第182話 計画の脆弱性
甲塚が俺の手を振り払ってきた。
「何!? 何でいきなりそんなことを言い出すの!?」
「お前にとってはいきなりだろうな。けど、結構前から考えてたんだ」
「えっ……」
窓に寄りかかっていた甲塚は、少し姿勢を正して不安そうに自分の爪をなで始めた。
「もしかして、怒ってるの? 私の態度とか……。確かに悪かった、けど、私達って、そういうノリだったじゃない」
ここに来て急に潮らしい態度を見せてくる甲塚に、俺の鳩尾はぎゅうぎゅうと重くなってきた。
「いや。別に、気にしてない。たまに、あまりにも理不尽だ、とか、あまりにもわがままだ、とか、あまりにも人間扱いされてないな、とかは思ってたけど、別に気にしてない。――お前って、そもそもそういう奴だったし、そういう奴のままだし」
「それは、だって、私、……友達いないし。……そういうの、言ってくれないと分からないし」
「俺がそういうこと言ったとして、お前は直そうと思ったのか? 本当に?」
不貞腐れる態度の甲塚に言い募ると、もごもごと口を動かしながら、申し訳なさそうに視線を足下に落とす。
「――って。だから、そういうのは別に気にしてないんだって」
「じゃ、じゃあ、どうして。どうして?」
「俺には、この学校の生活がそんなに悪いもんじゃないと思えてきたんだよ。確かにお前の言うとおり、この学校にもキモいスクールカーストは存在して、たまにおままごとみたいな嘘っぽさを感じることはあるよ。……けど、こういう世界でも、真面目に青春したり、悩んだり苦しんだりする人間はいる。そういう連中の感情は本物だろ? だったら、全部が全部嘘じゃないってことだ」
「……くだらないものには変わらないわ」
「それにな、甲塚。お前はそういう嘘っぽい世界を毛嫌いしているようだけど、何も学校に限った話じゃないんじゃないか? お前が学校を辞めたところで、そういう世界は続いているんだぞ」
「それでも自分で選んだ環境なら文句は言わない。私がこの学校にいる理由を忘れたわけじゃないでしょう……!? 私は、無理矢理入学させられたのよ!?」
「それは確かに気の毒だとは思うよ。けど、なあ……」言葉が喉に詰まって、一つ唾を飲み込んだ。「世の中、お前だけが不幸というわけじゃないらしいんだよ。どうも」
甲塚が胡乱な目付きで俺を見つめる。
「う、嘘じゃないぞ。本当に、ビックリする程不幸な連中がこの学校にいるんだよ。運命的な巡り合わせで、破れた夢に取り憑かれた人とか……自分の姉に恋をしてしまった人とか……事故で昔の自分を失った人とか……。ああ、あと、辛い経験の一部を自分に投影する人とかな」
「……」
「そういう連中でも、この学校では真面目に青春しているわけだよ。……その環境を壊すっていうのは、どうも――」
突然、甲塚が俺の胸を手で突いて押してきた。
怒ってるのかと思ってその顔を見ると、睨んではいるものの、どちらかと言えば傷ついたように瞼を震わせている。
「それじゃあ――あんたも――私を裏切る――ってこと……?」
「……。俺は、お前が学校がいなくなるのは嫌だ」
「馬鹿馬鹿しいっ!」
再び甲塚が俺の胸を押してきた。彼女からすれば突き飛ばしているつもりなんだろうが、あまりに非力なので叩いているくらいの衝撃しかない。だが、それで気分を切り替えたようですっかり怒りに満ちた表情をしている。
「どうやらあんたは変わってしまったみたいね……!」そう言って、俺の足から目の辺りまでに視線を流して見せた。「いいわ。だったらあんたなんか要らない。東海道もいらない! 宮島もいらない!! く、くく……」
「こ、甲塚」
スマートフォンを取り出して、自慢げに画面を俺の鼻先に突きつけてくる。
「私には臼井の秘密を証明する音声データがある。今更あんたがどう言おうと関係ない! 一人でやってやる……あんたの助けなんて要らない!! ばーか!! あっはははっ!」
俺は思わず額をガシガシ手で擦ってしまった。
「お前は……。ほんっとに何も分かっていないんだなあ……!」
「は?」
――甲塚は、あまりにも現実を知らないらしい。ふらふらと窓に寄りかかって、俺はぼやけた通りの明かりに向かって話し始めた。
