第231話 蓮vs郁

 SFチックなイベントへの参加を済ませて、俺たちはカラオケに直行した。まだ昼時ではあるが、これで二時間くらい過ごせば俺たちはそそくさと家に帰るつもりだ。


 というのも、金が無い。


 最近は何だかんだと、甲塚と映画を観たり、コーコに酒を買わされたり、ショウタロウにラーメンを奢ったりということが続いていたので、俺のお年玉の残りもぼちぼちレッドゾーンに入ってきたのだ。一応まだ二万円くらいは手つかずで取ってあるけど、残りはデジタル機材のパワーアップと、前から欲しかった画集の購入に使おうと決めている。


 そう。高校生のデートなんてものは、いつだって少ない予算とのせめぎ合いなのである。今日に関して言えば、「光の遊園地」の入場料で二千円、カラオケ二時間で大体千五百円、さらに、昼食にはマックを持ち込んで食べるから、さらに六百円ほど……二、三、四、……うん。きちんと俺の財布から四千円と五百円が無くなってるな。


 一日の遊びに五千円近く使うというのは、俺の価値観からすればとんでもない贅沢である。凄まじいことである。


 郁だって同じ値段を支払っている筈なんだが、やっぱりこういう所で家庭の格というのは出るものなんだろうか。少なくとも、俺は彼女が心配そうに財布を開くのを見たことが無い。それどころか、チラリと見える彼女の財布に万札が入っていなかったことも無いし……。


 個室の扉のガラスに人の影が見えたんで、慌てて財布をしまった。すぐに、両手にコップを持った郁が、器用に扉を開いて入ってくる。


「今さあ。そこのドリンクバーでまた友達と会っちゃった。こうデートの度に顔合わせることがあると、流石にうんざりしてきちゃうよ」


「まあ、ここら辺はウチのホームみたいなもんだからな」


 郁は机の上にそっとコップを置くと、俺の隣にずいと尻を滑らせてくる。


「それ、多分ヤマガクとヤマコウの生徒も同じこと考えてるよ。この辺りの大学……緑山の人たちもそうなんじゃないかな」言いながら、さっき買ったマックの紙袋をカバンから取り出す。安さと持ち込みオーケーなのが、ここに来た理由だ。「渋谷っていう街は、なんか自分のものにしたくなる魔力があるんだよね。きっと」


「それに加えて、郁は顔が広すぎるってのはあると思うぞ。……あ。食べる前に、ちょっと」


 もう包み紙を開こうとしていた郁の手を止める。


「ん? 何?」


 俺は、少し体を郁に向けて背中を伸ばした。


「郁に、聞きたいことがあるんだ」


「……真面目な話?」


「まあ――そうだな。真面目な話」


「え……へへへ。なんか、急。悪い話だったりする?」


「良いか悪いかは、答えようがないな。俺からすればただの質問なんだけど、それをどう捉えるかは郁次第」


「うん」


「無理して答えなくても良いし、何なら無視して聞き流してくれても良いんだけど」


「良いから早く話してよ! じらしてんの!?」


 郁にせっつかれて、俺は顔を擦ってから口を開いた。


「あの……郁の、さ……乳首……どこ?」


「ん? 何て? 私の打ち首?」


「違う。あの。乳首。乳首の位置」


 実は、昨日甲塚が描いたムーミンの鼻くそみたいな乳首を目にしてから、ずっと現実的な乳首の位置というものが気になっていたのだ。


 よく考えたら、普段俺が想像の源としているのは二次元、つまり平面的な画像のみなので、立体としてプロットしたときの乳首の位置が分からない。絵画教室でも散々言われることだが、人間が画像として見たものと立体として見たものの間には驚く程のギャップがあるものなのだ。だから俺たちはわざわざ動物園でデッサンをしたりするわけなんだが……。


 というわけで……そういうわけなのだが……。


「……」


 郁は、まるで甲塚がそうするように眉間に皺を寄せて、目を閉じてしまった。こういう表情をした女子の気分が損なっていないことは、今までの人生経験では一度も無かった。


 が、このときの郁は違ったのである。腕を組みながら大きく首を捻ると、


「もしかして蓮、私のおっぱいが見たいの?」と、とても純粋な顔で聞いてきた。


「いや。そういうことじゃなくて……部分的にイエスではあるんだけど……。ちょっと、絵のことでその辺り不安になっちゃって……」


 言いながら、滅茶苦茶恥ずかしくなってきた。前は、俺は郁の裸を描ける権利を持っているみたいなことを思ったことがあったけど、そういう権利と羞恥心は全く別の話らしい。それに、何で俺は言い訳みたいなことをこちゃこちゃと……。郁の肩を掴んで、乳首の位置を教えてくれと男らしく言えば良いじゃないか。


「とにかく、俺はきちんとした乳首の位置を、確かめなきゃいけないんだ。これは、すけべ絵師としての沽券に関わる大問題なんだよ。分かる?」


「全然分かんない。今時おっぱいなんてネットで見られるじゃん」


「えーと、だから、画像で見るのと立体で見るのとは全然違くて……ああ、もう。変なこと言った。忘れて……」


 空気を誤魔化そうとカラオケのパッドを持ったら、郁が片手で取り上げてきた。


「いやいや。ちょっと待って。別に良いよ、私。おっぱい見せるくらい。……ううん、触るくらいまでなら、しても良いよ」


「……エッ!?」あまりの驚きに裏声が出てしまった。「え? 本当に? 良いの?」


 恋人って凄い。こんなリクエストがまかり通るんなら、もう何でも良いじゃん。


 俺は基本的に、郁に変な手出しをするつもりは当面無い。キス以上のことをするにしても、少なくとも成人までは絶対にしないと心に決めている。


 というのも、若い内にあまり豊かな女性経験を蓄えすぎると、却ってすけべ絵師としての想像力が損なわれるのではないかと恐れているのだ。すけべ絵師としての生き様に影が差すようであれば、俺は一生何も無い人生で良い。本気で。現に俺は性欲の昂りを殆ど絵を描くエネルギーに費やしているわけだし。


 すけべ絵にそこまでするのかと言われれば、そこまでするのだと言うしかないのだ。これが俺の生き方なんだから。


 ……だけど、郁がそこまで言うというのなら……。


 流石に話が変わってくる。いや、変えるべきではないか。うん。きっとそうだ。


「ただし、勝負に勝ったらね。ただで女の子のおっぱい揉めるほど、世の中甘くないよ」


「勝負?」俺はマイクをちらりと見やって笑った。「……カラオケの点数か。甘く見られたもんだな」


「あれ!? 蓮、結構自信ある感じ!?」


「そりゃそうだろ。運動は郁に譲るけど、芸術方面は俺の領域だ」パッドで曲名を入力しながら、俺は郁に話し続ける。「芸術ってのは不思議でさ、何か一つでも表現技法を身につければ驚く程応用が利くんだ。絵さえ描ければ漫画も映画も行けるし、ピアノが弾ければ多分歌も上手くなる……時には、生き方さえ変えるんだぞ。基本っていうのは、どんな分野でも通じるんだ」


 *


 ――郁、九十五点。


 ――俺、七十点。


「びっくりするほど大差で勝っちゃったけど」


「……」


「え? なんだっけ? 表現技法は驚く程応用が利くんだっけ?」

 

「……。……」


「基本はどんな分野でも通じるんだっけ? うーん。蓮って物知りだなあ。あ、あ、は、は、……ははははっ! あーははははっ!」


 冷静に考えれば、絵が描ければ漫画や映画は行けるかもしれないし、ピアノが弾ければ様々な楽器に応用できるかもしれないが、絵が描けるからってピアノが弾けるワケではなかった。


 当たり前だよな……当たり前なことって、いつも失敗してから気付くよな……不思議だ。

 

「で、私が勝っちゃったわけだけど」


「うん。……もう、乳首は良いよ。俺は、そういうの想像力でカバーするんだ」


「うん」


「うん」


「うん。それで、私勝ったんだってば」


「……うん?」


「早く、おっぱい揉ませて」

 

「…………」


 ――そりゃ確かに、ノーリスクで勝負して貰えるってのはムシがいい気がするし、こっちにリスクが無いんじゃ勝負としてはつまらないけど。

 

 あれ? これ、マジで俺がおっぱい揉まれる展開になるの? というか、男女のカップルで男側がおっぱい揉まれることってあるのか? というか、俺って郁の中でどういうカテゴライズの……? というか――


 頭が疑問で渦巻いている間に、郁の指がシャツの裾から侵入してきた。しかも、見えない筈なのに両手の親指が真っ先に俺の乳首目指して這い上がってくる。


 反射的に服の上から郁の手を捕まえた。


「ちょっと待った。よく考えたら、男におっぱいなんて存在しなかった。これは、ナシだ」

 

「男の子にもおっぱいはあるんだよ。というか私が作ってあげるよ。そういうの、ゲームでめっちゃ練習したから」


「何だよそのゲーム!? 止めろ! あと、おっぱいを作るとか怖いこと言うな!」そう言いながらも郁の手がサッと俺の乳首に這い上がってきた。ちょっと、名状しがたい感覚で背骨がブルブル震える。「ま、まじで止めろ。止めて……」


「あのね、蓮。人におっぱい揉ませてって言うときは、自分がおっぱい揉まれる覚悟が無いと駄目だから」


 それから、郁が本格的に俺にのし掛かってきて……俺は、膂力では到底敵わないワケで――


 二度と郁にこんなことを言わないと、俺は決めた。

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