第237話 漏れ出る関西
西原さんに言われて気付いたわけでもないが、そういえば近頃の東海道先生はどこかふわふわしている気がする――悪い意味で。
この一週間で朝のホームルームも随分遅刻してきたし、数学の時間なのに間違えて教室に来たし、よく見たら靴下の色が左右で違ったりしたし、放課後は仕事もしないで部室でぽやっと座ってるし、極めつけは今日の帰りのホームルームで――
「みなさん。ほな、ごきげんよう」と、眠っている筈の関西スピリッツが顔を出してるし。
その場ではクラスの連中も「ごきげんよう」と習慣化した挨拶を返しはしたが、東海道先生が去った後は大いにどよめいたものだ。
それもその筈。東海道先生が関西女子ということは、何故か俺だけが知っている秘密のままなのである。……知ってしまえば結構どうでも良くなっちゃったので、俺も全然意識してなかったんだけど。
それでも、秘密は秘密。
郁も甲塚すらも知らない、素でも酔っても雅言葉を使う東海道先生が実は関西弁話者という事実。それを東海道先生はぽろっと垣間見せちゃったわけである。それで、俺は思ったより東海道先生の気分の揺らぎが深刻なものだったのかと考え直したのだ。
教室を出ると、職員室にとことこ歩いて行く東海道先生に早足で追いついた。
「先生、先生」
「あら。なあに、佐竹君」
ふんわりとしたスカートを翻して、優雅に振り返る。その様子はまさしくいつも通りのお嬢様では、あるんだが。
「……大丈夫ですか!?」
「大丈夫って、何がですのん?」
「それそれ。関西弁出てますけど?」
「え?――ハッ!」東海道先生は開いた口をパーの手で抑えて、言葉を失ってしまったようだ。自分の口から関西弁が溢れるのがそれほど怖いのだろうか。「……!……!!」
歩き始めると、何となく進行方向が職員室から逸れて部室の方面に向かいだした。
「センセ、やっぱり甲塚のことで……」
そこまで言うと、今度は大慌てした様子で「しーっ! しーっ!」と声に出して言ってくる。「佐竹君! 佐竹君! それは誰にも知られてはいけないわ! 話が漏れたら、理事長がどれほど怒るか分からない!……おお! 恐ろしいっ!」
本当に身を震わせてるし。
まあ、休日に理事長の家に呼び出されて、ということを考えるとむべなるかな、だよな。何より、彼女にとっては理事長がボス――それって、ちょっととんでもないことだぞ。
「ビビりすぎて言ってることオペラ歌詞みたいになってますよ。気持ちは分かるけど」
「べ、別に怯えているわけじゃあらへ……ありませんわ」手に持ったバインダーで自分の頭をぺちぺち叩きながら溜息を吐いた。「ああ、もう、いけない。いけないわね。私ったらもお」
そんなことを言ってるけど、もう周りには他の生徒の視線も無いんだよな。東海道先生にとって雅言葉を使うというのは、ある種の自分ルールなんだろうか。
「西原さんもぼやいてましたよ。この頃練習にも身が入っていないって。二月のライブ、もうすぐでしょ。『きたはいずこに』は全然上昇志向のバンドなんだから、ギターボーカルがそんなんじゃねえ」
「それも、しーっでしょ!」また人差し指を立てて、今度は俺の口元に近づける。「……いすずったら、佐竹君に余計なことばっかり! そもそも、あなたたちはどうしてちょくちょく情報交換をしているの。佐竹君はわたくしの生徒なのですよ」
「とにかく、甲塚のことでショックを受けているんですね」
「当たり前です……。担当クラスの生徒だからとか、顧問をやっている部活の生徒だから、とかではなくて、甲塚さんだから。あの子がそんなことを考えていたなんて、私知らなくて。近くにいた大人として、何か力になれることがあったのではないかと……」
「話は聞いていると思いますけど、甲塚は東海道先生に不満を持っていたわけじゃないようですから、気いー……にすることじゃないですよ」
「…………」
「すません、嘘言いました。よく考えたらめっちゃ悪口言ってました。……けど、マジで東海道先生が原因ってわけじゃないから」
「――それ佐竹君の口から聞きたくなかったなあ」
部室の前に到着した。
何となく扉を開く前に一つ溜息を吐くと、先生がバインダーで俺の脇を突いてくる。
「佐竹君の方こそ気にしているんでしょう」
「……」
扉の把手に手を掛けて、やっぱり一旦手を離す。
西原さんに言われたからって、俺なんかが誰かを励ますために動くなんてらしくないよな。甲塚のことだけでも精一杯になっているっていうのに。……けど、実際問題東海道先生を励ますのが誰かと言ったら、どう考えても俺しかいない。
俺は、小籔先輩や氷室会長のような気遣いの達人では無い。だが、俺にしか助けられない人がいると知っていて、何もしないこともできないんだ。
「今度のライブ、甲塚誘うのって有りですか?」
横に立っている先生がぱちくりと心配そうに目を瞬かせる。
「来るかしら……。わたくし、甲塚さんにあまり信用されてないみたい」
「ははっ」俺は軽く笑い飛ばして言った。「そんなわけないでしょ。本当に信用してなきゃ、わざわざ家に呼んで話をしたりしない。それにね、先生」
「な、なあに?」
「あの日、先生はささっと帰っちゃいましたけど、あの甲塚が手料理を作って、先生にご馳走するつもりだったようですよ。あの甲塚が」
「……へ!? それ、ほんまあ!?」
「ほんまです。俺が代わりに食べましたし」
すると、東海道先生は勢いよく部室の扉を開いて、「甲塚さあん」と座っている甲塚に飛びついて行った。案の定、猛り狂った甲塚に全力で拒絶されたが。
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