【ネタバレ切り抜き】東海道先生の家に泊まるまで

*第139話 急を要する軽作業


「アルバイトですか? アルバイトって、いわゆるバイトのアルバイト?」


「勿論、いわゆるバイトのアルバイトですわ。ちょっと人手の要る用事があって、困っていますの」


 部室の出入り口で話しかけられたので、郁と甲塚が野次馬根性丸出しにこちらを凝視している。一旦、人気の無い廊下に移動した。


「先生とのことで今更とやかく言うつもりはないですけど、それって良いんですかね。教師が生徒にバイト紹介するって……ほら。就業規則とか」


 すると、東海道先生は持っていたバインダーで俺の胸をぺちんと叩いた。頬を膨らます仕草は、年下なのでは無いかと錯覚するほどのあどけなさが浮かぶ。


「一々そういうルールだとか、常識に当て嵌めてやり返すんじゃありません。佐竹君の悪いところよ」


「す、すいません……それで、バイトって?」


「肉体労働ですけど、報酬は弾みますわよ? お、ほほほ……」


 東海道先生は手の甲を頬にくっつけて笑い出す。裏がありそうだ。


「それで、時給と仕事内容は……」


「軽作業、かしら? 勿論軽くない作業なのですけれど。時給は、……ふふふ。三千円で如何?」


「三千円ですって!?」


 時給三千円。すなわち三時間働いて、九千円……!? これが本当なら僥倖だ。服を買うにも金が要ることだし。


 ……いかんいかん。


「時給は魅力的ですけど、仕事内容が分からないんじゃなんとも言えませんよ。軽作業って言うと、荷運びですよね? 引っ越しか何かの手伝いですか?」


「う、ううん。それが……あのね?」


 先生がちょいちょいと手で俺を手招く。彼女の口元に耳を引き寄せると、いつかしたように吐息を閉じ込めて言う。


「実はね……わたくしの母が、週末やってくるのです」


――――

*第140話 逆家庭訪問初日


 先生に背中を押されて入ると。どこかにセンサーがあったのか、勝手に前方のリビングまで照明が灯って、部屋の全貌が明らかになる。


「……広い! すげえ!」


 と、まず普通すぎる感想が出てしまった。でも、とにかく広いのだから仕方が無い。部屋が広いのもそうだが、数ある家具と家具の余白となるスペースがとにかく離れているのだ。例えば居室の中央にはL字形のソファがあるんだが、壁とソファの間には五人が一列にならんでラジオ体操が出来そうなくらいゆとりがある。


 なんか、貧乏くさい喩え方をしてしまった。


 *


「生徒を家へ招待するのは、これが初めて。……ふふふ。結構可愛い反応をしてくれるものね。最初にあなたを選んで良かったわ」


 それが何とも慈愛に溢れた声色だったので、こっちが照れてしまった。手に持った酒缶を一旦置く。


「そ、そう言われると、リアクションしにくいじゃないですか」


「あら、存分に驚いてくれて良いのよ? この家もこの家具も、殆どわたくしの実家がお金を出しているんだもの。だというのに一人で暮らすには広すぎるし、わたくしの趣味じゃないでしょう? せめてこれくらいは楽しまないと、住んでいる甲斐がありませんもの」


「はあ。にしてもこの酒、全部東海道先生が飲んだんですか? 大した酒豪ですね」


「あっ。いや。それは。日曜にいすずと加奈が遊びに来てね……」先生は慌ててキッチンの棚からゴミ袋を持ってくると、テーブルの上の缶を一つ残らず片付けてしまった。 


「普通に滅茶苦茶楽しんでるじゃないですか……。良いなあ。俺もこんな家住んでみたいですよ」


「むしろ、わたくしはもっと小さいお家で十分よ。こんなに椅子があったって、殆ど人が埋まることはないんだもの」


 先生は幾らか暗い表情で呟く。


 隣の芝生は青いって奴か。こんなグレードの高い生活をしている人手も、憧れる対象があるというのは侘しいものだ。



――――


*第141話 孤独というものの正体と



「……普段の先生の生活が目に浮かびます」


 多分、あの回転椅子に座りながらギターを弾いて作曲しているんだろう。作業空間と衣食の空間を別にしているから、それほど清潔感にも頓着しておらず――


 端的に言えば、汚らしい。


「べ、別にいつも掃除していないわけじゃないのよ? たまたま、先週から忙しかったものだから……」


「で、この部屋の片付けを手伝うんですね」


 まあ、ごちゃごちゃとしているが大した仕事では無さそうだ。散乱しているものは一箇所に集め、広いところから掃除機をかけ、最後に大きな物を移動して裏の埃を吸う。これで終わりじゃん。


