第172話 彼女は英語の先生
「せ、責任? 責任とは……?」
先生が頬を赤らめて目を細める。
「わたくしに言わせるつもり? 結婚のことに決まっているじゃないの」
一瞬で俺は汗だくになった。
「え? え? けっこ……え?」
「当然じゃないの。わたくしの人生、佐竹君の言葉一つで見事に狂ってしまったのですから、せめて養うくらいはして貰わないと割に合わないでしょう? それとも、あなたは言うだけ言っておいて、私の人生に何の責任も取らないつもり?」
「……」
俺の人生なんて十年とそこらのちっぽけなもんである。そんなちっぽけな人生経験が、東海道先生の言い分は尤もだと、自信無さげに告げている。
にしても、結婚って……先生と? 付き合ってすらいないのに、いきなり?
――ちょっと待て。言うほど俺のアドバイス一つで東海道先生の人生って狂っているだろうか。そりゃ、最後の一押しは俺だったにしても、もう転がり始めた大岩を軽く突いたようなものだし、東海道先生だってもう少し母親と仲良くしたり、年相応の恋人を作ったりとか……そういうの、もっとあるだろ。
物凄い速さで思考を回転させていると、ギターを股に挟んだ東海道先生が口を抑えて笑い出す。
「あっははははは! あなた、可愛らしい程動揺するのねえ」
それから、先生は弦を一本一本鳴らしながらチューニングを始める。
それで、俺は彼女が冗談を言っていることが分かった。額に噴き出した汗を袖で拭って先生に迫る。
「先生! 普通、高校生が先生に結婚しろと迫られたら動揺すると思います!」
「あら。佐竹君だって非道いのよ? 今まで実家の援助で楽をしてきたわたくしが、突然今のお家を追い出されて、一人で生きていかなきゃならないのですから。そうさせたのはあなたじゃないの」
「……それは、悪いと思ってますよ。でも、先生だって大人でしょう……?」
「何をおっしゃるの。自分で自分のことを子供だと思っていないくせに」
「いや、普通に子供だって自覚してますよ。俺は世間知らずですよ……」
「あら、そう? それで、籍はいつ入れましょうか」
汗が、また俺の額で踊り出す。
「せ、先生……」
「わたくしは出来るだけ早いほうが良いと思うの。どうせ一緒に暮らすのに、親等が離れたままでは不便ですもの。そうね、あなたが高校を卒業して――大学に入学して――二十一歳の誕生日。わたくしたちの関係では、突然すぎると倫理観を疑われてしまいますものね、先にご両親にご挨拶させて頂かないと……」
夢を見るような顔でそんなことを言い出すので、俺にはまた冗談か本気なのか分からなくなってしまった。それも、彼女の語る想像は妄想にしては細か過ぎる。
「先生?」
「式は挙げない方が良いでしょうね。世間の目もあるでしょうし――ご親戚への挨拶に留めて。わたくしたちは騒がしい世間からはひっそりと距離を置いて、多少貧乏でも一緒に暮らして……二人で買った指輪を、仕事の合間にこっそり眺められればそれで幸せが一杯なの。佐竹君も、バイトをしないとね……うん」
「先生……」
「新婚旅行は、お金が貯まるまでは我慢しないと……。海外へ行くよりも、落ち着いた温泉街にでも遊びに行けたら良いわね。わたくし、外国に行くと何故か子供扱いされるのよ」
「――恵さん!」
「なあに?」
「あの……えっと……。……冗談、なんですよね?」
「――冗談よ」先生はふっと笑って髪をポニーテールに纏める。「ああ、佐竹君のことを虐めていたらやる気が出てきたわ。ちょっくら生徒達を沸かせてこようかしら」
「……」
「あなたは誰かを拒否することを覚えないといけません。誰にでも優しくしていちゃ、わたくしみたいに悪いことを考える人がいるのですからね」
先生がギターのネックを掴んで立ち上がると、丁度のタイミングでステージ側の扉を知らない女子が開いた。
それで、ますます俺の気勢が削がれてしまう。よく考えたら教師と生徒のこんな会話を、扉一枚の向こうに誰かがいる状況で話していたのだ。
「東海道センセー! 出番なので、よろしくお願いしまーす!」
