第225話 秘密を背負う道

 思考が纏まらないままコーコと別れ、俺はショウタロウと渋谷のラーメン屋に行ったらしい。店先で食券の列が進むのを待っていると、ショウタロウが急にこんなことを言い出した。


「蓮、鼻」


「……ん?」


「鼻血出てるよ、鼻血」


 言われて鼻の下を指で触ると、真っ赤で水っぽい血が中指から手の甲に流れた。慌ててポケットからティッシュを取り出し、鼻を摘まむ。


「ちょっと。大丈夫? 変な病気じゃないだろうね」


「違う。大丈夫だ」


「それか、エロいこと考えてたか」


「違う。エロいこと考えて鼻血が出るんなら、とっくに失血死してる。これは体質みたいなもんなんだよ」


「体質って?」


 ショウタロウは俺が鼻血を出したことにはそれほど構わず、ポケットに手を突っ込んだまま面白そうに様子を眺めている。こういうときはこれくらいの冷ややかさが却ってありがたいことを、彼は知っているんだろう。


 それに、実際大したことはない。さほど勢いも無いようで、ティッシュで鼻を摘まんでいたらすぐに止血した。


「ん……なんだかな。知っている女の子が他の男と仲良くしてたりしたら、出る」


 そう。寝取られ属性というのは俺にとって最大とも言える弱点である。これがフィクションならブラウザバックで終わりなんだが、現実の女の子が、となると、急激に脳細胞が死滅して、それが鼻から出てきてしまうのだ。……勿論、これは俺のイメージの話だが。


「ははは。女の子なんていないじゃん?」


「……確かに。何で今鼻血が出るんだよ。くそっ」


 俺は血の付いたティッシュを券売機横のゴミ箱に放り投げた。


 新藤が死んだという事実が、それほどまでにショックだったということか?……いや、こんなこともあるのではないかと、心の何処かでは考えていたじゃないか。俺が予想していたストーリーの中に、確かにこの展開は存在した。大きく声には出さなかったけど。


 新藤は、死んでいてもおかしくはなかった。というか、死んでいる新藤が見つかるのは全然不思議じゃなかった。だだ、俺が想像を及ばせていたのはそこまでで、そんな事実と地続きにこの世界が、時間が続いているなんて、想像だにしないことだった……。


 *


「蓮」


「……」


「蓮?」


 呼びかけに反応して視界の焦点を合わせると、怪訝な表情の甲塚が俺を見ている。それで、急激に自分を包む周囲の世界に色が付いた。


 ここは桜庭高校の多目的室B、つまり人間観察部の部室。まだ明るい時間で部活は始まったばかり。今日は、ノベジマと話した次の日で……えーと……。


「ごめん。聞いてなかった。何の話だった?」


「パパ捜しの話をしていたんじゃない。……ちょっと、しっかりしてよ」


「あっ。うん」


 甲塚がキーボードを叩いて、俺の方にパソコンの画面を回す。画面にはエクセルの表が大きく表示されていて、上からずらりと文字が並んでいる。


「あれから、宮島の情報をマージしてこの辺りの団体と、場所、炊き出しの時間を整理してみたの。次、どこに聞き込みをしにいくのか決めるわよ。今日」


「え? うん……」


 隣に座る郁が「私にも見せて」と画面を自分の方に向ける。

 

「すごーい! これ全部渋谷区で活動してる団体なの?」


「正確には活動場所に渋谷区が含まれる団体。既に連絡を取っているところはセルを水色で着色をしてあるでしょ。……ヤバそうなところは、オレンジ色ね」

 

 郁は画面を拡大しながら、むしろオレンジ色に着色した団体に関心を惹かれたようだ。実際画面を見てみると、そういった団体は大多数に及ぶ。


「あははっ。ヤバそうなとこって、ウケる。それ判断基準なに?」


「新興宗教とか、連絡窓口が見つからないところとか……。取り敢えず、前回みたいに変なところは避けたいし」


「そこまで言われると逆に気になるよお。あーあ。私も土曜日行きたかった! けどさ、ご飯を貰う側からしたら団体がどうとかってあまり気にならないんじゃない? 沢山ご飯貰えるところに、ホームレスの人たちは集まるんじゃないかなあ」


