05:旅立ち
とうとう、リネハンへ旅立つ日がやってきた。
母との思い出のつまったこの屋敷とも今日でお別れだと思うと、なんだか寂しくなりしみじみと部屋を眺めてしまう。
昨夜は、母が生きていた頃によく面倒を見てくれた侍女長のクレアが、久しぶりにお世話をしてくれた。
クレアに頭を洗って乾かしてもらうと、なんだか子供の頃に戻ったみたいだった。懐かしくて気恥ずかしい気持ちになっていると、クレアの手が震えていることに気がつく。
驚いて後ろを振り返ると、彼女は涙を拭い、少し迷ってからジョアンナの前に移動して話し始めた。
「お嬢様が産まれた時から知っているので、こんなに成長して美しくなったなと思ったら、涙が止められませんでした。小さい頃はお転婆で、良くヴィヴィアン様に怒られていたのに、こんなに立派になって……」
「そうだったわね……庭で虫を捕まえては自慢して、よくお母様には怒られたわ」
「毛虫を掴んでいるのを見た時は、心臓が止まるかと思いました」
「ふふ……お母様があまりに取り乱すから大騒ぎになったわね。その後に手がブツブツになって、痒くて痒くて大変だったわ」
しばらく色んな想い出を話して笑っていると、またクレアの瞳に涙が溜まっていく……。
「明日にはこのお屋敷から旅立つのですね……。お嬢様の花嫁姿を見る日を楽しみにしていたのに……リネハンは遠いですね……」
「そうね……少し遠いわね……」
クレアは震える手でジョアンナの手を包み、ジョアンナの瞳をしっかり見つめて口を開く。
「リネハン家の方は、誠実で愛情深い方ばかりだと聞いています。きっとお嬢様を大切にしてくださいます。ヴィンセント様の治療も、王太子様が他国にも情報を求めて動いていらっしゃるそうです。きっと良くなります。どうか笑顔を忘れずに、幸せになってください」
ジョアンナを見つめるクレアの瞳から、愛情が伝わってくる。
リネハンについて情報を集め、ジョアンナの幸せを願ってくれる人がいる。
それだけで、ジョアンナの固くなった心が溶けていくような気がした。
握られた手は少し痛いくらいだが、温かい……。
「ねえ、クレア、最後に1つお願いがあるの。抱きしめてくれないかしら?」
クレアは驚いて目を見開いた後で、少し笑い、優しく抱きしめてくれた。
ゆっくりと髪を撫でられる感触が心地よく、しばらく2人で静かに泣きながら抱きしめあった。
屋敷での最後の夜。ジョアンナは久しぶりに、穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。
「リネハンからの迎えが到着した」と連絡を受けて向かうと、屋敷の前にはクレアや沢山の使用人が並んでいる。これまでお世話になった皆に、笑顔でこれまでの感謝を伝えてから馬車に向かい歩き出す。
馬車の前には、父と継母がリネハンから来た代表者の男性と話しているのが見える。
父から少し離れた場所には、キャロラインとフィリップもいるようだ。
父と話していた男性はジョアンナに気がつくと軽く目礼し、馬車に向かって歩いて行った。
どうやら、最後に家族だけの時間を作ってくれるようだ。
ジョアンナは父の前に立ち、なるべく丁寧にカーテシーをする。
「これまで育てていただきありがとうございました。皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます」
「ああ、ジョアンナも元気で……」
父はそう言うと、ジョアンナに近寄り軽く抱きしめる。
懐かしい父の香りと体温を感じながら、父の肩越しに嫌らしい笑みを一瞬浮かべた継母が見えた。
馬車が動き出し、遠ざかる屋敷をぼんやりと眺めていると、自然と涙が溢れてきた。
滲む視界の中で遠ざかっていく屋敷を見つめながら、二度と帰るつもりのない生家に別れを告げる。
ジョアンナの気持ちが落ち着いた頃、馬車の向かいに座り、そっとジョアンナを見守っていた女性から自己紹介を受けた。
彼女の名前はコリンナ、道中の侍女として来てくれたそうだ。
20代の後半くらいだろうか……落ち着いた雰囲気の女性だ。
コリンナの話では、マーランドからリネハンまでは、馬車で7日程度の距離らしい。
ただ、途中に道が良くない場所もあるので、今回は休みを多めに取りながら、ゆっくり行くそうだ。
だいたい10日から12日程度で、リネハンに着く予定を組んでくださっている。
道中ではコリンナからリネハンについても、少し教えてもらった。
リネハン辺境伯領は、王都から見ると北に位置していて、隣国との国境に接している。
そして、魔の森と呼ばれる、どこの国にも属さない土地とも隣接している。
魔の森は名前の通り、魔物が多く出る危険な土地だ。
そのため、独自の騎士団を持ち、定期的に魔の森に入って魔物の駆除をしているそうだ。
そしてリネハン家は、【剣聖】のスキルを持つ子供が多く生まれる家系だ。
現当主と婚約者のヴィンセントも【剣聖】のスキルを持っているらしい。
【剣聖】は【剣術】よりも上の剣を操るスキルで、王国には持っている人が数名しかいない希少なスキルだ。
ヴィンセントの身体がどこまで動くのかはわからないが、恐らくジョアンナの妻としての1番大切な役割は、彼の子供を産むことだろう。
そこまで考えて、ふと母の事を思い出す。
母も【水魔法】のスキルを持っていた。
そして、【水魔法】のスキルを持った子供を産むことを期待されて、マーランド家に嫁いだのだ。
ジョアンナは【水魔法】のスキルを持つ両親から生まれたのに、【ログインボーナス】という役立たずのスキルを授かった。そして……「このスキルが子供に遺伝したらどうしよう」と考えると、少し怖くなった。
母はいつも言っていた。
「スキルは神様からの贈り物だから、どんなスキルでも、その人に必要だから神様は授けるのよ」
【ログインボーナス】もいつかジョアンナに必要になる日が来るのだろうか……。
──いつかそんな日が来たら、このスキルも少しは好きになれるかしら?
そんな事を考えながら、ジョアンナは流れゆく景色を眺めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます