第229話 平行世界に生きていない私達は

 甲塚は座っている俺を指差して、「しっし」の仕草をした。


「な、なんで?」


「いいから、どけっての。そこ」


「なんか怖いから、ヤだ」


「……。チッ」


 甲塚は心底苛立たしそうな顔で舌を打つと、殆ど尻を宙から落とす勢いで俺の太ももに乗っかってきた。


 あまりに突然で、予想もしない行動だったんで完全に油断していた。自分でもどういうことになってるのか分からないのだが、甲塚の体重に潰されて筋肉の筋が変な潰れ方をしたらしい。痺れるような痛みが背骨を伝って頭に響く。


「痛ッ――てえ!!」

 

「私の命令に逆らうのが悪いのよ。何時までも貧弱だと思わないことね。私だって、やるときはやるんだから」勝ち誇った声色でそう言うと、ゆっくりと俺の上半身に背中を押しつけてきた。「あっはっはっは! 手下を椅子代わりに使うのも悪く無いわ! 部室でもこうしようかしら!」


 甲塚が笑う度に、彼女の背中の揺れが胸に響く。流石に、これは人権を侵害していると思う。


「誰が手下だっ!……どけって!」


 だが、悲しい文化系の性だろうか。女子の平均体重を下回る筈の甲塚を、この体勢では突き放すことはできないようだ。


「ふふん。あんたは私のこと非力に思ってるんでしょうけど、あんただって私と筋肉の量は大して変わらないんだから。あんまし調子こいてんじゃないわよ」


「お前――恥じらいは無いのか!?」


「無いわよ。言ったでしょ。あんたのことなんて、何とも思ってないもん」そう言うと、甲塚は床を蹴って作業机のスケッチブックへと椅子を回した。「あんた、アニメや漫画の女の子ばっかり見てるから、変な乳首を描くのよ。私が、リアルな女性の体ってもんを教えてあげるわ」


「……は!? 待て待て待て。もうお前は俺のスケッチブックに触るな! 触らせないぞ!」


「くくく。もう触ってるわよ」


 甲塚はまた背中を押しつけ、片手に持った鉛筆をくるりと回してから、さっき自分で消した乳首のあたりに曲線を引いたようだった。


「まず、私の胸ってこんなに垂れてないから。もっとこう……こうよ。こう。……ん? なんか変ね。あれ?」


 甲塚のうなじから顔を横にずらして覗いてみると、俺が描いた見事な女体にムーミンの鼻みたいなのが二つくっ付いている。原作者(?)の俺からすれば、この時点で結構な陵辱だ。


「分かった。分かったから、もう止めろ。初学者の絵にケチ付けたくはないんだけど、せめて、新しいページに一から描いてくれ」


「嫌。なんか落書きみたいで楽しくなってきたし。くくく。それで、えーと、乳首はねえ。こんな胸の先端なんかに付いていないんだから。何て言うか……側面なのよ。ここ。あははっ!」


 そう言いながら、ぐりぐりと鼻くそみたいなものをムーミンの鼻にくっつける。……こう見れば、確かに俺の描いた位置とは少し違うようだ。だらしなさは表現できていないにしても。


「馬鹿! そんな位置に乳首があったんじゃ、おかしなことになるだろうが!」


「な、ら、な、い。いい加減自分の認知が歪んでいることを認めなさい」


「認めない。俺は、ごく正常な感性をしている……」


 甲塚は苛立たしそうに体重を浮かせて、俺の体に打ち付けることを二度繰り返した。また太ももが痛んだが、今度はどちらかと言うと、甲塚の体が密着していることを妙に意識してしまう。……というか、これって滅茶苦茶破廉恥な体勢なんじゃないか? 甲塚は俺にマウント取るのに夢中なようだけど。


 意識を甲塚の体温からずらそうとして顔を背けると、彼女の声は背中を通じて、俺の体内から聞こえるように頼もしく響いてくるのだった。


「言っておくけど、認知が歪んでいることは少しも恥ずかしくないのよ。そんなの、あんたのことが好きな人からしたら、あんたの良いところの影にもならないんだから」


「それ、郁のこと?」


「宮島のことでもあるし、あいつ以外にとっても。あなたのことを好きな人にとっては、そうなのよ」


「……」俺は、噛むように空気を飲み込んで、実は自由だった両腕を何となく甲塚の臍の下(多分)に回した。「あのさ。そんなこと言うってことは、甲塚は、そういう人の気持ちが分かるわけ?」


「あ? くくく。私はあんたのこと、好きでもなんでもないわよ。何度も言ってるじゃない。勘違いしないで。今のは、かわいそ~なあんたを励ましてあげただけ」


「……」


「離しなさいよ、手。邪魔なんだけど」


 回した腕の力を緩めると、甲塚はさっと立ち上がった。背中の俺に押しつけていた部分は、丸く汗が滲んでいる。


「とにかくね。私が言いたかったのはさ、私はね……」


 それは、さっきリビングで俺がぶつ切りにした話の続きのようだった。


「あんたに会えて良かったのよ」


「……はあ」


「結構、本気でね。禄でもないと思ってた高校生活でも、蓮と会えたのは、蓮と過ごした時間は――うん。財産だと、本心で思う」


「おい。なんか、別れの挨拶みたいだぞ」


「一応、別れの挨拶のつもりよ。一足先だけど」


「……おい」


「パパのことは、見切りを付ける時期を決めたわ。あんたとは約束したけど、惰性で時間を過ごすのは性じゃないしね」


「……」


「それに私が近くにいたら、あんたは変に責任感じるみたいじゃない。そういうの、もう良いのよ」言いながら、片手でスケッチブックのページを捲った。そこには俺が裸の絵を仕上げる前に描いた、様々なアングルからの甲塚の絵が残っているのだ。甲塚はそれを人差し指で擦りながら、「パラレルワールドって知ってる?」と言い出す。


「平行世界。常識だろ」


「あ、そ。……思うんだけど、少し違う可能性を辿った殆どの世界では、私達って恋人同士になってたんじゃないかと思うのよね。その世界ではきっと、宮島はあんたの幼馴染みじゃないか、不仲なままで高校二年生になっている」


 言いながら、どんどんページを捲って違う姿の甲塚を辿っていった。


「はあ」


「それでね。きっと、あんたが宮島と付き合って幸せになる世界は、この世界だけなんだと思うのよ。分かる? あんたは、この世界だけの、奇跡的な幸せを掴んでいるのよ。これは凄いことだわ。この世界の運命は、一生大切にする価値がある。……私が保証する」


「人の人生の価値観を勝手に決めてんじゃねーよ」


「良いから聞いて。だからね、この世界ではこうしましょ。私は私の道を行くから、蓮は蓮できっと幸せになる未来を目指して。それで……いつか、私達の未来が少しでも交錯するときが来たら、さ。その時は」


「……」


「私を見つけて、声を掛けてくれたら嬉しいかな。声を掛けてよ。……約束ね」

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