第155話 桜庭高校入学の真実
新藤理事長の家を出たのは夜の八時を回った頃だった。理事長はしきりと甲塚に、
「あらキコちゃん帰っちゃうの? もうお布団も敷いているのに」と、今日は泊まっていくよう勧めていたが、「私、今日は帰ってやることがあるから」と、甲塚の方も断固とした姿勢でそれを断る。
孫に拒否される新藤理事長はただのお祖母ちゃんって感じで、第三者の立場で彼女達のやり取りを見ているとなんだか可哀想に見えた。……しかし、忘れてはいけない。あの老人は我らが桜庭高校の理事長なのである。
それにしても、甲塚の家庭事情にあれほどの出来事があったとは。
俺は、夜道を共に歩く甲塚の横顔をちらりと眺めて途方に暮れる。
――しかも、当の甲塚はそんな事情について詳しくは知らされていないらしい。父親のクラスで自殺者が出たことから、彼が家庭や学校を捨てて消えたことまで。……考えてみれば当然のことか。一家族の娘に向かって、お前は父親に捨てられたんだと言う人間はいない。
甲塚が息をする世界というのは、そういった周囲の一歩距離を置くような配慮の内側なのである。
夜道を真っ直ぐ高校の方に歩いていたら、甲塚が突然十字路を右に曲がって行こうとした。慌てて彼女の背中に追い縋ると、迷惑そうに振り向く。
「何よ。あんたの帰り道は向こうでしょ」
「家まで送っていく。それくらいは、するって」
「私の家、ここから近いのよ。送り迎えなんていらない」
俺は構わず彼女の隣を歩き出した。すると、甲塚はわざと足を速めてお互い競歩をしているような感じになってしまう。
「こ、ここでお前を一人で帰らせたとして、万が一誘拐なんかされたら大変だ。俺がお前のお祖母ちゃんに殺されてしまう」
「くくく。馬鹿じゃない」甲塚は嘲笑的に噴き出した。「ここは高級住宅街よ。いったい監視カメラが幾つ動いていると思ってるの。それに、治安だって」
「それを言うなら、家の中で知らない女に誘拐された俺は何なんだ?」
「……それを引き合いに出すのは、ずるい」
「何が?」
甲塚はつんと唇を尖らせながらも、何故か歩くペースを俺に合わせてくれた。俺の前で先導するのでもなく、後ろで尾行をするのでもなく、こうして横並びに歩くのは珍しいことだ。
「そういえば、あんたお祖母ちゃんと何を話していたの。私が洗い物している間、なにかこそこそしていたようだけど」
俺はちょっと考えてから、「甲塚がどんな幼少時代を送っていたのか、とか?」と答えた。ここは変に話をはぐらかすより、真実の一部でも伝えた方が無難な気がする。
怒るかな、と思ったが、甲塚は意外にも照れくさそうに鼻を掻きながら俺を見ている。続きを促しているらしい。
「驚いたよ。結構今とは印象が違うんだな……」
「あんたがどういう話を聞いたのか知らないけど、そりゃ、そうでしょう。幾ら私だって、家族に見せる顔と、普段の顔は全然違うのよ――どんな話を聞いたのよ、一体」
「そうだな……。なんでも、他人を寄せ付けない鉄仮面で?」
「同年代の連中なんて馬鹿しかいないし」
「誰かに話しかけられても無視して」
「周りの人間なんて、話成立しないし」
「休みの日にふらっと出掛けては、どこに行って何をしていたのかも言わない、と……」
「……それは、渋谷で人を観察していた、なんてお祖母ちゃんに説明のしようがないでしょ。何よ。どこが印象違うわけ? 殆ど今の私と同じじゃない」
「いやいや。そう言われると確かに今と同じな気がするけど、実際お前は俺のことを……あんまり、無視したりしていないし。鉄仮面と言うほど無表情でも無いだろ? 表情豊かとは言わないけどさ」
甲塚は自分の前髪を弄りながら、咳払いをする。
「昔のことでしょ。人は変わるわ」
そう呟く彼女の指先に絡んだ薄色の髪色を見て、もしかしたら、この髪色に染めたのも高校に入る直前のことなんだろうかと思う。黒髪時代の甲塚というのは中々想像するのが難しいが、案外そっちの方が似合っているのではないだろうか。
甲塚の言うとおりだ。
人というのは、要因がなんであれ変わってしまう生き物である。それが思春期なら尚更のことで……。ただ、変わる原因が良性のものであればそれに超したこと無い。
「甲塚」
「なによ」
「お前、今も高校嫌いか?」
「なによ、急に」
「どうなんだ。言えよ」
気のせいか、甲塚の歩くペースが少し早まった。俺の歩く速さが遅くなったのかも知れない。
「嫌いよ。大っ嫌い」甲塚は暗い夜空を眺める。ここらの空は明るくて、星の一つも瞬いちゃいない。「この夜にでも宙から隕石が降ってきて、学校を木っ端微塵にしてくれないかと思ってる。ついでに……そうだ! あの飯島美取が通うヤマガク、頭でっかちのお受験軍団が通ってるヤマコウもついでに潰してくれるとありがたいわね。いくら臼井の秘密を暴いたところで、流石に他校の内部崩壊までは望めないし」
