第177話 ショウタロウの好きな人
誰かのスマホの着信音は、中々鳴り止まない。
「……」
懐中電灯の明かりは、一歩、一歩と足を進める度に一足分の闇を照らす。静寂しきったこの校舎じゃ甲高い着信音は非常に反響するようで、あの教室から鳴っているのかと思えば鍵が開いておらず、そっちのホールで鳴っているのかと思えば誰もいない。
次第に俺は、今俺に聞こえているこの音は幻聴なのではないかと思うようになった。もしかすれば、何か、情念のようなものが俺を何処かへ誘っているのではないかと……。
まあ、勿論それは気のせいだったわけだが。
――着信音の元は、一階中央階段前の男子トイレだったのだ。
勿論、トイレの中だって照明は全て消えている。それだけじゃなく、唯でさえ夜のトイレというのは薄気味悪いスポットだ。まさかと思って懐中電灯を中に向けると、鏡の前に人影が立っていたのが見えたんで俺は腰が抜けそうになる程驚いてしまった。あまりのことに驚きの声すら出ない。
その人物だって、いきなり明かりで照らされたんで驚いた筈だ。だが、鏡に向けたままの顔を逸らさずに言葉を発してくるのだった。
「蓮か。こんなところで何をしているんだ?」
「ショ――う――ショウ、タロウ――……」
ショウタロウのポケットから鳴っている着信音が途切れた。少しして、また鳴り出す。
今、俺を取り巻く何もかもが異常だ。この暗闇の学校も、鳴り続ける着信音も、目の前の男も。
俺という人間は、本来気性が穏やかで平穏な日常を好む陰キャである。こんな混沌とした世界にいちゃあ精神的に参ってしまうので、一秒でも早く逃げ出したい。……だが、それでも俺をここに踏みとどまらせるのは三対七の根性と義務感だ。
「電話が……鳴ってる……出ろよ……」
ビビりながらも言葉を必死に発すると、ショウタロウは相変わらず真っ黒な鏡を眺めながら薄らと口端に濃い影を作る。その様があまりにも不気味だったので、思わず懐中電灯を消してしまった。
「ああ。これは良いんだ」
「良くない。出ろよ……。それは、郁からの連絡の筈だ」
「……」
ショウタロウはポケットからスマホを出すと、通話を繋げもせずに電源を切ってしまった。胸の底から込み挙げるものを感じはしたが、今は自分を落ち着かせてこいつの話を聞いてみることにする。
「お前、こんな所で何をしているんだ」
ショウタロウの隣に立って、俺も洗面台の鏡を覗いてみる。当たり前だが、黒い自分の輪郭が映るだけだ。
「郁が待っているんだろ。というか、お前が郁を呼んだんだろうが」
「なんだ。やっぱり通じ合ってたわけ。君ら」洗面台の縁に手を付いて、鏡にぐっと顔を近づける。「何? 二人して僕のことからかってたの?」
「俺はともかく、郁がそんなことする奴だと本気で思ってるのか?」
「……ま、宮島はそういうこと、しないか。じゃ、何で蓮がここにいるのさ」
「お前に聞きたいことがあったんだよ。だから、郁に良いタイミングを都合して貰った」
「ほお」
ショウタロウは息を吐くように相槌を打っただけで、何を聞きたいのか、とか、何でわざわざこんなタイミングで、とかは何も聞いてこない。
その代わり、では無いんだろうが「宮島って良い奴だ……」と、急に郁のことを褒め始めた。「僕って、今まで彼女いなくてさ。美取さんにアドバイスとか貰って色々頑張ったんだけど、上手くいかないよ。やっぱり。デートって難しくてさ。どう思う、蓮は。そっちは美取さんと仲良くやってたんだろ」
俺は少し項垂れて答えた。
「いや……。デートなんて、経験無いからな。流れで遊びに行ったことくらいで」
「普通、女子と一対一で遊びに行くことをデートって言うって。それを前提としたら、どうなの?」
