第161話 土曜朝のダンス練習

 土曜の朝は、家のインターホンで起こされた。一度しか鳴っていないということは、訪問者は既に玄関前にいるということ。特に俺にはアポイントもないし、母さんが荷物でも注文したんだろう。


 ……で、居間の方から物音が聞こえないということは、母さんは今出払ってるんだな。


 時計を見やると、今は午前十時二十五分。

 

 仕方が無い。寝癖頭のまま慌てて玄関まで行くと、二度目のインターホンが響いたので思わず立ち止まる。いつもの宅配のおじさんならこんなことはしない筈だ。


 ということは、今俺の家の玄関前には朝からアポイントも無しに訪問して、その割にこちらの都合も考えずインターホンを連打するような奴が立っているということだ。……思い当たるのは一人しかいない。


 甲塚。


 ……ん? 今日のパーティーは午後の五時半開始だったよな? 朝の十時から俺の家に来るんじゃ、いくら何でも準備が早すぎるのではないだろうか。


「メリークリスマス!!」


「うおっ!? おお……」


 ところが、扉を開いた先に立っていたのは郁なのだった。


 ……いや、「郁なのだった」なんて簡素な言葉では全然説明が足りない。


 目玉がギンギンに血走って、髪の毛が所々ピンと跳ねている、郁だ。……まだパーティーの準備はしていないらしく、特別お洒落をしているわけでもない。普通のスカートと、普通のジャンパーに普通のロングシャツだ。


「何なんだ、朝っぱらから。ていうか、何? その血走った目……」


「せっかくのクリスマスなんだし、集まって遊ぶのが夜からなんて勿体ないと思わない? 甲塚さんは色々準備するだろうにしても、お向かいさんの私達がじっとしている理屈なんて無いよ。戦いはもう始まってるんだから、灯台下暗しとはこのことだよね」


「はあ……?」


 郁は急に俺の腕を掴むと、靴を脱ぎ捨てて上がり込んできてしまった。甲塚では無いが、こう郁に腕を掴まれてしまうと、彼女の足に合わせて後ずさりをするしかないのだ。


 それにしても、郁の様子がおかしい。喋っていることも支離滅裂だし、普段の彼女は朝から俺の家に突撃してくるようなことは勿論しない。


「お、お、お前、急に来たと思ったら何なんだ?」


「あははっ。前から思ってたけど、蓮って非力だよね。私がちょっと本気出したら手も足も出ないんだから。ところで、蓮はダンスの練習した? 私は滅茶苦茶したよ~。昨日もyoutubeで、ダンスのステップの動画見てさ」


「なんかテンションおかしくね……?」


 郁に押し出されるまま居間まで後ずさりをすると、郁が俺の手を取り、練習したというステップを踏み始める。


「じゃあ、今のうちに私達で合同練習でもしようか!」そう言うなり、首を仰け反らせて、社交ダンスの姿勢を取った。「はい。ワン、ツー、スリー、ワン、ツー……」

 

 ……実は、社交ダンスについちゃ俺も自主練をしている。それも、結構真面目に。昨日もパソコンでお手本を見ながら、必死こいて足を動かしていたんだ。


 そういうわけで、いきなり郁にダンスを挑まれても手足が出ないわけではない。


 とは言え、郁の社交ダンスのスキルはにわか仕込みのものとは思えないものだった。傍から見れば受け身に見えるだろうステップの踏み方なのに、強靱な体幹で殆ど俺の体をコントロールしてくる。こっちまでダンスが上手くなったと錯覚してしまう程だ。


 そして、俺自身とても驚いたのだが、誰かとダンスをするというのは、とても楽しいものなのだった。お互いがお互いの遠心力を助けにステップを踏み、息が合ってさえいれば身体感覚が相手の足先まで拡張する……。男女がダンスをする文化が存在する意味がよく分かった。これは、共同作業なんだ。


「ワン、ツー、……ああ、もうじれったい。アレクサ! タンゴの音楽流して!」


 郁は目を瞑ると、スピーカーから流れるタンゴミュージックに合わせて縦にテンポを取り始めた。それから、さっきの口拍子よりは少し早めのリズムで俺たちは居間を回りだす。


「おいっ。人ん家のアレクサに変な命令するなよ。……さてはお前、徹夜したな?」


 郁はのけぞった姿勢のまま半目を開いた。


「おっどろいたあ。よく分かったね?」


「こんなに変なテンションだと流石に分かる。今日の事が楽しみで、眠れなかったのか?」

 

「ふふん」


 鼻で笑うだけで、肯定も否定もしない。


「……まるで子供じゃないか。一旦家に帰って眠った方が良い。夜まで保たないぞ。というか、俺も早くシャワー浴びたいんだけど」


 ステップを踏む足を止めると、不思議なことに郁も同じタイミングで足を止めた。


「ちょっと待って。私が蓮の家に来るの久しぶりだもん。どうせなら蓮の部屋見て帰りたい」


 言われて思い返せば、郁が俺の家に来るのなんて一体何年振りになるのだろう?


