っていたわ、エイン。入ってちょうだい」

 エロアナル令息にしたような話をすでにした後なのだろう。さすがに夫人も公爵も親の顔をして僕へ視線を投げかけた。

「あとはこれからどうするか、でしょうか」

「ええ。お兄さまがフィストファック商会を通じて攻略対象の現在の情報を調べてくださるというところまではお話いたしましたわ」

「つまりシリアナ嬢が公爵領で暮らすことは決定で?」

「そうなるね。さすがにアナルアルト殿下との婚約破棄は一筋縄ではいかないが」

 シリネーゼ公爵夫人が形の良い顎を人差し指で撫でながら目を伏せる。

「あふぅん」

 シリネーゼ公爵夫人が撫でた顎は、アナルジダ公爵の顎である。もうね、気にしたら負けな気がしてきたからいちいちツッコみません。ツッコみませんよ、僕は。

「そうでしょうね。王族からの婚約を公爵家から破棄するにはそれなりの理由が必要になるでしょう」

「それはヒロインの聖女が現れれば解決するような気がいたしますの。アホ殿下はアホなので己の欲望を隠したりはできないお方ですのよ」

「シリアナ嬢。さすがにアホ殿下が可哀想になって来たしアホ殿下がなんて名前だったか僕はもう思い出せなくて本人に会った時も思わずアホ殿下と言ってしまいそうで怖いから、アホ殿下の名前をちゃんと言ってもらえないだろうか」

「ごめんなさい、今後アホ殿下をアホ殿下と呼ばないように気を付けますわね」

 大変上品に反省したところで、言った端からアホ殿下呼ばわりだよね。直ってないよね。シリアナ嬢。

「エイン君、アホ殿下のお名前はアナルアルト殿下だよ。ちゃんと覚えておきたまえ。パパはちゃんと覚えているよ! 偉いだろう!」

 髭を剃って風呂に入りさらに髪を整えた公爵は、確かに中々のハンサムである。夕食前まで熊だったとは思えない。顔だけ見れば優し気な風貌で、社交界の女性から大層人気があるだろう。しかし熊だった姿を見ているので、賢い熊だなくらいの感想しか湧いて来ない。感慨深く熊だったハンサムを眺める。しかしゴツい。筋肉で全てを解決しますと筋肉に書いてある。顔と肉体の落差が激しくて、目が複雑骨折しそうである。

「それでもいくつか手を打っておくべきだと思います。アホ殿下……アナルアルト殿下がアホ丸出しで聖女が現れた途端自分から婚約破棄してくれればよし、それまでに証拠集めや情報収集は怠らず、言い逃れのできない婚約破棄の理由を確保するために働きかけましょう。僕はアナルアルト殿下の個人情報を見て作戦を立てたいと思っていますがどうでしょうか」

「それがいいだろう。シシィもそれでいいかい?」

「ええ、お母さま」

「パパはとにかくシシィが領内で暮らしてくれてアホ殿下との婚約が破棄になるなら何でもいいよ」

 おい正直が過ぎるだろ公爵。あと公爵家の人間アホ殿下をアホ殿下呼ばわりしすぎだろ。

「できれば一度、直にアホ殿下……アナルアルト殿下を拝見したいところですね」

 こうなるとアホ殿下が本当にそんなにアホなのか、どの程度どのようにアホなのか、気になるところである。

「それはエインが首都に行かなければ無理だと思いますわ。アホでん……んんっ。アナルアルト殿下は冬にしかドエロミナへお越しにならないので」

「え? 待って、シリアナ嬢はアホ殿下とそこまで不仲なの?」

「仲は悪くないと思うのですが、アナルアルト殿下はわたくしに興味がないのですわ」

「ええ……?」

「なんというか……女性、ではなくエリィお兄さまの妹、くらいの認識しかないと思いますの」

 何だろうな、アホ殿下はあれかな。レプラコーンから宝物をくすねて喜ぶタイプの子供がそのまま大きくなった感じかな。でもシリアナ嬢は子熊だった時代があるらしいことほぼ確定なので、一概にアホ殿下がアホとは言い切れない。僕だったら、幼い頃子熊だった婚約者が気が付いたら普通のご令嬢になっていたら恋愛対象より畏怖の対象になるもん。人類の進化について深く考察したくなるじゃん。

「深淵を覗いた気分なのだろうな……」

 僕今、ちょっとだけアホ殿下に同情している。幼い頃熊だった、現在最強冒険者の称号を持つ公爵令嬢。そう考えると得体がしれない。僕ならどうしていいのか分からん。悪夢見そう。現実に今、悪夢を回避するために動いているしな?

「まぁ、アホ殿下……アナルアルト殿下に会う機会はそのうち訪れるでしょう。エロアナル様も領地に戻るとおっしゃっておられるますし。フィストファック商会からの情報だけではなく、自分の目でも攻略対象の情報を確認しておきたいですし、僕は首都とドエロミナを行き来することになるでしょう」

「そんな! エインが居ない間わたくし、一体誰の淹れてくれるお茶を飲んで、誰が作ったスイーツを食べればいいのかしら……」

「早急にシェフと侍女に教育しておきますよ、シリアナ嬢」

「さすがエインですわ!」

 それに僕なら一瞬でここから首都まで行き来できるし。公爵夫人と公爵の前だから言わないけど。

「わたくしからも陛下にアホ殿下との婚約を解消していただけるよう、進言しよう。今日のところはここまででいいかな? シシィ、エイン」

「はい、お母さま」

「異論ございません、公爵夫人」

 とうとうシリネーゼ公爵夫人までアホ殿下のことをアホ殿下と言い出した。皆さん不敬ですよ。相手は一応王族なんだが。

「それでは本日は解散!」

 シリネーゼ公爵夫人がよく通る声で発する。この人、生粋の将軍なんだろうなぁ。「女傑」という言葉が相応しいが、この人が公爵夫人でありながらここまでの振る舞いができるのは王族の血を引いていることが大きいだろう。この母を見て育ったからこそ、シリアナ嬢は己の立場について正確に理解しているのだろう。

 シリネーゼ公爵夫人のように振る舞える女人は、この世界ではごく少数である、と。

 公爵夫人の執務室を出て、シリアナ嬢と廊下を歩き出す。

「シリアナ嬢、もう少し離れて歩いてもらえるか」

「殿下のおくれ毛から薫る香りフローラルでございますわ。くんすかせずにはいられませんのよ」

 やめてよ、変態ッ! 人の後ろにぴったり張り付いて匂いを嗅がないでもらえないか!

 叫ばない僕エライ。だって僕は魔王で童貞だがいついかなる時も紳士ゆえに。しかし君、背後から僕の腕を掴むのはやめたまえ。力強い、ちょ、ちょ、痛い痛い。嫌がらせをされた上に暴力まで振るうとは令嬢怖い。魔王涙目だからやめて欲しい。

 しばらくその場でくるくると回って背後を取られまいと抵抗を試みる。疲れたのか飽きたのか、シリアナ嬢は大人しく僕の横へ並んで窓の外へ目を向けた。

 さすがは公爵家。質のいいガラスが嵌った大きな窓の向こうに青白い月が出ている。それでもガラス越しに見える月は僅かに歪んで映った。

「わたくしが前世で暮らしていた国では、月に細かく名前を付けて愛でる習慣がございましたのよ。満月の少し手前、今日の月は待宵月と言ったところですわね」

「待宵、ですか」

「来るはずの人を待つ日が暮れたばかりの夜、という意味ですのよ」

 ああ、それは。

「ああ、それは美しいな。夜が深くなる前に、月が綺麗になってしまう前に、と恋しい人を待ちながら見る月、か」

 隣を歩くシリアナ嬢へ顔を向ける。令嬢は何故か、まるで痛みを堪えるかのような表情をして僕を見つめていた。

「? どうかしたか」

「……いいえ。エインはロマンチストですわね」

「自慢じゃないが繊細な童貞なのでな」

「ふふっ。陛下は優しく思慮深いお方ですわ」

「っ、なんだ? 褒めても何も出ないぞ?」

「大丈夫、こちらで搾り取りますので陛下は男マグロでOKですわ」

 まぐろが何のことだか分からないが、ろくでもない意味だということだけは分かる。

「君ほんとそういうとこだぞ。はぁ、こっちでお風呂入って僕は少し魔界に戻るから。何かあったら君に渡してある水晶に声をかけるように」

「分かりましたわ。陛下は本当にお風呂が大好きですのね」

「魔界じゃ綺麗な水は貴重だからさ。貴族ですら複数人で風呂に入るのが当たり前だからね。トアがまだ小さい頃はよく一緒に入ったものだよ。今も節約のために一緒に入るけど」

「くんずほぐれつご入浴ですのね!」

「くんずほぐれつってナニっ?!」

 突然目を見開くのはやめてくれないか。僕の心臓によくないから。

「……陛下とショタ幹部……陛下×シリトア様と見せかけておいて、数年後には成長したシリトア様×陛下……ええ、下剋上。下剋上ですのね……いけませんわ、腐った掛け算が捗りますわ……」

「……」

 腐った掛け算とは。嫌な予感しかしないので何も聞かなかったことにした。

 シリアナ嬢が部屋に入り、専属侍女が深々と頭を下げるのを見守る。なんだっけ、この子。エロイア・ナルジワだっけ。さすがシリアナ嬢が幼い頃から仕えているだけあって何事にも動じない。

 実を言うと首都のタウンハウスからこのドエロミナまで、僕とシリアナ嬢は三日で来た。本来はどんなに急いでも馬車で一ヵ月くらいかかる道程らしい。僕の転移魔法なら、大陸全土どこへでも即時移動可能だ。移動できる物にも制限がない。だがドエロミナへ僕も一緒に帰るのならば、それなりの荷物と人が必要になる。「一ヵ月かけて帰って来ました」という体を装わなければならないのだ。公爵令嬢であるシリアナ嬢が、一ヵ月もの長旅に侍女を一人もつけないのは疑問に思われるだろう。侍女も一緒にドエロミナへ連れて帰るとなると、僕の転移魔法を誤魔化すのは難しい。

「わたくしも転移魔法は使えますわよ?」

 そうだろうね。じゃなきゃ、首都のタウンハウスからでもドエロミナからでも、神聖メ・スイキ法王領と帝国の境目にあるシリズキーネ山脈のラストダンジョンまで毎日通えるはずないもん。もちろん、転移魔法は誰にでも使える魔法じゃない。使える、というだけで規模も範囲も問わず習得した人間は尊敬される特殊な高等魔法だ。

「そもそも転移魔法が難しいのは自分の魂は再構築できても他人の魂を再構築できる人間が居ないからだ。そこは僕の領域だからね。だから転移魔法は僕の得意技なのさ」

 だから後は、単純に魔力の多さによる転移距離の長さ勝負になる。つまり、魂の情報を持たない無機物の転移はそこそこ行われている。それでもやっぱ、転移魔法の使い手は少ないので王室が緊急伝令などに使うのみだ。

「でも君、馬車ごと転移魔法できるの?」

「……そんな範囲の転移魔法は人間には使えませんわ。自分一人を転移、しかも距離は人によってまちまちで、わたくしはドエロミナからシリズキーネ山脈までが限度ですがそれでも今世紀最高の転移魔法の使い手と言われておりますのよ」

 そうだろうなぁ。人間でそんなに長距離を移動できる転移魔法の使い手なんて、百年に一人現れるかどうかだから。

「うん。だからおいそれとは使えないでしょ。僕の正体バレちゃうじゃん。だから君の侍女は一ヵ月先に出発してもらって、ドエロミナの手前の宿で待機してもらう」

「ええ」

「そこへ僕らが一ヵ月後に合流して、そこからドエロミナを目指す。三日くらいかけて、ゆっくり行けばいい」

「分かりましたわ」

「問題は侍女の口止めだよね。疑問を持たないほどうっかりした子か、秘密を絶対に守れる子、居る?」

「それならエロイアで決まりですわ。彼女はきちんと対価を払えばきっちり仕事をする人間ですの」

 そうしてシリアナ嬢が名前を挙げたのが、このエロイア・ナルジワである。無表情で僕を見つめ返し、無言で雄弁に語る。「とっとと行きやがれ」と。彼女はお金が大好きで、お金さえ渡せば秘密は絶対に守るらしい。まぁそういう人間の方が当てになるよね。信用できるかどうかは別として。

 無表情のままのエロイアへ手を振り、廊下を歩き出す。さて、ここからは魔王のお仕事だ。僕は魔王だから寝なくても平気だしね。魔界も放ってはおけないし。ただでさえシリアナ嬢に一晩付き合わされて黒髪が真っ白になってしまったトアにこれ以上、迷惑をかけるのも心が痛む。そうだ、トアにクッキー持って行ってやろう。

 そうして朝に戻って来て、朝食をとってシリアナ嬢の従者として働く。これが代わり映えしなかった僕の、新しい日常だ。

「おはようございます、エイン!」

「おはようございます、エロシリダ様」

 わぁ、天使かわいい。僕を見かけたら当然のように抱っこされるために両手を上げちゃうのほんとかわいい。遠慮なく天使を抱き上げてシリアナ嬢の部屋へ向かう。

「おねいちゃま!」

「あらロシィ。すっかりエインがお気に入りね」

「エインはおかおがいいので!」

「分かりますわ。朝から眼福で寿命が延びますものね」

「です!」

 朝食をとるために食堂へ移動するシリアナ嬢とエロシリダ令息に付き従う。柔らかい朝の光。一日の始まりが少しひんやりとした空気なのはなぜだろう。深く吸い込めば清々しい気持ちになるのはなぜだろう。

