ヌエ
お母さんがいなくなってから、ぼくらの生活は一変した。
「うまいか?」とお父さんがいつものようにぼくに話しかけた。
「うん」とぼくも同じように返した。
しかし、正確には生活が変わったのは、ヌエが出没し始めた頃からだった。ヌエが現れるようになってから、ぼくたち、いや、人間は全くコミュニケーションをとらなくなった。
いまや、以前ほど人が訪れなくなったファミリーレストランでは、お客さんと呼ばれる存在はほとんどいない。
自動調理機がバンバンと音をたてる。
ヌエ対策の一環として、接客業は事実上廃止された。今や機械のみが一生懸命に働いている。そして、レストランの中を飾るのは窓いっぱいに張り付く異形の化物、通称「ヌエ」の声だけだ。
「なおき」「なおき」「あきひこ」「あきひこ」と、あちらこちらから聞こえてくる声。安全な家の外に出たくはなかったが、お父さんが料理ができないから、仕方がない。
食べ終わったお父さんは、口を拭きながら周囲を見回した。そして小さな声で「今日もいないか」と呟いた。
ぼくはお父さんのつぶやきを無視して食べ続けた。でも、本当は気づいている。お父さんは、ヌエに食べられたお母さんを探している。
ぼくが食べ終えると、お父さんはホットコーヒーを一気に飲み干した。
「いくか」
お父さんは何度も同じことを繰り返す。「ヌエに呼ばれても決して応えるなよ」
何度言われても、「わかったよ」とぼくは返す。そうしないと、お父さんの眉間のしわが消えることはない。
自動ドアの外に出ると、再びヌエの鳴き声がぼくらを包み込んだ。「なおき」「なおき」「あきひこ」「あきひこ」と呼ばれても、ぼくらは応じることはない。
家につくまで、ずっと頭を下げたまま歩いた。家の扉を開けるその瞬間まで、安心することはできない。
ガチャリとドアを開け、ソファに全身を預けると、やっと一息つけた。
「そろそろ料理を覚えたら」と、無理だと分かっている要求をしてみた。
お父さんは無関心な返事をしただけで、ほとんど考えてくれていないようだ。
ふと、お母さんのことが懐かしくなった。
お母さんはぼくが声をかけるといつも優しく返事をしてくれた。ご飯も毎日作ってくれた。
ヌエが現れてから、お母さんはいなくなった。
家の外はヌエで囲まれていた。相変わらず「なおき」「なおき」「あきひこ」「あきひこ」と呼ばれ続けている。
起きていたところで、気が滅入るだけだ。「もう、寝るね」とお父さんに声をかけるが、お父さんからの返事はない。
もう、返事のない生活にも慣れてしまった。
数日後、ぼくはお父さんに連れられてレストランを訪れていた。
自動調理機がバンバンと音をたてる。いつものレストランのメニューはすっかり飽き飽きしてきた。「そろそろ他のものも食べたいな」
お父さんは返事をしないので、ぼくの独り言となってしまった。
そういえば、お父さん以外の人と最後に会ったのはいつだっただろうか。ぼくにだって友達はいた。いや、いまでも友達のはずだが、ヌエが現れてからは全く会えなくなってしまった。
また、あの頃のように会いたいな。
そんなことを考えていると、聞き覚えのある声で「なおき」と呼ばれてつい振り返ってしまった。
背後でガチャンと食器が音をたてた。思わず振り返ると、お父さんが飛びかかるようにぼくを抱きしめた。「振り返るな。違う、ヌエだ」
心臓がバクバクする。呼吸が落ち着かない。「ごめん、お父さん」
幸い、ヌエにはぼくが反応したとは思われなかったようだ。
「怖いよ、怖いよ」と言うぼくに返事をしないまま、お父さんはぎゅっと抱きしめてくれた。
「食べよう」と言って、お父さんはぼくの頭に優しく手を置いた。お父さんが席に戻り、再び食事を始めようとした。
「あきちゃん」と聞き覚えのある声が無数のヌエの中から発せられたのを、ぼくたちは聞き逃さなかった。
「お父さん」とぼくが確認しようとしたが、お父さんは既に立ち上がっていた。「駄目だよ」と言っても、お父さんは聞いてくれない。
「いるのか」とヌエたちを見上げた。「どこだ、姿を見せろ」
ぼくらの反応に応じるかのように、ヌエが騒ぎだした。ぼくたちを呼びかけるときとは全く異なり、まるで獣が威嚇しているかのような声だ。
「どこだ」ともう一度お父さんが声を上げると、ヌエの中から一匹がレストランのドアを破って中に入ってきた。
ガラスが飛び散り、その破片を踏みながら、ヌエがぼくたちに向かってきた。
「あきちゃん」とヌエが呼びかけた。
お父さんの顔がみるみる強くなっていく。「本当に、おまえなのか」
ヌエは答えるように「あきちゃん」と声を発した。
間違いない。目の前のヌエは、お母さんを食べたやつだ。
ヌエはエサをとらえるためにぼくらに近づいてきた。「逃げようよ」とぼくが必死に懇願しても、お父さんは身動きしなかった。「いまさら復讐なんて」、そんなことを言うことはできなかった。
「逃げようよ」とお父さんはぼくのことを見向きもしない。じっと待ち構えるヌエを見つめていた。
ヌエの前足がひたり、ひたりとぼくらに近づいてくる。
お父さんは迎撃しようとしてヌエに近づいた。
「行かないで」とぼくの叫びはお父さんには届かない。
「ずっと、探していた」とお父さんはヌエに近づき、ためらいなくヌエの異形の身体を抱きしめた。「いるんだろう。そこに」
「あきちゃん」とヌエが呼びかける。
「お父さん」とぼくが必死に声をあげる。「違うよ、そいつはお母さんじゃない。どんなに声が似ていたって、違うよ」
お父さんはぼくの声には応えず、ヌエにだけ返事を続けた。
「ずっと、別れを言いたかった」
ヌエはじっとお父さんを見つめた。羽交い締めにされて身動きが取れないのか。ぼくは、テーブルに置かれたナイフを見た。
呼吸が荒くなる。でも、ひとりになりたくはない。
「手を出すなよ」とやっとお父さんが振り返った。
「でも」とぼくが駆け寄ろうとしたが、「来るな」と制止される。
「お父さんは、お母さんと一緒になる」
違うよ。声が出たのは意外にも小さく、足元に落ちた。「いやだ、ひとりにしないで」
「お別れだ」
ヌエは待ち望んでいたかのようにお父さんの喉に噛みついた。「いやだ、置いて行かないで」
「ふたりで、お前のことを見守っているぞ」
ぼくはお父さんが食いつかれる様子をじっと見つめていた。やがて、満足したヌエはぼくをじっと見つめて「なおき」と呼んだ。
お父さんの声だ。
ぼくは、いつまで返事をしないでいられるだろうか。
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