「それが厄介な点で、ジレンマなの」


 俺の視界がまたぼやけてきた。今、俺の目の前では二人の女子が会話をしていて、彼女達は人を探すならどこが良いかと真剣に議論をしている。


 見つかるわけがないのに。


 こんな大仰なリストを作ったところで、甲塚の父親は死んでいるんだから。


 俺が言い出したから。甲塚の父親を探そうって、二人に。

 

 こんな馬鹿馬鹿しいことは一刻も早く止めさせなければならない。甲塚がどんな努力をしたって、それは全て無駄に終わるのだから。無駄な調査に時間を使える程高校生の貴重な時間は多くない。


 伝えなければ。


 ――甲塚に、お前の父親は死んだのだと、伝えなければ。


「――蓮!」


 目の前の甲塚の口から、また俺の名前が出てきたんで驚いた。


「あ……。えっと、なに?」


「『なに?』はこっちの台詞。あんた、今日ちょっと変よ。何かあったの?――ちょっと待って」


 不意に、机の上で組んでいた俺の手を甲塚が掴んできた。


「この手は何!?」


「あっ」


 慌ててポケットに手を隠す。昨日コーコに蹴飛ばされたとき、アスファルトに擦ってしまったのだ。俺がノベジマと会い、甲塚の父親の死を知っているという証拠。どうして俺は無造作に机の上に放り出していたのか。


「あえ? 何? 蓮、手怪我してるの?」


「こ、これは大したことない。ちょっと、転んだだけ」


「転んだだけって、あんたね――まさか……」


「それより!」


 甲塚がまずいことを言い出しそうだったので、慌てて声を挙げた。


「な、何よ。急に大声出して」


「一つ、言わなきゃならないことが、ある……」


「何?」


 乾いた唇を舐めて、甲塚の顔を直視した。その瞬間、もう一つの考えが俺の後頭部まで追いついてくる。


 ――本当に、甲塚に伝えるのか?

 

 その考えが一体何処から湧き出てきたのか自分でも不思議なんだが、もしかすれば、彼女に黙って事実を突き止めてしまった後ろ暗さから引き釣り出てきたのかもしれない。……いやいや。これはすごく危険な考えだ。俺が考えてるのは、つまり、


「何なのよ。言わなきゃならないことって」


「……」


 秘密にするということだぞ。父親の死を。


 それは人間観察部を裏切る行為であり、俺は大きなものをこの肩に背負わなくちゃならないということだ。俺にできるのか? 事実を喉の奥に飲み込んで、二人が新藤君弘を探すのを無駄だと思いながらも手伝わなきゃならない。しかも、二人がノベジマに接近するのを妨害し、それ以外のあらぬ方向から語られる真実から二人の耳を覆わなければ……。


 無理だ。絶対無理。俺にそんな度胸は無い。が、


「勉強を教えてほしいんだ」と、口が動いていた。


 その瞬間、目の前の甲塚の体から風船に穴が開いたみたいに力が抜けたようだった。


「……。……はあ~?」


「ちょっと、蓮さあ。今は甲塚さんのパパ捜しの時間でしょ! いきなり変なこと言わないでよ!」


 甲塚どころか、郁すらも白けた声を挙げ始める。というか、俺は一体何を言い出すんだ。甲塚には本当のことを伝えなきゃいけないのに。


 でも、落ちるナイフは掴むなという何かの格言が俺の頭の中で木霊した。こういう状況に相応しい言葉なのかは知らないが、その通りだと思う。一度隠すと決めた秘密は、隠し通すしかない。後付けでも覚悟なんてものは無いけれど、甲塚が傷つかない未来へと、俺は既に足を踏み出してしまったのだ。道を外せばもっと酷い事になる。


「い、いや。結構マジな話なんだけど、もうすぐ期末のテストだろ。前回は何とかなったけど、よく考えたらあれ以来マトモに勉強してないと思ってさ」


 この言葉で青ざめた顔をしたのは郁である。


「う。そういえば、私も……」と、あっさりこちら側になってくれた。


「なんなのあんたたち!? これからって時に! また勉強タイム!?」


「仕方がないだろ。俺たちは高校生なんだから。……それに、進路のこと、真面目に考えようと思ってさ」

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