第178話 臼井祥太郎の秘密
鏡の前で項垂れるショウタロウを前に、俺は自分の予想が的を射たのを確信した。
「美取のことが好きなんだな」
「……」
「考えてもみれば、お前の家って妙に複雑だしな。男世帯と女世帯で別居だろ? それに、双子というわけでもなく同い年で姉弟ってのも……。いや、俺も、色々話を聞いておいてなんで今更気付くんだよって話ではあるんだけどさ。簡単な話だよな。臼井家はお互い子供を持った親同士が再婚した家庭だった」
「……」
「要するに、お前と美取は血が繋がっていないんだ。お前ら、異様に顔が整っているから全然思い当たらなかったよ。中学時代のショウタロウを知る奴は、お前のことを一人っ子と言っていたらしいし、家族になったのは――丁度、高校が始まる直前か、直後辺りか?」
「……何だよ。僕のこと異様に詳しいじゃん。何なの?」
「世の中には嬉嬉として人気者の足を掬おうとする人間がいるんだ。たまたま、俺の近くにそういう奴がいたってだけ」
ショウタロウは眉間の影を深めて、俺に向き直る。
「ふーん。まあ、そういう人なら心当たりあるけど、蓮の近くにいる人間で……ねえ。同じクラス?」
「そんなの聞いてどうする」
「いや、単純な興味だよ。僕、結構この高校で上手くやってたと思うんだ。なんでそこまで嫌われたものかなって思ってさ」意外にも恨みの一つも篭もっていない声色でそう呟く。「それに、意外と僕を嫌いな人のことはあまり嫌いじゃないんだよ。……って、冷静に考えれば僕、足を掬われるほどの活躍はしてないんだけど。もしかして、氷室会長が言ってた次期生徒会長ってやつ、本気にしてる?」
俺は頭を振って否定した。適任ではあるだろうけど、こいつがそんなものに興味があるとは思えない。
「それで、蓮。君はその人にこの事実を伝えるわけ?」
俺は、また頭を振って否定した。意味も無く懐中電灯のスイッチをカチカチと押し続けると、目の前の鏡が白と黒とに瞬いた。
「……いや、俺は……どうかな……」
郁との約束を果たすためなら、ショウタロウの秘密は俺たちの胸にそっとしまっておくべきである。既にショウタロウには自分の弱みを探る人間がいることについて伝えてあるし。甲塚に気を付けるなら、口を閉じるだけで十分効果はあるはずだ。
一方、甲塚の目的を果たすためなら、今すぐスマートフォンでこの事実を知らせるべきだ。この半年間、俺たちは――そのために部活動をやってきたんだから。ただし、その先に待っているのは甲塚が学校を去る未来。
ここで問題なのが、俺はどちらか一人を裏切ること確定していることなんだよな……。しかし、未来のことを考えると答えは一つ。
スイッチを押す指を止めたら、たまたま点灯状態になった。ひ弱だが輪郭のハッキリした光が足下を照らす。
――し、んじてる……
不意に、目を閉じてそう呟いた甲塚の顔が浮かぶ。
俺が裏切ったことを知ったとき、甲塚は一体どんな顔をするんだろう。流石に、傷ついてしまうんじゃないか。
……いや、あの流れの「信じてる」なんて言葉の綾以外なんでもないか。案外、ケロリとして「そんなこと、織り込み済みよ」とスカした態度を取ってくるだろう。甲塚はそういう女子だ。
「伝えないよ。お前が美取を好きだって秘密は――ちょっと待てよ」
重大な決断をしたと思ったところで、俺はさらに重大な事実に気が付いた。
「何?」
「……学校一のイケメンの秘密が、血の繋がらないお姉ちゃんが好きだって?」
「美取さん、あんまりお姉ちゃんって感じしないけど。同い年だし」
どうでも良いところに突っ込むショウタロウを放っておいて、俺は頭を抱えてしまった。
これが、俺たちが半年もの間追いかけてきた学校崩壊を起こさせる程の秘密なのか。
「そ、それだけ……? 親の都合で突然できた同い年の姉に恋をしたって――んな、少女漫画の設定みたいな事実が、お前の秘密だって?」
よくよく考えてみたら、赤の他人からすればちっとも衝撃的じゃない気がする。そりゃ、俺にとっちゃ美取は3takeさんで……実は3takeさんは臼井家の長女で、という流れがあるから衝撃的ではあったにしても。
部外者からすれば、というか一般的な男子からすれば、突然現役モデルが家族になった! ドキドキする! という程度のありきたりな話なのではないだろうか。
「それだけって、君ねえ」
ショウタロウは自分の目の下をぐいぐい押しながら溜息を吐いた。その様が、あまりにモノを知らない猿を前にしたような反応だったので、こっちが慌ててしまう。
「いや、だって、血の繋がらないお姉ちゃんを好きになったところで何の問題がある? 二人が付き合ったとして……いつか関係が進展したとしても……突き詰めればお前と美取なんて赤の他人なわけだろ?」
「いつか関係がって……? ああ、忘れてた。蓮って、恋を知らない男なんだ。全く、これじゃ殆ど宮島の片思いだな」
「……郁の片思い? 何を。だって、俺はあいつのことを――」
