中
それまで幸福に満ち溢れていたクリスティーナ・フォン・ノイエンドルフの人生は、12歳を迎えた或る日、突如暗転した。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「だ、誰かっ!?お嬢様が、お嬢様がぁっ!」
ノイエンドルフ侯爵夫人と侍女達が次々に悲鳴を上げ、家人に助けを求める。騒ぎを聞きつけて駆け付けた執事や使用人達は、その光景を目にして愕然となり、思わずその場に立ち竦んだ。
ノイエンドルフ家の緑豊かな美しい庭園の中央に、大きな火柱が噴き上がっていた。火柱は周囲に広がる緑の芝生を焼き尽くし、その場に据え置かれた木製のテーブルと椅子にも燃え広がる。テーブルの上に並べられていたアフタヌーン・ティーのための食器は黒ずみ、瑞々しい果実や甘いお菓子が瞬く間に炭化していく。
その火柱の中央で、一人の少女が蹲っていた。少女は、幼いながらも眉目の整った顔をくしゃくしゃに歪め、自身が発する炎によって身に着けていた衣服を失い、手足で必死に己の肌を隠しながら泣き叫ぶ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
「クリスティーナ、しっかりしてっ!すぐに助けるからっ!」
「お嬢様、ご免っ!」
侯爵夫人が蒼白な顔色のまま必死に声を掛け続け、男達が庭園の池から水を汲んで来て、繰り返し少女へと浴びせる。だが少女の身から発せられる火勢は一向に衰える様子を見せず、少女を守護するようにノイエンドルフ家の者達の前に立ちはだかった。炎は少女に一切危害を与えぬものの、それ以外の全てを拒否し、人々は為す術もなく泣き叫ぶ少女を見つめたまま、呆然と立ち尽くす。
「…お嬢様っ!」
「…カイっ!?危ないっ!」
遅れて館から飛び出した一人の少年が、大量の布を抱えたまま人々の脇を駆け抜け、少女の許へと飛び込んだ。封印の魔法陣が幾つも殴り書かれた布を両手で広げ、火柱を上げる少女に飛び掛かって体に巻き付ける。封印に抵抗して炎が布の隙間から溢れ、少年の手足に喰らいつく。
「う、うわああああああああぁぁぁっ!?」
「カイっ!止めなさいっ!あなた、死んでしまうわっ!」
「う、うぅぅぅぅ…」
少年の悲鳴を聞いた侯爵夫人が我に返り、引き下がらせようとするが、少年は苦痛に顔を歪ませながらも次々に封印の魔法陣が描かれた布を少女へと巻きつける。やがて炎は抵抗を止め、両手足に重度の火傷を負った少年と、大量の封印の魔法陣に塗れた少女を残して、鎮火した。
火を消す事はできたが、クリスティーナは屋敷に戻る事が出来なかった。彼女が立ち上がろうとすると、布の隙間からすぐに炎が噴き上がってしまう。家人達は断念し、蹲るクリスティーナを覆うように、その場に天幕を張り始める。周囲の視界だけは遮断できた天幕の中で、クリスティーナは布に埋もれたまま泣き続けた。
「ぐす…もぅ、こんなのヤダよぉ…このまま死んでしまいたいよぉ…」
「お嬢様、諦めないで下さいっ!僕が必ず、助け出しますからっ!」
針子の家に生まれ、魔法の才を見い出されてノイエンドルフ家に出仕していたカイは、屋敷に戻る事はおろか服を着る事さえ出来なくなった2歳年下の主人の娘を憐み、必ず救い出す事を誓う。
やがて外出先で騒動を知ったノイエンドルフ侯爵が麾下の魔術師達を引き連れて駆け戻って来たが、優秀な魔術師達の力を以てしてもクリスティーナを襲った不幸を打ち払う事が出来なかった。クリスティーナはノイエンドルフ家に仕えるどの魔術師よりも遥かに豊富な魔力を湛えていたが、その魔力を扱うための才能を一切持っていなかった。クリスティーナの魔力暴走を抑える事を諦めた侯爵は、彼女の居室に封印の魔法陣を描くよう、魔術師達に命じる。魔術師達はクリスティーナの居室の壁はおろか、床や天井に至る全てにびっしりと封印の魔法陣を描いて行く。
