第170話 世界を優しいものだと定義しようか
美少女二人に取り残された俺と甲塚は、何を言うでも無く黙々と料理を食べ始めた。
中央のテーブルには多量のケータリングと、突貫で買いそろえたらしいスーパーの惣菜が並んでいるのだ。一応クリスマスらしくチキン系の料理が多数を占めているが、全体的にはメキシカンなテイストでピザやらタコスやらが目立つ。
そして、仕切りで作られた空間には今、吹奏楽部がクリスマスの流行曲を演奏している。郁と美取が姿を消したから――ってことは無いだろうけど、どことなく会場も落ち着いて会話を楽しむムードに移行している気がするな。
「それにしても、甲塚さんこそ見違えたな。そのドレス、宮島に選んで貰ったんだって?」
俺たちが無言でピザを食べていると、暇になったらしいショウタロウが絡んできた。
途端に甲塚が俺の背後に隠れようとしたので、横に避ける。
すると、慌てた様子の甲塚が「な、何よ」と俺を睨んできた。
「お前、ショウタロウと話すの夏以来だろ。せっかくの機会だし、相手してやれよ」
「ねえ、甲塚さんは私服もそんな感じなの?」
「あ、ち、違うけど……今日は、特別……」
「というか、甲塚さんの下の名前ってなんだっけ?」
「……うぃ、……こ……」
甲塚は眉間に皺を寄せると、これで私の番は終わりだと言わんばかりにジュースに口を付けた。
「何ビビってんだ。お前ショウタロウの秘密知ってるんだろが。闘えよ、ほら」
小声で抗議すると、唇をぺろりと舐めて「知っているわけじゃない。推測しているだけだし」と至極真っ当な反論をしてくる。
「甲塚ウィ子? そんなんだっけ?」
ショウタロウが一ノ瀬に尋ねると、別のショウタロウ軍団女子が「キコじゃない?」と苦笑交じりに補足する。
「希望に子供で、希子。甲塚希子だよ。お前一応生徒会なんだから、ウチの部長の名前ぐらい憶えろよ」
俺が解説をすると、ショウタロウは膝を打って笑った。
「そうだそうだ! 読みはちょっと古い気がするけど、良い名前だと思ってたんだよな。希望の子、希まれた子――ご両親の愛を感じるよ。ねえ、希子ちゃんって呼んで良い?」
うわっ。こいつ、めっちゃ距離詰めてくるじゃん。
「……名前で呼ばれるの、あまり好きくない」
引きの姿勢を見せている甲塚に、ショウタロウはどんどん物理的にも距離を詰めてくる。こういうところがイケメンがイケメンたる由縁なのだろうか。
「だから、蓮にも苗字で呼ばせてるわけ? 僕なんて、苗字で呼ばれるのが好きくないからさ、むしろ名前呼びじゃないと落ち着かないんだよね。というわけで、希子ちゃんって呼んで良い?」
「や、やだ」
「希子ちゃんはさ、何でニンブ作ろうと思ったの? 動き出したのって入学直後でしょ。高校入った後の目的とかあったんだ?」
「あ……う……佐竹……」
甲塚が締め上げられたプロレスラーの如く俺の背中にタップしてきた。
だが、ここで助けてはいけない。今後の人生にこういう状況は山のようにあるはずだ。そのとき俺が甲塚の近くにいるとは限らないのだから――せめて、残り少ないかもしれない高校生活で他人と喋る程度の社会性は身につけて欲しい。
「臼井君。それと、一ノ瀬」
ところが、俺の思惑に反して意外な横やりが入った。
小籔先輩だ。そういえば、この人はショウタロウたちと違って勤勉に仕事をしているんだっけ。
「あ、副会長……何ですか?」
「楽しんでいる所悪いんだけど、少し仕事して貰うわ。吹部の演奏が終わったら、少し中央スペースを広げようと思うの。この人数だし、ダンスをするには今のままじゃ狭いでしょう」
「了解です」
甲塚に最接近していたショウタロウは、執着を見せること無くあっさりと小薮先輩に付いていく。少し遅れて、一ノ瀬を始めとするショウタロウ軍団も早足でステージ前の方に駆けていった。