「好きって言うんだろ」
俺は馬鹿みたいにこっくりと頷いてしまった。
俺は、郁のことが、異性として好き。それの何が問題視されているのか全然分からない。
「あのね。口で言うだけなら誰でも同じこと言えるっての」
「は……? いや……だって、口で言うしか……それは……」
ショウタロウはいよいよ嫌気が差したように目を細める。
「蓮は週に何回抜いてる?」
「……は……? ははは……」
目の前のイケメンの口から、突如とんでもない話題を振られたので思わず笑ってしまった。場違いな冗談かと思ったのだ。
「いや、笑い事じゃなくて。週に何回オナニーしてる?……いや。蓮は、週に何回宮島でオナニーしてる?」
「…………」
俺は何も言えないまま、自分の顔に血が昇るのを感じていた。体中から汗が噴き出て、ヘラヘラと情けない笑いを浮かべることしかできない。
「――笑うなッ!!」
いつもの緩い雰囲気から一転、目の前のショウタロウが怒号を挙げるので俺は足が浮くほど驚いた。思わず表情がきゅっと引き締まる。
「僕は、誰も知らないところで、毎日二回、美取で過酷なオナニーをしているんだよ」
「過酷な……オナニーを……過酷……? 過酷って何だ……?」
「僕らが違う家に住んでいてる理由が分かるか? 最初は四人で暮らそうってことで、僕と父さんは今美取さんが暮らしている家に引っ越すはずだったんだ。それが、何でウチは狭いアパートのままで、美取さんが綺麗な一軒家に住んでいるのか、君に分かるか!?」
あまりの剣幕に、俺は無言で首を振る。
「母さんに、僕が美取さんの下着でオナニーしていることがバレたからだ。休日だった。風呂に入ろうとしたら、洗濯籠に見慣れない色の布があったんで、色つきのものは除けておこうと引っ張ったら、それが彼女のパンツだったんだ。それが汗で湿っていることに気が付いた瞬間――理性的な僕は――消滅して! 風呂にも入らず、部屋に持ち帰っていた。そこに、風呂が空いていると、早く入れと急かしてきた母さんが……」
捲し立てていたショウタロウは、そこから先の言葉をフェードアウトさせた。
だが、聞いているだけでも青ざめるような状況だ。それも、あの美取によく似たキツい雰囲気の母親に、となると――
地獄だ。
地獄としか、言いようがない。
「その晩、美取さん抜きの家族会議が開かれたよ。そこで、敢えなく僕ら四人が一緒に暮らす話は当面ナシ、ということになった。僕が大学で一人暮らしをするまでだ。暮らすなら僕を抜いた三人でということだ。母さんが僕を見る、目は……」ショウタロウは自分の目許を擦る。驚いたことに涙を流していた。
ショウタロウの涙を見た瞬間、何故だか俺の瞳にも涙がこみ上げてきた。
こんな馬鹿みたいな話に、何で俺は涙を流すのか。
俺が思春期だからだ。
ショウタロウの身に起こった悲劇は、思春期の男子の、誰の身にもあり得たかも知れないバッドエンドだからだ。
目の前の男は、バッドエンドの先を、今まで生きてきた男なんだ。
「家族が別れたのは、僕が美取さんでオナニーをしたからなんだ。父さんは気にするなって笑うけど――怒ってる素振りは見せないけど――ふと、寂しそうな顔をする。台所で料理をしているときとかに……」ショウタロウは非常に辛そうな顔をしてこう続けた。「けど、止めらんないんだよ。美取の第一印象なんて、大した美人が家族になったもんだな、くらいのもんだったよ。けどさ、あの日僕がパンツを部屋に持って行ったときから……僕の中の何かが……こう……」
胸の前で、小さいものを捻り潰す仕草をする。
「僕のオナニーは、何故だかあの人じゃないとダメになったんだ。他の女の子じゃ、ダメなんだ。それが原因で父さんの生活を無茶苦茶にしたのに、だよ。抜かなきゃどうしても美取さんが頭に浮かんで、終わった後は自分の馬鹿さに死にたくなる。そんなことを繰り返して、ある日の賢者タイムで気が付いたんだ。僕は美取さんに恋をしているんだと。オナニー以外にはどうすることもできない程、好きなんだって。……分かるかッ!?」
「……」
「恋をするってのは、こういうことだよ」
「……」
さっきから、何か反論しようと口を開いては、言えることが何一つ無くて胸が痛くなる。俺は、目の前のショウタロウのように身を焼くような恋をしたことは――ない。
「恋を知らないだとか、『好き』が分からないだとかァ……馬鹿なんじゃねえか? って話だよ。人に恋するとは何だ? 人に恋するとは、性愛を持つということだよ。性愛を持つとは何だ――性愛を持つとは、毎日その人で過酷なオナニーをするということだよ。それほど焦がれるってコトなんだよ! 君は、宮島で毎日精子を出してるってのか! え!?」
「いや……俺は……」
「出してない奴が笑うなッ!!」
ショウタロウは叩き付けるように叫ぶとトイレを飛び出して行った。
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