 食前からいちゃいちゃするオシリスキナ公爵と夫人を目にするのキツい。童貞にはキツい。朝から胃もたれ必至。この人たちは今から食事だからいいけど僕はこの後食事するんだよ? この光景を見た後に。食事をする天使に意識を集中してないとキツい。

「ぐふふ、お父さまとお母さまのいちゃいちゃを直視できないエインも顔がいいぐへへ」

 シリアナ嬢はいつも通りに鳴いている。早く食事済ませてくれ。僕がこの地獄から抜け出せないだろう。あっ、天使はゆっくりよく噛んでお食事しましょうね。

「エイン、ロシィはきょうもおやさいたくさんたべられました!」

「ご立派ですよ、エロシリダ様。たくさん食べて健やかにお育ちくださいませ」

「はいっ!」

 天使天使。かわいいな天使癒し。エロシリダ令息のお口を拭い、椅子を引く。自分で降りる気一切ゼロだがそれでいい。きらきらした瞳で僕を見つめ、手を広げた天使を抱っこする。

「おねいちゃま、ロシィはエインとおさきにしつれいしますね」

「ええ、よろしくてよ……はっ! ロシィたら恐ろしい子。わたくしの侍従だというのにまるでもう自分の侍従のようにエインを扱って……!」

「ぶっちゃけシリアナ嬢に仕えるよりエロシリダ様にお仕えする方が楽しい」

「エインまで酷いですわっ!」

「エインくんがシシィにもロシィにも好かれていてパパは寂しいっ!」

「君にはわたくしがいるではないかアナルジダ」

「シリネーゼ……!」

「アナルジダ……」

 あああああ、またむっちゅむっちゅ始まったマジほんと童貞に気を使ってくれないかなこの夫婦。落ち着かないからさっさと天使連れて退散しよ。

 エロシリダ令息の部屋まで、肩車をして天使との時間を堪能する。

「エイン、ロシィはごほんをよんでほしいですぅ」

「かしこまりました、エロシリダ様」

 天使は賢いので僕が読んであげた本をすぐに覚える。

「こんどはロシィがごほんをよんであげますね!」

「光栄でございます」

「ええっとぉ、すのーうるふはちいさなおててがつめたくて、にんげんのむらまでてぶくろをかいにいくことにしました。でもすのーうるふはいちエロイどうかしかもっていません」

「おじょうずです、エロシリダ様」

「いちエロイぎんかは、じゅうエローどうかです。ロシィすごい?」

「素晴らしいです、エロシリダ様。エインはとても驚いてしまいました」

 この国の通貨は一エロー銅貨、一エロイ銀貨、一ドエロー金貨がある。一エロイ銀貨は十エロー銅貨と同等、百エロイ銀貨で一ドエロー金貨と同等である。ちなみに貴族しか使わない、百ドエロー金貨と同等の一ドエロイ紙幣というものもある。

 庶民は金貨など一生、目にしないだろう。僕の給料は一ヵ月四十エロイ銀貨で、騎士の所得の二倍である。騎士は平民でもなれるからと言っても、騎士だからね? 国防の要よ? その二倍を侍従に出すって一体どんだけ金持ちなのよオシリスキナ公爵家。

 そしてこの天使、通貨単位を理解しているのである。はっきり言って天使な上に賢いとか完璧か。

「えっへん、ですぅ!」

「大変素晴らしいエロシリダ様には、後でパンケーキを準備いたしますね」

「ぱんけーき! たのしみです!」

「わたくしも! わたくしもですわ、エイン!」

「パパも! パパもですよ、エインくん!」

「わたくしもだ、わたくしもだぞ、エイン君」

 おいいいいいいいいいいいいい! この親子おいいいいいいいいいいいい! いつの間にエロシリダ令息の部屋に集合してんのしれっと合流してんのおい。

「皆様、朝食をお召し上がりになったばかりでは?」

「甘味は別腹だぞ、エイン君」

「スイーツは別腹ですわ、エイン」

「甘いものは心の栄養剤なのだぞ、エインくん」

「……」

 エロシリダ令息の部屋へ当たり前のように集まってお茶を飲んでいる親子へ一瞥投げかける。シリアナ嬢が両手を胸の前で合わせて上機嫌に尋ねて来る。

「エイン、エイン、先日のカッテージチーズも大変おいしゅうございましたわ。今日のパンケーキにはその過程でできたリコッタチーズを入れるのでしょう? 楽しみですのよ」

 タウンハウスに居る時偶然できたクロテッドクリームを再現しようと色々試している過程でカッテージチーズとリコッタチーズとモッツアレラチーズができたんだよね。全部大まかな作り方が一緒なんだよ。モッツアレラチーズは最終的に捏ねなきゃいけないけど。ちなみに命名は全部シリアナ嬢だ。前世の世界に似た食べ物があったらしい。モッツアレラチーズはパンに乗せて軽く炙ったらシリアナ嬢は「これこれ、これですわぁ~」と涙を流しながらパンを食べる手が止まらなかった。吸い込む勢いでパンを食べる人間を僕は初めて見たもんね。

「パパそれ食べてません! エインくん! 仲間外れはよくないな!」

「わたくしもだ、わたくしもいただいていないぞエイン君。エリィとシシィの手紙で君の作る食事がどれほど美味しいかを知って心待ちにしていたというのに」

 何この人たち。食に貪欲過ぎないか。まぁ分かるけど。やっぱ人間の欲求の多くを占めているのは食だよね。美味しいもの食べたい。

「では僕はお茶の準備をしてまいりますね」

「わぁい。エイン、ロシィはおりこうにしてますね!」

「はい、エロシリダ様」

 天使かわいい。この天使に美味しいものを食べさせたい。エイン大好きって言われたい。癒し。

「楽しみですのよ」

「楽しみだね」

「楽しみだな」

 完全に待ちの体勢に入ったオシリスキナ一家を眺める。ええ、ええ。いいでしょう。こんなに期待されれば僕だって悪い気はしませんとも。エロシリダ様の部屋を後にして、厨房へ向かう。料理長にはすでに許可を取ってある。各種チーズの作り方も伝授してある。使用人の本日のランチはモッツアレラチーズを挟んだ残り物野菜と生ハムの端切れサンドウィッチだ。これも僕が作った。

「エインさん! 勉強させてもらっていいですか!」

「ええ、どうぞ。そしてできれば皆さんにもレシピを覚えていただきたい」

「よろしくお願いしますっ!」

 この城は料理人まで筋肉である。完全なる体育会系組織に僕は目眩を覚えたほどだ。筋肉で料理は美味くならない。だが筋肉は料理に必要な時もある。そう、筋肉は適所で使ってこそ真価を発揮するのだ。例え熱い厨房にひしめく筋肉が暑苦しかろうとも! 僕は筋肉に! 負けないっ!

 朝から室温に戻しておいたバターに蜂蜜を加える。リコッタチーズと牛乳、卵黄をあくまでも優雅に、ふんわりと混ぜ合わせる。ふんわりとだ。篩にかけた小麦粉と重曹、塩を少々加えて貴婦人の手を取るように優しく混ぜ合わせる。筋肉に泡立てさせておいた卵白を何度かに分けてさっくり空気を含ませるように混ぜ合わせる。さすが筋肉。しっかり角が立っている。

「さて」

 準備しておいた蜂蜜入りのバターをたっぷりフライパンに溶かして生地をぽったりと落とす。ちなみに庶民は竈に薪を使っているが、公爵家では魔法を使っているので細かな温度調節が可能である。そう。つまりパンケーキは弱火だ。弱火だよ筋肉。慌ててはいけない。蜂蜜の甘い香りを含んだバターが鼻腔を満たす。さらにフライパンから立ち上る生地の讃美歌が聞こえるか。音まで美味い。ああ。もちろんだとも。これは約束されている。美味いに決まっている。耳と目でも理解できる。美味い。涎を拭きたまえ筋肉。

「手順は分かったかな?」

「ハイッ! エインさんッ!」

「そう、捏ねたくなるのを堪えてフライパンに生地を置くように落とすのです。蜂蜜バターはケチくさい使い方をしてはいけません。公爵家の方々がそんな些細なことを気にするはずもありません。さぁ、全ては美味しいのために!」

「ハイッ!」

 タウンハウスの料理人も覚えが早かったが、ドエロミナ城の料理人も勘がいい。

「残りのリコッタチーズで皆さんの分のパンケーキもお作りになるとよろしいでしょう」

「うおおおおお!」

「やったああああ!」

 厨房が沸き立った。美味しいものってやる気が爆上りするよね! だから美味しいものって大好きさ! 四人分のパンケーキをワゴンに乗せて厨房を出る。エロシリダ子息の部屋で、熊一族が待ち構えていた。

「来ましたわ! ロシィ、美味しいパンケーキがすぐそこですわよ!」

「うわぁい、いいにおいです」

「エインくんこっち、こっちに!」

「何と言う芳醇な香り……朝食を少し抑えめにして良かった」

 公爵家の人間だろ、座って待ちなさいよほんとにこの一家は熊なんだから。熊の如くうろうろしていたオシリスキナ親子が素早くテーブルに着く。いやぁ、アナルジダ公爵いい顔するわぁ。ワクワクが止まらない顔してるわぁ。ドエロミナは数多くの花が咲き乱れるので養蜂も盛んである。ちなみにドエロミナに来て僕が一番嬉しかったのは砂糖だ。そう。ドエロミナは気候が温暖なため、サトウキビの栽培も盛んである。砂糖はカ・ツヤクキィン共和国やケツナメル王国の一部温暖な地域でしか栽培されていないため、大変高価なのだ。もちろん、帝国ではドエロミナでしか栽培されていない。貴族だって大量に購入ができない超贅沢品である。それがこのドエロミナでは庶民の口にだって入るのだ。最高! 甘いものって心が潤うよね!

 ふわふわのリコッタチーズ入りパンケーキに、たっぷりと蜂蜜をかける。とろとろと流れる黄金の蜜に、一欠け乗せたバターが溶けて行く。芸術的じゃん?

「んまい、んまいよエインくんんんん」

「エインさすがですわ、映え確実の美味しさですのよ」

「エイン君、君さては天才だな……?」

「エイン、とってもおいしいですぅ」

 そうでしょうとも。そうでしょうとも。もっと褒め称えていいのよ。

「わたくし一枚目が温かいうちに二枚目にたっぷりバターを乗せて溶かしておきたいのです! エイン!」

「かしこまりました」

「ぼくも! ぼくもそれお願いだよ、エインくん!」

「わたくしもだ、エイン君」

「エイン、ロシィもです!」

「かしこまりました」

 いい顔するじゃないかオシリスキナ一家。美味しい顔っていいよね。うっとりとパンケーキを食べ、唇を蜂蜜とバターでてっかてかにしている熊と女傑と天使を眺める。

「エインはマフィンも最高なのですよ、お母さま」

「そうか、午後のティータイムを楽しみにしているぞ、エイン君」

 午後のティータイムもするつもりなのかこの公爵夫人。いいのか。太るぞ。言わないけど。というかめちゃくちゃスタイルいいな公爵夫人。熊は熊だから分かるけど、熊と一緒に盗賊を討伐してたって言うんだからまぁ納得っちゃ納得か。

「パパも! パパも!」

「ロシィもたのしみです、エイン」

「首都のタウンハウスでも、料理人の仕事を奪いたくないとスイーツのみに専念していたのですわ。エインがメイン料理にも改良を施し始めたらわたくし、エインの食事以外食べられそうにありませんの……」

「恐ろしいが、期待してしまうなそれは」

「エインくんにドエロミナ城の料理人を鍛えてもらうしかないと、パパは思う」

「エインがおやつだけじゃなく、ごはんもおいしくしてくれるのですか?」

 そりゃあ毒があったり謎のえぐみがあったり痺れたりする食材しかない中、全てが魔界産の食材でも何とか美味しく食べられないかと二千年も試行錯誤を繰り返して来たんだよ? 毒もえぐみも謎の痺れもない安心安全が保障された食材で、さらに美味しくならないか工夫するなんて楽勝でしょうが。あと単純に美味しいものが食べたいじゃない。ずっと憧れてたんだ。時々トアが買って来てくれる甘いもの。魔界のみんなが、みんなで、食べられたらいいなって。

「んふふぃでふふぁ~」

 「美味しいですわぁ~」って言ったんだろうなって分かるけど、食べ物を口に含んだまま喋るのやめなさい君公爵令嬢だろう。頬に手を当ててうっとりと目を閉じたシリアナ嬢の表情が幸福に満ちているので許すけど。

「エインはやさしいおかおでみんなをみますね」

 エロシリダ令息が無邪気な笑みを向ける。笑っていたか? 僕。自分の顔を撫でた僕へ、オシリスキナ一家の視線が集まる。やめろ、まるでエロシリダ令息を見つめるような目で見るな。僕は子供じゃないぞ。そんな見守るみたいな目を向けるな! 大変にバツが悪い。

「エロシリダ様が美味しいと言ってくださって嬉しいからですよ」

 嘘は言ってない。エロシリダ令息が美味しいと素直に笑ってくださるのはとても嬉しい。魔界は単純に人口も少ないし、人型の子供が少ないからさぁ。子供かわいいよね。もちろん獣型も魔獣型も子供はかわいいけど。あと、当たり前だけど魔族は寿命が長いから、成人してからの期間が長い。幼年期が短い種族がほとんどなんだよ。つまりエロシリダ令息かわいい。

