第224話 ノベジマの証言

 ガード下に入ると、ここは我が都とでも言うような堂々たる足取りでコーコが先行した。俺たち三人が並んで歩いて来たのがよほど意外だったのか、いつも青白い目線を向けていたホームレスたちは一様に目を丸くして――あるいは細めて、前を歩いて行く俺たちを眺める。


 中程まで歩いた辺りで、前を行くコーコの背中が停まった。脇を見ると、昨日今日とお馴染みになった空手三段おじさんが下半身をダンボールの山に突っ込んで寝ている。体を地面に横たえる程のスペースは足りないようで、胸から上は壁に沿うようにして曲がっていた。


「おじさん。おじさん」


 コーコが空手三段おじさんの肩を叩くと、薄らと目を開いて、


「あ。……う。絵かい?」


「今日は違うよ。ほら佐竹蓮」


 コーコが俺の手を引いて、おじさんの前に立たせてくる。途端に瞼をかっ開いた。


「あっ! お前! 何しとる――」と、そこまで怒鳴りかけて、俺の顔とコーコの顔を見比べる。うるさいガキと、よく知っているお嬢ちゃん……ってところか? 困惑しているようだ。


「ウチ、こいつ叱っといたから。もうここらで騒ぐなってさ」


「お、おう……?」


「それで、おじさんに謝らせにきたの。手土産も。……ほら、佐竹蓮」


 とにかく、ここは年長者のコーコが作る流れに身を任せた方が良さそうだ。


「あの。色々すいませんでした。これ、良かったら」


 ラベルを見えるようにして焼酎を差し出す。その瞬間、空手三段おじさんが文字通り総毛立ったのでギョッとする。腕の毛から、髪の毛まで……。今までの眠気は光の速さで夜空に飛んでいき、その分驚きと喜びが地の底から湧き上がって、おじさんの髪の先までを満たしたようだった。


 だが、俺に興奮を気取られるのを恥ずかしがったのだろうか。すぐに汚い手で顔を擦ると、

 

「ここにいるのはな、静かなのが好きな人ばかりなんだ。分かる?」と、俺の顔をしっかり見て言い出す。黒目は焼酎のラベルから発せられる引力に負けないようにしているのか、震えている。


「あ、はい」


「子供が来るとこじゃねえの! 分かったか!」


「あ。それはもう」


「分かりゃ良いんだ」


 ようやく俺の手から焼酎を受け取ると、震える手で蓋を開き、気持ちよさそうにぐびぐびと喉を二度鳴らした。……それから深く息を吐いて、ぐるりと首を回すと一気に顔が赤くなる。


「ひゃあ。うまいねえ。酒は、瓶で飲むのが一番良いんだ。う~む」


「あ。良かったです」


 腹にアルコールが入ったんで、おじさんはすっかり恵比寿目になってしまった。シラフじゃ全然話のできないような奴だったのに、酒を一本差し上げるだけでこうも態度が軟化するのか。……俺って、世間知らずだったな。


「それでさ」コーコはスカートを尻に沿わせておじさんの前に座る。「こいつ、ノベジマさんのこと心配してるんだってさ。ほら、この間ここの人が病院送りになっただろ」


「お~」


 おじさんはこっくり頷いて、今度はゆっくりと焼酎を口に含ませる。


「その、病院送りになったのがノベジマさんだったんじゃないかって。それで、わざわざここまで様子を見に来たんだって。な?」


「うん」


 いや、そのストーリーだと今まで俺が話した色んなことに矛盾は生まれる筈なんだが――とは思ったが、流れに流されて頷いてしまった。だが、おじさんはすっかりその話を信じ込んでしまったらしい。


「なんだ、お前。そうなのか?」


「そ、そうなんです。ノベジマさんのこと、心配してました。俺」


「う~……!」すると、一升瓶を片手に持ったままよじよじと身を捻らせてダンボールの中から立ち上がる。そのまま俺たちの間を通り抜けて歩いて行くんで、取り敢えず後について行ってみた。


 ……とある爺さんの前で立ち止まった。ベージュのニット帽を深く被って、蹲っている爺さんだ。足や腕に付いている肉が殆ど無く、だが、空手三段おじさんの声にぎょろりと力強く目を光らせる。


 ――この男が、ノベジマ。


 俺は、今までこの爺さんの前を何度か歩いた筈だ。だが、こういう風に目を向けられたのは初めてで――それだけで、この人がただならぬ雰囲気を湛えていることが分かる。他のホームレス連中とも違う、異質な雰囲気。俺でも喧嘩すれば勝てるような体つきなのに、遙かに強かで、知性がある。そう思わせる何かが目の光りに宿っていた。