 それこそ子供の頃はお互いの家に泊まったりしたけど、疎遠になってからはパタリとそういう習慣はなくなってしまったんだ。……となると、六年? いや、七、八年ぶりか。


「はあ……。別に良いけど、大して面白いものはないよ。郁の部屋みたいに趣味全開じゃないし」


「とか言って、蓮のことだからエッチな本とかあるんでしょ~!」


 郁は機嫌良さそうにそう言うと、直前まで俺が寝ていた部屋へと走り出す。


 だからといって、特に慌てふためく俺じゃない。意外に思われるかも知れないが、俺の自室にはあからさまなすけべ本は一冊も無いのだ。……まあ、そういうものは大体インターネットで見ているからなんだけど。


「……」


 ……いや、ある!!


 机の上のスケッチブックには、俺が描いたあれやこれや――特に、甲塚の体を描き残したままなんだった。慌てて郁の後を追うと、彼女は俺のスケッチブックなんかには興味を示していない。さっきまで俺が寝ていたベッドで横になって、漫画を読んでいるところだった。


「この漫画、まだ買い集めてたんだ。私、ずっとこの続き気になってたんだ」


「……気になるんなら、持って行けよ。貸してやるから」


 喋りながら、さりげなくスケッチブックを本棚の奥に突っ込む。これで大丈夫。


「あ、ほんと? でも、いいや。読むときは蓮の部屋来て読めば良いし。お向かいさんで漫画を貸し借りするのって馬鹿馬鹿しくない?」


「女子高生が、漫画を読むために一々男子の部屋に来る方が馬鹿馬鹿しいだろ」


「あははははっ。やっぱ、この漫画ウケる。くっくっくっく……」


 こめかみが引きつる。いつにも増して奇妙なテンションの郁である。


「……ちょっと、シャワー浴びてくるわ」


「はーい」


 ――郁の突撃を受けて延び延びになっていた朝のシャワーを終えると、幾分か頭がすっきりしてきた。


 今は、午前十一時。クリスマスパーティーの開催時刻は十七時三十分で、美取とは十七時に待ち合わせている。つまり、馬鹿げたテンションの郁の相手をするには十分な時間があるわけだ。あるわけなんだけど――


 早いとこ、家に帰すか。夜まではゆっくりしたいし。


「おい、郁。さっさと家に帰って……!?」


 部屋の扉を開くと、さっきまで寝転がっていた郁が、布団に入って本格的に眠るモードに入っているので驚いた。一体何を考えているんだ、こいつは。


 布団の上から肩を揺さぶると、赤らめた顔をこちらに転がしてくる。


「おい、郁。寝るんなら自分のベッドで寝ろよ」


 布団を引っぺがそうとすると、郁はますます布団に被さって拒否してくるし。


「私、今日臼井君に告白されるらしいんだけど」


「し、知ってるよ」


「蓮は、こうは思わないの? 私が、臼井君の告白をその場でオーケーしちゃって、明日を待たずに付き合い始めちゃうかもって」


「……」


 俺は言うべきことも無いまま、ベッドの縁に腰を降ろした。


 ショウタロウに時間とチャンスを与えたのは、他でもないこの俺だ。今更心配や恨み言を言い出したってどうにもならない。


「言っておくけど、結構ありうるよ、それ。私ってほら、その場の雰囲気に流されがちだし」


「……そうか?」


 郁が、布団を少しめくり挙げる。


 ちらりと布団の中に見えた腕に、驚いた。


 肩まで素肌が出ていたのだ。ということは、シャツを着ていない。ということは……。


「今なら、流されるんだけど――蓮が、布団に入ってきたら――来るなら――少しだけ触っても良いんだけど――」


「やめろ」


 郁の顔が、壁の方に転がる。


「お前、本当にちょっと寝た方が良いよ。流石に、変だって。こんなのはさ」


「うん、そうだね……なんか、私変かも。今晩は楽しい夜の筈なのに、なんか、色んな人が不幸になる気がして眠れなくて」


「それは気のせいだろ」ベッドから立ち上がりながら言う。「俺、ちょっと部屋出るから……そのうちに、家に帰る仕度しろよ」


「うん。そうする。ありがとね」


 それから十分ほど居間で時間を潰したが、郁はいつまで経っても俺の部屋から出てこなかった。てっきり、服を着た彼女がさっさと出てくる流れだと思ったのに……。


 仕方なく部屋の扉をノックしても反応が無い。声を掛けても、返事はなかった。


 どういうことだ? 郁は何を考えている。


 慎重を期して扉を開き、俺は驚愕することになる。


 郁は俺のベッドで鼾をかいて熟睡していたのだ。あまりの睡眠不足で、力尽きたのか。これじゃあ布団の中で着替えが終わっているのかも分からないし、無理矢理引っ張り出すわけにも……。


 え? こいつ、マジか?

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