「ごちそうさまでした!」

 エロシリダ令息が尋ねずとも満足だと全身で表して僕の顔を見た。足が付かないソファからぽーんと元気よく降りて、僕の足元へ駆け寄る。それから愛されることを知る仕草で両手を広げた。

「ロシィはきょう、エインとおふろにはいりたいです!」

「ダメですのよ! エインはわたくしの従者ですのよロシィ一緒にお風呂だなんて羨ましいのですわエインの玉のお肌うへへ白磁のようにすべすべお肌ぐふふわたくしだってぜひ拝見したいのですわ」

 おい何言ってくれてんだこの公爵令嬢。エロシリダ令息を抱っこしてシリアナ嬢へ向けた視線はまぁそりゃ、冷ややかなものになるよね。公爵令嬢なのに君今、うへへとか言っちゃったよねダメでしょ。

「おねいちゃまがこわいです」

「見てはいけませんよ、エロシリダ様」

「昨日会ったばかりのエインくんがロシィにそんなに慕われてパパ羨ましい悔しい阻止したいロシィ、我儘言ってはいけませんエインはシシィの従者なのだから嫉妬で気が狂いそう」

 エロアナル令息とそっくりだこの人。いやエロアナル令息がこの人に似てるのか。何にせよ絶対親子だな。疑う余地ないな。

「いえ、私は別に構いません。故郷ではよく親類の子供と一緒に入浴しておりましたので、介助の心得もございますし」

 幼い頃のシリトアもよく僕とお風呂に入ると言って駄々を捏ねていた。かわいかったなぁ。

「いいや、聞き分けなくてはいけないよロシィ。エイン君はシシィの従者だ。ロシィの従者は六つになったら選ぶ。我欲で道理を曲げる癖を今からつけるのは良くないことだ。権力を持つものは同時に分別も身につけなくてはいけない」

 やはり公爵夫人が実質、ドエロミナの主なのだ。きっぱりと言い切ったシリネーゼ公爵夫人は堂々たる為政者だ。何だ、シリネーゼ公爵夫人はまともな親じゃないか。何でシリアナ令嬢は魔王に純潔を捧げるとか言い出す子になっちゃったのか。頭痛ぁい。

「エイン……」

 しょんぼりと項垂れて僕の頬へ小さくて柔らかな手を当てたエロシリダ令息へ、顔を寄せる。

「エロシリダ様。シリアナ様がお許しになった時、お許しになったことでしたらいくらでもお申し付けください。おかわいらしいエロシリダ様が微笑んでくださるならば、エインめは幸いにございますよ。それはシリアナ様も同じでございましょう」

「もちろんですわ、ロシィ。さ、お姉さまのお膝へおいでなさいませ」

「おねいちゃま!」

 身を捩って手を伸ばしたエロシリダ令息を慎重にシリアナ嬢の膝へ下ろす。白金細工のように美しい姉弟は、互いに見つめ合って柔らかな表情を交わしている。

「ロシィの気持ちはとても分かりますわ。エインはお顔が天才ですもの」

「エインはおかおがきれいなのです!」

「仕方ないね、綺麗なものが好きなのはオシリスキナ家の血筋だ」

「きれいなだけじゃダメだからねエインくん、強くないと認めないからねエインくん、いくら顔が最高にきれいだからってパパは許さないからねエインくん!」

 黙れ熊。ここの人たち筋肉見すぎておかしくなってるんだよ正気に戻って。

 こんな時でも、シリアナ嬢のカップが空になったらお茶を注いでしまう僕って従者の鑑。当たり前のようにカップを置いた公爵夫人と一瞬見つめ合ってしまった。鷹揚に頷く公爵夫人のカップへお茶を注ぐ。憮然とした表情で僕を睨みつけているアナルジダ公爵のカップにもお茶を注いだ。

「ロシィはおなかいっぱいなのでもう、おちゃはいただきません」

「自分のお腹が満腹かどうか判断できるエロシリダ様はとても賢くていらっしゃいますね」

「んぐ……っわたくし、この一杯で止めておきますわエイン……」

「左様でございますか、シリアナ様」

「わたくしには賢くていらっしゃいますね、はございませんの?」

 幾分寂しそうに僕へ問いかけたシリアナ嬢へ、冷ややかに答える。

「シリアナ様はおいくつでございますか」

「……褒めていただけませんのね……」

 弟に対抗心を燃やすな君は。そこで「じゅうごちゃい」とか言われなくて良かったよ。

「パパは大人なのでパンケーキのおかわりも所望します、エインくん!」

 皿を舐め回す勢いで完食した公爵が手を上げる。きりっとするな、きりっと。くそぅ、熊だったくせに髭を剃ったらやっぱ顔がいいなこの熊。

「アナルジダ、パンケーキのおかわりが来たらわたくしにも分けてくれないか」

 人差し指で公爵の顎をくい、と上げさせて公爵夫人が微笑む。それから顔を近づけて囁いた。

「口移しで」

「シリネーゼ……」

 もじもじするな熊よ。そしてそういうことは子供の見ていないところでやってくれ。咳払いをして言い放つ。

「では公爵夫人の執務室へご用意させます。よろしいですね?」

「う、うむ」

「気遣いができるいい子だね、エイン君」

 せっかく子供の前でいちゃいちゃするなという意味で気遣ったのに今ここでむっちゅむっちゅするな子供と童貞の教育に悪いでしょ! 童貞は! 目のやり場に困ってしまうって何度も言ってるでしょ!

 回遊魚くらい忙しなく目を泳がせていると、扉をノックする音がした。

「エロシリダ様。お勉強の時間でございます」

 エロシリダ令息の家庭教師だ。

「エイン、またあとであそんでくださいね?」

 かわいい天使の部屋から出て、公爵夫人の執務室へ向かう。ううう、行きたくないよぅ。この夫婦、廊下でもいちゃつくんだもん。

 案の定、執務室に着いた途端にまた公爵と夫人はむっちゅむっちゅ音を立ててキスし始めた。いたたまれなくてティーポットへ目を落とした僕のジャケットの裾を摘んで、シリアナ嬢が窓を指す。

「エイン、お兄さまからのお手紙が届いたようですわよ」

 飛んで来て窓にびったん! と貼り付いた手紙は、しばらくの間ガラスと格闘した後、どうにかガラスを通過して公爵夫人の手へはらりと落ちた。

 はい、よいこのみんなは僕がちょっと前に言ったことを覚えているかな? 転送魔法が難しいのは「魂の情報」を再現することが困難だからって話をしたよね。だから、無機物の転移は結構行われているんだ。でもね、使い手に寄るところが大きいから、こんな感じになっちゃうんだよね。もちろん、使い手の魔法の精度が上がれば上がるほど壁などの障害物はスムーズに通過するし、きちんと相手の目に付くテーブルの上などに転移されるよ!

 公爵夫人が目を通して、公爵へ手紙を渡した。公爵も手紙に目を通し、それからとても嬉しそうに「ふはは」と声を上げてから、手紙をシリアナ嬢へ渡す。手紙を受け取ったシリアナ嬢はしばらくしてふう、と一つため息を零した。

「お兄さまったら、さすが対応が早いのですわ……」

「手紙には何と?」

「『やぁ、シシィ元気かい? 首都の神殿を全て買収してみたよ。それから聖女と関わりのあった高位神官のアナルディル・ドウは幼い子供ばかりと祈祷室に籠っているのは何でだろうねとメ・スイキ法王領のインランド・ヘンターイ十二世猊下に信書を送ったら周りにおっさんしか居ない法王直属の侍従神官になったようだよ。何があったのかな? 不思議だね。何はともあれ法王直属だなんて大出世だよね!』」

「ぶふぉっ」

 鼻水出ちゃったじゃない。おいおいエロアナル令息気持ち悪いとか言ってごめんね? 超絶有能じゃないのシリアナ嬢が関わっていることだけに対してだろうことは想像に難くないけど。エロアナル令息の妹への感情が大きすぎて怖い。それにしても、げぇむとやらが始まる前に強制退場させられた攻略対象の神官に同情を禁じ得ない。まぁ、どちらにせよひろいんの聖女は一人しか居ないのだから、六人中五人はひろいんとは結ばれない運命なわけだが。

「いくらエロアーナ教の神官は婚姻を禁止されていないとは言え、さすがにロリコンはアウトなのですわ……」

 手紙を封筒へしまい込み、遠くへ視線を送りシリアナ嬢が呟いた。ろりこんとは何だろう。ろくなことではないのは確かだ。僕は賢い魔王なので聞こえなかったフリをした。

「ふむ。しかし猊下に仕える一部神官は貞潔が義務付けられていたはずだ。そうだね? アナルジダ」

「あはは、侍従神官がそれだねぇ。敬虔な信徒たち憧れの職だよ? エリィはいいことしたねぇ。パパからも二度と猊下の側仕えから外されないようにお願いしておこうかな」

 こっわ。完全に公爵夫人に実権を握られているのかと思ったら、そんな所に人脈を持っているのかアナルジダ公爵。ただの顔がいい筋肉熊だと思っていたのだが侮れない。

「お父さまはエロアーナ教のインランド・ヘンターイ法王直属デラエロイケツ聖騎士団の元団長ですのよ」

「ふふ……まだ無垢だったアナルジダに愛を囁いた時と言ったら……」

 法王直属の聖騎士団ってめちゃくちゃ規律が厳しくて貞潔の誓いを立てた騎士しかなれないんだろ? つまり童貞以外はお断り騎士団なんだろ? 童貞同士気が合いそうだと勝手に親近感を抱いていたが結婚して子供が三人も居る熊は仲間ではない! 断じてない!

 しかし聖騎士を口説いたのかよ公爵夫人とんでもねぇな。だが大陸の八割の人間が信仰するエロアーナ教に人脈を持ち、唯一の陸路でありケツナメル王国、カ・ツヤクキィン共和国との玄関口であり、帝国の軍部の要であるオシリスキナ公爵家はマジで重要な家門なのではないだろうか。アホ殿下もといアナルアルト殿下は子爵の聖女を「聖女」という理由のみで選んでいる場合ではないのでは? 他人事ながら頭が痛い。

「あっ」

 だからか。オシリスキナ公爵家が絶大な権力を持ち、他の家門に変わることができないからこそ、婚約を破棄するのであればシリアナ嬢が有責であることにしなければ都合が悪いのではないだろうか。これは攻略対象との接点をなくしたところで解決しないのではないか。特にアナルアルト、もしくはシリアナルとひろいんが結ばれる場合はその可能性が高くなる。

「全力を挙げて淫行教師とひろいんのるーととやらに持って行かなければならないかも知れません」

「どうかしましたの、エイン」

「王太子二人とひろいんに上手く行かれてしまうと、オシリスキナ家が陥れられる可能性があります。というか、僕が王ならそうします」

「……シリアナが有責ということにして、それを機にオシリスキナ家から権力を取り上げようというわけか」

「アホ殿下の父君がアホ殿下とそっくりのアホなら良いのですが。もし多少なりとも知恵のある王であり、知恵のある側近が居るのであればそうするでしょう。娘の過失なら公爵家まで罰する必要はない。それどころか娘の件を盾に無理な要求をすることもできる。権力を削ぐこともできる。旨味しかありません」

「気に入らないな。大体メッシィはさ、自分では何もしない割に成果は独り占めしたいっていうちっさい男なんだよねぇ」

「メッシィとは?」

「メスアナだよ。ぼくたち、ゼンリツセェン学園の同級生なんだよね」

「メスアナ……?」

「現王のメスアナ・アナ・ル・イジリスキー・アナルファック陛下のことですわよ、エイン」

 シリアナ嬢の目が死んでいる。つまりそういうことなのだろう。うっかり意味を尋ねるとはしたない言葉を連発されてしまうので、何も聞かないことにした。

 しかしアナルジダ公爵、聖騎士団長だったり王を愛称で呼んだりってこの人もそれなりの家門の令息だったのでは。顔に出ていたのか、公爵夫人が赤い唇の端を吊り上げる。

「アナルジダは元々、ケツナメル王国の出身なのだよ」

「公爵家に婿入りする前はアナルジダ・ケツ・イタイネンと言ってね。ケツナメルの現王はぼくの伯母なんだよ」

 つまりアナルジダ公爵はケツナメル王国の王弟だか王妹の、多分次男か三男辺りなのだろう。ケツナメル王国は元々最高権力たる王の座には女王が即位する国だ。女性でも爵位を継げるし、当主にもなれる。官吏にも女性を多く登用している。そんな国だからこそ、王族に連なる血筋のアナルジダ公爵でも聖騎士団に入団できたのだろう。跡継ぎを童貞じゃないとなれない聖騎士にするわけないからね。それでもケツナメル王国の大公家の人間である。他国に婿入りとは思い切ったものだ。

「痔は痛いに決まっているのですわ。デラエロいケツ聖騎士団とかメスイキとか淫乱ド変態とかお尻など舐めないでいただきたいのですわ。もうどこからツッコんだらいいのか分からないですの。そもそもお尻には何もツッコんではいけませんわ……」

 シリアナ嬢のことはいつも通りに無視する。それなりどころか王族じゃん。つまりケツナメルの王族は美形熊である確率が高い。お会いしたくないものである。

「ケツナメル王国は産業が盛んな国ですよね。魔法機器の生産技術が高く魔法機器兵器が強い。大陸の中央にある小さな国ながら、中立を謳っているのは国力と兵力が高いからだ」

 そういえばフィストファック商会の昇降機もケツナメル王国製だと言っていたな。

 僕が帝国の王ならげんなりするだろう。この家門にだけ、ないがしろにできない理由が集中している。そりゃ王子とシリアナ嬢を婚約させるわ。それしかないもんな。下手を打ったらケツナメルが帝国に口出しする大義名分を与えかねない。

「帝国は他の国に比べると歴史が浅い。アナルファック帝国は大陸の八割が信仰しているエロアーナ教ではなく、原初神ドライオル・ガズムの娘であるオシリアナを信仰している。ゆえにエロアーナ教の歴代法王から長年に渡って改宗を迫られているという微妙な事情もある。地理的に恵まれているからこれまで大きな戦の経験がないだけ。僕ならこんな火種だらけの家門、味方にできないのならばいっそのこと潰した方がマシだと考える」

「つまり?」

 公爵夫人はさらに深く、唇へ笑みを刻む。公爵、夫人、シリアナ嬢の視線が一斉に僕へ向けられた。

「二人の王太子るーとは断固阻止。オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵とミコス・リハンデ・イカセル子爵令嬢の恋を全力で成就させることにします」

「よし。では夕餉の後で具体案を話し合うとしよう。エインくん」

「はい」

 どうした熊。何故突然仕切ったんだ熊。ハンサムな熊へ体ごと向き直る。

「パンケーキはまだかね?」

 食欲も熊並みかよ! ほんとこの家の人間は! でも僕のデザートを褒めてくれる人大好きぃ!