俺は呆れて溜息を吐いてしまった。
「お前の欲の深さと暗さには、ほとほと感心するよ。でも、お前が壊そう壊そうって言っているのは、突き詰めればお前のお祖母ちゃんの高校でもあるわけだろ? お祖母ちゃんに迷惑が掛かっても良いわけ?」
「あんたは、本当に想像力が無いわね」
「な、なんだと?」
「学校は、死なないのよ。幾ら内部が崩壊したところで、私の妄想みたいに木っ端微塵に校舎が壊れることはないの。内部で何があったって、所詮荒れても三年程度が精々ってところでしょ。理事長なんてのは所詮現場の人ってわけでもないから、大して不幸に見舞われるわけでもないだろうし、炎上して退任するってことになっても私からすれば万々歳だわ。あの人結構お金持ってるし、仕事なんてしなくても悠々自適な生活は望めるもの。……大体、何で私の家族はどいつもこいつも学校関係者なわけ!? もう嫌っ!!」
甲塚の感情が高まったのか途中から語調が強まって、とうとう叫びだしてしまった。
「そんなの知らねえよっ。なんなんだ、全く」
しかし、言われて見れば甲塚の父も母も教師をやっていたわけだし、お祖母ちゃんに至っては教師のち理事長なんて鉄板の人生を辿っているわけである。そんな家庭で甲塚というじゃじゃ馬が誕生してしまったのは――
なんというか、運命的なものを感じるな。
「なんで急にそんなことを聞いてきたの」
「ん?」
「あんただって、本心は私と同じようなものでしょ。スクールカーストっていうものを毛嫌いしていて、一歩距離を引いているうちにいつの間にやら底辺に追いやられて。私なんかに目を付けられているんだからね」
「う、ん……」
「まさか、今更学校が大好きだなんて言い出すんじゃないでしょうね。最近はやたらと注目を集めているようだけど、それも結局、連中があんたという下の存在を面白がっているだけなんだから」
「まさか」俺は息を吐き出して頭を振った。「学校なんて、嫌いだよ。何で皆がああもありがたがるのか、さっぱり分からないね。郁が人間関係を上手く回すのに努力していたり、美取が気張って風紀委員しているのも分からないし、東海道先生が教師なんてものに熱を上げているのも分からない。……ただ、な」
「ただ?」
甲塚は不吉な感情を忍ばせて俺に先を促してくる。
「……世の中には、学校生活を自分の基盤にしている人間が存在する、ということは理解できるんだよな。彼女たちの考えは俺には分からないけど、その考えを大事にしたいとは思うよ。――そうだな。俺は、そういう人たちのことが好きなんだと、最近自覚した」
「……何よ、それ……」電柱の明かりの下で、甲塚が振り向いた。上着にポケットをツッコんだまま、眉間に皺を寄せて俺を睨んでいる。「つまり、佐竹は私の計画が気に入らなくなったってわけ? 最近宮島と上手くいってるからって」
「郁のことは関係無い。むしろ俺が気にしているのはお前のことだ」
「はあ……?」
「何だかんだ言ってるけどさ、お前の周りの人間は、多分お前が思っているよりお前に優しいんだよ。……俺から見たら甲塚が一人拗ねていて、周りの優しさを全部撥ね除けているように見える。そんなに桜庭高校が嫌いなのか? もう少し、よく考えてみても良いんじゃないか」
甲塚はタートルネックセータの襟を摘まんで、パタパタと空気を体の中に入れた。
「……佐竹は、一つ大きな勘違いをしている」
「何を」
「私はそもそも、桜庭に通うべき人間じゃない」
「無理矢理入学させられたってことか? それは、想像つくけど」
「多分、事実はあんたの想像の上を言っているわ。そもそも私は普通高校に進学するつもりなんて無かった。高校なんて通わなくとも、認定資格を取って大学に行ければと……そう思っていたのに」甲塚は唇を舐めて、続ける。「驚くわよ。私はね、桜庭高校をそもそも受験すらしていないの。お祖母ちゃんが文字通り手を回して、推薦枠で殆ど勝手に入れられたの。分かる? 正真正銘、裏口入学なのよ」
「うらっ……!? マジか!?」
「それも強制的にね。唖然とするでしょ?」
俺は、口を半開きにしたままこっくりと頷いた。裏口入学なんてものがこの世の中に実在していたとは。金や縁故でそういうことが出来るというのは、噂には聞いたことがあるが……。
世の中、裏の事情っていうのはあるもんだな。
「そういうわけで、私は高校生活なんてものに一切未練は無いし、そういうものが必要な人生設計はしていないの。……早い話、高校を卒業するつもりは私には無い。やるべきことをやって、辞めてやるんだから」
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昨日は更新できず失礼しました。
今日はもう一本エピソードを投下します。
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