第153話 血よりも濃い友情

 鍋の具が無くなってきた辺りで、俺と甲塚の箸の進みが完全に止まった。皿にはまだ海鮮が残っているが、俺たち二人の食事量なんて所詮こんなもんである。郁さえいれば、この卓の料理を平らげているところなんだが。


 お開きの雰囲気を察したのか、シンドウ理事長が空いた食器を下げ始めた。すると甲塚が、「お祖母ちゃん、片付けは私がやる」と立ち上がって言う。


「あらそう? じゃあお願いしようかしら」


 甲塚は手際良く自分の食器をタワーにしてしまうと、俺の皿まで持っていこうとするので慌てた。


「ちょ、ちょっと」


「もう食べないんでしょ? 洗うから寄越しなさいよ」


「片付けくらいなら俺も手伝うよ。俺が使った食器なんて、洗うの嫌だろ」


「馬鹿ね。そんなの一々気にしない」


 甲塚は本当に気にせず俺の食器をガチャガチャ重ねると、あっという間に台所での洗い物作業を始めた。シンクを打つ水音の中、総白髪のシンドウ理事長と俺が一対一の状況になってしまう。


 とはいえ、シンドウ理事長の目は台所に立つ甲塚の背中に向いていた。思わず俺も姿勢良く皿を洗っていく彼女の後ろ姿を眺めてしまう。


 ……甲塚に、こんな家庭的な一面があるとは知らなかった。


「あの子、随分表情が柔らかくなったわ。もうすっかり年頃の女の子ねえ」


 シンドウ理事長が、独り言のような感じでそう呟いた。俺は意外な気持ちで頷く。


「……甲塚が笑ってるところなんて、滅多に見たことがありませんけど――そうなんでしょうか?」


 俺からすれば、甲塚の表情なんて眉間の皺の加減だけで百面相が出来てしまうと思うんだが。


「そうよ。何も、笑顔だけが子供らしい表情じゃないのよ? 思いっきり悩んだり、悔しがったり、悲しんだりするのも思春期には必要なの。それに、今日のキコちゃんは楽しそうにしていたわ」


「えっ。そうですかあ?」


「小中の頃のキコちゃんを知らないからそう思うのよ。少し前のあの子だったら、今日みたいに怒ったり、悪戯したりするなんてあり得ないことだわ。心配になるくらい無表情で、誰かに話しかけられても答えることもしない。それで、休みの日はふらっと街の方に出掛けて、何をしていたのか尋ねても教えてくれないの」


「……そう、ですか……」

 

 俺は拍子抜けした気分で頷いた。言っていることが事実であれば、この人は甲塚のことなんて殆ど何も知らないようなものではないか。


 休みの日にふらっと出掛ける甲塚は、渋谷のスクランブル交差点を見物していたんだ。家族ですら、そんな風変わりの趣味について知らないでいる。


 ……でも、俺が知らないこともある。小中時代の甲塚が、そんなに暗い――というか、感情の無い子供だったとは。スクランブル交差点で探偵を尾行した話から、てっきり少し位は感情豊かな部分があったのかと思ったのに。


「そういえば、甲塚から聞きました」ちらりと台所に立つ甲塚を見た。……大丈夫。今は洗い物の音でこっちの会話は聞こえない。「あなたが理事長だって。――シンドウ理事長」


「キコちゃん、言ってなかったの!」


「はい。まあ……」


 シンドウ理事長は驚きながらも恵比寿目を細めた。


「でも、あなたは知っていた」


「……ええ」


「よく分かったわねえ。誰かから聞いたのかしら?」


「う、……噂ですよっ」


 俺は危うく、するりと東海道先生と氷室会長の名前を出すところだった。この婆さんは、ちょっと油断すればこちらを一方的に喋らせてしまうような不思議な聞き方をしてくる。


「変ねえ。噂になるほど甘い箝口令はしていない筈だけど。誰かしら……」ビールをぐびりと飲んで、息を吐く。「まあいいわ。佐竹君なら言いふらしたりはしないでしょう。わざわざ私にそのことを言う、良い子だものね」