「お前が学校中にショウタロウの秘密を広めようとしたって、無駄だ。いたずらに自分が傷ついて終わるだけさ」
「……はぁ?」
顔は見えないが、甲塚は俺の言葉に大きく動揺したようだ。笑い混じりの相槌が震えている。
「音声データ? そんなものが何になる。今時の世の中じゃ、匿名の情報なんてまず疑って掛かるもんだ。それが誰かを――それも、色んな人に好かれている人間を貶める内容ってことなら尚更だろ」
「……そ、それなら、私が素性を出したって良い! どうせ学校を辞めるんだし。周りからの目なんて気にしない……!」
それは、人見知りな彼女からすれば、大したもんだと褒めてやりたいような決意なんだろう。
「それでも、無駄だ」
「む、だ?」
「ああ。まさしく無駄だよ。だって、お前の言うことを真面目に、事実として受け取る人間がこの学校に一体何人いる? 俺や郁、東海道先生を抜きにしてだぞ。ちょっと冷静に数えてみろよ」
「――」
「……いねえんだよ!! そんな人間は!! 一人も!!」
目の前の窓が、自分の大声に震えたような気がした。
コーコが消えた悲しみが、若干言葉に乗ったらしかった。
「いるもん」
「いいや、いない」
「いるもん……!」
「――いるかもしれないのは、せいぜい真面目に受け取る素振りをする人間くらいだよ。そういう連中はきっと、甲塚と仲良くなりたくて神妙なツラはするだろうな。けど、腹の中ではこう考える筈だよ。こいつは虚言を吐いているおかしな奴だって……。それで、お前を良いように利用しようとするだろうさ」
「そんなこと……ないもん」
「あるんだよ。お前の発言力が及ぶ場所なんて、この高校じゃ人間観察部か――せいぜい生徒会の片隅ってところだろ。分かるか? 他人の秘密を知ったからと言って、その人間と仲良くなれるわけじゃない。俺はこの半年間、色んな人と関わって、色んな秘密を知らされたり知ってしまううちに、段々そういうことが分かってきたんだ」
言いながら、そんな機会を与えてくれたのが他でもない甲塚だったことに気が付いて虚しくなる。
何でこうなるんだろう?
俺と甲塚って、同じような人間だった筈なんだが。
視界がぼやけ始めて気が付いたのだが、暗い窓には後ろに立つ甲塚がうっすらと映っているのだった。酷い顔で俺の隣に立っているように見える。
「――蓮が一緒なら――みんな話を聞いてくれるかも――知れない。少なくとも、私一人よりは――」
「……かもな」
甲塚が俺のジャケットの裾を引っ張ってきた。
「ねえ、ごめん」
……こいつ、面の皮めっちゃ厚いな。さっきは俺は要らないだの、ばーかだのガキみたいな悪口を言っていたくせに。
だが、振り向いて驚いた。
甲塚の目が潤んでいる。
「俺は別に……お前に謝られたいわけじゃないから」
「ごめんってば。ごめんなさい」
甲塚は俯いて、まだ引っ張ったままのジャケットを引っ張っている。
「いや。だからさ」
「――お、……お願い。助けて……」
普段からは考えられない言葉のオンパレードに、意味も無く自分の目を手で覆った。
俺は、尊敬する人間を憐れに思う位なら自分がピエロになるような人間だ。だが、こんな状況で俺は、一体どうすればピエロなんかになれるんだ。
目の前の甲塚が、こうしている間にもどんどん可哀想に見えてきてしまうじゃないか。
「その言葉、俺の前に言うべき人はいただろ……! お前のお母さんとか、お祖母ちゃんとか、先生とか!」
「ごめん……」
繰り返し同じ言葉を呟く甲塚は、何だか幼児退行してしまったように見える。こちらが幾ら言っても、シンプルな感情で俺の同情を誘おうとしてくるのだ。……嫌だな。これじゃ、まるで俺が年少になった甲塚の父親みたいだ。
「……?」
その瞬間、脳裏にある想像が思い浮かんだ。それがただの妄想であれば良かったのだが、逆説的な論理展開でちょっとした違和感が引っ掛かってしまう。
甲塚が、俺に秘密にしていたこと……。
「何で、俺だったんだ……?」
俺は、聞かずにいられなかった。
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