魔術師達の作業は夜通し続けられ、翌日、クリスティーナは封印の魔法陣に塗れたままカイに付き添われ、ようやく自室に戻る事ができた。
自室に戻った後も、クリスティーナの不遇は続いた。部屋中に書き連ねられた魔法陣によって魔力暴走は抑えられ、彼女はようやく服を着る事が出来たが、魔法陣の外に一歩も出る事が出来なかった。ノイエンドルフ家は建国以来続く由緒ある名家だけあって来訪者も多く、屋敷中に魔法陣を敷き詰めるわけにもいかない。止むを得ず侯爵はクリスティーナの居室に隣接する二部屋をぶち抜き、その三部屋で彼女の生活が完結するように改装を命じる。娘の醜聞が広がらぬよう家人に箝口令を敷き、対外的には病気療養を装う。
こうしてクリスティーナの何年にも渡る、三部屋から一歩も外に出られない軟禁生活が始まった。
軟禁生活が続く間も、魔力暴走は悪化の一途を辿った。当初完封できていた封印は、彼女の成長に比例して総魔力が増すにつれ、しばしば軋みを上げるようになった。炎だけだった暴走は、やがて岩石や烈風、氷塊が混じるようになり、カイは封印の
そして、軟禁生活が6年目を迎えた、クリスティーナの18歳の誕生日。彼女は、カイから一つのプレゼントを受け取った。
「…お嬢様、お誕生日おめでとうございます。コレ、俺からのプレゼントです」
誕生日の朝、部屋に入って来たカイから開口一番そう言われ、クリスティーナは目を瞠った。
軟禁生活に入ってから何度か誕生日を迎えたが、両親からプレゼントを贈られた事はあっても、カイから贈られた事はなかった。その両親がカイの行動に口を挟もうとせず壁際で大人しく見守る中、クリスティーナは頬に熱を覚えながら尋ねる。
「…あ、ありがとう、カイ…開けても好い?」
「ええ、どうぞ」
カイからのプレゼントは、両手で抱えるほど大きな、平たい箱だった。クリスティーナは箱に手を伸ばし、恐る恐る蓋を開ける。
「…え?」
箱の中に納められていたのは、封印の魔法陣がびっしりと刻まれた黒いパンプスと、黒の手袋。そして、幾つもの継ぎ接ぎのある、喪服と見間違うほど真っ黒なドレスだった。
「…すみません、こんな粗末な服になってしまって。まだ試作途中で、黒以外では上手くいっていないんです」
「…え?」
カイの要領を得ない言い訳に、しかしクリスティーナの鼓動が大きく跳ねた。望む事さえ諦めた一つの願いに再び火が灯り、胸中に熱い想いが広がっていく。
「魔術師の皆さんに何度も検証して貰いました。旦那様と奥様にも許可をいただいています」
「…いいの?」
クリスティーナの目が大きく見開かれて涙を湛え、唇が戦慄きを繰り返す。泣き出しそうなクリスティーナの眼差しに、カイが頬を染めて視線を逸らし、自信なさそうに答えた。
「…多分、大丈夫です。――― お嬢様、これから庭へ、散歩に行きませんか?」
男達が部屋の外に出て行き、クリスティーナは泣きながらドレスの袖に腕を通した。漆黒のドレスは表地に一切刺繍が施されておらず、喪服よりも地味で、しかも至るところに補強のための継ぎ接ぎの跡が残っている。そして裏地には封印の魔法陣がびっしりと刻まれ、クリスティーナの魔力に反応して無数の煌めきを放っていた。母親と侍女に衣装を整えて貰い、部屋の外で待っていた男達を呼び戻す。
