第184話 夜中の校舎で

「何で筋トレしてんの? 夜の校舎で……学校の七不思議にでもなるつもりなのか?」


 困惑しきって尋ねてみると、郁は寒そうに膨らんだ二の腕を擦った。


「んなわけないでしょ。寒いし暗いし、なんだか不安になって死にそうだったから取り敢えず体を動かして温めてたんじゃん。ていうか、体動かしてたらお腹減っちゃったじゃん。どうしてくれるの!?」


「はあ……」


 何だか力が抜けて、いつもの席の椅子に座り込んでしまった。


 腹が減っていると聞いて気が付いたが、そういえば俺も結構腹が減っている。パーティーでは摂取したカロリーの割に運動量が多かったような気がするし、臼井だ甲塚だと立て続けに厄介な話にケリを付けたのだ。


「家に帰ったら、デリバリーでも頼むか。高いけど、今日くらいは良いだろ……」


「え? それじゃあ私ピザ食べたい」


「……いや。別に郁と一緒にとは――」


「ほら。学祭の打ち上げで一緒にピザ食べに行ったでしょ? あれからハマっちゃってね。それにさっきはあんまりピザ食べてないし」


 上半身を捻るストレッチをしながら、嬉しそうにそんなことを言う。


 なんか、拍子抜けだ。


「まあ良いけどさ。……なんか元気だな。さっきの電話じゃ落ち込んでただろ」


「ん――落ち込んではいるよ。あははっ。私、なんか臼井君に遊ばれたみたいなんだ。着信拒否されちゃった。こんな格好悪いとこ蓮には見られたくなかったんだけど……人って、なんか分からないね。世の中怖くなっちゃった」


「……そのことなんだけどな」


「ん?」


 彼らのことを何と説明したものか。口元を擦りながら立ち上がって窓辺によると、郁が隣に立ってくる。


「何? ショウタロウ君がどうかしたの?」


「うん。……ショウタロウのことと甲塚のこと」


「え。甲塚さんも?」


「……」


 甲塚の泣き声がいきなり反響してきて、廊下の方を振り向いた。気のせいだった。


「蓮、疲れてる?」


「ああ、うん」


 郁の右手が俺の肩に触れる。左手は遠慮がちに俺の腕に触れてきた。


「大丈夫……? 顔色悪いような気がする」


「ついさっき、ショウタロウと話した」


「ええっ?」


「あいつは――何も、郁で遊ぼうと思っていたわけじゃないんだよ。あいつなりの事情があって。……あいつの秘密は聞き届けたよ。ショウタロウがどんなことに苦しんでいるのか、俺はよく分かった」


「本当に? 臼井君の秘密って何だったの?」


「悪いけど、お前に言うような話じゃない。それほど悪いことじゃないよ。まあ、全国の思春期には一人くらいこんな悩みを持つ人間もいるだろうなって感じで……。郁に教えないのは、ショウタロウの尊厳を守るためだと思って欲しい」


 郁は唇をつんと尖らせて夜を見たかと思うと、「うん。いいよ」と案外気軽に頷いた。こういうところは、彼女の美点だと思う。


「それで、甲塚さんのことは?」


「甲塚、は……。あいつはな……」


 それから続く言葉が出てこない。眉間に力を込めて口を開いたり閉じたりしていると、不意に郁の両腕が力強く背中に回ってきた。抱きしめられたのだ。子供染みた反応なんだが、俺は郁のその親切心で酷く心が落ち着いて……。郁の胸が当たっていることとか、彼女の肌から湿度が立っていることとかは二の次だった。


 逆に両腕を郁の腰に廻すと、全く拒否されなかったので世界が自分に優しくなった気がしたんだ。


「全部終わらせちゃったんだよ、俺」


「うん……」


「ショウタロウの秘密を聞き出して、甲塚の計画――完全に壊してさ。あいつのこと、酷く傷つけるようなことも言った。そうするしか無いと思ったんだけど……今考えたら、俺も傷ついていたんだと思う」