「ノベさん。良いかい?」


 ノベジマを知っているというこの男の話は嘘じゃ無かったらしい。慣れ親しんだ口調で話しかけると、空手三段おじさんは路上のアスファルトに座って、一升瓶をノベジマに差し出した。


「……おう」


 だが、ノベジマは一升瓶を受け取らずに俺を見据えている。コーコでもショウタロウでもなく、俺を。


「この子供がな、ノベさんのこと心配してたんだってよ。この間病院送りになったやつが、あんただと思ったんだってよ。ハハハハ。あんたがそんなヘマするわきゃないわなあ。あれは、あいつも迂闊だったんだ。三角コーンから荷物はみ出してたんだから、あいつも悪いわ。……あ。あの、あいつ。なんてったっけ」


「ケンドー。顔が、ケンドーコバヤシに似てるからって、そう呼んでただろ」


「そうだそうだ。ケンドーな。……やばいよなあ。俺ノベさんよりも若いのに。脳みそがちっちゃくなってんだわ」


 弱ったようにそう言って一升瓶に手を伸ばす。すると、ノベジマが機敏な動きで一升瓶を先に取った。


「あんたはアル中が良くない」と、一升瓶の酒を飲み込む。相当酒には強いようで、三度喉を鳴らしたにもかかわらず顔色を全く変えずに一升瓶を返した。「前頭葉が萎縮してるんだよ。酔っ払ったら、困るぞ」


「うん、うん」


 空手三段おじさんはノベジマの忠告に相槌を打ちながらも幸せそうに焼酎を口に溜める。俺は、今のやりとりにホームレスがホームレスになる理由の一つを見たような気がした。


 それから、ノベジマが無言で俺の目を見つめてくる。


 何かを問いただしているような――いや。俺が、彼に問いたださなければならないんじゃないか。


 慌ててポケットからスマホを取り出し、顔の前に新藤君弘の写真を突き出した。それでもノベジマは俺の目を見つめたままなんで、「俺、この人を探しているんです。知りませんか」と聞く。それで、ようやく俺のスマホを見た。


「何でそんなことを俺に聞くんだ」


「この人、渋谷でホームレスやってたんですよ。あなたはこの辺りのホームレスをよく知っているんでしょう。色んな人がノベジマさんなら知っているかもしれないと言っていた」


「ホームレス捜しか。東京にホームレスが何人いると思っているんだ」


「何人いるかは知りませんが、ノベジマさんが知っているホームレスの中にいるかもしれないでしょう」


「俺が知っているホームレスだけでも、お前が想像できない程いるんだ。こんな写真一枚見せられたところで、これは何処其処の某さんだ、なんて答えられるわけがない」


 俺はショウタロウをちらりと見た。関心半分、飽き半分といった様子で、ポケットに手を突っ込んで俺たちのやり取りを見守っている。……大丈夫。ショウタロウには何を聞かれても問題無い。


「この人は、高校教師だったんです。――センセイですよ」


 その瞬間、ノベジマの動かない表情の中に感情の揺らめきを見た。気がする。


「数年前に、渋谷でホームレスをしていたのは確実です。それが、多分宮下公園だったのではないかと……」


「宮下公園、センセイ」口の中で転がすように呟いて、ノベジマは舌で右頬を伸ばしながら俺の制服を見た。「桜庭か。桜庭の教師」


「そうです」


「いたな。……覚えてる。でかい問題を起こした、桜庭の教師。センセイ……」


「そうです!」


 ノベジマは空手三段おじさんから一升瓶を受け取って、二口焼酎を飲み込んで言った。


「死んだよ」


「は。……」


 途端に、思考の中に白色が滲んできた。


 死ん……死んだ? 新藤君弘が?


 いや。そうとは限らない。この写真は彼がホームレスになるよりもずっと前の写真で、……そうだ。ノベジマの言う桜庭の教師が新藤君弘と確定したわけじゃない。


 ノベジマは、退屈そうに俺のスマホの画面を爪で突いた。コツコツと、俺の頭蓋骨をノックするように。


「死んだよ。センセイは。数ヶ月一緒に行動してたからよく知ってる。名前もよく憶えている。新藤だろ。新藤……」


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明日の更新はお休みさせて頂きます。

再開は4/27(土)予定です。

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