「…お父様、どうです?似合っていますか?」
「…あぁ…クリスティーナ、良く似合っているよ…とても綺麗だ…」
部屋に足を踏み入れた侯爵は、首から下の肌を一切見せない全身黒ずくめのクリスティーナを見て、声を震わせる。泣き腫らし、継ぎ接ぎだらけの喪服に身を包んだ没落した未亡人と見間違う娘の姿に、侯爵は目を潤ませ、口を真一文字に引き絞って、喉元に込み上げる激情を必死に押さえ込んだ。庭園に面する窓や扉を塞ぐ、封印の魔法陣の描かれた木板がカイの手によって取り外され、クリスティーナの居室に6年ぶりの朝日が射し込む。
――― 部屋の封印が外れても、自分の体から火柱が上がらない。日の光が射し込んでも、岩石や氷塊が撒き上がらない。
歓喜に打ち震えるクリスティーナの視界に、庭園に下りるカイの姿が映し出された。朝日を浴びて光り輝き、クリスティーナに手を差し伸べながら微笑んで、まるで巣立ちを促す親鳥のように、彼女を
「…さ、お嬢様、参りましょうか」
「…うんっ!」
彼女は駆け出したくなる衝動を辛うじて堪え、足早に歩を進めてカイの手を取った。彼の手には6年前の火傷の痕が今も残り、痛々しい斑模様を描いている。クリスティーナは彼の手に広がる斑模様を手袋越しに指でなぞりながら、彼のエスコートを受け、庭園へと足を踏み出した。
6年振りの庭園は、新緑に溢れていた。上空には雲一つない青空が広がり、春の柔らかな日差しが地上へと降り注ぐ。光を浴び、生命の歓びに溢れる世界の中を、クリスティーナはただ一人喪服姿で、カイと共に歩き回った。
彼女が庭を歩き回っても、火柱は上がらない。岩石も氷塊も飛び交わない。
「…あは、あはははっ!」
「お嬢様?」
歓びに身を任せ、彼女はカイと手を繋いだまま、走り出した。すぐにカイの手に引っ張られ、それ以上先行出来なくなった彼女は、そのまま振り返って彼と向き合う。満面の笑みを浮かべ、両手を差し伸べて彼の左右の手を取ると、相手を振り回す勢いで踊り出し、二人は互いの手を取り合ったまま新緑の上でぐるぐると回り出した。遠心力に引かれ、ドレスの裾が次第に浮き上がっていく。
「あはははっ!あはははははっ!――― きゃぁっ!」
ボンッ!
「お嬢様っ!?うわぁっ!」
後方に浮き上がったドレスの裏地が煌めきを放ち、突然、クリスティーナの背後で爆発が起きた。爆発の衝撃で彼女は前方へとつんのめり、カイが身を挺してクリスティーナを庇う。クリスティーナがカイの両手を掴んだまま覆い被さり、倒れ込んだ二人は地面で折り重なったまま、互いに見つめ合う。
「…カイ…」
「…お嬢様…」
馬乗りになったクリスティーナの視線が、指を絡めたまま地面に押さえつけられた彼の両手へと注がれる。
火傷で斑模様になった、彼の両手。
今、自分が身に着けているドレスの裏地には、その彼の手によって紡がれた魔法陣がびっしりと張り巡らされ、彼女の身を押し包んでいる。
この国には、彼よりも優秀な魔術師は幾らでも居る。彼が描く魔法陣よりも強固な封印魔法も、存在するだろう。
だけど、その封印魔法陣を布地に縫い留められるのは、彼しか居なかった。繊細な技術を持つ針子で、魔法の才を有する彼にしか出来なかった。
彼だけが、クリスティーナを部屋の外に連れ出す事が出来た。彼が居なければ、クリスティーナはこれ以上、世界を知る事が出来なかった。
彼女は継ぎ接ぎだらけの喪服に身を包み、若い男性の
「…カイ、あなたの事が大好き。――― 私と、結婚して下さい」
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