第156話 力業の対抗策
甲塚を彼女の家に送り届けて、俺は呆然としたまま帰宅の途を辿ったらしい。気が付けば目の前には毎朝郁と顔を合わせる路上があって、俺はエントランスのゲート前の敷石に座っていたのだ。
今晩見聞きした甲塚もとい旧新藤一家のことは、衝撃ばかりである。
……それだけじゃない。
俺は片手で顔を擦って、そのまま目を瞑って項垂れた。
――甲塚は、どうやら高校を辞めるつもりでいる。
今晩はあまりの衝撃で碌な口が効けなかったが、改めて考えても俺が彼女に対して言えることはないように思える。
なんと言っても、甲塚の方からすれば学校を辞めることなんて勝手に入学を決められた時からずっと考えていたことなんだ。やるべきこと――ショウタロウの秘密を利用し、桜庭の学園生活をぐちゃぐちゃに破壊してしまえば、彼女が高校に在籍している意味は無くなる、と。それで将来設計が出来ているというのであれば、何の疑問も持たず学校を卒業するつもりでいた俺に意見する資格は無い。
「……逞しすぎるって。何だよ、それ」
俺が彼女の将来にあれこれ言う資格は無い。無いのだが、これだけは言えば良かった。
お前が「未練は無い」と切り捨てようとしているものの中には、俺や郁が含まれているんだ――それを理解しているのか?
俺の部屋の机の上には、一冊のスケッチブックが今も開かれたまま置かれている。そのページを遡ると、何人もの甲塚(の体)が、ある夜の情熱をそのまま閉じ込めたように描き付けられているのである。
俺にとっての甲塚という人間を説明するのは難しいことなのだが、俺の行動で語るにはそれが全てで、それだけで十分なのだ。
俺には彼女を一心不乱に描いた夜があった。
……そういうことだ。
そのときスマートフォンが震えた。暗がりで画面を点灯すると、郁からメッセージが届いていることを告げている。
――窓見て!
文字で指示された通り宮島家の窓を眺めると、郁の部屋のカーテンが全開になっていて、パジャマ姿の彼女がこちらに手を振っているじゃないか!
……俺は何を思ったのか、慌ててエントランスの中に入ってしまった。マンションの階段に一瞬座り込んで、あっという間に冷静になる。
エントランス前で一人座り込んでいるところなんて、情けない姿を見られた。屈辱的とまでは思わないが、諸々の経緯を考えればこんなところは郁に見て欲しくなかったんだ。
とはいえ、いきなり逃げるのは性急すぎだよな。
渋々エントランスの自動扉を外へ抜けると、向かいの窓では慌てた郁が猛烈な勢いでスマホの画面をツンツン突いていた。間も無く、
――何で逃げるの!
というメッセージが飛んでくると同時に、現実の郁が俺を見つけて「あっ!」と大口を開いた。それから、バタバタと窓の向こうで騒がしくしたと思ったら突然ドカンと玄関の扉が開いて、
「何で逃げちゃうのー!?」と、この間のようなパジャマ、カーディガン、サンダルというセットの郁が駆け寄ってくる。
「お、怒るなよ。ン、ン……」急に喉が粘ついたんで、俺は咳払いをした。「いきなり郁が見えたもんだから、驚いたんだよ。ちょっと考えてみて欲しいんだけど、向かいの家の窓から髪の長い女がこっちを眺めていたんだぞ?……ホラーだよ!」
「誰がお化けなのっ。言っとくけど、私のパジャマ姿を拝めるなんて結構レアなんだから。少しは有り難く思ってよね」
郁は甲塚が言うようなことを言うと、顔を赤くして勝手に照れ始めた。
……言われて見ればそうかなあ、という気がしてくる。一応向かいの家に住んでいる宮島さんは学校の男子にしょっちゅう告白されるような、カリスマなわけだし。
俺は多分、非常に曖昧な表情を浮かべていたんだろう。目の前の郁の顔が段々不安に陰り、「あ、あれ? 蓮って、たしかエッチなんだよね?」と、とんでもないことを言い出したので、俺は凄い速さで目を瞬いてしまった。
「……お前は、俺を、何だと思ってるんだ!?」
「何って、エッチな幼馴染みでしょ? 女の子の裸を見て喜ぶんなら、私のパジャマを見ても興奮して鼻血出すと思ったんだけどなあ。……なんで、そんなにリアクション薄いわけ?」
「お前な。すけべな幼馴染みなんて言うんならお前だってそうだろうが。エロゲやってんの知ってんだぞこっちは」
「いやっだあ!」
「ギッ――」
突然俺の肩に猛烈な衝撃が加わって、上半身の旋回と共に肺の底から空気が抜ける。思わず半歩下がって郁を見ると、パジャマの袖で口元を隠した彼女が、笑いながらもう片方の腕をこちらに突き出していたところだ。
どうやら、俺は、郁に肩をド突かれたらしい。……脱臼するかと思った。
「あはははっ。幾らエロゲやっているからって、私はエッチじゃないよー。何度も言ってるけど、エロゲっていうのは聞いてイメージするほどエッチなゲームばかりでもなくて、むしろシナリオのエッセンスとして仕方なくエッチなシーンを入れる部分もあって」
郁の中の静止機構が壊れたのか、いきなり物凄い速さでくっちゃべり始める。片手でギュッと郁の両頬を潰すと、唇を突き出した不細工な顔でようやく止まってくれた。
「エッチエッチうるさい。女の子が夜中に、そういう言葉を連発するなっ」
「う、ぶふぅ」
「そもそも、俺がすけべな絵を描いているからと言って一日中発情しているわけじゃないのはお前と同じ。むしろ現実の女の肌なんて見たって……困る」
「う~!」