いつの間にか吹奏楽部の演奏も終わっている。予定ではここでステージ発表は前後半に分かれ、間にインターバルが挟まるのだ。そして、教員による演し物の後にいよいよダンスがある。……はあ。
「ちょっと。あんた、ぼさっとしてないで助け船を出しなさいよ。何一人で黙々とピザ食ってんのよ」
顔中に汗を浮かべる甲塚がさっそく噛みついてきた。
「案外パーティーって愉快なんだ! とかなんとか言ってたからさ。邪魔しちゃ悪いと思って静観していたんだよ」
「あんた、最近私を舐めてるんじゃないの? 今一度言っておくけど、あんたと私には明確な上下関係があるのよ。秘密がバラされても言いわけ?」
「それより、大丈夫か?」
「何がよ」
「唇――というか、口紅。なんか、輪郭がぼやけてきているような……」
「あっあっ、やだっ」
甲塚は慌てて口元を手で覆った。
そうなのだ。汗なのかピザやらの油なのか、舌で舐めたからなのかは知らないが、紅が若干擦れたように下に流れていたんだ。こんなんだから一々お化粧直しだとかの儀式が必要なんだろうか。女性は大変だ。
足早に会場を出て行く甲塚に付いていくと、通用口を通り抜けて、三角コーンの仕切りも通り抜けて一階廊下のど真ん中で立ち止まった。流石に通行止めの向こう側に人が来るのは想定していないんだろう、ここらは明かりも灯っておらず、辛うじて校門の辺りの照明が影を浮かせるだけだ。
甲塚は、暗い窓に顔を映して必死にはみ出た口紅を擦り落としている。紙ナプキンで落ちるのかは知らないけど。
「化粧直しって、普通トイレの鏡とかでやるんじゃないの?」
「あのねー。今頃体育館トイレも一階ホールのトイレも、同じこと考えてる女子が列を作ってるわよ! ああ、脂っこいもの食べるんじゃなかった……。というか、何で付いてきてるのよっ」
「いや、どんなもんかなと思って。ナプキンで落ちるのか?」
「……」
甲塚はじれったそうに縦に擦っている……。
案の定、悪化した。
もう、ちょっとはみ出ているどころではない。口の端をぶん殴られたボクサーみたいな顔になっている。
これはあんまりだ。
「お、落ちない。どうしよう。もう帰る……?」
甲塚が弱り切った声を出すので、彼女の手からナプキンを取り上げた。
「――しょうがないな。ちょっと貸してみろよ」
「え?」
ぽかんとしている甲塚の顎を持ち上げる。暗い窓で作業するくらいなら、俺が肉眼で落とした方が絶対良い筈だし。
「え、ちょ、ちょ、ちょ」
慌てふためいた甲塚が唇をパクパクと動かすので、早速作業困難になってしまった。
「おいコラ。喋るなよ。唇が動くだろうが」
すると、黙りはしたが今度は唇をギュッと噛みしめてしまう。
「……お前、ふざけてんのか?」
「どうしろっての!?」
「普通の顔をしていれば良いんだよ。……あのさ。これでも俺は絵を描いている人間なんだぞ? 手先は器用だから、ちょっとくらい信じてくれない?」
「し、んじてる……」
そう呟いて、すっと目を閉じる。
開く。
「あ、間違った。信じる」
「うん。別に目は閉じなくて良いぞ」
「……」
ようやく、甲塚が平静な顔付きになる。目線は窓の向こうに飛ばしていて、だからか黒目が光に潤んでいるように見える。
俺はナプキンの白い部分を二度折って角を立たせると、始めに唇の輪郭をなぞり始めた。
「あー……。これ、油があれば良いんだけどな」
「クレンジングオイルなんて持ってないわよ」
「喋るなって。リアクションはアイコンタクトで十分だから」
甲塚はさっそく目玉をくるりと上に向けて呆れた様子を見せた。
あまり強く擦るとそれはそれで赤くなってしまいそうなので、優しく、できるだけナプキンの白い部分を肌に当てることを繰り返す。すると、なんとか肌色の部分がくっきりと浮き出てきた。