 自分で言ってから、こんなこといきなり聞かされた郁にはワケが分からないだろうと恥ずかしく思う。それで、郁にこんなに優しくされるのは相応しくないと思った俺は体を離して、


「俺、甲塚のこと泣かせたんだ」と、白状することにした。「あの甲塚をだぞ? あいつが心の底から信用できるのは俺だけだったんだ。それを、俺は……」


「蓮も、泣いてるよ」


 驚いて目許を触って確かめた。乾いている。


「いや、泣いてないけど……」


「心で泣いてるよ。幼馴染みだから、そういうの分かるんだ」


「はあ……?」


「詳しいことは知らないけど、蓮が重苦い決断をしたってことは私にも分かる。甲塚さんが傷ついたって言うんなら、同じくらいかそれ以上に蓮も傷ついているんでしょ」

 

「……」


 郁が二、三歩下がって手をパンと鳴らした。


「こういうときは、ちょっと運動して美味しい物を食べれば良いんだよ! それで、すっかり気分は元通りになるんだよ。準備は良い?」


「え。……運動? 準備?」


「用意――ドン!」


 郁は、自分勝手に号令を下すなり風のように部室を出て行った。


「……は?」


 俺は唖然として彼女を見送るような心持ちになったが、――いやいや、あいつ、職員玄関からしか出られないこと知らないじゃねえかと思い立って、全速力で追いかけ始めた。下手をしたら警報が鳴る大事件になりかねない。


 ところが、部室を出てすぐの廊下の角に郁がこちらを向いて笑っているのだった。


 黒いドレスに身を包んだ郁は、闇の中で認識するには難しい。せいぜい懐中電灯を向けて光る白い歯が目印になるだけだ。


「ほらほら。私に追いついてみなよ!!」


 挑発気味にそう叫ぶ郁を追うと、俺たちそのまま部室のある階の廊下をぐるりと全周回って、ようやく一階に降りたと思ったらまずは締まっている正面玄関に。「……おっ。おい。そっちは警報がなるぞ!」と忠告すると、びゃっと体育館通用口に向かって、こちらも開かないと知るや困った顔で振り向いた。


「私達、閉じ込められてる!?」


「はあ……はあ……だか、らあ……職員用、……はあ、玄関!!」


「え。職員用玄関? そこなら出られるの?」


 俺は心臓が叫ぶままに、仰向けにぶっ倒れた。


 なんだよこれ。とんだクリスマスだよ!!


 今日の一日の終わりに、犬みたいに走り回る郁との運動会が待っているとは一体誰が予想できただろうか。


 そんな俺を、呆れた様子の郁が俺を見下ろしてきた。


「情けないなあ。この程度のランでもう限界なの? エッチな絵ばかり描いてるからそうなるんだよ。たまには外を歩きなー?」


「郁が、はあ、体力バカ過ぎるんだよ……! はあ――なんなんだよ、お前は……!」


「あっはははは!」


 笑い出した郁が膝を揃えてしゃがみこむ。ふくらはぎの筋肉が闇夜に膨らんで、どうしてかそんな彼女が凄く魅力的に見えた。


「ははっ……。でも少しは元気でたでしょ?」


「……出てない……」


「不貞腐れちゃってさ。私の言うとおりになるのがそんなに嫌? ああ、もう良いよ。ほら」


 郁が手を差し出してきた。


 俺はその手を掴んで、逆に引っ張って転ばそうとした。……のだが、逆の逆に引っ張られてあっさりと立たされてしまう。それどころか、勢いが乗って郁に覆い被さるような形になってしまった。


 突然の俺の全体重は流石に予想外だったのか、郁は通用口の壁に押しつけられた。俺はすんでの所で肘を付いて、接触を回避する。


 お互いの息が掛かる距離感になって俺は、

 

「郁が好きだ」


 と、何故か口に出していた。


 後から考えればこの瞬間ぐらいしか言うタイミングが無かったような気がする。

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