「ただいまお持ち致します。では失礼」

「わたくしも失礼いたしますわ、お父さま、お母さま」

 答えの代わりに閉まる扉の向こうからむっちゅむっちゅ音がしていた。いい加減童貞に気を使ってくれないか! おかわりのパンケーキを届けた後、皿を下げるのを別の侍女にお願いして逃げ出した。シリアナ嬢の部屋の扉をノックする。

「お入りなさい」

「失礼致します」

「踏んで! 踏んでくださぁぁい!」

 扉を開くと、足元に滑り込んで来た闇の精霊王の存在を僕の記憶から抹殺した。踏んで堪るかこの変態精霊王め。闇の精霊王だからって、魔王の仲間だと思われては困る。僕の知り合いにこんなド変態はいない。いないったら。

「シリアナ嬢。できるだけオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイの情報を聞かせてもらえるか」

「あはは容赦ないガン無視んんぎぼぢいいいいいいい」

 それだけのためにシリアナ嬢はソファへ座っているのか。もう嫌だ。まともな生き物が生息していないこの城。目を閉じて深呼吸をする。

「ごっふ美麗スチルご馳走様です眼福です網膜が浄化されました」

「うん、だからエロアナル令息にオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイの情報を集めるように手紙を書いてくれ」

「分かりましたわハァハァ」

 年頃の娘が鼻の穴を広げるんじゃない。

「放置プレイ! 放置プレェェェイィィィィ!」

 様子のおかしい闇の精霊王と様子のおかしい公爵令嬢。気が狂いそう。魔界に帰りたい。そうだ、魔界に帰るためにも僕はさっさと聖女と淫行教師の恋を成就させなければならない。今すぐ! 早急に! 聖女には淫行教師と不適切な関係になってもらわねばならぬ! だが他人の恋路をどうにかできたら僕は未だに童貞だったりはしないのだ!

「童貞には荷が重い」

 覚えず口から転び出た呟きに、闇の精霊王が喜々として叫んだ。

「童貞に! 踏まれたぁぁぁい!」

「我は! 我は殴られたぁぁい!」

 天蓋付きのベッド脇、壁に立てかけられたフランベルジュが唸った。シリアナ嬢の剣に宿った光の精霊王までもが叫び出したのだ。気が狂いそう! 気が狂いそうです! 誰か助けて!

「童貞を! いただきたぁぁい!」

 叫んだ薄桃色の唇を睨み付ける。君もか! 君もなのか! 便乗するな!

「いい加減にしなさい僕は魔界に帰るぞ!」

「はっ! 申し訳ございません。少々取り乱してしまいましたわ」

「何度言えば理解するんだ! 君、腐っても公爵令嬢だろう! 童貞とか叫ぶんじゃない! 目の前でご令嬢に童貞と叫ばれた童貞の気持ちが分かるか! 大変にいたたまれない! 繊細な童貞を舐めるなよ!」

「腐っていることを見抜くなんて、さすが陛下の慧眼にただただ感服するばかりでございますのよ!」

 ナニナニ、腐ってるって何か他に意味あったっけ? 頬を赤らめるな、誰かに見られたら誤解されるだろ!

「とにかく! 君はもう少し恥じらいというものをだな、聞いているかシリアナ嬢!」

「怒鳴っても美麗……っ!」

 どうして両手で顔を覆うのか。ほんと君僕の顔が好きだな? だからって許さないぞ。いいか、僕は断じて譲らないぞ。

「僕の話を一切聞いてないな君は! こんな徒労感、二千年以上生きていて初めてだよ!」

「いやっは、陛下の初めてをいただいてしまいましたのねっ」

「……っ! ……っ!」

 喜ぶなよそこは! 反省しなさいよ! 童貞に謝れ! 童貞の初めてを奪ってごめんなさいって謝れ!

 言葉を失った僕へ闇の精霊王という名のド変態から、さらなる追い討ちがかかる。

「あああ、羨ましい羞恥プレイぃぃぃぃぃ! 童貞への言葉責めという羞恥プレェェェェイ!」

 ちょっと黙ってろこのド変態! 羨ましいなら変わってやりたい年端も行かぬ公爵令嬢に下品な言葉を連発されるとか純潔を奪えと迫られるとか生まれたばかりの子がどんどん己の外見年齢を越えて行くからうっかり手を出す気にもなれず二千年も童貞なのに心は老成してすっかり祖父の気持ちとか妙な鳴き声とともに顔面をうっとり眺められるとか何もかも!

「――っ!」

 何かを叫ぼうとして大きく息を吸い、それから力なく吐き出す。目眩がした。ソファの端に座った僕へ心配顔で近づいて来たシリアナ嬢の手が、リボンタイへ伸びた。

「陛下。さ、力を抜いて。そのままわたくしに身を任せてくださいまし。いつでも陛下をご案内できるように寝所を整えてございますのよ」

「ああ、済まないなシリアナ嬢……って身を任せるかぁぁぁぁ! 君ねぇ! 十五歳の乙女だろうが!」

「中身はアラサーなので実質ざっくり四十過ぎですのよ!」

 舌を唇の端からちょろっと出すな! あざとい! かわいい! 童貞チョロいからすぐ惚れてしまうぞ! 責任を取れるのか!

「ああもうあらさぁってナニ! そんなの知らないよ! 中身が四十歳でも肉体年齢に合わせて行動しなさいよそこは!」

「肉体年齢十七歳、実際年齢二千年越えの陛下と肉体年齢十五歳、実際年齢四十歳のわたくし。お似合いの二人。お似合いの二人でございますわね?」

 どうして君はそんなに軽々ひょいひょいひょいひょい成人魔王を抱き上げるかな! 僕の! 繊細な童貞心を! 踏み躙らないでくれないか! あと軽々しくお似合いとか言わないでくれたまえ。童貞、本気にしちゃうんだからねッ!

「陛下は二千歳越えでいらっしゃるのに、見た目通り若々しいというか微笑ましい恥じらいをお持ちでとってもかわいらしくて大変ハァハァいたしますわ」

「どうもありがとう!」

「その感謝を体で払っていただければ幸いですのよ?」

「お断りですっ!」

 きっぱりと断ると、シリアナ嬢は素直に僕をソファへ下ろした。座面に両手をつき、肩で息をする。僕、ひろいんと淫行教師が不適切な関係になる前に死ぬんじゃないだろうか。父上、母上、トア。先立つ不孝をお許しください。

「大丈夫ですわ、陛下。そのそこいらの神殿より清らかな股間でちょっと新たな扉を開くだけですのよ」

「開きません!」

 そこいらの神殿より清らかで悪かったな! 僕は清く正しい魔王なんだ! 悪いか!

「羨ましい! 焦らしプレイ!」

「そこで強引に押し倒さぬか、シリアナ」

 光も闇も精霊王が酷い。頭が、頭が痛い。ナニコレなにこの狂人しか居ない空間。助けて魔界に帰りたい。あんなとても生き物が住むに適さない環境が懐かしくなる日が来るだなんて想像できただろうか。気力が、気力が小学生男児が雑に扱った消しゴムくらいの勢いでゴリゴリ削れていく。小学生男児ってどうして消しゴム千切るんだろう。小学生男児って何だ。消しゴムって何だ。この世界にはペンとインクしかない。誰かあの精霊王たちを黙らせてくれ。でないと僕は正気を失いそうだ。

「とにかく、これでエロアナル令息とアナルディル神官のるーとは潰せたから、あとは君に対する危険度が高いるーとから潰して行こう。それと並行して、淫行教師のるーとを推し進めて行きたい。だから情報が欲しい。君のげぇむの知識も含めて、な」

「分かりましたわ。オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ先生は去年から学園で教鞭を取っておられますので、今は首都にいらっしゃいますわ。確か、子爵家のタウンハウスから通っておられるはず」

「タウンハウスがあるくらいだから、それなりに財産はあるのだな」

「んんっヘンタイ子爵家は古くからの家門ですし、手堅い領地運営で領民思いの善き領主だと聞き及んでおります……家名だけ言うと変態そのものなのですわね……」

「てことは、オシリエ自身は長男ではなく次男か三男辺りか?」

「ご名答ですわ。学園ではロイ先生と呼ばれておりますの。ロイ先生は次男で、確か長男はオシリデ・イク・ド・ヘンタイ卿。すでに爵位を継いでいらっしゃるはずですわ」

「ふむ」

「それにしてもお尻がエロいド変態の弟、お尻でイクド変態の兄だなんて業が深すぎるのですわ。その上お二人の父君、前ヘンタイ子爵はオシリガ・スキ・ド・ヘンタイ子爵でお尻が好きなド変態ですのよ?」

「……うん? うん」

 尻、尻、尻がド変態と連呼していたような気がするが、聞かなかったことにしよう。僕は何も聞かなかった。呪文を唱えて記憶から消去する。

「できれば学園に入る前からロイとひろいんを出会わせておきたいところだな」

「他の攻略対象より有利にしておくのですわね」

「ああ」

「そしてできれば学園に入る前にヒロインと不適切な関係になっていただければ、文句なしなのですわ」

「……この国は幼い子供に欲情する獣以下の人間しかいないのか」

 それを画策する僕も十分に大人としてどうかと思うが、魔王だって我が身がかわいいのだ。それに攻略対象の半数は成人男性だ。ということは、ひろいんは元よりろりこんと結ばれる運命のようなので、この際その辺りには目を瞑って欲しい。何より僕がひろいんに迫られて抵抗できない事態に陥り、童貞を奪われるという倫理に悖る事態にならなければそれでいい。攻略対象のろりこんどもは一生、箪笥の角で足の小指をぶつける運命になればいい。特に淫行教師は毎年冬には金属という金属に触れるたびに静電気に見舞われ、「イテッ!」ってなる運命も追加されてしまえ。

「申し訳ございません、陛下。ゲームのシナリオを書いた日本という国が、ロリコンだらけのド変態の国だからですの……」

「最低だな」

「最低なのですわ」

 シリアナ嬢は目を伏せ、長い白金の睫毛を震わせてため息と共に吐き出す。

「そもそも、世界とは残酷で不平等にできているのですわ。前世はここより遥かに人権に配慮された世界でしたけれども、それでも全てに於いて平等というわけではありませんでしたもの」

 君はそんな世界で幸せだったのか。尋ねようとしてやめた。

「魔界に来るか? 五年ほどあれば他人は君のことを忘れるだろうし、君の家族ならラストダンジョンも散歩程度に踏破しそうだから尋ねて来られるだろう。五年の間に君の憂いは全て解決するかもしれない」

 全部放り投げて。君だけが何もかも背負う必要はないんだ。

 魔界が生き物が住むに適さない場所だと、僕も彼女も十分承知だ。けれど僕は、他にかけるべき言葉が見つからない。

「どうしようもなくなった時は、お願いするかもしれません」

 シリアナ嬢が作った笑みは失敗して苦笑いになった。

 不安なのだろう。この先、悪いことが待ち受けていると知っていたとしても。知っているからこそ。シリアナ嬢自身が本当は誰よりも一番、やがて来る未来に怯えているに違いない。

 身を起こしてシリアナ嬢の頭を撫でる。シリアナ嬢が遠慮がちに僕の肩へ額を押しつけた。それだけで小さく形のいい頭蓋が、どれだけ脆いか容易に想像できてしまう。

「乗りかかった船だからな。助けるよ。この僕が君を」

「ええ、陛下」

 ほんとうにお優しいのですもの。だからわたくしのような小娘にいいようにされてしまうのですわ。

 小さく呟き、シリアナ嬢はほんの少し笑った。まだ幼さの残る、清らかな笑みだ。こんな子供をどうこうしようなんて思い浮かぶ奴がおかしいんだぞ、シリアナ嬢よ。君はまだ大人に保護されるべき、子供なのだから。

「君が言うか。僕が紳士であることに、君は感謝するべきだぞ」

 ほんとだぞシリアナ嬢。大体君、童貞魔王を脅すとか普通の令嬢がすることじゃないんだぞシリアナ嬢。僕が良識ある魔王であったことは君にとっても僥倖だったんだぞシリアナ嬢よ。

