残心
虫太
残心
暗い会議室をスクリーンが仄かに照らしている。その上で特徴のない顔が話し始めた。
…本日はお呼びいただき、ありがとうございます。さっそくですが欧州大会のビデオはご覧になりましたか。正直なところ、見てもよくわからなかったのではないかと思います。いや、失礼。しかしそういうものなのです。剣道の試合というのは。財団の皆さんのような未経験者が見てもいまいちピンと来ないものなのです。
それこそ、ここ東欧で競技人口をなかなか増やせない理由であり、A国剣道連盟の審判AI である私が解説に参じている理由でもあるわけです。道具を買い揃えることは、実は大したハードルじゃありません。教えられる人がいないんです。
もちろん皆さんの関心事は試合ではなく、あの事件でしょう。しかし、不謹慎ですが、剣道振興のためにも、これを機に知っていただきたいのです。順を追ってお聞きいただければ、イヴァンは観客に危害を加えようとしたわけではないこと、そして資金提供を取りやめる事由には当たらないことをご理解いただけると思います。
お急ぎの方もいらっしゃることと存じます。問題の大将戦以外はざっと簡単に見ていきましょう。ビデオもポイントだけ再生します。初戦はA国代表ゲオルギが序盤から思い切った面で一本をとり、その勢いのまま勝ち、次鋒は日系二世のリョウタ、巧妙な読み合いの攻防を見せたものの打ちあぐねて敗北。中堅のスタニスラフは鍔迫り合いからの引き面が入りましたが、打った後の後退が足りませんでした。反撃を許す間合いに残っていては打突は無効です。その後、小手、胴を受けて負けました。副将ジャンは守りの堅い選手です。間合いを詰めて相手の小手を誘発、小手返し面で鮮やかな一本。一勝を取り返しました。
さあ、二勝二敗で大将のイヴァンは負けるわけにはいきません。68歳で道場最年長にして最強の剣士です。両者は蹲踞から立ち上がったあと打ちにはいかず、時おりすり足で移動しつつも間合いを保ちます。剣尖を少し振る程度しか腕は動いていませんが、これが「攻め」です。「攻め」は攻撃という意味ですが打ち込むわけではありません。ああやって予兆を見せて相手に揺さぶりをかけることがすでに攻撃なのです。この読み合いは、達人ほど深く、敏く、隠微になります。
反エイジズム・キャンペーンのアイコンに剣道選手を使おうというあなた方のアイデアは正解ですよ。ええ。請け負います。実際、小気味いいですよ。屈強な若者が小柄な爺さんに手も足も出ないのを見るのは。
相手選手の年齢ですか。この時点では知りませんでした。向こうのチームの名前も所属も知ったのは後になってからです。ご存知のようにテレプレイヤーを使った遠隔試合なので姿は見えません。ここでは一台を介して相手国の5人と戦う形式で、向こうの試合場でも一台がこちらの5人の動きをトレースしていたはずです。マイクとアイトラッカーで音声と眼球運動は再現されていますが、顔立ちはわかりません。
そうそう、ここにも皆さんの気に入りそうなポイントがありますよ。
剣道の所作は厳格に形式化されていて、両掌で作る双頭鷲や突き上げる拳などは入る余地がありません。勝ちを喜ぶ身ぶりすら剣道では禁じられているのですから、何かを主張することなど不可能です。
私はこの仕事のために数百の民族と地域の喜びの身ぶりを学習し直しました。本来あえて主張せずとも、行為は経験や趣向、社会的役割を映す鏡です。しかし、歩き方を見ただけでさまざまなことが分かる私でも、試合中の所作で出身地や感情は判別できません。
この抑制心が暴力を封じるものとして讃えられているのです。私にはどうも、安全装置を理由に銃を褒めるような倒錯に感じられるのですが、それはいいでしょう。
現在ほとんどの競技の公式国際大会では、帰属の示威は禁止、カウンターやアファーマティブ・アクションは申請してもろくに通りませんよね。そこまでやる意味ありますか。葛藤は人間とともにあるのです。どうせ応援しているのは顔に国旗をペイントしているような人ばかりですよ。問題は国籍以外に選手との共通項が見つけられないことではないですか。
そういうわけでこの競技をナショナリズムの誇示に利用しようという国はありません。日本以外は。あ、こういうことも言わない方がいいのですかね。
試合へのテレプレイヤー導入は案外すんなりいきました。人間の身体の動きをほぼ完全に再現できるまでに進展していたからでしょう。
この道場の師範であるヤマシタ七段も言っていました。
「相手がそこにいるか否か、それはこちらの心次第。遠方から来てもらっても誠意をもって交わらなければ出会いとはならない」
彼、私にも毎朝挨拶しに来るんですよ。私もいわゆる見取り稽古のために参加しているのです。日本で修行してヤマシタ師範をA国に呼び寄せるまでに、イヴァンがどれだけ苦労したか。私は審判です。一方に肩入れはしません。しかし、客観的に見てもこの試合で勝つことは彼にとってもA国の剣道にとっても大きな意味をもっていました。