俺の中で郁の顔が暴れ出すと、敢えなく郁の顔が掌を滑って抜けてしまう。
その拍子に指先が彼女の唇にするりと触れて、少し濡れた……。彼女の方もその感触があったんだろう。俺の手を掴むと、パジャマの裾で唾液を拭い取って、ついでに睨んでくる。
「蓮の趣味、分かんないよ。しょっちゅう鼻血出してる癖に」
俺は、これから何度鼻血と性癖は別だってことを説明すれば良いのだろう?……もう、いいか。面倒臭い。
「そんな格好でうろついていると風邪引くぞ。とっとと帰れ」
……と、郁の細い肩を掴んで回れ右させようとしても微動だにしないのは、まあ予想の範囲内か。予想してなかったけど。
「ちょっと待ってよ。蓮が何で落ち込んでいたのかまだ聞いてない」
「……落ち込んでなんかいないぞ」
「嘘だあ。落ち込んでたよ。私が何年蓮の幼馴染みやってると思ってるの?」
「それは知らんが、直近に大きなブランクがあったよな。……ほんの半年前くらいまで」
「冷戦時代のことを言っているんなら、こちらの認識は違いますけどね」
急に真面目腐って否定してくるな、こいつ。
「……?」
「私は蓮のこと、ずっと見てたから。そういう時間は、空白期間とは言わないでしょ」
明け透けな郁の告白に、俺は思わず頭を抱えて座り込んだ。多分、今俺の顔は紅くなっている。
「ねえ、何かあったの? 今日って、甲塚さんとご飯行くって言ってた日でしょ」
「……甲塚、高校を辞めるつもりらしい」
「――嘘っ!?」
今さっき知った甲塚の個人的な情報を漏らすのはどうかと逡巡したが、こればかりは俺一人で抱えきれる重さではない。……郁も人間観察部の一員だし、この問題はいずれかち合うことになるしな。
「甲塚さんが、高校辞める……!? いつ!?」
「決まってるだろ。やるべきことをやったら、だよ。……ショウタロウの秘密を掴んで、存分に悪さをしてから本人は退学するつもりでいるらしいんだから。くそっ。何なんだよ……! 甲塚の奴は。他人の迷惑とか、心の底から度外視しているらしいな」
「臼井君の秘密って……本当にそんなのあるのかな? そこら辺、甲塚さんは何て言ってるの?」
その辺りの話は、一応郁には伏せていたんだが……まあ、核心的な部分を避ければ問題ないだろう。この頃はあの話は大丈夫、この話は大丈夫じゃ無いと自分の中で切り分けることが多くて、参る。
「どうも、ぼちぼち検討は付いているって段階らしい。教えてはくれないけどな。逆に郁はショウタロウの秘密に心当たり無いのか? 今日だってデートしてきたんだろ」
「無い無い!」郁は余ったパジャマの袖をパタパタ振って否定する。「今日も上野の動物園行って、ご飯食べて帰ってきただけだもん。結構色んな話はしたと思うけど、それっぽい話題は無いかなあ」
「となると、真相は甲塚とショウタロウ本人が知るのみってことか?……これじゃ、火の付いた爆弾を二人仲良く抱えているようなもんだな」
「その喩え、蓮は甲塚さんに学校を辞めて欲しくないってこと?」
「……」
あまり甲塚の肩を持ったんじゃ郁が傷つくのではないかとは思ったが、俺は沈み込むように頷いてしまった。これは仕方が無いことだ。
だって、甲塚のいない学校生活なんて寂しいではないか。桜庭高校の人間観察部には、悪の親玉みたいな彼女がいなければ、平和すぎて俺まで学校を辞めたくなるんだ。
……それは、困るだろう。
「私も同じだよ、蓮」郁は意外にも、俺の手を取って力強く頷いてくれた。「私だって、学校から甲塚さんがいなくなるなんて嫌だよ。友達だもん」
「……そうは言っても、止めようがないよな」
「何言ってんの? あるじゃない!」郁が俺の手を掴んだまま立ち上がるので、半ば強制的に俺も立って彼女と向かい合う。「甲塚さんは臼井君の秘密で悪さをしたら学校を辞めるんでしょ? だったら、先に私達が臼井君の秘密を暴いて、甲塚さんに知られるのを防げば良いんだよ!」
「……あ!」
そうか……。
今の今まで、俺はどちらかと言えば甲塚側のスタンスでいたから気付かなかった。ここに来て、郁の「甲塚の企みを阻止する」という目標がイコール甲塚の退学を阻止する手立てになるんだ。
「で、でも、ショウタロウの秘密なんて甲塚より先に掴めるとも思えないんだけど。人間観察部の部長が本気を出して、ようやく掴みかけているってところなんだぞ?」
「そんなの、直接聞けば良いんじゃん。何も私達は臼井君の秘密で悪さをしようって考えているわけじゃない。むしろ守ろうとしているんだから!」
「そう、簡単には言うけどなあ。……」
あれ? 郁の言っていることは力業には違いないのだが、もしかして正論なのではないか。それも、郁とショウタロウはここ一ヶ月の間に結構仲を深めている。郁か俺だけで聞き出すには難しいにしても、二人ならあるいは……。
「う、臼井に直接聞くとするなら、何時が良いんだろう。なるべく早いほうが良いんだけど……」
「それなら、丁度良いタイミングがあるよ」郁は、掴んだ腕に力を込めて呟く。「必ずショウタロウ君と二人きりになるタイミングが……来週の、土曜日に、ある」
「土曜日――」
来週の土曜日と言えば、年内最後の授業を金曜に終えた翌日で、生徒会主催のパーティーが体育館で行われると聞いたことがある。
それは、クリスマスなのだった。
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