第236話 ハッピーエンドみたいな夜

「何嘘吐いてんの!? あのキスは私からじゃなかったでしょー!?」


「う! おっ!」顔を真っ赤に激昂する郁が、俺が座っている椅子を土台から持ち上げてガタガタと揺らしだした。「うわっ、うわっ、落ち着け! おち、おちつっ……西原さあん!」


「なんか、郁ちゃんが蓮の髪切ってるとこ見てみたいやて、だから、呼んだった。うはあ、まさか目の前で高校生の痴話げんか見られるなんて。アがるわあ……」


 想像しい鏡の中で、西原さんは両頬に手を当てて何故か顔を赤くしている。そんなに高校生の青春を見たいっていうんなら、恋愛小説でも読んでいればいいのに。


「私からキスなんてしてない!  してない!」


 というか、郁がヤバい。え? 俺の体重にこの椅子の重量を加えて……? 一体何キロ持ち上げてるんだ!?――じゃなくて、このまま暴れさせたら確実に事故が起こる……!


「止めろ!!」


「うっ。……」低い声で怒鳴ると、流石の郁も威勢をなくしたようだ。持ち上げていた椅子を、ゆっくりと地面に降ろす。そして、「私からキスなんてしてないです! あれ蓮が嘘吐いてます!」と、俺の後ろに立っている西原さんに言い出した。


 すると、両手で挟んだ西原さんの顔がぐちゃっとキモい笑い方になる。


「えへへ……。そうなん?」


「違いますよ。嘘吐いてるのは郁の方だし。むしろ、こんな勢いで否定されるなんて心外なんだけど……。デカい声で言えば、自分の言葉が真実になるとでも思ってんのか? あの日はお前から俺にキスしてきたんじゃないか」


「はあ!? 何それ!? 大体、私がしたのは失敗だったでしょ! その後、蓮がちゃんとしたやつをしてくれたんじゃん!」


 ……なるほど。


 郁の中では失敗はキスにカウントしてなくて、俺からした成功テイクがファーストキスとカウントしているわけか。もしかしたら、ファーストキスを俺からした、という風に事実を解釈したいのかも。


 これはどちらが嘘を吐いているという話ではない。お互いの認識の行き違いである。


「西原さん、どう思います?」


 曖昧な顔でへらへらしている西原さんに声を掛けると、「今度、酒の席で詳しく聞かして。飲みの時呼ぶからな」と、禄でもないことを言い出した。


 そういえば、前に呼び出されたときは東海道先生が小便をどうかしたっていう話で死ぬほど爆笑していたっけ。他人のそういう話を肴に酒を飲むのが嬉しいんだな。関西人めが……。


 冷たい目で鏡の中の西原さんを睨むと、ちょっと気まずそうに右目の端を爪で掻いた。


「ま、まあ、冗談はともかくな。蓮と郁ちゃんが仲よさそにしてて良かったわ。子供の青春なんて、こう明るい話題が沢山でなくちゃあかん。……学校辞める言う、部長の子は気の毒やけどな……」


 甲塚の話題になると、郁は子供のような頼りなさで隣の椅子に座った。


「二人が幸せにするんなら、あの子も少しは救われるんちゃうかなあ。学校からいなくなるのは寂しいかもしれへんけど、今時は高校中退しても大学くらいは普通に行けるしな」


 西原さんという人は、俺が知る大人の中では割と真っ当な人生設計をしている人間の一人である。細部は違うが、境遇も甲塚に近いし。それにコーコのこともある。自分の計画があるという甲塚は差し置いて、何故か煙草吸いながらメイド喫茶をやっているあいつはどうなるのか。


「あの、西原さん的には、高校中退ってどうにでもなるだろって感じですか?」


「ん?……」俺の襟足に手櫛を通して、少し真面目な声で言う。「まさか、お前も中退考えてるんちゃうやろな」


 郁が椅子を回して俺の顔を直視してきた。言葉は無いが、えもいわれぬプレッシャーを感じる。何故か、俺の額からまた汗がつるりと滑ってきた。


「いや――ははは。まさか。ただ、甲塚……あいつの将来、どうなるのかなって」


「中退しても、地球は回るわ。良い意味でも悪い意味でもな。ただ、するかしないかで言えば絶対におすすめはせえへん」


「その心は?」


 郁が調子を合わせて聞いた。


「失う物が多すぎる。友人関係、家族の信頼、社会的地位、信用。殆ど一過性やけどな。それでも、青春時代に失って問題無いものは一つもあらへん。例えばお前、修学旅行とか行かないってことやで。現実的なことを言えば、履歴書に『あたしは高校中退しました』って書かなあかんわけや」


「…………」


 なんだか、他人事の筈なのに俺の将来が暗い物のように思えてきた。


「何より、高校中退して迎える十八歳の三月は寂しいとは思わんか? 同じ年齢の連中が制服に花差して校門を出ていくのに、自分一人は蚊帳の外なんやで」


「それは、寂しいですね。確かに……」


「そういうわけで、あたしはおすすめせえへん。家庭の事情ならしゃあないけどな。自分から中退するって奴は、血迷ってるとしか思えへんな」


 *


 美容室からの帰り道を、俺たちはすっかり気落ちして地面を擦りながら歩いた。


 殆ど身を寄せるようにして歩く郁が、


「西原さんの話聞いてたらさ」と話を切り出してくる。


「うん」

 