無駄話が過ぎました。ビデオの続きを順を追って見ていきましょう。
相手もかなりの熟練度に見えます。私はこの時点では、彼らはどこか西欧大都市の道場所属だろうと思っていたくらいです。イヴァンが正中線を取るのを牽制し、まったく隙を見せません。その気迫とともに統制された息遣いまで聞こえてきそうです。
剣道の達人は呼吸を読むとよく言いますが、あれは本当です。テレプレイヤーが鼻と口で息をするわけではありませんが、横隔膜の動きは胸や腕の微細な動きとなって剣尖に伝わります。剣尖の動きから相手の意図的な「攻め」を差し引けば呼吸のリズムが読めるわけです。
言うは易し、ですが、彼らは実際チャンスレベルを超えて相手が息を吐き切った瞬間を狙います。今回もそうでした。その虚を突いたのはイヴァンです。裂帛、と形容される鋭い叫びを上げながらイヴァンはまっすぐ小手を打ちにいきました。
相手はすぐに剣で守り、イヴァンは面を打つ方向に軌道を変えました。これが初めからフェイントだったのか、それとも小手は本気だったが即応して途中で切り替えたのか。それを問うことは無意味です。意識は常に複数のシナリオを同時に抱えていて、一つの我というものはありません。達人の域では常に実であると同時に、あるいはそれ故に、すべてが虚なのです。
相手は面も防ぎ、その間一歩も下がらないまま返し胴を入れて歩み足でイヴァンの左側へと抜けました。気勢も汪溢、完璧な有効打突です。
もうイヴァンには後がありません。
今度は相手が小手を打ち、イヴァンが防ぎ、鍔迫り合いになって、離れ際に相手は面を打つ、と見せかけて胴です。これもイヴァンは防ぎ、踏み込んで間合いを保ち、剣を高く構えて相手が守りを固めると逆胴を打ちました。ここで逆胴です。相手の胴の左側を打つことです。左側がどうかしたのかと思われるでしょうが、これは守りにくいが打ちにくい、打っても無防備になるリスキーな一手なのです。この局面で即座に逆胴を打つ判断はさすがです。「おお」と歓声が上がったのはそのためです。
その後はしばらくにらみ合いが続き、制限時間になりました。この時点では両者一本ずつで、A国チームが判定負けです。選手にはまだ勝敗までは分からなかったと思います。結果を発表する前に事件が起きました。
異変は初め、相手選手に表れました。自分の左側後方を振り向いて、そちらに剣尖を向けました。前触れなく彼の肩が揺れ、左腕が下がりました。
犯人は一人で拳銃をもって襲撃したと聞いています。襲われたのは、B国にある小学校の体育館を借りていたロマ人コミュニティ。まさかそこまで剣道が普及していたとは、私としても喜ばしい限りです。その襲撃者は民族という一つの我に囚われていたのでしょうか。犯行動機は未だ不明だそうですね。
皆さんがもっとも知りたがっている最大の疑問はこうですね。
「なぜA国にいて襲撃者が見えていないはずのイヴァンが先に前に出たのか」
この問いの答えは、ここまで聞いて下さった皆さんには見当がつくと思います。すぐに信じてもらえるとは思いません。しかしこれが、身体反応の読みを通じて、私たちが見ている現実なのです。
相手選手がそれ以上撃たれなかったのはイヴァンの動きをトレースする鉄製のテレプレイヤーが間に入ったからです。彼の他にも「見えていた」者がこちらにいたようです。観客の一人はイヴァンたちと同じところを凝視しながら上瞼を剥き顎を少し下げています。あなた方人類が文化を超えて共通して見せる恐怖の表情です。
イヴァンは見えない敵へと一気に間合いを詰めて、観客は左右に割れて避けました。相手選手はその後ろから剣で標的を指します。イヴァンの一撃は銃を持つ手に当たったそうですね。イヴァンが引き下がったのは、相手選手のテレプレイヤーが提げ刀の姿勢になったのを見てからです。ちょうどそのときに向こうで取り押さえられたのでしょう。
そこでようやくこちらの試合場に連絡が入り観客もざわついてきたとき、テレプレイヤーが不自然な姿勢で停止しました。試合終了から時間が経過してスリープモードになったためです。それでもテレプレイヤーの後ろにいた人たちが客席に戻り道を開けたのは、彼が向こうで今まさに場外まで下がって一礼していることを誰もが知っていたからです。
どうでしょうか。疑問は解消されましたか。
剣道の熟達には人格形成が伴っていなければいけません。それは審判にも言えます。私はまだ未熟者ではございますが、この競技分野ではパイオニアです。剣道がオリンピック競技になった際にはぜひとも私にお声がけ…
――暗転。
残心 虫太 @Ottimomisita
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