「一応先に聞いておきますけど、俺に見られてマズいものは無いでしょうね」


「無いと思いますけれど、……」


 東海道先生は、混沌とした私室を見回して途方に暮れた。検討も付かない、ということか。


「分かりました。もしあれば、知らんふりしておくのでこっそり回収してください」


「な、無いわよ。無いと思うけれど、その際はよろしくね?」


「はい。……で、どこから手を付けましょうか」


「お待ちになって」


 静止を掛けた先生が本棚横の収納扉を開いて、俺はさらに驚いた。


 そこには小部屋のような空間が広がっていて、部屋に出ているものとは別に、多くの音楽機材が納められていたのだ。ギターっぽいものだけでもケースに入った状態で十を超える数が並んでいるようだし、ライブで音を出すのに使うアンプなどは戸棚の下を丸々埋めてしまう程。その他にも大小様々なライブ機材が……。


 幾ら趣味と言っても、目が眩む程の大金が注ぎ込まれているのは肌感で分かる。部屋に出しているギターはいわゆる普段使いだったのか。


「こりゃまた、凄いな」


 一人感嘆する俺の横で、先生は頬に手をあてて困った顔している。


 嫌な予感がした。したが、遅すぎた。


「佐竹君には、まずこれらの機材を運び出すのを手伝って欲しいのです」

 

「は、運び出す? 何で? 綺麗に収まっているものを。え?」


 異論を唱えると、両肩が掴まれる。


「わたくしの音楽趣味を、母に知られるわけにはいかないからよ……!」


「――バンドのこと言ってないんですか!?」


 *


「大変、大変!」東海道先生の慌てた声が背後から近づいてきた。姿を見せた彼女は、いつの間にやら白いTシャツとスウェットという動きやすい格好に着替えている。


「佐竹君、もう八時を回っていますわ! きっとご両親が心配なさっているでしょう……」


「前にも言ったと思いますけど、両親なんて今の時間は家に居ませんし、俺が帰っていないことにも気付いてないと思いますよ。母親が夜勤で、父親は遠くに出向。普段の生活でも顔会わせること無いんですから」


 家庭事情を説明すると、先生は目尻を下げた。


「まあ。大変なご家庭なのね」

 

「別に大変ではないですけど。……ま、腹も減ってきたし。そろそろ帰りますよ」


 リビングに荷物を取りに戻って、はたと気付いた。


 今が八時ということは、作業を開始した四時頃から少なくとも三時間は経過している。時給に換算すれば九千円分の働きだ。精神と体力の消耗の割に合っているのかは知らないが、贅沢出来る金額に違いはない。


「あら、いけない。晩ご飯を食べるのも忘れていたのね、わたくしたち」


「先生も、これから食べるんですね」


「ええ、そうね……」


 その返答を皮切りに、何かが起こるのを待つような、そんな時間が俺たちの間に発生した。


 思いを馳せたのは、このまま家に帰って、一人で啜るカップラーメンの味。それと、この広いリビングで東海道先生が一人食事をする情景。


 一人に広すぎる部屋というのは、家というより施設という感じがするから不思議だ。そこに居るべき人間が他にいるのに、どうしてか自分一人が迷い込んでしまった感覚。勿論先生と俺じゃスケールが違うけど、もしかして同じような感覚は先生も感じたりするのだろうか?

 

 以前、郁の家庭で食事をした後に一人で食べた朝食が――物寂しく感じた。それが、孤独というものの正体だったのか?


