10 静かな日々

 起き上がるとパジャマの袖で涙を拭いた。

 最悪だ。

 でも仕方ないんだ。私は財前に元に戻って欲しい。

 まだ七時半だけど、私はサッと顔だけ洗って制服を着ると、すぐに家を出る。

 学校に着いても、人は全然いない。校庭で野球部が朝練しているくらいだ。私はクラスの下駄箱を端から見る。財前の生徒番号のところに靴がある。もう財前は来ているのだ。

 夢が財前に影響を与えたんだ。

 私は二年の階に行き、教室のドアの前で立ち止まる。小窓からは財前が椅子に座って頬杖をついているのが見える。

 恐る恐るドアを開ける。古いドアだからギシギシ音が鳴る。それに気づいて財前が目線だけこっちに寄越す。

「おはよ……」

「おはよう」

 財前は普通に返す。

 どっちなんだろう。

 元の財前に戻っているのか。

 私は一瞬悩むけどすぐにわかる。財前が私にかけた言葉は「おはよう」のそれきりで、教室で二人きりなのに話しかけようともしない。今まで鬱陶しいくらいに絡んできたのに何もない。八時過ぎになってちらほら人がやって来ると財前はその人らと話し出す。私には目もくれない。クラス全員が出揃って賑やかになってもその態度は変わらない。一限二限が終わり、昼休みになっても財前は私の机に来ることはなかった。

 そして放課後。

 部室にも財前は来なかった。

 私は部室で一人で絵を描いた。デッサン、色面構成、やれることをやる。だけど手の動きが鈍い。まるで手から先が脳みそと接続されていないみたいだ。絵がちっとも進まないしほんのちょっと描いただけで疲れてしまった。部室の外から足音が聞こえる度に外に出るけど、廊下を通っただけの知らない誰かだし、期待の分だけ無駄に失望した。五時のチャイムが鳴ってから、たとえ一分でも時間が過ぎていくのが怖くなった。このまま一人だけで部室の鍵を返しにいくことになるのだろうか? でも多分絶対財前は来ないだろう。夢の中で私がそう仕向けたからだ。財前を元に戻すために。だから私は間違ったことをしていない。これでいいんだ。しかしそう仕向けることができてしまった以上、私が財前を洗脳した事実は真実だ。財前が私と友達になろうと言ったのも財前の意思じゃなかったんだ。夢のせいなんだ。

 もう帰ろう。

 と思っても私は財前を待つのをやめられなかった。実は私の予想なんて関係なくて、忘れた頃にひょっこり財前は部室に顔を出して来るんじゃないか? だとしたら私が部室を閉めてしまっていたら財前は諦めて帰ってしまうだろう。あり得る。私は待っていなくちゃ。財前が来るまで待っていなくちゃ。

 私は学校の門が閉まる七時半ギリギリまで粘った。チャイムが鳴って、「校内に残っている生徒は帰宅してください」と放送された。私のことだ。それでも無視して待っていると体育の加藤がやってきた。

「もう時間だぞ立花」

「あの! 私の他に誰か残ってないんですか?」

 私が訊くと加藤はため息を吐いて、

「残ってるわけがないだろ。うちの部も全員帰ってる。残ってるのはお前だけだ」

「……そうすか」

 野球部顧問でもある加藤はキレるとやたらでかい声で叫ぶ。私は帰らざるを得なかった。のそのそ荷物をまとめていると加藤があくびをしているのが見えた。







 静かな日々が帰ってきた。

 次の日から財前は自分からは私に近寄ることすらなかった。まるで私の存在を忘れてしまったみたいに、私を見下しもせず、絵の出来がどうこうも言わず、他の友達と喋っているだけだった。何事もなく、一日一日が過ぎていった。

 こんな簡単に解決しちゃうんだと思った。

 それならそれでいい。予定通りなんだ。私は絵を描くだけ。藝大に行くために。美術室に行って鉛筆を削り始める。とキシリと部室のドアが開く。私はバッと振り向く。財前!

「ももおさん……」

 それは平子だった。

 私はキャンバスに向かい直す。

「どしたの?」

「ごめんなさい」

「何が」

「変なこと言ってしまって……」

「何」

「だから夢の……ももおさん、財前さんと……」

「あーああー! なるほど。平子が気にすることじゃないって。私が勝手に真に受けただけだし。つか夢の話、あれ私の妄想だから。実際ないから」

「でも、ももおさん……」

「あ、平子絵でも描いてく? てか描いてよ。平子の下手な絵見たい」

 私は体をそらして床に置いてあるバッグからスケッチブックを取り出す。鉛筆も添えて机の上に置く。

「私がうざいと思っちゃったからいけないんです。ももおさんが友達できて楽しそうだったから……だから……」平子は言う。「むかついたんです」

「たいしたもんじゃないよそんなこと。私も平子が友達百人できたらむかつくな」

 嫉妬なんて誰でもする。私だって財前の絵の上手さに嫉妬していた。

「……私、ふざけてないです。本気です」

「おーそうかー」

「余裕ぶらないでください」

「ぶってないよ」

「本気で謝ってるんです」

「おー」

「悪いと思っているんです」

「おー」

「謝ろうとしてるんです」

「おー」

「落ちろ藝大」

 そのぐらいでは怒らない。未来の話なんてされてもって感じだ。

 虚しいんだよ。

「……ごめんなさい」

「おー」

「私、財前さんのことなんとかします」

「しなくていいよ」

「します」

 下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。校庭で部活やってた連中がゾロゾロ引き上げている。

「帰ろか」

 私は言う。

「はい」

 平子は言う。

「そういえば平子ん家、いつ行ったっけ」

「三月頃です」

「そうだった」

「ごめんなさい」

「おー」

 ノロノロと歩いている私たちをチャリ通の奴らが追い越していく。

「平子さあ、大学どこ行くの」

「どこでもいいです」

「そんな感じか」

「親は国立行けって言ってます」

「ふーん」

「めんどくさいです」

「落ちたらどうしよっかな」

「大丈夫ですよ」

「……」

「考えてたんですけど」

「……」

 平子が私の顔を覗く。そして言う。

「やっぱり夢なんかで人は変わらないですよ。私が間違ってました」

 多分慰めてくれているんだろう。友達だから。平子は私と「友達じゃない」とか言って友達じゃないふりをしても結局は友達なのだ。

 まあうれしいけど意味がない。

「平子ありがとう」

 私は言う。平子がはにかむ。良かった、空気が悪くなったままにならないで。



 それから平子と別れ、久しぶりにマシな気分になったけど結論から言うと平子は正しかった。夢なんかで人は変わらないし、財前は最初から私を振り回してたんだ。

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