第228話 消失した乳首

 廊下を滑る程の勢いで扉の前に駆け寄ると、俺は最悪な予想が的中していることを知った。作業机に座る甲塚が、一心不乱に何かを擦っているところだったのだ。


「コラ! 何やってんだお前ー!!」


 慌てて甲塚の手を掴み上げると、袖に付いた消しゴムのカスがぽろぽろと床に落ちる。机の上に広げられていたのはスケッチブック――


「『何やってんだ』はこっちの台詞……! これは一体何なの!? 説明しろ!」


「言うに事欠いて、この野郎」


「な、何よ。何よ――うひゃっ」


 椅子のクッション部分に右手を滑り込ませると、猫のような悲鳴を挙げる。そのまま掬い上げるように甲塚を両手で持ち上げて――


 ベッドにぶん投げた。


 足を上にした状態で甲塚が布団に沈みこむと、一気に埃が散乱する。更に手足をバタバタさせて姿勢を戻そうとするので、たちまち狭い空間が細かい浮遊物で一杯になった。


 ようやく布団の海から顔を出した甲塚は、静電気に襲われたのだろうか。髪の毛が変な風に逆立っている。


「何すんの!? 暴力! しかも、お尻触った! セク、ハラ! ごほっ」


 甲塚の猛抗議を無視して、俺は机の上に開かれたスケッチブックに目を落とした。横には甲塚が必死に擦って小さくなった消しゴムが転がっている。


 ……で、俺が以前『青海』のデザイン案を考えるときに描いた甲塚の裸の絵が、見るも無惨な姿になっていることを確認したのだ。胸から足までの辺りの線が乱暴に滲んでいて、特に胸の先――正確に言えば乳首――の辺りは入念に消されている。


 ショックのあまり、すとんと椅子に尻が落ちた。


 これは、この絵は、俺が『青海』のデザインを考えたときに徹夜して、何枚もの絵を重ねてようやく描いた絵だったのだ。あの時、俺の中に、熱いすけべ絵師としての魂が、再起の声を挙げた、情熱の証で――

 

「これは、あんまりだ……ひでえよ……」


「あんた、ねえ。ごほっ」甲塚が埃を手で払いながら、低い声で呻いてくる。「よくもまあ、そんな被害者みたいな台詞が言えたもんだわ。勝手に人の裸を描いておいて、今まで私に偉そうなこと言ってたわけ? マジ最低なんだけど」


 あまりに状況を理解していない甲塚の言葉に、俺は頭を振って、何かを言おうとしたが纏まらず、溜息を吐いて項垂れた。その態度が甲塚を調子づかせたのか、続けてどんどん言ってくる。


「だ、大体、何であんたが私の裸を描くのよ。い、い、意味分かんない。ほんっと……」


「……」


「それ、そ、そのポーズ、私の水着の……でしょおっ? 何? あんた、あの写真見つめながら、私の裸を妄想して描いてたってわけ? そうと知ってたらあのヤマガクの絵も見る目変わったわよ!」


「……」


「う、……もお……! 何黙ってんの!」埃が舞うにも関わらず、乱暴に俺の枕を投げつけてくる。頭に当たって、ぼとんと床に落ちた。「何か言いなさいよ!」


「……この馬鹿!」


 落ちた枕を拾って思いっきり甲塚の顔面に投げつける。掴もうとする甲塚の手をすり抜けて、直撃した。


「なぶ、……」


「この絵は――この絵はな――俺の、大事なもの……だったんだぞ……」


 世の中には、夫のプラモデルを勝手に廃棄して、離婚を迫られる女がいるという。今の今までそれは遠い世界の出来事だと思っていたのだが、それが、まさか同じようなことが俺の身に起こるとは思ってもみなかった。


 ……冷静に考えたら大分違うような気がするので、冷静に考えないようにしよう。


 とにかく、甲塚は、あの裸の絵がどれほど俺にとって大事なものだったのか全然理解していない。


「どういうことよ。マジ意味分かんない」


「お前に説明しても分からないだろ」


「説明されても分からないかもしれないけど、あんたには説明する義務がある。人の裸を勝手に描いてるんだから。……私の裸の絵を、何で大事にするの……」


「これはな。――俺が初めて描いた、現実で知っている女性の、すけべ絵なんだぞ」


 甲塚の片眉が吊り上がる。


「希少価値があるって言いたいわけ? なんて生意気な……」


「違う。代えが利かないって言ってんの! 絵を描かないお前には分からないだろうけど、俺はこの絵を描くためだけに一晩中お前のことを考えていたんだ。お前のことを心の底から知り尽くしたいって思って、でもどうしようもなくて、」


「……」


「だから妄想して描くしかなかった。俺の心に、お前がいた唯一の物証だろうが」


「……。……」


 甲塚はもう、血が昇りきった顔を指で覆っている。まるでホラー映画を怖がる少女のようだ。俺は回転椅子を回して、彼女に向き直った。


「大体な。前から思ってたんだけど、お前はお前が消えた後の俺たちの未来を、軽視しすぎなんだよ。だからノリと勢いでこんな酷いことができるんだ」


「……」


「そりゃ、お前からすれば学校を辞めるってのは、念願叶ったりの自由ってんだろうよ。けど、学校に残される俺と郁はどうなるのか、少しでも想像したことあるのか? 俺たちに残される喪失感の大きさを、お前こそ妄想できるのかよ」


「……いや。私なんて……というか……」甲塚はベッドの上で膝を抱えた。「そうよ。そんなに言うんなら、また描けば良いじゃない」


「――無理だ」


「何で?」


「俺の恋人は郁だから」


「あ。……そう」


 俺の感情のどこまでが伝わったのか分からないが、とにかく甲塚は、膝を抱えたまま意気消沈したようにベッドに倒れ込んでしまった。


 窓では少し勢いの強まった雨が可愛い足跡を鳴らしている。車を走る音が飛沫と共に響いてくる。部屋に舞った埃を吐き出すのに開くと、遠くから電車のブレーキ音やサイレンが騒がしく流れ込んで来た。


 溜息を吐いて椅子に座り直し、再びスケッチブックに目を落とす。机に置きっぱなしにしていたのは完全に失敗だった。ぺらりと捲って自分の裸の絵を見た甲塚は、慌てて消しゴムで擦り始めて――


「何で乳首を執拗に消すかなあ」


 よく描けていたのに。思わず筆圧で凹んだ部分を指でなぞって、溜息を吐いた。


「全然場所違うし。そんなだらしなくないし」


「……いや。節度ある乳首なんてあんのかよ、逆に。あと、場所は絶対間違ってない」


「くくく……」甲塚は、布団に蹲りながら久しぶりに笑い声を挙げる。「間違ってる。ぜんっぜん違う。何でそんなに自信満々で言えるわけ? どうせ現実のものなんて見たこと無いでしょ」


「俺はすけべ絵師として、そんじょそこらの男子高校生とは比較にならないほどすけべな絵を研究しているんだ。だから、俺の絵の乳首の位置が違うっていうんなら、逆にお前の乳首の位置が間違っているんだよ」


「め、滅茶苦茶なこと言うわね……」甲塚がベッドの上で身を捩るのを視界の端に捉えた。それから立ち上がり、「ちょっと、どきなさい」と言ってくる。


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昨日の更新が遅れておりますので、本日はもう一本投稿します。

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