「何とも甘酸っぱい雰囲気じゃの」

「そこでぶちゅーっと行っとかないから童貞なんじゃ、魔王よ」

「……」

 視線で精霊を殺せるならば、今の僕の視線は光と闇の精霊王を殺していただろう。だがこのド変態精霊どもに関わるのが嫌だ。すごく嫌だ。そういえばこの変態精霊どもについて何か忘れている気がする。何だったっけ。あ。そうそう。

「……シリアナ嬢」

「どうなさいまして?」

「シリアナ嬢、以前『げぇむ』とやらのタイトルを言っていたが、そこに精霊がどうとか付いていなかったか」

「ついておりました。『恋と魔法と精霊の約束』、通称『こいまほ』ですわ」

「このろくでもない精霊どもと、一体何の約束を誰がするんだ?」

 ろくでもない約束に違いない。シリアナ嬢が顔を上げる。変な鳴き声上げたり人が名乗った後に下品な言葉を口走ったりしなければちょっとキツめの顔の作りだが、普通のかわいいご令嬢だというのに。

「もっと……もっと罵って……! ハァハァ……!」

 闇の精霊王がにじり寄って来たが無視した。シリアナ嬢も闇の精霊王を完全に無視をして答える。

「ゲーム上では、ヒロインが光の精霊と契約した時にこの世界を守るという約束をするのですわ。二周目の陛下攻略へのフラグでもありますの」

「んほおおおおガチ無視んぎぼぢいぃぃぃ」

「それで? どうなんだド変態その一」

「うむ。我が一番なのだな? よかろう」

「我は二番手でもいい。踏んでもらえればそれでいい。できれば『このブタ野郎』と罵ってくれればなおいい」

 消して。消去して。このド変態闇の精霊王を僕の記憶から。気を取り直して光の精霊王へ問いかける。

「気が狂いそうだから迅速に質問にだけ答えろこのド変態その一」

 もう二度と光の精霊王だなどと呼んでやるものか。闇の精霊王に至っては闇というと魔王みたいなイメージだからマジ存在を抹殺してやる。同類だと思われたくない。僕は至って普通の性癖しか持ち合わせていない、ただの清らかな股間の童貞だ。

「我がまだ言ってもないことにどうだと言われてもなぁ。ただ、最近あやつが不安定でな。ものすごく不本意だが、あやつと我は連動しておるからな。それと関係しておるかも知れん」

「……あいつが安定してた時なんか、一瞬だってなかっただろ」

「身内の言葉は重みが違うのぉ」

 ――兄さま。兄さま。

 ――エイン兄さま。

 いつも後ろを付いて回っていた、幼い弟。光と物質を司る弟と離れたのはもう遠い昔のこと。

「黙れ光の」

 うっかり真名を呼びかけて飲み込む。僕のような神ならば別だが、精霊にとって真名を人間に教えることは命を預けるに等しい。拳を握り締め、光の精霊王から目を逸らす。

「名前がないと不便ですわね。これから光の精霊王はイチ、闇の精霊王はニイと呼びましょう」

 シリアナ嬢がさりげなく話題を変えた。聡い子だ。「あやつ」について、聞きたいだろうに聞いて来ない。いや。あるいは「げぇむ」とやらの「しなりお」で知っているのかもしれない。話題に出した当の光の精霊王も、しばらくカーペットの柄を睨みつけていた。深刻な雰囲気のこの状況で、フランベルジュから上半身だけにゅっと飛び出した姿がとてもシュールである。

「イチ、ニイ。わたくしが不在の折には陛下の言うことを聞かないとお仕置きですのよ」

「我! お仕置き! だいすきぃぃぃぃぃぃ!」

 いやもうほんと、変態が許容範囲を越えていて限界です。魔界に帰りたい。

「ニイ、貴様はシリアナ嬢とどんな約束をした?」

「日常的に罵って踏んで、それ以外の時は椅子として扱ってくれと懇願した」

「……聞きたくなかった」

「その代わり、ニイは何があってもどんなことでもわたくしへ協力すると約束したのですわ」

 それでいいのか闇の精霊王。額を押さえる。頭が痛い。

「戦闘の時もできるだけ椅子としてこき使ってもらえると気持ちイイ! オットマンチェアとして使ってもらえるとなおイイ!」

 ダメだこいつ、早くなんとかしないと。踏まれたいという気持ちしか全面的に伝わって来ない。

「ですので、これからも度々イチとニイを連れてダンジョンで軽く運動を続けますわね。陛下は気にせずお仕事なさってくださいませ」

 ダンジョンで軽く運動すな。ジョギング感覚かよ迷惑です。そもそもダンジョンは軽く汗を流す場所ではありません。人差し指と親指で鼻筋を摘むように目頭を揉むが、目眩が収まらない。元凶が目の前だからだねっ!

「ダンジョンに放置プレエエエエエイ!」

「ニイ」

「なんじゃ?」

「あなたは家具なのですから、勝手に喋ってはいけないのではなくて?」

「ひゃいんっ!」

 嬉しそうだな。喜んで床に四つん這いになった闇の精霊王から目を逸らす。光の精霊王は宿った剣をカタカタ言わせながら興奮気味に叫んだ。

「我も! 我も殴り飛ばしてくださぁぁぁい!」

 もうやだほんと、気が狂いそう。この中でしれっとしているシリアナ嬢の精神構造を疑う。

「おいド変態。貴様はシリアナ嬢とどんな約束をしたんだ?」

 何か嫌な予感はするけど一応確認のため聞いてみる。予想通りの答えが返って来た。

「ご令嬢のどんな指示にも従うので、定期的に殴ってくれと」

「なので剣に宿ってもらいましたの。剣で戦うと自動的に獲物を剣で殴る形になって、剣に宿ったイチも一緒に殴ることになるかと思って」

 なぁ、何でそんなに思考が物騒なのこの令嬢。普通、歴戦の傭兵でもフランベルジュで「殴る」なんて表現しないよ? フランベルジュってレイピアと同じで「突く」ための剣だよね。そんなもんで殴るってどうなのシリアナ嬢。振り子打法なのシリアナ嬢。僕の夜のバットは不発ですよシリアナ嬢。マジほんと、あのほんと、脳みそまで筋肉が蔓延はびこっている。

「……考えたくはないのだが、精霊王が全員このようなド変態ばかりというわけではなかろうな?」

「……嫌なことを言わないでくださいまし、陛下」

 え? なにそのまともな反応。ちょっと面食らってソファに座り込む。話しづらいのか、シリアナ嬢がソファの横に移動して来た。そして視線を送ることもせず腰を落とす。転んでしまうと心配で手を伸ばすと、すかさず闇の精霊王が四つん這いで高速移動して来て、シリアナ嬢の下に収まった。

 ヤダこれ怖い。ナニコレ怖いしかない。絵面も怖いけどシリアナ嬢の移動先に自動で移動してくるの怖い。まずカサカサした動きが気持ち悪いし、シリアナ嬢も慣れた感じなの怖い超怖い。怖いので闇の精霊王を僕の網膜と記憶から消去すると心に決めた。しばらく考えてふと気づく。

「……ちょっと待ってくれ。ということは、だ。僕に純潔を捧げるより、このド変態のうちのどちらかに強要して純潔を捧げるという選択肢もあったのではないか?」

 精霊は皆、一様に美形だ。例えド変態であっても、イチもニイも人間の美的基準から言えば最高の美形である。ド変態だが。

「陛下」

 何? 何だよ? シリアナ嬢がいつになく真剣な表情で僕の両手を掴んだ。ロープでぐるぐる巻きにされたことを思い出して膝が笑うどころか大爆笑と言えるほど震える。僕の繊細かつ未だエンジョイすることを知らない清らかなジョイスティックと可憐な袋がきゅっと縮んだのが分かった。繊細な童貞をむやみやたらと怯えさせるのはやめていただきたい。

「わたくしにも、選ぶ権利がございますのよ?」

 四つん這いの背にシリアナ嬢を乗せて至福の笑みを浮かべるニイと、イチが宿ったカタカタ震えるフランベルジュを目路に入れる。究極の二択。僕ならそんな選択をする前にこのド変態どもを葬る。

 そうだね。一応、シリアナ嬢も人の子だったんだね。オリハルコン製の精神だと思ってたごめん。

「……うん。すまん」

「ご理解いただけて何よりですの」

 しかしその論法で行くと、接点のない僕をシリアナ嬢がわざわざ選んだ意味とは。つまり、その、出会う前から僕が好きだったからとかそういうことになっちゃうんじゃないだろうか選ばれたのは某緑茶ではなく魔王でしたとかそういうことになっちゃうんじゃないだろうか繊細な童貞は騙されやすいしすぐ好きになっちゃうから勘違いしちゃうようなことはできるだけ避けてもらえないだろうか! 繊細な童貞は! 超絶チョロいんだぞ!

「僕だって、選択肢に入れちゃダメなんだからな!」

「わたくし心底、陛下を選んで良かったと思っておりますわ」

「そんなこと言っても僕の初めてを捧げたりはしないからね!」

「ちっ」

「ご令嬢が舌打ちしない!」

「ぎゃんお怒りになられてもご尊顔がイイ! なのですわ」

 悪化してないかシリアナ嬢。しかしこの状況で精神が崩壊しない生き物っているんだろうか。妙な悲鳴を上げる公爵令嬢、恍惚の表情を浮かべるド変態精霊王ども。僕は無理だ。気が狂いそう。

「今のところ、他の攻略対象やひろいんが精霊と厄介な約束を交わしていなければいいが」

「イチはここに居るわけですから、ヒロインとイチが契約することも約束することも叶いませんものね……」

「まぁでも、普通は精霊王と契約ができる人間など居ないからな」

 つまり光と闇の精霊王と、魔王である僕が味方に付いているシリアナ嬢が他の精霊使いに負けるわけもなく。

「まぁ、王太子二人とアホ殿下の護衛騎士と淫行教師にはすでに使い魔を監視につけているけど、それぞれの性格を知るために一度ある程度の会話をしてみたいところだな……。何か呼びつける口実があればいいんだが。なんだっけ。護衛騎士の名前」

「ヒュース・トンベン子爵ですわ。これはなかなか難易度が高いのですわよ。余程の腐った掛け算上級者でなければ、彼の名前が下ネタだとは気づきませんわ」

「……その、高難易度下ネタ騎士はアホ殿下が行くところには必ず付いて来るのか?」

「学園にも護衛として付いて来る設定ですのよ」

 首都のタウンハウスになら簡単な口実で呼び寄せることもできただろうが、さすがにドエロミナまで呼びつけるには余程の理由が必要になるだろう。

「一ヵ月後にはお兄さまも領地へお戻りになられると思いますの」

「……え。戻って来るの? 学園は?」

「先生に掛け合って了承を得たので、飛び級卒業するらしいですわ……」

 え、怖っ。寸でのところで口にするのを堪えた。エロアナル令息のシリアナ嬢への愛が深すぎて怖い。それに一ヵ月後って、もう今日明日中にはタウンハウスを出る勢いじゃないか。あの令息なら、マジ今頃はもう首都を離れているだろう。

「フィストファック商会で言ってたの、本気で実行しちゃったの?」

「してしまったのでございますわ」

「とりあえず、エロアナル令息がドエロミナへ帰って来るなら六人中二人はひろいんと出会うことはなくなったわけだ。もうアナルディル神官は首都に居ないわけだし」

「そうですわね」

「できれば淫行教師るーとへ導きたいわけだから、残りの三人をひろいんと出会わせないか破局へ導けばいいのだろう? ならばお互いに惚れさせなければいいのだ」

「そんなに簡単に行くでしょうか」

 シリアナ嬢が小首を傾げて頬へ手を当てる。そんな仕草は年相応の少女に見える。

「簡単ではなくとも、そうなってもらわねば困る」

 僕の股間の平和がかかっているからねっ!

「つまり、王子二人がドエロミナへ長期滞在したくなるような状況を作ればいいのだろう?」

 そしてその間に、淫行教師とひろいんを他の攻略対象より早く出会わせて有利にしておく。淫行教師とひろいんを引き合わせるのは、シリイタイ兄弟に任せればいいのではないだろうか。

「そう……ですわね。アホ殿下ご一家は冬になると毎年、ドエロミナの王室専用の別荘へご滞在になりますが……」

「ゼンリツセェン学園の入学は九月。冬に別荘へ来るのではひろいん入学後になってしまう。三か月あれば人は恋に落ちるぞ、シリアナ嬢」

「さすが陛下、童貞なのにお詳しいのですわ!」

「童貞だからこそ耳年増なのだよ! ふははははは!」

 自分で言ってて悲しくなってきた。童貞はな、恋愛話に敏感なのだよ! 童貞だって物語みたいな恋したいもん! 物語みたいな恋愛に興味津々だもん! 魔王だって素敵な恋愛したいもん! ただし、シリアナ嬢みたいに奇声を上げないご令嬢とな!