 だとすれば、そういう感情を持った同士が一緒であれば、孤独は遠のくのか。


 ……俺は、それを確かめてみたくなった。


「なら……、あの……。一緒に食べませんか?」



――――

*第142話 禁忌の一歩目


 目が覚めると、知らない天井が目の前にあった。


「……」


 いや。見覚え……あるな。二段構造になっている隙間から間接照明が光っていて、洒落たフロアライトが二つ。


 なあんだ。ここは東海道先生の家の、リビングじゃないか。


 腑に落ちると同時に、猛烈な不安が足下から襲ってきた。

 

 ――ちょっと待て。どうして俺は東海道先生の家のリビングで目覚めた?


 慌てて飛び起きると、俺が寝ていたのはL字のソファだ。窓から見える景観はマンション五階の割に悪くなく、まだ日が昇りきっていない静かな朝の高級住宅街が一望できる。


 ……朝!!


 状況的に、俺は東海道先生の家で一晩を明かした、ということになるんだろうな。


 時計の短針は六時を指していた。寝慣れない環境が幸いしたのか、あまり眠りが深くなかったんだろう。


 ちょ……ちょっと落ち着こう。幸い、学校が始まるまでまだ時間はある。


 昨日は何があったんだっけ?


 確か、俺が東海道先生を食事に誘った。先生は俺の誘いを待っていたかのように、頬を赤らめて快諾したんだ。それから、この家にはすぐに食べられるような食品なんて置いていない、ということが分かって、タクシーに乗って数分の渋谷の飲食店に行った……そこまでは鮮明に覚えている。


 それから?


 思い出せ、思い出せ。


 ガツンガツンとこめかみを叩く俺の目の前には、コンビニの袋がある。中には手つかずの酒の缶。それが呼び水になったのか、一挙に昨日飲食店に行ったときのことが脳裏に浮かんだ。


 そうだ。ウーロンハイだ。


 俺たちが行ったのは大衆寄りの中華料理店だった。時間も時間だったので、店内は夕食というよりかは平日夜の飲み会という雰囲気が色濃く、酒の匂いがするテーブルの横でそれぞれ定食を頼むということになったのだが、ドリンクを決めるところで少し揉めた。


 どうやら先生は俺の前だからと遠慮して、ソフトドリンクを頼むつもりでいたらしい。俺の方は先生が酒好きなのを知っていたから、そんな遠慮は不要だ。どうせ今日の食事は俺のバイト代から天引きしてくれていいのだから――と、そんな問答をした憶えがある。


 誓って言うが、別に強制したかったわけじゃない。先生が、物欲しそうな目で隣のテーブルのグラスを見つめていたから……良かれと思って……。


 で、それが大失敗だったわけだ。


 食事が来る前に卓に付いたグラスを、キュっと可愛い効果音で飲み干してしまうともう歯止めが利かない。「もう一杯頼んでい~い?」と例の上目遣いで乞いてくるので、俺は深く考えもせず、進路の悩みを一方的に語りながら、次々とグラスを開けていくのを看過してしまった――


 店を出てから、ようやく彼女がへべれけに変貌しているのに気付いた。店の照明が薄暗かったので彼女の顔色に気付かなかったが、いつの間にか赤黒く変色していて、目がとろんと力を失っている。そのまま路上に近寄ってタクシーを呼ぶのかと思ったら、電信柱に激突して「にゃはははっ!」と嬌声を挙げるではないか。


 それからの記憶がかなり混沌としている。


 先生を家へ送り届けるにも、タクシーで移動していたから場所が分からない。


 頼みの綱はへべれけの脳みそなんだが、へべれけの脳みそはへべれけしているものだからあっちへ歩いたと思ったら道を引き返して、こっちへ行くのかと思ったら路上演奏のギタリストからギターを借りて歌い出すし。かと思えばコンビニに寄って追加の酒を買い込むし。


 このままでは埒が明かないと悟ってようやくタクシーに突っ込み、財布の身分証明書から彼女の住所を伝えてここまで連れてきた。で、結局自分はここからどうやって帰るんだと一人途方に暮れる内に、ここで力尽きていた……と。

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