幕間 第18X話 恋愛講座・上級編(2)
一時間ほどして店を出た。が、二人はクールダウンも無しに隣の店に入って空き席がないか確認している。
……と思ったら、一足先に青白い西原さんが俺に何か――人差し指で四角い形をジェスチャーで示しながらのこのこ歩いて来た。
「なんすか?」
そのまま様子のおかしい彼女に肩を組まれて、そこらの植え込みに連れ込まれる。そして、
「うぷぉっ」
と、胃の底から泡が浮いてきたような呻きと共に、植え込みに向かって盛大に液体を吐き始めるではないか。形容しがたい色の何やらが草にぴちゃぴちゃと跳ね返って、悪夢に見るような光景を、視覚、聴覚、嗅覚と五感の半分以上で味わうハメになってしまった。
「うぉわあーっ!!」
俺は堪らず絶叫して西原さんを突き飛ばしてしまう。その衝撃でさらに吐き気を催したのか、もう地面に手を突いて獣のように内容物を吐き出している。
そこに、相変わらず平静な南さんがやってきた。これでも彼女だって結構な量のグラスを空けている筈なんだが、本当にシラッとしているのが凄い。足取りも確かそうだし、酒に強いというのは嘘じゃないようだ。
「あ~あ。またやってんだー」
「……この人、いつもこんな飲み方してんですか!?」
「まあねー。心配しなくても、一回吐いたら元気になるんだ」
涙を流しながら嘔吐く西原さんを横に、何となく俺と南さんが一対一、って感じの構図になっている。
そういえば、俺はこの人の事をよく知らないな。『きたはいずこに』のメンバー中、東海道先生はお馴染みだし、西原さんとは髪を切ってもらう間柄なんだが、南さんと言えば――で思いつくエピソードは無い気がする。
強いて印象を挙げるとするなら、お団子頭とオーバーオールがトレードマークの、バンド内では比較的マトモな社会人、ということになる。ちなみに、担当はベース。
「そういえば、南さんはもう仕事を納めたんですか?」
「私? 私は働いてないからねー。強いて言えばデイトレーダーかな。あんまり儲かってないけど」
あっ。
俺のマトモな社会人というイメージが瞬時に崩壊した。
「私は兄弟が沢山いるからね。マトモなお兄ちゃんとかが家のことはやってくれるし、他の兄弟は実家の子会社動かしたりしてんの。それだから、私が焦って結婚相手探さなくても仕事しなくても安泰なわけ。まあ、恵もいすずも似たようなもんだけど、家族との関係は色々だからねー」
「はあ……」
忘れがちだが、この人達は実家が非常に裕福なお嬢様なのだ。
それにしても、産まれた家柄で一生分の富が与えられているというのは想像を超えている。東海道先生の家にお邪魔したときも、呆れる程のショックを受けたものだが――本当に、人生というのは平等じゃないんだな……。
「私が言うのもなんだけど、お金持ってるからって滅茶苦茶ハッピーってわけでもないんだよー。いすずなんかは、実家が裕福すぎるから逆に将来の選択肢が無くてさ、それで美容師なんて仕事に流れ着いたんだから。というか、お金があっても、お金じゃ買えないものばかり欲しくなっちゃうし」
「……」
俺からしたら、本当に「あんたが言うのもなんですね」という感じだ。金があっても幸せになれないなんていうなら、少し位俺に恵んでくれたって良いじゃないか――って、今まさに奢られたばかりか。
なら、文句言えないじゃん……。
*
二人が飲み始めたのは十七時を回った辺りらしく、二件目とは行ってもまだ十九時を少し回った所である。
代打で呼ばれた俺としては、少なくともヒットを打つくらいの仕事をした気だった。だから、一件目で引き上げようと思ったのだが――若干吐息に酸味が混じった西原さんに捕まって……そのまま、今度は少し落ち着いた雰囲気の店のテーブル席に三人で座った。何と言うか、ファミレスみたいな変な居酒屋だ。
それで「蓮君はツバメなのー?」と、座るなり南さんが妙な事を聞いてくる。
「え?」
「恵のツバメなのかって」
「ん? つば……? ツバメ?」
この店は煙草がOKらしい。西原さんは顔を顰めてまずは煙草を吸っていた。始めは俺と南さんの会話なんて無視して片手でスマホを弄っていたのだが、見てられなかったのか割って入ってきた。
「こいつにはそんな古い言い回し分からへんて」
「あー。今ならなんて言う?」
「――……」
俺には一体何のことかさっぱり分からないのだが、突然二人が内緒話を始める。
東海道先生のツバメ?