「真夏に殿下をここへ呼び寄せることができるような理由、ですか」

「九月までの三ヵ月弱でできるだけ対策を講じなければならない」

「夏……は正直申し上げまして、観光地としての集客は見込めませんの……」

 シリアナ嬢が頬へ手を当て、綺麗な形に整った眉を寄せる。そうしていれば美人で可憐なご令嬢なのに。しかし夏にドエロミナへ人々が来たがらないわけはすごく分かる。分かるぞ。

「真夏にドエロミナ領民のような暑苦しい筋肉に囲まれたい人間など、居ないだろうからな」

 うららかな季節である今ですら、筋肉が暑苦しくて目と心が疲労を訴えているというのに、何故好き好んでさらに暑苦しい季節に暑苦しい筋肉を見に来る物好きがいるというのだ。そんな人間など、相当な癖を拗らせていること間違いなしだ。

「そうなのです……そもそもこの国には貴族の女性が海で泳ぐという習慣がないのです。未婚であれ既婚であれ、肌を晒すことははしたないとされていますから。わたくしの前世で暮らしていた国では水の中で動きやすい衣装、水着というものがありましたがこの国の女性に対する常識からはとても受け入れられないでしょうし……」

「でも地元の人間は泳げるし泳ぐんだろ?」

「ええ。わたくしも子供の頃はよく浜辺で泳ぎましたわ。とても気持ちいいのですよ」

 泳ぐ幼い頃のシリアナ嬢を見た人はびっくりしただろうなぁ。だって金色の子熊が海で泳いでるんだもん。僕なら逃げる。

「地元の人は普段着で泳ぐのか?」

「普段着……と言いますか、子供たちは裸ですわね。大人も男性は裸ですわ。女性は平民ならコルセットとシュミーズで泳ぎますわね。でも慣れない人間が着衣のままで泳ぐのは危険ですわ。動きが制限されますので溺れてしまいますわよ」

「みずぎ……? とか言うのを作ったとして、女性の肌が家族以外に見られなければいいんだろ? 家族だけしか入れないとか、女性だけしか入れないとかにできればいいんだが」

「! 陛下! プライベートビーチですわ!」

「ぷらい?」

「陛下のおっしゃったように、家族貸し切りや女性限定の区域を作るのです。そもそも貴族の女性たちは侍女たちの前で裸になるのが当たり前の生活をしていますもの。同性の前でなら恥じらいもさほど感じないでしょう。目隠しの魔法と結界魔法、さらに物理的な壁や柵を作ってしまえばいいのですわ。見張りには女性騎士を雇えば女性の雇用創出にも繋がりますし、エステやマッサージサロンを併設したらきっと夏でも貴族で溢れ返りますのよ!」

 えすて? まっさあじ? 何やらまたよく分からぬ言葉が出て来たがあとで説明してもらおう。

「お、おう……?」

「そうですわ! 初めてのプライベートビーチとして、アホ殿下ご一行を招待すればよいのです! アホ殿下ご一行と面識さえできてしまえば、後はエインがアホ殿下ズとヒロインの出会いを阻む策を考えてくださいますわよね? そうと決まればお母さまに相談ですわ! 行きますわよ、エイン!」

 シリアナ嬢。さらりとアホ殿下と弟殿下のことを一括りにしたな。第二王子もアホなのか違うのかどうなのか。会えば分かるか。

 午後のティータイムを挟み、シリネーゼ公爵夫人と、アナルジダ公爵との話は滞りなく進んだ。大人たちの話を静かに聞いているエロシリダ令息は利発である。

「プライベートビーチはすぐビットギャグに指示しよう。なに、一ヵ月もかかるまい」

 シリネーゼ公爵夫人が呼び鈴を鳴らすと、即座にボールギャグが姿を現した。いやマジこの人音もなく現れるしどこに潜んでたのめっちゃ早かったよ侯爵家の執事怖い。

「ビットギャグを呼んでくれ」

「かしこまりました」

「ヘンタイ子爵の次男とひろいんを引き合わせる件はエリィに指示を出そう。エイン、手紙を届けてくれるかい?」

「お待ちください。エロアナル様はすでにタウンハウスを出発している可能性が高いです」

 あの令息、無駄に動きが俊敏だからね。胸に手を当てて頭を下げると、シリネーゼ公爵夫人は顎を長い指で撫でた。撫でた顎は、アナルジダ公爵の顎である。

「ああそうか、ゼンリツセェン学園を飛び級卒業したんだったな……」

「私なら、首都まで転移魔法で移動できます」

「ではフィストファック商会への正式な依頼の書状を準備しよう。頼めるかい、エイン君」

「かしこまりました」

「それからフィストファック商会には今後のためにも、我が領地から何らかの利益を融通しなければならないね。どう思う? シリネーゼ」

「そうだな、アナルジダ。例えばプライベートビーチの予約代行を独占させるのはどうだろう」

「そんなところかな。細かい手数料の歩合はエインくんに交渉させよう」

「私に任せてよいのですか」

「いいよ。うちとしては別に。こんなもので稼がなくても領地経営は傾かないから」

 え、マジ得体の知れない僕に任せていいのか。さすがお金持ってる人は太っ腹だなぁ。僕のことあれだけ憎いとか言ってたのになアナルジダ公爵。仕事のことになると急に有能になるのはオシリスキナ公爵家の人間の伝統なんだろうか。

「そうしよう。愛しているよ、アナルジダ」

「愛しているさ、シリネーゼ」

「アナルジダ」

「シリネーゼ」

 公爵夫人が規格外なだけで、アナルジダ公爵も決して無能ではない。場所と人目を気にせずいちゃつかなければ。

 一旦、夕飯を挟み話は続いた。僕は夕飯後、すっかり日課となったエロシリダ令息の入浴と寝かし付けをこなしたわけだが。いいのだ。天使かわいいから仕方ない。その間にランド・スチュワードのビットギャグやエロシリダ令息への指示は済んでいた。ほんと仕事早いなこの人たち。所構わずいちゃつかなければ最高の領主なのに。

 一つため息を吐き出して、公爵家の面々が同時に置いたティーカップへ紅茶を注ぐ。

「ついでにさ、エリィの婚約者を貴族派の令嬢から選んじゃおうかなって思ってるんだけど、どうかなシリネーゼ」

「ふむ。王族派か中立派からと思っていたが、それもいいな。王族派筆頭のオシリスキナ公爵家とて、王に二心あらば黙っておらぬと示すためにもいいだろう」

 怖っ。多分候補はもう見繕ってあるのだろう。僕が王様なら華麗な土下座をキメるね。これ以上勢力を広げないで欲しい。脳筋戦闘民族領主一家にこれ以上の権力を持たせるのいくない。

「プライベートビーチのお披露目と同時だとなおよろしいかと思われますわ、お父さま、お母さま」

「ああ、そうだな。それがいいだろう。ねぇ、アナルジダ」

「さすがシシィ、賢くてかわいいパパの娘だね最高だよ」

 この人たち性格悪いなぁ。統治者としてはそれで正解なんだけど。新たな商売の可能性を見せておいた上で侯爵家を裏切るならば許さないし、その兆候があれば対応する準備はできていると示すのだ。現王はさほどバカじゃないにせよ、控えているのがアホ殿下では致命的だろうな。そんな公爵家の意志表示を読み取ることすらできないならばこの国の未来は暗いだろう。まぁアホ殿下が本物のアホなら扱いやすいから問題ない。

 僕、シリアナ嬢のばっどえんど回避が成功したらこの人たちには近寄らないようにしようそうしよう。

「では、僕は明日フィストファック商会に赴きますので失礼させていただきます」

「キリーお兄さまとイヴォお兄さまによろしくね、エイン」

「シリアナ様が一筆したためていただければ、お二人は喜んで動いてくださると思いますがいかがでしょうか」

「分かりましたわ。ではお父さま、お母さま。シリイタイ卿とイヴォヂ卿へお手紙をしたためますので、わたくしも失礼させていただきますわ」

「うむ。わたくしも書状をしたためるとしよう。朝、出発前に書斎へ顔を出したまえエイン君」

「かしこまりました」

「明日からしばらくはパパがシシィを独り占めだね? 行っておいでエインくん。そしてできればもう帰って来なくてもいいんだよエインくん」

 そうしていいならさっさと逃走したい。だが多分、今逃走したらシリアナ嬢がどこまでも追いかけて来るに違いない。ご容赦いただきたい。僕は死んだ魚の方がまだ生き生きしているだろう瞳でシリネーゼ公爵夫人の書斎を後にした。

「急いでキリーお兄さまとイヴォお兄さまへのお手紙を書きますわね」

「うん。だが今は取り急ぎ僕の臀部を撫でるのを止めたまえ」

「しばらく陛下の麗しい臀部を拝めなくなるわたくしへの、ご褒美はございませんの?」

「僕としてはこのまま魔界に帰ってもいいんだよ?」

「そんな、かわいらしい小さな望みを口にしただけではございませんこと?」

 ほんと君、二人きりになるとすぐに僕のかわいい小尻を撫で回すのをやめたまえよ。いくら僕のお尻がかわいくかつ魅惑的だとしても君は公爵令嬢なんだからほんとにやめたまえよ。誰かに見られたらどうしてくれるんだ。純真な童貞の尻を撫で回した精神的苦痛に対する慰謝料を請求するぞ。

「ちっともかわいらしくない要求だから断固としてお断りする」

「陛下のお尻が魅惑的なのがいけないのですわ……」

「君の手癖が悪いのだと思うぞ」

 シリアナ嬢の部屋の前で、扉を指し示す。思わず眉根が寄ってしまうのは仕方のないことだ。僕はこの部屋の中にいる変態を視界に入れたくない。

「一筆書いて持って来たまえ。侍従といえど夜遅くにご令嬢の部屋へ男が入って過ごすのはよろしくないからな」

「既成事実を作ってしまうおうという企みが阻止されてしまいましたわ」

「企まないでくれたまえ」

 ほんと油断も隙もないなシリアナ嬢。扉の前で大人しく待つ。しばらくして、シリアナ嬢が少しだけ開いた扉の隙間から顔を覗かせた。

「陛下、誘惑してもよろしいでしょうか」

「却下だよ。当たり前だろ。観念して手紙を渡しなさい」

 ほんと君は僕に感謝したまえよ。僕が紳士な童貞でよかったね。渋々といった様子で差し出された手紙を二通、受け取った。

「早く寝なさい」

「わたくし近頃寝つきが悪いのでぜひ、陛下に子守歌を歌っていただきたいのですわ」

「よし、魔力で眠らせてあげよう。なに、秒で眠れるぞ」

 魔王を侮るなよ。人間の小娘を眠らせるなど童貞を捧げるよりも簡単なことなのだよ!

「陛下はいじわるですわ」

「今この場で眠らせて、ニイにベッドまで運ばせるぞ。ニイ! シリアナ嬢が頭を打たないようにしろよ!」

「ひぃっ! 陛下は鬼ですわ! そんなことになったらもうお嫁に行けませんことよ」

 名前を呼ばれた闇の精霊王が嬉しそうにシリアナ嬢の足元へ四つん這いで駆け寄るのが見えた。すごく不気味である。効果は抜群だったが、闇の精霊王の名を引き合いに出したことを少し後悔した。

「あっちへお行きなさいませっ」

 さすがのシリアナ嬢も四つん這いになった闇の精霊王へそう言い放つのが見えた。こいつ以外だったら少々可哀想に思うところかもしれないが、全く同情できない。

 だって本気で気持ち悪いんだもん。

 シリアナ嬢がニイに気を取られている隙に、僕は静かに扉を閉めた。扉の向こうから「ああっ! 陛下のそんな冷静なところも好きですわっ!」とシリアナ嬢の鳴き声が聞こえたが例によって僕は何も聞いていないフリをして自室へ戻る。

 明日の朝一、オシリスキナ公爵夫人からフィストファック商会への書状を受け取って首都へ行かねばならない。

 僕は魔王だし神なので眠らなくても平気である。というわけで睡眠は必要ないが普通に眠気はある。眠い時は寝ることもあるが大体、夜は魔界に戻って雑務を片付けている。そのため、侍従用の部屋のワードローブは魔界に繋がっている。部屋に入ると、僕のベッドにシリトアがあんなに肩って落とせるのかというほど肩を落としきって座っていた。

「うわあああ! 何してるんだトア! 僕をびっくりさせ過ぎだろう! 心臓が口から飛び出るところだぞ!」

 ここまで読み進めたよいこの皆はすでに理解していると思うが魔王、実は結構繊細なんだからねっ!