「……けど、分からないことがあるんです。どうして甲塚が理事長の孫であることを隠しているんですか?」


「キコちゃんを守るためよ。今時とは思わないけれど、生徒の中には学校関係者が肉親にいるキコちゃんを、疎ましく思う子がいるかもしれないでしょう」


 俺は自分の顔が強ばるのを感じた。


 何がキコちゃんを守るためだ。そんな論理を篩い出すんなら、わざわざ甲塚を桜庭に入学させることも無い。彼女の頭脳ならヤマガクどころかヤマコウに――ややこしいな。美取たちの高校は勿論、大学付属の方の高校に入学するのなんてワケないだろう。


 多分、この人は嘘を吐いている。


 ……いや。言うべきことを、言わないんだ。流石甲塚のお祖母ちゃんだな。


「シンドウ先生のことは、関係ないんですか?」


「私が?」


「あ」この人も元は教師なんだっけ。全く……。「いえ、シンドウ理事長ではなくて、俺が言っているのはシンドウ先生――甲塚の、父さんのことで」


「佐竹君は、キコちゃんと結婚するつもりなのかしら?」


「……」


 俺は、ゆっくり目を瞬いた。


「何ですって?」


「あなたは、将来キコちゃんと結婚して、同じ家に暮らすつもりなのかしら?」


「いえ、別にその予定はありませんが」


「それじゃあ、あなたはキコちゃんとお付き合いをしているの?」


「……その予定も、ありませんが」


「だったら、よその家庭事情に首を突っ込むものじゃ無いわね」


「ちょっと待って下さいよ。何ですかそれ」俺は慌てて言い返した。「俺が甲塚と付き合っていないから……だから、教えてあげないって言いたいんですか?」


「平たく言えばそういうことになるのかしら」


 理事長は何処からともなく棒みたいなのを取り出すと、それを口に挟んで火を付けた。


 煙草だ。


「最近のキコちゃん、部活動に力を入れているみたいだし、良い表情をするようになったでしょう」


「ええ」


「ようやくあの子も子供らしい感情を取り戻してくれた。今更父親のことを思い出させて、昔のように戻って欲しくはないわ」


「子供らしい感情を取り戻した……って、それ、変ですよ」


 口が自動的に動いている。ということは、俺の本心からの言葉が出ているということだ。


「変?」


「理事長が高校一年生のことをどう思っているのか知りませんが、俺からすれば半分大人みたいなものですよ。それを、子供らしい感情を取り戻したって……違うんじゃないですか。甲塚は、子供らしくないまま子供時代を送って、しっかり大人になっちゃって……なろうとしているんじゃないですかね……。もう、甲塚の子供らしい子供時代は、失われてしまったってことなんじゃないですか」


 理事長が細く白い煙を吐く。


「佐竹君は、キコちゃんの何なの?」


「俺は、甲塚の一番の味方ですよ」


「あなた、軽々しくキコちゃんに近づくのはよしなさい……」


「理事長は家族がどうとかっていうのを気にしているようですが、俺には家族であることのありがたみなんてさっぱり分かりませんよ。血のつながりか、婚姻関係があれば人間関係上手く行くと思ってるんですか? じゃあ、甲塚と父親はどうして一緒に暮らしていないんですか。別に恋人でなくたって――俺が甲塚の一番の友人でいたいと思うのが、悪いこととは思いません」


「今の子の価値観って、分からないわね。佐竹君はキコちゃんのことが好きなの?」


 俺は、甲塚がまだ洗い物していることを確認して、ゆっくり頷いた。


 好きか嫌いかで言えば、そりゃ好きに決まっている。じゃなきゃとっくに愛想尽かしているところだ。……甲塚に知られれば、嫌がるだろうけど。


「……逃げ出したのよ」


「はい?」


「あの子の父親はね。教師として、父親として負うべき責任を全て捨てて、逃げ出してしまったの。……家族からも、学校からもね」

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