「甲塚さんのこと不安になってきちゃった。結局、高校辞めちゃうんだよね」


「心配しなくてもきっと大丈夫だよ。あいつが用意周到なの知ってるだろ?」


「うん」


「西原さんが言ってたデメリットなんて、あいつは百も承知だよ。その上で、粛々と学校を辞める準備を進めてたんだ。どうせ将来は俺たちより出世して、すごいお金持ちになってるだろ……それで……」


「それで?」


 俺たちの知らない男と結婚して。という言葉は飲み下した。それは、多少の異物感を俺の喉に残したように思う。


「――とにかく、俺たちもうかうかしてらんないよ。俺も、郁や甲塚に負けないように頑張らないと」


「うん……」


「うん」


 歩き慣れたポールライトの通りは、いつものように俺たちの家路を優しく先まで照らしている。俺にはそれが、とても正しいもののように思えた。一足先の道がそっと誰かの優しさで照らされている、何人もの人間が歩いたはずの道。そこで、郁が俺の肘を引っ張って言った。


「ちょっと公園寄ってこ」


「あ、おう」


 いつもの公園の入り口を通る。この公園の周囲が茂みに囲われて人目を通さないのは、今の時代じゃ珍しかったりするんだろうか。


 郁は俺の肘を引っ張ったまま、いつも喋るブランコの方じゃなくて滑り台の下に向かった。ここはただでさえ人目を避ける公園内でも、天板と柱がある分さらに二人きりという感じが強い。


 子供の頃はそんなこと考えたこと無かったんだけど、この頃は人目のことばかりが気になってしまうのはなんなんだろう。


「あのさ……」


「うん」


 郁は膝から内股の辺りを擦り合わせた。


「キ、キスしたい」


「それ、さっきのことがあるから? 俺と西原さんの会話を盗み聞きするなんて趣味悪いぞ」


「だって、西原さんが目配せしてきたんだし! それで、出入り口の影に隠れて聞いてたんだし!……で、良いの? キス」


「う、うん。いいよ」


 正直なことを言えば、そんな前宣言をされてからの行為は逆にこっちの心の準備が整わない。しかし、恋人というのはこういうものなんだろう。相方の心の動きにはある程度合わせないといけない。


 前にやったように郁の顎を片手で支えようとすると、何故か首を捻ってそれを嫌がった。


「待って。今回は、私からする」


「……え!?」


 危険だ。


 思わず顔を引くと、郁が白い目で俺を見つめてきた。


「あ。なに? そんなに私が嫌なわけ?」


「だって、前回のは殆ど頭突きだったじゃん。嫌とかじゃなくて、普通に危ない」


「気を付けるから!」憤然と言って、俺の両手に指を絡ませてくる。「手、繋いだまましていい? ゲームでやってたやつ」


 嬉嬉としてそんなことを言ってくるが、今の今まで知らなかった事実があった。


 ――キス待ち状態というのは、とても恥ずかしい状態だ。


 さっきから緊張のせいか唇が乾いてるような気がするし、郁はなんだかちんたらしているし、こういうときはどのタイミングで目を瞑るもんなのかも分からんし。真正面に構えるべきなのか、少し顔を逸らすべきなのか……ということを、真剣に考える自分がとても馬鹿みたいに思えてくる。

 

「な、何でも良いから早くやって」


「じゃ、行くよ? 行くよ?」

 

「うん――」


 眼前に郁の顔が近づいてきて、唇に温かい物が触れる。絡まった指が強烈に締まって、その痛みで、今、俺は凄いことをしているのだと実感した。


 ……あっ、目閉じた方が良いのか。

 

 それにしても、このキスしている時間っていうのは一体何なんだろうか? こう肌と肌を合わせる領域になると、なぜか今までの緊張感がスッと綺麗に無くなって、何かが自由であることを心が喜んでいる感覚がある。ストレスが一周回って、ってことなのかな。けど、キスしている間は確実に世の中の何かから俺は許されている。そんな気がする……。


 郁が唇を滑らせたと思ったら何故か俺の頸動脈の辺りを唇で食んで、ペロペロとなめ始める。それでまたあむ、あむ、と……。


「犬かお前は」


「……あれ? キスマークってどうやって付けるの?」


 少し郁の言っていることを脳内で咀嚼して、理解した。


「それ痣の方のキスマークだろ! 何勝手に付けようとしてんの!?」


「蓮も私に付けて良いんだよ。さっきは、なんか自分よりも私が偉いみたいな悩みを相談してたけどさ。とんでもない! 私からすれば、蓮の方が行動力と頭の良さがあって憧れるよ。それって、私たちの関係がフェアーってことじゃない?」


「で、でも俺、郁に力で勝てないし……」


「え? そこ?」


「男にとっては、結構重要なんだよっ」


「じゃあ良いよ」郁は手を繋いだままパッと肩の高さに開いて言った。「私は、蓮にだけは無力でいる。蓮が何をしてきても反撃しない。これで良い?」


「いや、俺お前に喧嘩で勝ちたいわけじゃないんだけど」


「嘘でしょ!? 私、結構凄いこと言ったつもり――あははははっ。やっば!」


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昨日の更新が遅れてすいません。

本日はもう一本投下します。

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