「陛下……」

 少し見ない間に全体的にやつれた腹心の様子に怯えつつ声をかける。

「え、うん。どうしたのそんなに落ち込んで」

「陛下が居られないので私めの仕事が増えたとか、陛下がお金を少量ずつ送ってくださるおかげで貴族たちが皆、人間界へ興味を持ち始めたとか、問題が山積みでございます」

 あ~、ちょっとだけ珍しいものを買って帰ったり、人間界の食べ物を持って帰ったり、人間界の食材を持って帰ったりしてるからなぁ。知らなければ憧れることすらできないが、知ってしまえばそれを求める欲も出て来る。知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。残酷なことをしてしまった。

「人間界への興味はまぁ、ちょっと考えていることがあるから待てと皆に伝えてくれ」

「ほんとですね?! ほんとに考えてくださってますね?!」

「う、うん……」

 シリアナ嬢と知り合ってから、忠臣のキャラ崩壊が止まらない。小さい頃は怖がりで甘えん坊だったんだけどなぁ。

「今日は絶対に魔界へお戻りいただきますよ、陛下」

「うんうん、安心しろ。今日は戻るつもりだったぞ、トア」

 今日は寝ることはできなさそうだ。半泣きの忠臣に手を引かれてワードローブの中へ入る。大分シュールな絵面だ。

「本日はモリタイ卿が相談したい儀があるとお越しになられておりますからね」

「ああ……アナルケかい?」

「ええ。宰相のアナルケ卿と前侯爵のテイセ卿が面会を求めております」

「あの二人と会うとなると、テーブルが高くないと困るな。大広間へ案内しておいてくれ。僕は一旦、着替えるよ」

 ケンタウロス族のアナルケ・ツマ・モリタイと、その父テイセ・ツマ・モリタイは二代続けて宰相を務めている。ちなみに次男のジュンケ・ツマ・モリタイはシリアナ嬢の文通友達であり、ラストダンジョンの中ボスである。

 ちょうどいいや。僕もアナルケとシリトアに相談したいことがあったんだよね。

「苦労をかけるな、トア。それももう少しの辛抱だから」

「陛下……?」

「僕には野望が、あるんだ」

 にっこり微笑み、シリトアの肩を叩く。

 魔界に希望を。そんな野望なんだ。聞いてくれ、トア。

 魔界側の入口は僕の自室のワードローブである。とにかく、魔界の自室のワードローブから公爵家のワードローブへ移動した僕の表情は明るかったと思う。部屋の扉の僅かな隙間と、そこから覗くシリアナ嬢に気づくまでは。

「何やってるの朝から君は!」

「ぎゃん怒鳴っても顔がいいっ! でございますわ!」

「今すぐ部屋に戻りなさいよ、じゃないとエロシリダ令息に告げ口するよ。シリアナ嬢は侍従の部屋を覗く良くないご令嬢だって」

「大変申し訳ございませんでしたのですわ。お許しくださいませ」

 さすがのシリアナ嬢も天使であるエロシリダ令息に己の奇行は知られたくないらしい。しかし公爵令嬢が廊下で土下座はやめたまえ。誤解されちゃうでしょうが、僕が。しかし君、とても綺麗な土下座をするな。君、本当に公爵令嬢か? 土下座し慣れているではないかどういうことだ。

「お母さまの執務室へ行かれますのね?」

「ああ。フィストファック商会への書状があった方が動きやすいからな」

 僕の身分は、一応シリアナ嬢の侍従ということになっているからね。並んで廊下を歩きながら、シリアナ嬢の緩くウェーブがかかったプラチナブロンドに近いトウヘッドが朝日を受けて透けるのを眺める。

「君はあまり髪を結い上げないのだな」

「そうですわね。結い上げるには髪が細くて量が足りませんの。無理に結おうとすると支度に時間がかかるので、あまり好きではありませんのよ」

「ははっ。だから君はいつも支度が早いわけだ」

 シリアナ嬢は窓から差し込む光のごとく柔らかな表情を浮かべた。

「陛下に笑っていただけるのであれば、身支度の早さも誇れますわね」

「貴族令嬢としてはいかがなものかと思うがな」

「今さらですわ」

 ころころと笑う姿は年相応の令嬢に見える。今日もバッスルスタイルのドレスの下には暗器がてんこ盛りだろうけれども。油断してはならない。シリアナ嬢は童貞魔王に初めてを奪えとか言い出すご令嬢ゆえに。

「エイン君、おはよう。書状は準備しておいたよ。時に昼食は無理だとしても朝食の準備はエイン君が行うのだよね?」

「数日は首都でやることがありますので」

 答えるとアナルジダ公爵が大きく仰け反って額へ手を置いた。

「えっ! 昼食はエインくんが準備したご飯じゃないのかい?」

「残念だな、アナルジダ」

「残念だね、シリネーゼ」

「残念ですわ。お父さま、お母さま」

 食欲百パーセントじゃんこの人たち。そして朝からキツいです、アナルジダ公爵の膝に乗って執務しているシリネーゼ公爵夫人を見せつけられるのは童貞には刺激が強いって何度言ったら分かるの。この場を早々に立ち去るべく、さっさと書状を受け取る。

「では。朝食の指示を出したのち、首都へ行ってまいります」

「うん。よろしく頼んだよ、エイン君」

「今日はシシィもロシィもパパが独り占めだもんね!」

 子供かアナルジダ公爵。ドヤ顔が憎たらしい。一礼して執務室を出る。タイミングさえ合えば、ぜひアホ殿下や攻略対象たちの様子を見ておきたいところだ。

 厨房へ顔を出した後、転移するべくドエロミナ城の庭へ出る。遠見でエロアナル令息の現在地を確かめた。ああ、ダメだ。もう首都を離れてる。ほんと、無駄に迅速なんだからこの一族。まずエロアナル令息の乗る馬車へ転移する。目の前に現れた僕を眉一つ動かさず睨めつけ、エロアナル令息はゆっくりと足を組み替えた。

「事前連絡くらいしたらどうだい、エイン」

「失礼いたしました。こちらへ寄る予定ではございませんでしたが、エロアナル様にもお会いしておいた方がよろしいかと思いましたので」

「……で、用件はなんだい?」

「一つ、エロアナル様にお願いがございます」

「なんだい?」

 つまらなそうに顎を上げた、灰青色の瞳を見つめ返す。しっかし公爵家の馬車だから高級品のはずなのに揺れが酷いな。道か。道のせいか。馬車も改良の余地がある。

「ドエロミナへ、できるだけ貴族令嬢を呼び寄せていただきたいのです」

「ふむ。何か策があってのことかな?」

「アホ殿下を、堕とします」

「よかろう。君は今からどこへ行く?」

「王家ご一行をドエロミナへ連れ出す策のために、首都のフィストファック商会へ参る所でございます。シリイタイ卿やイヴォヂ卿へ何か伝言などございますか?」

「現王陛下ご一家をドエロミナへ呼び出して、そこへできるだけ多くの貴族令嬢も招待するのかい?」

「左様にございます」

 がたごと揺れる馬車の外へ、エロアナル令息と僕は同時に視線を流した。

「面白くなってきたね、エイン。ボクそういうの、嫌いじゃないよ?」

「あはははは」

「はっはっはっは」

 突然聞こえて来た笑い声に御者が怯える気配がした。そりゃそうだ。エロアナル令息が一人で笑い出したと思ってるよね。まぁ、エロアナル令息が御者にどう思われようが僕の知ったことではないのだよ!

「ところでねぇ、エイン」

「はい」

「君、ひょっとして今この馬車をドエロミナへ送ることができたりするんじゃないか?」

「できますが、できると都合が悪うございましょう」

 誤魔化すのめんどくさいからね。エロアナル令息は通常通り、一ヵ月かけて領地に戻って来てもらおう。めんどくさい一家に、エロアナル令息まで加わったら僕の胃が持たない。まぁ、それでも一ヵ月したらドエロミナに到着してしまうわけだが。

「では失礼いたします」

 再び首都へ向けて転移する。めんどくさいが一度、オシリスキナ公爵家のタウンハウスの庭へ。タウンハウスの執事に頼んで馬車を出してもらい、フィストファック商会へ向かう。まずはエムジカへシリネーゼ公爵夫人の書状を渡し、面会の予約を取りつけた。エロアナル令息とは違ってゼンリツセェン学園で授業を受けているシリイタイ卿とイヴォヂ卿との面会は午後になった。つまり時間が空いたわけだ。学園へ行けば淫行教師に会えるだろうが、ここはまずひろいんを見ておきたい。

 というわけで、イカセル子爵のタウンハウスへやって来た。シリアナ嬢の話が正しければ、流行り病で亡くなった兄の代わりに後継者としてすでに子爵家で暮らしているはずである。ゼンリツセェン学園への入学まで半年もない今、タウンハウスで貴族令嬢としての教育を詰め込まれている可能性が高い。

 フィストファック商会の紙袋を抱え、どこからどう見ても高位貴族のお使いに出た侍従である僕は怪しまれずに屋敷の前を悠然と歩く。門番へ「お疲れ様です」と声をかけると人懐こそうな青年は返事を返してぴょこんと頭を下げた。

「あ、お疲れ様です」

 僕も軽く頭を下げて通り過ぎる。門番と門扉に魔力で印をつけた。ついでにぐるりと回り込んで、使用人しか出入りしない裏口にも魔力で印をつける。ひろいんは平民として暮らしていたというからな。もしかしたら、使用人のふりをして裏口からお忍びで出かけるかもしれない。これでイカセル子爵家を出入りする人間を監視できる。なんてったって僕、魔王だからねっ! どこでも覗きたい放題さ! でも悪事には使わないぞ。ひろいんのお部屋を直接覗くことももちろんできるが、覗いたりはしない。だって僕は誇り高き童貞だからね! 浮かれてないよ! シリアナ嬢から離れて解放感を味わえる機会に恵まれたからとかそんなことないよ! 数日は貞操の心配をしなくても済むとか、お尻を揉まれなくて済むとか、そんなこと考えていないよお空キレイだなぁ!

 自由って素晴らしい。

「シリアナ嬢、僕は首都でやることがあるから数日こちらに滞在する」

 空に放った言葉が形を取って、鷹になった。ぴぃ、と一声鳴いて空高く一直線に南へ飛んで行く。お尻の心配をしなくていいと、こんなにも清々しい気持ちで過ごせるのか。なんだかんだ誤魔化してこのまま首都で過ごせないかなぁ。過ごせないだろうなぁ。そのうちシリアナ嬢が来てしまう。下手したらオシリスキナ公爵家ご一行で来てしまうだろう。ご遠慮願いたい。つまりこれは逃れられない運命というヤツだ。僕は梅雨の晴れ間の美しい空を仰ぎ、その透き通った青に相応しくない重々しいため息を長く吐き出した。

「……そろそろ行くか……」

 少し早いがフィストファック商会のティールームでお茶をしながら、シリイタイ卿たちを待とう。運が良ければエムジカからなにがしかの情報が得られるだろう。フィストファック商会の瀟洒なレンガ造りの建物まで戻ると、エムジカが丁寧に会釈するのが見えた。

「シリイタイ卿とイヴォヂ卿はもう、お待ちですか」

「ええ。ご案内致します」

 魔法装置の昇降機は四階、最上階であるはずのティールームを越えてもう一つ上の階で止まった。なるほど、外観から四階建てとしては少し妙な造りだと思っていたが認識阻害の魔法がかかっているのか。初めて来た時に気づいてたけどもね! だって僕は魔王ですしおすし!

「面会を乞うた私がお待たせすることになって申し訳ございません」

 案内された部屋には、まるで鏡合わせのようにレディシュの兄弟が左右に並んで座っていた。白い肌にそばかす、燃えるような赤毛の兄弟はまず、向かって右側へ座る方から口を開く。

「面白いことと、商会にとって利益になることを運んで来たそうだね?」

「はい、シリイタイ卿」

 ペールブルーの瞳。兄であるキレヂ・オ・シリイタイ伯爵令息は、長い指を持て余し気味に膝の上で組んで顔を傾けた。

「もったいぶらずにさっさと話せよ、シシィの侍従」

 ペールグリーンの瞳、向かって左側に座っているのが弟のイヴォヂ・オ・シリイタイ伯爵令息。いやほんと、双子みたいにそっくりの兄弟だ。話し方以外は。

「エロアナル様から話は通っていると思いますが、レディ・シリアナと王太子殿下の婚約を破談にするためにオシリスキナ公爵家から働きかけようとしております」

「先日聞いたシシィの意志だけではなく、オシリスキナ公爵家の公式見解として王太子殿下との婚約を取りやめたいということだね。殿下の噂は色々聞いているよ。まぁ……ぼくらのシシィには相応しくないようだね、イヴォ?」

「ああ。気に入らないね、キリー。だからオレたちはシシィと殿下を破談させる企みには大賛成さ」

「そのために、現王のご家族をドエロミナへご招待したいと思っております」

「それでシリネーゼ公爵夫人の書状にあった、プライベートビーチとかいう新しい試みを現王へ吹き込む人間が必要なのだね?」

「はい。それは王家御用達であるフィストファック商会、シリイタイ卿のお力なくしては成し得ません」

「ふむ……。公爵夫人はその辺りの話を、君に一任するとおっしゃっておられるよ。どう思う?」

 唇だけはいっそう深く笑みを刻んでいるが、キレヂ令息の瞳は一切笑っていない。書状に目を通したのだろう。さすがに次期伯爵、軽口を叩いていた時とは打って変わって商人の目つきだ。無意識に膝へ置いた手を握り締めた。この僕が、人間相手に緊張するなんて。

「まず、プライベートビーチの使用予約をオシリスキナ公爵家が自身で使うと指定した日以外、フィストファック商会のみで扱う、独占販売といたします」

「ふむ。オシリスキナ公爵家が客人を招くこともあるだろうからね。予約全体の二割は公爵家の持ち枠、というのはどうかな?」

 肘掛けへ肘をつき、上唇へ人差し指を当ててキレヂ令息は少し、身を乗り出した。

「それでよろしゅうございます。ただし、プライベートビーチの予約についてはオシリスキナ公爵家が利益の六割をいただきます」

「おいおい、シシィの侍従。いくらオレたちがシシィのお兄様だからって礼儀を忘れてもらっては困るぞ?」

 イヴォヂ令息が上半身を反らし、顎を突き出した。足を組んであからさまに威圧して見せている。キレヂ令息は人差し指を唇へ当てて目を閉じている。

「レディ・シリアナが考案した『水着』の製造、販売を独占させると言ってもですか?」

「……みず、ぎ?」

「貴族の女性はみだりに肌を見せることを良しといたしません。ですが、プライベートビーチで恋人や家族の前でのみ、肌を見せるような『泳ぐ』ための着衣を売り出すのです」

「肌を、出す……? そんなの、お高く留まった貴族の女が受け入れるわけねぇぞ?」

「ええ、ですのであくまでも『恋人』や家族の前のみで着用するのです。そのためのプライベートビーチですよ。考えてみてください。貴族同士、火遊びでは済まないお付き合いはできない。けれど憎からず思うご令嬢の、普通ならば結婚相手にしか見せないお姿を見たいと望む殿方は多いでしょうね」