何かの隠語だろうか。検討も付かないので補足説明を待っていると、
「加奈は、お前が恵相手にママカツしているんかって聞いてんねん」と、とんでもない疑義を掛けられていることが分かったのだ。
「は? ママカツ? ママカツって、所謂パパ活の反対のママ活のことを言っています?」
「ママ活ってパパ活の反対かなー?」
「いや、知らんし……。とりあえず、お前の想像するママ活で合っとる。ちょっと昔は年上の女性に金銭的な援助をしてもらってデートしたりすることをツバメってゆうたらしいわ。まあ、そっちの場合はどちらかと言えば愛人に近いニュアンスやけどな」
俺は、流石に顔を赤らめて眉間を掻いた。恥ずかしいのではない。怒りに近い、恥辱で頭に血が昇ったんだ。
「……ハァ? 西原さん。いくら何でも、俺と東海道先生のことをバカにし過ぎじゃないですか」
「ちょ、ちょい待ち。あたしが言い出したことちゃうやんけ。怒るんなら加奈やろ。こっちは親切心でコミュニケーションに潤滑油を垂らしたったのに、ひどいわあ」
西原さんは焦って灰皿に煙草の灰をトントン落とす。それで、南さんはと言うと、あらぬ疑いを掛けてきた割に飄々としているのだ。
「だって、話聞いていれば蓮君と恵って普通の先生と生徒って関係じゃないでしょー。それに、家庭事情まで相談されてるんだよね? ちょっと変だよそれ」
「そりゃ、個人的に話すことはありますけど……。俺と先生はそんないかがわしい関係じゃないですよ」
俺は何で弁解するような口調になっているんだろう。
事実は清廉潔白なんだから、堂々と否定すれば良いのに。
「ま、冗談だよ。冗談。まさかお金援助して貰ってるってことはないだろうし。幾ら恵と言っても生徒に手を出すようなことはしないでしょー」
「そりゃそうですよ――」
と、笑いかけて気が付いた。
そういえば、俺は東海道先生にバイト代という名目でちょっと常識を外れた金銭を受け取っている。それに、俺はあの人の家で幾つかの夜を過ごしたんだ。
「……」
よく考えたら、ヤバいことのような気がしてきた。
いや、ヤバいことという認識はあったんだけど、ヤバさの通知表が今届いたという感じだ。
口を噤んだ俺の顔に、南さんは一体何を見たのだろうか。にやりと口端に不気味な皺を寄せて、顔を近づけると、こんなことを言い出す。
「私が蓮君に手を出したら、恵はどんな顔するかな……?」
ぞおっと背中に寒気が走った。
この人は、この目は――本気で東海道先生の反応を見たいがために、こんなことを言い出しているようだ。東海道先生の感情に波風を立てるために、どんな劇物を投下するのも躊躇しないという感じだ。
「おい!! やめえやお前ー!!」西原さんが庇うように俺の肩に手を回して怒鳴る。酸っぱい吐息が今は何と頼りになることか。「お前、大学ん頃もそんなんして大ごとになったやろがー」
「え……マジですか?」
「加奈の黒歴史。昔、所帯持ってる男と付き合ってん。というか、所帯持ってる男としか付き合わない時期があってな。それも、あからさまにバレるような付き合い方をするから、滅茶苦茶問題起こしとってん。示談金幾ら払っとんねん」
「あれはあれで、皆楽しかったから良いじゃん」
「サイコパスやろ、こいつ」
ええ……。
最早ドン引きとかいうレベルではない。もう完全に自分の世界とは別の人間って感じだ。楽しいから、という理由で他人に不和を齎すなんて、俺からすれば想像を絶する趣味である。
お金に困らない人生を送っていると、すこし人間性が歪んでしまうのだろうか? いやいや。南さんの歪み方は、東海道先生のそれとは明らかに異質だ。というか、二人に比べたら西原さんなんて全然常識人だし。
「ちょっとー。そんな引かないでよ」
「いや。引きますよ……」
「誤解してるって。私と付き合った人たちは、今じゃまるっと円満な家庭を築いているんだよ? 雨降って地固まるってヤツでさ、私という悪夢を見たから、今ある幸せのありがたさを実感したというか」
「は?……そんなこと、有り得るんですか?」
「有り得るよー。世の中には、絶対バッドエンドだろうって話の流れでも、終わって見れば意外と皆不幸じゃないってことは、あるんだよ」
俺はこっくりと、素直に頷いた。サイコパスとはいえ経験豊富な南さんの言うことなのだから、そんなこともあるんだろうと思った。
「蓮。真に受けるなよ。元々皆がハッピーだったところを、死に神の鎌を持ってツンツン突いているのがこいつやで。そんなんが好きやねん、こいつ」
「いやいや。皆がハッピーならそもそも不倫は発生しないって! 分かって無いな~。それに、そんな嘘っぽいピッカピカのハッピーよりも、私はあちこち擦って泥にまみれたハッピーの方がよっぽど本物だと思うし」
ぽっと出た南さんの言葉に、深い部分で首肯させられたのはどうしてなんだろう。
彼女の言っていることが、郁のエロゲー観に通じる部分があるからかもしれない。いつの間にか、俺の思想は郁に影響されていたのだ。
「……ん? ハッピーって車種じゃないですよね?」
「アホ」
コツンと西原さんの拳骨が脳天を叩いた。
――幕間 終わり
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本編の再開を本日予定しておりましたが、今日は夜まで予定があり更新が遅れるかもしれません。
今日の更新が遅れた場合は明日エピソードを二本投下します。
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