俺が一対一で街を歩いた女子となると――郁か、美取か。郁に関して言えば部室の会話の延長線をラーメン屋でしたくらいで、美取についちゃアニメイトと犬カフェくらいのもんだからな……。
「……そうだな。まあデートと言って良いかは知らないけど、楽しかったよ。特にドキドキしたりは無かったけどな。くだらない話をしながら飯を食ったり、街をうろついたり。そういうもんだろ」
「ああ、そう!」
隣のショウタロウは、妙に感心した風に、声を大きくして言う。だが、ここで幾ら叫んだってこいつの声を聞くのは俺だけなんだろう。
「僕はね、宮島とのデートは全然面白く無かったよ」
影の掛かったショウタロウの顔をまじまじと見つめた。続いて、胃の底にこびり付いたものを吐き出すように「――え?」と問いかける。
「宮島さ、凄く良い子なんだよー。例えば電車で僕たちが並んで座っていたらお婆さんに声を掛けて席を譲ったり、寿司屋じゃ後ろの席で泣いているガキをあやしたり、映画館じゃガキ向けのものを見て、雰囲気でもないのに手を握ったって動じないの」
「……」
「基本、あいつは僕が何をしても暖簾に腕押しって感じ。他の女の子みたいに顔を赤くしたりもしないし、こっちがどれだけアプローチしたって、犬が指を舐めてきた、って顔をするだけなんだよな。ははは。そんなの、全然面白くないって。それって僕が人間扱いされてないってことなんだから。多分、宮島って蓮のこと好きなんだろ。だからさ――」
「お前、ちょっと黙れ」
「……」
ショウタロウは、本当に黙り込んだ。
黒い鏡の中で蠢く人影を眺めながら、じっくりとこれからの展開を考え込む。
暫く考えた後、
「つまり――こういうことだな」と、慎重に口火を切った。「お前は、郁に交際を申し込むと言った。で、彼女を人間観察部に呼び出した」
「うん」
「そのうえで、お前はやっぱり告白するのは止めるって言うわけか」
「うん。やっぱり止めた。これから告白しようってときに、なんか宮島は違うかなって思ってさ。蓮の方からも言っといてくれる? 僕に急用が出来たとか理由付けといてよ。適当にさ……。あ。適当にって、よしなにする方の適当ね」
この世に神がいるのならば、一つ文句を言いたい。
何で性格の捩れた男の顔をハンサムにしてしまったのかと。こいつがこんな風に裏切ってきた女子達は、これまでに一体何人いるのだろうか。
俺は怒りの余りに、一秒間の間何度横に立っている男の面をぶん殴ろうと考えたか分からない。だが、俺の強靱で臆病な理性はそれを許さないのだった。
……それに、俺はこいつの顔を殴るより、効率良く傷つけられる事実を知っている。そうだ。秘密というものは、人を傷つけるには格好の触媒になる。
「――そういえば、風呂で言っていたことはまだ有効か?」
「ん……風呂?」
ショウタロウは目許の影を濃くして聞いてきた。
「合宿の時、風呂で言ってただろ。好きな人を教えて欲しかったら、先に言えってやつ」
「はっはははは!」ショウタロウは本気か嘘か全く分からない笑い声を挙げた。新鮮な思い出を懐かしむようでもあり、よくもそんなくだらないことを覚えているなと俺を嘲笑うようでもある。「そういえば、そんなこともあったな。よく覚えてたね……」
「あったんだよ。そんなことが。それで、俺は郁が好きなんだけど」
「ははは……。あ、そう」
ショウタロウは温度の感じない笑い声を挙げながら、鼻を擦る。
「お前の好きな人は? 今更、郁とか言って誤魔化すんじゃないぞ」
「……」
「当ててやろうか」
ショウタロウは黙って頭を振る。
「美取だろ」
俺の問いに、反応は無かった。
それで、全ての事情を察することができたようなものだったんだ。
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