第227話 甲塚希子にとっての佐竹蓮

 リビングに通した甲塚は、落ち着かない様子でウーロン茶をサッと飲み干すと、無意味に太ももを掌で擦ったり、尻の位置を直したりしている。何度も過ごした佐竹家のリビングだというのに、何を緊張しているのだろうか。


「で、俺に聞きたいことっていうのは? あ。話したいことだっけ?」


「あ、う、うん。色々あるんだけど……まず、同棲の件!」


「昨日郁が言ってたことね。それが?」


「……本気!?」


 あまりにも勢い込んで言うもんだから、自分の胸でテーブルの位置をずらしてしまったことにも気付いていないようだ。思わず笑ってしまった。


「ははは……。甲塚の言いたいことは分かるよ。自分の進路に、恋人とのことを考慮に入れるって、なんか不純だよな」


 テーブルの足を元の位置に戻そうと持ち上げたら、甲塚はようやく自分の胸の圧に気が付いたらしい。慌てて向こうからテーブルを持ち上げて、置く。


「そう思ってるんなら、何であんなこと言わせたままにしてるの。見ていて痛々しくなっちゃうじゃない。自分の進路は自分だけの都合で決めるべき。あんたの人生は、宮島のものじゃない」殆ど息継ぎ無しでそこまで言って、「ああっ」と顔を顰める。「わざわざこんなこと言いに来たんじゃないんだけど!」


「俺はともかく、郁はそんな将来像をモチベーションの糧にしているだろ。……あいつのことだし、今はそう思わせとくのも良いかなって。現実はどうなるか分からないにしても」


 甲塚は尚も何か言いたそうに足を組直した。が、結局本当に言いたいことは押し止めた雰囲気で、「進路のことは、どこまで考えてる?」と、高校生らしい話題に切り替えてくる。


「あまり多くは……」


「何も考えてないの? なら――」


 疑問符の後に話が続くとは思わなかったので、「考えてるよ!」と口を挟んでしまった。見合わせて、俺が話のバトンを受け取る。


「今までは当然芸大を志望するものだと、俺も思ってたよ。けど、色んな人に色んな事を教えて貰って、自分の将来の選択肢が思ったより広いことに気が付いた。東海道先生は、結構普通の大学を推してくるしな。実際、俺もすけべな絵を描き続ける以上のことは今のところ考えてないし。……うん。だから、郁の言ったことは全く見当違いじゃないんだ」

 

「それは、高校一年生にとっては誰しもがそうでしょうね。まあ勉強できない人はここらで心が折れるんでしょうけど」


「甲塚は? 進路――将来――未来……」


 甲塚はシャツを摘まんでぱたぱたと首元に風を入れながら笑った。


「私は、私の計画がある。くくく」


「高校を辞めるって考えは、改めないわけか」


「まあね。でも、大学を目指さないわけじゃない。世の中には高校を辞めた人間が大学の受験資格を手に入れるための選択肢が沢山あるの。今は先の内容まで勉強を進めるくらいだけど、既に準備も進めてる」


「え……マジかよ」


 高校を辞めて、なおかつ大学に入学するだと? そんなことが現実に可能なのか?


 でも、甲塚のことだからそれは可能で、現実的な選択肢の範疇に入っているんだろう。俺や郁が甲塚を学校に引き留めようとする裏で、そんなことを……。なんかショックだ。


「けど、パパが見つからない内はね」


「……あ。そ、そうだな。……」


 急に後ろ暗い話題が出たんで、ドモってしまった。


 甲塚の人生設計は、ともかく桜庭高校から出るところがベースになっていて、そのためには甲塚の父親捜しについてケリを付けなければいけない。それが、俺との約束。つまり、俺が真実を隠蔽するということは、甲塚の計画を大いに妨害するということ。


 俺の肩に乗った見えないものの重さが、また一つ俺の体重を増やした感触がする。


「手、見せて」


「……」


 で、今こんなことを言い出すということは、甲塚は俺が何か掴んでいると確信しているんだな。


「いいから」

 

 逃げ場は無い。


 机の上に、もう絆創膏を貼るだけにした右手を置いた。すると、花を開くような手つきで優しく触ってくる。


「あーあ。こりゃ酷いわ。こんなんで、絵描けるの?」


「絆創膏で関節が曲がらないけど、描けなくもない。だけど、絵画教室では治るまで描くなと言われてるんだよな。こういう時に無理して腱鞘炎になる奴が多いんだって。だから、あと一週間くらいは座学」