「……エイン」

「はい」

「シシィは天才かな?」

 このすけべどもめ! 結婚するかどうかは分からないけど、かわいいご令嬢の足やら太腿やらは見たいというんだろう! ほんと、フケツよ! だけど童貞知ってる。すけべ心は財布の紐を緩ませることを。

「こちらに水着のデザインをいくつか持って来ております」

 スケッチを覗き込んだレディシュの兄弟は、その髪よりも赤くなって唾を飲み込む。おい、前に出過ぎだ。気持ちも姿勢も前のめりである。

「お……おお……」

「兄さん、これは……うひゃあ……」

 シリアナ嬢が描いた水着のデザインはどれも貴族令嬢が着るにはハレンチ極まりないものであるが、男のすけべ心には直撃したようだ。

「この水着を淑女へお勧めするためにも、この国でもっとも高貴な女性が『プライベートビーチで水着を着用した』という事実は必要でございます」

「……なるほど。続けて」

 キレヂ令息は体を少し乗り出して話の先を促す。僕は努めて冷淡に、要求を突き付けた。

「水着の製造販売はフィストファック商会が独占。水着の売り上げの二割をオシリスキナ公爵家へ。これと併せてドエロミナのシリズキー海湾岸でのプライベートビーチ予約販売を独占。プライベートビーチ予約の売り上げ六割はオシリスキナ公爵家へ納めていただきます」

 はぁ、とため息を吐き出してキレヂ令息は深くソファへ背を凭れた。眉はハの字になっている。垂れ気味の丸い目と相まって、何とも憎めない表情だ。

「それではうちに旨味がないじゃないか。そう思わないか、シシィの侍従くん?」

「水着の製造販売は独占です、シリイタイ卿。女性というのは、この水着にお似合いですよと帽子を勧められれば帽子を求め、この靴がお似合いですと勧めれば靴が気になるかわいらしい性質をお持ちだと、お思いになりませんか?」

 シリアナ嬢は帽子とか靴より武器を求めるだろうけどもなッ!

 確かにプライベートビーチの予約は金額が大きなものになるだろう。だが、水着に合わせた帽子や靴、小物を売れば利益になる。そしてその小物についてオシリスキナ公爵家は利益を求めない。生粋の商人であるシリイタイ伯爵家なら、上手くやるだろう。キレヂ令息の右眉がぴくりと上がった。

「……」

 ことさらにっこりと微笑んで見せる。キレヂ令息は片手を上げ、肩を竦めた。

「はははっ! プライベートビーチ予約を成立させればさせるほど水着の売り上げは上がる。利益を得たければプライベートビーチの予約を取れと。つまりそういうことだね、エイン。まったく、シリネーゼ公爵夫人が一任するだけはある。いいだろう、嫌いじゃないよ。そういうの。よろしくね」

「オシリスキナ公爵家は、侍従まで抜け目ないな」

 兄をちらりと見やり、イヴォヂ令息も足を組んで姿勢を崩した。ああ、怖かった。これを持ち帰って、シリネーゼ公爵夫人が「甘い」とか言わないかだけが心配。僕は誰もが恐れる魔王のはずなのに胃が痛いよ人間怖い。

 警戒を解いた二人へ、今度は僕が身を乗り出した。本当の目的はここからだ。

「ところで折り入って、お二人にお願いがございます」

「……おやおや。プライベートビーチはあくまでもついでで、本題はここからというわけだね?」

「とあるご令嬢を、ゼンリツセェン学園のある教員と引き合わせたいのですが」

「ふぅん……それはシシィと殿下の破談と関係があるのかな?」

「ございます」

 強く頷いた僕へ、それは楽しそうにイヴォヂ令息が身を乗り出す。ソファから完全に体を起こして、テーブルへ片肘をついている始末だ。

「で、とあるご令嬢とある教員ってのは誰だ?」

「ご令嬢はイカセル子爵家のご長女、ミコス・リ・ハンデ・イカセル子爵令嬢。そして教員はオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵でございます」

「……」

「……」

 兄弟は顔を合わせて普段から丸い目をさらにまん丸にしている。

「ロイ先生? なんで?」

「イカセル子爵家のご令嬢とは、何年も放置していた侍女との間の子という話の、そのご令嬢かな?」

「で、ございます」

 さすがだ、キレヂ令息。イカセル子爵家の情報を持っている。人差し指と親指で自分の顎を挟むように摘んで少し上を向いてキレヂ令息は唸った。

「イカセル子爵は去年、流行り病でご子息を亡くされたんだよ。爵位を継ぐ子供を迎えられるような親類もなくてね。このままだと家名がなくなるところだったから、平民との間の子でもなりふり構わず迎えることになったんだろうねぇ……」

 シリアナ嬢からの情報とも一致する。やはり、頼むならキレジ令息。ミナエロイ大陸一の規模を誇るフィストファック商会だろう。軽く一つ、咳払いをする。

「貴族令嬢は普通、学園へ通う前にそれなりの教養は身に付けているものでございます。しかしイカセル子爵令嬢は平民として暮らしていた。ゼンリツセェン学園は貴族の子息しか通えません。さらに入学まで三カ月強しか時間は残されておりません。ということは現在、貴族令嬢としての最低限のマナーや教養を学園入学までに詰め込んでいるといった状況でしょう」

 シリアナ嬢が言うようにひろいんも転生者ならば違ってくるだろうが、転生者ではなくこの世界で育った平民であれば読み書き計算ができるかすら怪しい。

「シリイタイ卿」

「なんだい?」

「イカセル子爵家とも、お取引はございますでしょうか」

「……あるよ?」

 しばらくキレヂ令息と僕の話を黙って聞いていたイヴォヂ令息へ顔を向ける。イヴォヂ令息はおどけた様子で両手を上げて唇をきゅっと引き結んだ。

「イヴォヂ卿。オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵と交流はございますでしょうか」

「あるよ。魔法理論の先生なのに悩みがあると言えば相談に乗ってくれて、剣術指南までしてくれる。いい先生だ。生徒に慕われてる」

 いいぞ! しかし淫行教師のくせに生徒には慕われているのか。生徒を大事にしているのかしていないのか自分の下半身に忠実なのか。童貞、複雑な気持ち。

「まず、イヴォヂ卿にはオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵に『入学後勉強に付いて行けるか心配しているご令嬢がいるので、よければ見てもらえないか』とお声をかけていただきたい」

「うん……?」

「そしてシリイタイ卿にはイカセル子爵家に『ゼンリツセェン学園の教師に勉強を見てもらえるように取り計らえる』と伝えてもらいたい」

「ほう」

 イヴォヂ令息は実に凶悪な笑みを浮かべて僕に向かって顔を突き出した。

「で? するとどうなるんだ?」

「二人を、勉強会の名目で誘き出してフィストファック商会の一室で二人きりにします」

「おやおや、エイン。君は本当に悪い子だねぇ……」

 僕の企みに気づいたキレヂ令息は満足気にソファへ凭れて己の唇を撫でる。「しかし」と視線を斜め右上へ向けて顔を傾ける。

「それがどう、シシィに繋がるんだい?」

「それはまだ、分かりません」

「分かんねぇのに、なんでこの二人だって断定できるんだ?」

「分かりませんが、イカセル子爵令嬢が三年後には聖女になるのだそうですよ」

「はっ?」

「……それはそれは」

 これくらいの情報は与えておいてもいいだろう。信じる信じないは別として。

「それはいずこからの情報なのかな?」

 まぁ、そうなるよね。ここは正直に言ってしまおう。その方が都合がいい。シラを切り通せばいいんだし。

「レディ・シリアナがそうおっしゃっておられました」

「シシィが言うんなら、そうだろうね。イヴォ」

「シシィがそう言うなら、そうなんだろ。なぁ、兄さん」

「え?」

 なんて? ねぇ、あっさり信じちゃうの? 小さい頃のシリアナ嬢のこと、子熊だと思ってたのに? もうやだ。もう人間なんて信じられない。魔界帰る。魔界に引きこもる。二千歳児の子供部屋魔王爆誕だ。だが魔界に引きこもってもシリアナ嬢が僕の股間の玉座を奪いに来る。そうだ。今この苦労は僕の股間の平穏のためでしょ。諦めるな僕。諦めちゃダメ魔王。がんばれがんばれ魔王。やればできる子だもん。ただ清らかに生きて来ただけだもん。役勃たずじゃないもん。

「でもなんでシシィと聖女になるかもしんないイカセル子爵令嬢と、関係あんの?」

 頭を使うことは兄任せかと思ったら、鋭いじゃないかイヴォヂ令息。この兄弟、小首を傾げるのが癖なのかな。小首っていうか、もう体ごと傾いでるけど。

「聖女が現れたから婚約破棄されるのと、王太子殿下と円満に破談するのとではレディ・シリアナへの風評に違いが出るからです」

「ほあ?」

 キレヂ令息は大体予想が付いたみたいだけど、イヴォヂ令息は全く点と点が繋がらないらしい。大丈夫かな、この子味方に付けても。魔王、ちょっと心配。

「王太子殿下と円満に破談、もしくは王太子殿下有責の破談ならばシシィの経歴に傷が付くこともないけど、聖女が現れたから破談となるとまるでシシィが聖女に劣るようじゃないか」

「……! そんなんダメじゃん! 断固阻止だな、兄さん!」

「そうだね、イヴォ。そのためにイカセル子爵令嬢とロイ先生を会わせることが必要なんだね、エイン?」

「ご賢察の通りでございます」

 イヴォヂ令息がちょっとアレな子のようなので、もうはっきり伝えておいた方が良さそうだ。魔王は判断が早いのだ。

「できればイカセル子爵令嬢と、オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵を在学中にただならぬ仲にしてしまいたいと思います」

「ただ……ならぬなか」

 うん。やっぱイヴォヂ令息がちょっとアレな子だったね。キレヂ令息は予想していたのか、目を閉じて小さく咳き込んだ。

「できれば在学中にオシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵にはイカセル子爵令嬢とセッ」

「言われなくても察しようね、イヴォ!」

「う、うん、にいさん」

 動揺してずっとひらがなで喋ってるじゃん。魔王分かっちゃった。イヴォヂ令息は仲間だ。童貞、童貞が大好き。童貞を見ると安心する。自分だけが童貞じゃないって素敵なことね。だがキレヂ令息、君はダメだ。君は非童貞の臭いがする。童貞以外は帰ってくれないか! ウソうそ、帰っちゃダメ。僕の股間の平和のために協力してください。できたら金をください。

「というわけで、お任せしてもよろしいでしょうか」

「なにを?」

 しっかりしてくれキレヂ令息。たった今話をしていたじゃないか。僕は歯に衣着せず言い放った。

「オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵を淫行教師にしてください」

 そして火のないところに煙を立たせて、淫行教師のあれやそれもムリヤリ勃たせてください!

「んんっ……! 君ね、エイン。もう少し言い方に気を付けようか?」

 垂れていて丸い目と垂れ眉の印象でいつも少し困った表情に見えるキレヂ令息が、さらに困った表情で盛大に噎せた。まさかこの僕が言い方に気を付けろなどと言われるとは。今まで散々シリアナ嬢に注意して来たこの僕が注意される側になろうとは。

 シリアナ嬢に童貞を奪われるという恐怖はそれほどのものだということだ!

「つまり君の依頼はオシリスキナ公爵の依頼と思っていいのだよね、エイン」

「おっしゃる通りでございます。取り急ぎ、重大な依頼は二つ」

 二人の前へ、指を立てて見せる。鏡合わせの兄弟はそっくりな仕草で僕の指へ視線を注いだ。

「早急に現王ご一家をドエロミナへご招待すること。イカセル子爵令嬢と、オシリエ・ロイ・ド・ヘンタイ子爵をただならぬ仲にさせること。この依頼につきましてはオシリスキナ公爵、公爵夫人ともに『上限を設けず代金を請求してもらって構わない』と承っております」

「やったね、兄さん! オシリスキナ公爵家が際限なく金を出すなんて、国家予算に匹敵するぜ!」

「……エイン。公爵と公爵夫人へお伝えしておくれ」

「はい」

「このキレヂ・オ・シリイタイ、フィストファック商会の名に懸けて依頼を遂行いたします、と」

「かしこまりました」

「手段と方法は私に任せてくれるね?」

 にっこり笑ってテーブルに用意された紅茶へ手を伸ばしたキレヂ令息は、まるで乾杯するように僕へ向けティーカップを傾けた。応えて僕もティーカップを捧げ持つ。

「もちろんにございます」

 もうちょっとゆっくりしてくれても良かったのに、キレヂ令息の行動は早かった。翌日の夕方にはオシリスキナ公爵家のタウンハウスにエムジカが知らせを持って来たのだ。

「キレヂ様から伝言でございます。一週間後に首都を発つとメスアナ陛下よりお返事いただきました、と」

「心よりお礼申し上げますとシリイタイ卿へお伝えください」

「承知致しました」

 かくして、アホ殿下ご一行は一カ月後、初夏のドエロミナへホイホイとやって来たのである。

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