「はあい! 今行きまーす!」
「……その……どこまで、冗談なんですか?」
「秘密を話して、お家を出て行くことになったのは本当よ。ただし、母は猶予をくれたわ。わたくしが一人で生活していくために、まずは自分の収入から口座を分けて貯金を作りなさいと」
……それって、先生個人の貯金は殆ど無いってこと? この人、大丈夫なのかな?……ということを、彼女の母も思ったのだろう。なんだか気の毒だ。
「それは――悪くない、ですよね?」
「そうねえ。これも人生ってところかしら。よっこらしょっと」
ギターを担いだ先生がステージへの階段を上がって行く。生徒会女子が扉を閉める寸前に、「先生!」とその小さい背中を呼び止めた。
「なあにー?」
「今日は、あまり格好良いと困りますよ!」
先生が現役のバンドマンであるということがバレてしまうかもしれない――ので、あまり格好良いパフォーマンスをすると困る、ということを言いたかったのだが、変な言い方になってしまった。
先生は俺の意図をしってか知らずか、振り向きざまにニヤリと笑うと駆け足でステージへと躍り出た……。
*
桜庭高校は生徒の数が多いので、その分教師の数も多い。そのため、高校に通う三年間に全く面識のない教師というのもザラにいるのだ。
その点、東海道先生はキャラクターが強烈過ぎたのだろう。
登壇直後、ステージ中央の椅子に座って黙々とチューニングする先生に、
――あの人誰先生?
――あんな人いたっけ?
と、非常に訝しがられていたというのに、ひとたび「皆様、ごきげんよう!」という声がスピーカーに乗った瞬間、常識的な服を着てギターを抱えている彼女が「あの東海道先生」であると一変に伝わったようだった。
会場中に散らばっていた生徒たちが、有名人を近くで見てみようとステージ前に集まり出す。
基本的に人混みが嫌いな俺だから、当然人の流れに逆らって歩いて行くと、中央のテーブルにジュースと料理が補充されてるではないか。何だか得した気分でタコスを食べていると、どこからともなく郁が駆け寄ってきた。
「ねえ、蓮! 東海道先生!」
興奮しきった顔でステージを指差すと、その手でジュースを取って一気に飲み込む。もうパーティーも後半だが、まだまだ食欲は衰えていないらしく、虫を捕まえるみたいな手つきでテーブルの上のタコスを自分の皿に載せている……。
「うん。さっき少し話してた」
「ビックリした~! 声聞くまで全然分かんなかった! あんな常識的な服着るんだ!」
「それは俺もビックリしたけどな」
「近くいかないの?」
「東海道先生ならいつも近くで見てるし……今日くらい、野次馬に譲ってやっても良いと思わないか?」
「まあ、演奏なら聞こえるしね」
遅れて、美取もステージをちらちら見ながらやってきた。
「あの先生、人気なんですか? みんなが集まってますけど」
「人気というか――都市伝説的な……」
目の前の現象をどう説明したものか。言葉に詰まっていると、タコスを持った郁が補足してきた。
「あの人、東海道先生。私達の顧問で、朝の挨拶も別れの挨拶も『ごきげんよう』って言うんだよ。しかも、担当してるクラスの生徒にも同じ挨拶させてるの。ウケるよね」
「ええ? それ、面白いなあ」
美取は面喰らった顔をしたが、ニヤリと薄く笑っている。
「あと、あの人話なげーんだよな……」
多少打ち解けたらしい郁たちと会話をしている間にも、東海道先生は未だに長ったらしい前口上を続けている。だが、彼女の存在自体を面白がっている野次馬たちは喋ろうと歌おうと、どうでもいいという雰囲気だ。
ところが、先生が歌い始めた途端面白いくらいに静まりかえるので、彼らの衝撃は手に取るように伝わってきた。
それもその筈だ。演奏技術と歌唱力だけで衝撃なのに、クリスマスソングの歌詞が流暢な英語で紡がれていたのである。
まさか、まだ飛び道具を隠し持っていたとは――
「れ、蓮。東海道先生の担当教科って……?」
「英語」
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