 甲塚は俺の手相に沿って指を滑らす。気持ちが良いような、ぞわぞわ背中が粟立つような、変な気分になってきた。


「そこまでして、私の父親捜しに入れ込まれたら困るわ」


「えー……。いや……」


「逆にこっちが迷惑なのよ。怪我したあんたを連れて、パパに会いにいくわけにもいかないでしょ」


「……え!?」


 聞き間違いかと思って、甲塚の目を真正面から見つめ返した。甲塚は恥ずかしそうに一瞬目を逸らして、やっぱり俺を睨む。


「俺も連れてく気だったんですねえ!?」


「そうよ。悪い?……何で敬語?」


「いや。いやいや。ちょっと待って。何で俺が、お前の父親に会わなきゃいけないわけ? わけわからんだろ。……俺ぇ!?」


 急に俺の手を握る力が強くなってきた。それが、治りかけた傷を引っ張るような力の入り方なので文句を言いたくなったのだが、痛みよりも甲塚の体温が如実に伝わってきたんで何も言えなくなる。


「ず、ずっと考えてたのよ」


「何を」


「パパに会って、何をするか。何を話すか……をね。それで……まずは、蓮のことを、紹介したいなって……」


「ちょっと、待って」


 甲塚の指から手を引き剥がして、ポケットにしまった。


 どうして甲塚は急にこんなことを言い出すんだ。


 やばい。やばいやばい。


 このままでは、秘密の重さが俺の体重を超えるぞ。重量過多だ。落ちるナイフがどうとか言ってらんないって。そもそも、俺は嘘が超絶下手くそなんですけど。


 圧死。圧死する。


「ちょっと待って。ちょっと待って。何で? 何で俺を……俺ぇ!?」


「いや。それ聞く? それは、あれよ。蓮が一番便利で使い勝手の良い私の手下だから――じゃない。違う。こんなことが言いたいんじゃないのよ。多分、私のことを考えてくれる一番の人が、蓮だからで……」


 甲塚は親指で額に浮いた汗を拭って、居心地悪そうに尻をじりじり椅子に擦った。


「クリスマスの夜のこと、覚えてる?」


「お、おう。でも、あれはさ……もう終わった話だろ」


 それは、俺たちにとっては苦い記憶だ。お互いがお互いを利用していることが分かって、関係が終わったと確信して、郁とキスをした夜。……ん? 何で俺は郁とキスしたことを同じ流れで思い出したんだろう。甲塚を怒鳴ったのと、郁とキスしたのは全然関係のない独立した事象の筈なのに。


「そうね。あれは終わった話だけど、私はあの夜からあの夜以前の態度をずっと後悔してる。私は……」そこで、甲塚は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。「あの夜から全部を変えるなんて今更無理だし、全部遅すぎるのは分かってるんだけど、少しだけ優しい人間になりたいって思ったの。宮島みたいに、蓮に好かれるような人間になりたいって思ったの。あんたがいたから、そうなろうって決めたの。私はね……」


「あ。ちょおっと待って」


「待たない。蓮、私はね……」


「マジで待って」


「しつこいわね。私はね……」


「いや、マジで。ウンコウンコ。一旦ウンコしてくるから」


 言い訳をひねり出して立ち上がると、甲塚は眉間に皺を浮かべながらも「もう、早くしろよ」と、手を払う仕草をした。「あ。蓮の部屋入ってていい? そういえば、見たことないのよ」


「いいよ。……ちょっと、一旦タイムな」


 *


 勿論、ウンコというのは方便である。便だけに。やかましいわ。


 ……何を俺は脳内で一人ノリツッコミしてるんだ?


 とにかく、こんな状況でパラパラを踊りながらのんのん大便を垂れ流せるほど俺はギャグの時空に生きていない。甲塚の話すことがあまりにも俺の罪悪感を刺激してくるので、一旦体制を立て直す必要があったんだ。


 洗面台でジャブジャブ顔を洗い、自分の憔悴しきった顔を見る。

 

 ……甲塚がとんでもないことを告白しようとしている、気がする。いや、しかし、はっきり言ったよな? 俺のことは、好きでもなんでもないって。あの言動が嘘とも思えない。


 とにかく、俺は郁の彼氏だ。そこは確実。甲塚が何を言ってこようと、俺は郁の隣にいるべき人間で……ちょっと待った。意志の前に、行動してしまおう。そうだよ。それがいい。行動が思考を作るのだ。


 スマホを取り出して、郁にメッセージを入れる。明日は空いているから、勉強は休んで遊びに行こう、と。何するのか知らないけど。とにかく。


 ――すぐに既読が付いて、熊がオーケーマークをしているスタンプがポンと付いた。それで、俺の心臓はすっとあるべき所に収まる。


 これで良いんだ。


 そうだ。甲塚が俺のことをどう思っていようと、俺の彼女は郁だから。スタンスがはっきりして良かった。まず、そこが大事。甲塚にも改めて宣言しなくちゃ。


 顔を拭ってリビングに戻ると、甲塚がいない。


 ……あ、俺の部屋に行ってるんだった。


 早足で廊下に戻ると、扉が開いたままの俺の部屋から何か変な音が聞こえてくる。それは、紙か布を何かで擦るような、カサカサとゴシゴシの中間みたいな音で――


 !!


 その瞬間俺は自分の過ちに気が付いた。

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