「……やっと落ちてきた。だけど多分、これは最悪のやり方なんだろうな。肌は傷つくし、時間は掛かるし」
甲塚の目がパチリと瞬く。構わないからやれ、ってとこだろう。
しばらく作業を続けていると、不思議な錯覚が起こった。今目の前にしているのは紛れも無い現実の甲塚なんだが、いつかの夜に俺が描いた空想上の甲塚が、俺の想像を超えて目の前に現れ始めたのだ。
それはきっと、俺たちが暗がりに立っていたからなんだろう。ここではどんな暗色も黒に見えて、どんな明色も白に見える。次第に俺は、自分が描いた甲塚の顔に優しく消しゴムをかけているような感触を掴んできた。
そんな時に、目の前の甲塚の黒目が俺に定まったのを見るとビックリして手が止まる。数秒無表情で俺を見つめたかと思うと、また視線が窓に流れる。俺は作業を再開する……。
「お前、美取に似てるよ」
甲塚が二度瞬いた。
「顔とかじゃなくて、雰囲気がさ……。今日は散々思い知った。美取は、何となく他人を放っておけない気にさせるんだ。それは単純に異性にモテるとかそういう話じゃなくて、例えば――見知らぬ人に、道を訊くならあの人がいいな、とか、ついでにあの人に飲み物でも買ってやろうかな、とか、そういう些細な引力で……なんというかな。別に好かれなくても、自分のためにならなくても、そうさせられるというか」
甲塚が斜め下を向いた。
「不思議なことにショウタロウにはそういうの感じないんだよな。多分こういうのって生まれつきのもんなんだよ。だから、お前が周りの優しさに唾を吐いていることが問題なんだけど――それさえどうにかすれば、きっと美取みたいに――」
甲塚が目を閉じる。
「世界は優しいものだと定義しようか。今までの悪い出来事は、実は人生におけるイレギュラーでしかない。俺たちの周りには、俺たちが知覚出来ない優しさみたいな妖精が沢山浮かんでいるんだ。ただし、世の中には妖精が見える人間がいるだろうし、妖精を憎む人間もいるだろうし、妖精を利用する人間もいる。――でもな、甲塚。妖精に好かれる人間ってのは、そうはいないんだぜ」
甲塚が俺を見た。
「それでもお前は、他人の秘密が必要だと思うのか」
「私、サンタクロース信じてないのよ」
甲塚が急に喋り出したのでビックリした。だが、顔に伸びていた口紅は粗方落ちたようだ。
「サンタさんの話なら、俺は小さい頃から正体を知っていたよ。……親に面と向かって言われてさ。郁は長いこと信じていたらしいけどな」
「あ、そう。私は信じていなかった。正体とかじゃなくて、偽モンだと思ってた」
「偽モン?」
「だって、サンタクロースは良い子供のところにくるでしょ」
「うん」
「私のところに来る筈無いじゃん」
「……口紅、大分薄くなったけど塗り直すか? 持ってる?」
甲塚はポケットから高級感のある筒を出して見せた。
「これ、お祖母ちゃんがクリスマスプレゼントにってくれた結構高いヤツ。失敗したら勿体ないのよ」
「ああ。ふーん」
「あんたが塗りなさいよ」
「……」
俺は、高そうな口紅を持って再び甲塚の顎を持ち上げる。先が丁度よく尖った口紅は、まるで絵筆のように唇に控えめな色を落としてくれる。多分、これから一生口紅を引くことなんて無いだろうから結構新鮮な描き味ではあった。
これから甲塚は、一人で生きていかなければならない可能性が高い。
いつか彼女の前に、自分を変えようと思うほどの人間が現れたその時、今日より上手に口紅を引くことは出来るのだろうか。
「……ん? 原罪って何だっけ……原罪って……」
甲塚はふっと目線を窓に流した。
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