わたくし・愛おしいもの

 わたくしは、明日というものに、ひたすら怯えて生きて参りました。

 目隠しをされ、耳を塞がれ、右往左往しながら生きて参りました。


 そんなわたくしも、あの、幻夢のようなクロッカスの咲く学院に、通う様になってから、ほんのすこしは、毎日、毎時間、毎分、毎秒の呼吸がらくになりました。ですが、わたくしはわたくしを偽造する様になりました。


 さて。文豪らに憧れて、筆を取ったはいいものの、記念すべきこれの壱頁目に、ふさわしいであろう内容が思いつかないのが現状でございます。わたくしの日記を、いずれはあなたがたが見るのだと思うと、なおさら。


 これは、わたくしがお兄様へ送る、お手紙であり、告白であり、そして、



  この日記の始めの頁に、なにを描こうか。ほんの数分まえまでは、この日記は素晴らしいものになるにちがいない、と確信を持って意気込んでいたのだが、こんなにも早く書く気が失せてしまうなんて、わたくしはこんなに飽き性だったのだろうか。いいえ、これはそもそも、日記ではない。だってこれは、お兄様へのお手紙で、告白で、いいえ、これなら、やはり日記と呼ぶほうがいささかましな気がする。いずれお兄様に渡るものだから、わたくし自身のためにではなく、いいえ、やはりどこか、わたくし自身のためわたくしはこれを書いているのかもしれない。けれどもお兄様のことを思ってわたくしはこれを制作しなければならない。ああ、どうしたものか。


 わたくしは先ほどまで書いていた文章から一行開けて、ペンを握り締め、ほぼ何も考えずにこう綴った。



 わたくしの今日のお話しをしようかしら。

 今日は現代文の授業がございました。わたくしがずっと受講できることを楽しみにしていた授業です。

 先週の初めに、お兄様がたにもお話しさせていただきましたことと思いますが、そう、わたくしの大好きな作家の、かの有名な物語の授業でございます。

実は、先週の初めから取り組むはずの単元でしたが、少し先延ばしにされてしまったのです。わたくしはその日の朝から楽しみにしていたのですが、突然、模試の対策の授業にかわってしまったのです。わたくしの学友は、かの有名な物語の冒頭の文章を真似て、いかにも切迫詰まった口調でわたくしを慰めてくださるのですから、わたくしは面白くて仕様がなく、学友とくすくす笑っておりました。やはり、こういう時に、この学院に通うことができて良かったと感じます。

 わたくしがその作家に出会ったのは、一昨年の春でございました。わたくしはこれまで、現在最前線を活躍されている方々のご本を手に取ることが多かったのですが、学友からすすめられ、わたくしと百歳差の、かの作家の誰もが一度は聞いたことのある作品を手に取りました。そうしたら、まあ!まさに、晴天の霹靂でございます。わたくしがこうやって綴ると、どうも冗談めいて聞こえるのですが、未知との遭遇だったのです。わたくしは、その方の創作なさった物語のなかでも、女性が主人公の物語が一番すきなのです。わたくしめが言うのもいささか気が引けますけれども、繊細で言葉にするには難しくて、(わたくしは一度だけ、言葉に表せないものかと試みてみたことがありますが、どうも、ちゃちな表現と、己の芸術性のなさへの嫌悪しか生み出せませんでした。)センチメンタル、郷愁、などの言葉で片付けてしまうような気持を、ひとつひとつ丁寧に、かつ大胆さを持って表現なさるのです。そしてそれらは必ず、わたくしの胸に的確に突き刺さり、主人公と気持ちを共有するためのつなぎめになるのです。わたくしは、いちいちそれにうんうん唸り、天を仰いでしまうのです。

 ああ、嫌ね。わたくしったら、お話が変わってしまってしまっていますわ。それで、最初のお話に戻りますけれど、現代文の先生が、わたくしがかの作家が大好きなことを覚えていてくださったのです。わたくしったら、顔に出てしまったようで、そんなにときめいて、と、言われてしまいました。でも、わたくしは、すごくすごく嬉しかったのですし、それを、誇りにも思っているのですよ。二年の教科書には、他にも、かの小説家と関係のある詩人の作品や、付録として各地域の有名な作家の作品が乗っているのです。わたくしにとって、それがどんなに嬉しいか、お兄様はご存知でしょう。先日の、二者面談では、わたくしが尊敬する先生に、貴方は文学少女だから、なんて言われたのです。それに、この前は、お隣の学級の古典の先生が、文学史の本を貸してくださったのです。ああ、またお話が変わってしまったわ。とにかく、そんな教科書とも、あと、一ヶ月もたたずにお別れと思うと、冷たい寂しさに包まれます。


 お兄様方は知っていらっしゃると思いますけれど、わたくしには、愛おしいものがたくさんあるのです。

例えば、御本。

例えば、音楽。

例えば、語学。

わたくしがお兄様にたくさんお話しいたしますから、お兄様は、ようくご存知でしょうね。勿論、お兄様も愛おしい方です。わたくしは、そういうものでできでいるのです。わたくしに何もなくなってしまって、伽藍堂になってしまっても、これだけは確信して言えるのです。わたくしの愛おしいものは、わたくしの血肉となり、そしてわたくしの今日のわたくしの性、思想、人格となるのです。だから、どうかどうか、わたくしの気持ちを知るお兄様だけは、わたくしの愛おしいものを、そっとしておいてくださいませんか。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

それでは、また。





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わたくし、夢幻、アーカイヴ 織田杏奴 @gokokuma0831

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