第150話 ある教諭の失恋

「それは、わたくしのギター? そんなものを持って、何のつもり? 今から作業を始めようとでも言うの。こんな時間に……」


「違いますよ」


 ケースから取り出すと、ギターはストラップが装備されたままになっていた。俺はそれを、突っ立っている先生の肩に掛けてやる。すると、彼女は勿論むんずとネックを掴んだ。


 ギターを抱えたら掴む、というのは、彼女の体に染み込んだ習性なのだ。


 俺が右手の爪で弦を弾いてみると、思いの外綺麗な和音が鳴りだす。無造作に見える掴み方だが、これできちんと弦を抑えているんだろう。その上、このギターは内部が空洞構造になっているから線を繋げなくてもまあまあ音が出るらしい。


「ほら、やっぱり、先生には酒の瓶よりこっちの方が似合うんだ。これ、なんていう名前なんですか?」


 先生はピックも使わずに指で弦をつま弾き始めた。それは初め、親指だけで奏でられるベースラインとして空間に溶け込み始めたのだ。


 多分四分音符の単純な旋律なんだが、非常にリズム感が安定しているからか、それだけで東海道先生の音楽的な世界が広がってくるので凄い。


「……グレッチ。ホワイトファルコン」


「へえ。有名なんですか?」


「世界で一番美しいギターよ」


 先生の奏法に変化が兆した。単純なベースラインに、軽く弦をフレットに叩き付ける撥音のようなものが加わって空間がよりリズミカルに演出される。さらに、人差し指、中指がつま弾くメロディーラインが同時に参加してきて、本格的にネオソウル系の曲調になってきた。


 もう俺には、先生がどういう演奏をしているのかさっぱり分からない。


 ただ、指をあちゃこちゃ動かしている割にメインの旋律は細切れにならなかったり、かと思えばハモりのフレーズが混ぜ込まれたり、魔法のような巧さだということは分かる。それも、先生は殆ど手元の運指だとかに気を取られず、ぎゅっと目を瞑って弾き続けているのだ。

 

 俺はいつの間にかダイニングチェアに座って、すっかり聞き込んでしまっていた。

 

「……思ったんですが」


「なあに」


 先生は目を瞑って弾き続けながら相槌を打つ。うっすらと額に汗が浮かんできている。


「家を出ることを悲観する前に、一度お母さんと腹割って話をしたらどうでしょう。先生が、教師という職業をどれだけ一生懸命やっているのか――ことによっちゃ、バンドのことも」

 

「どうして?」


「どうせ、なにもしないままでも家を出ろって言われているんだ。話をした上で、それでも頑固なようだったらしょうがない。この家を引き払って、もう少し小さいお家に住んでみたら良いじゃないですか」


「簡単におっしゃいますのね」


「実際簡単なことでしょう。言わなきゃ分からないことは、言わなきゃ伝わらないんですから……」

 

 それは、人間観察部という碌でもない部活動で得た、数少ない役に立つ知見である。


 何かを伝えて何かを変えたいときは、ハッキリとその意志を伝えなければ始まらないのだ。


「秘密って言うのは、時には暴露したり、誰かに聞いて貰うことで状況が好転したりするものだから」


「……あなたが言うと重みがあるのは、気のせいなのかしら……?」


「甲塚が言うと、もっと重いですよ。きっと」


 演奏は、潮のように空間から消え失せた。ギターをぶら下げた先生が、座っている俺の前にやってくる。


「だったら、一つわたくしの秘密を聞いてくれる?」


「……まだあるんですか!?」


「ふふふ。ありますわよ。佐竹君は、よくわたくしのことを格好良いと言ってくれるけど――そんなことないのよ。わたくしはね」急に、先生の顔がぽっと赤くなる。「……子供なの」

 

「……」


 それは、どういう意味だ。


 経済的に自立していないから、とかそういうことか?


 考えても分からないので、俺は取り敢えず意味深長に頷いておいた。それで、先生の肩の荷が幾らか降りたのだろうか。ヘラヘラ笑いながら、手で顔を仰ぎ始める。


「き、キスも――まだなの。あ! あははっ! わたくし、生徒に何言っているんでしょう!」


「……あ。そういう」


 滅茶苦茶低次元な話だった。


 金銭的なことではなく、恋愛的な方向かよ。


 言われてみれば意外な気がするが、お嬢様言葉で喋る女性なんて、先入観を払って見れば結構ヤバイ人だしな。それに、悪い男なんて近づく前に西原さん辺りが蹴飛ばしてしまうんだろう。


「心配しなくても、先生にはそのうち物好きな男性が現れますよ、きっと。優しくて、多少の無茶にも寛容で」


「佐竹君よりも?」


「俺よりかは知りませんが――てか、何で俺?」


「佐竹君よりも、でなければ困りますわ」先生は不安そうにギターのボディを撫でながら「佐竹君が、――」と、口を動かした。後半部分は声量が失せてしまって聞こえない。


「何ですって?」


「だから、佐竹君が、――」


「……聞こえませんよ。何ですか」


 耳を近づけると、


 ――佐竹君が、一番好きだから。と、彼女が言った気がした。


 聞き違いかと思って彼女の顔を眺めると、「す、好き」と、今度は潤んだ目を逸らさずに言ってくる。


 我ながら意外なことに、俺はさほど動じずに東海道先生の告白を受け止めることができた。教師に愛を告白されるなんて、俺の人生史を遡ってもトップクラスで異常な出来事なのに。


 それほどに、俺は東海道先生のことを、教師以上の存在として受け入れていたのか。


 そう思えば告白の衝撃を通り越して、俺という人間にはそれほどに思い、思ってくれる人が郁以外にもいたのだ、俺はここで生きていても良いのだ――そんな、何か基本的なことを許されたような、暖かい喜びが胸の底から打ち上がってくる。


「……ありがとうございます、先生」

 

「今は先生と呼ぶのは止めて。罪悪感で、押しつぶされそうになる……」


「えと、じゃあ、め、恵さん?」


「なあに」


「すいません。……俺、他に好きな人いるんです」


 先生は俺の胸にボンと額を当ててきた。彼女の表情は俺から見えなくなる。


「甲塚さんでしょう」


「違いますよ」


「じゃあ、宮島さんの方、か」


「……でも、恵さんにそんなことを言って貰えて、凄く嬉しいです。身勝手と思われるかも知れませんが……」


 先生が額をぐりぐり擦りつけてきた。


「身勝手で良いのよ。あなたは子供で、わたくしは大人ですもの。でも、お願い聞いてくれる?」


「……取り敢えず、聞きます」


 先生がふっと体を離した。彼女は別に泣いていたわけじゃない。俺の貧弱な胸に額をつけている間に、何だか少しだけ大人らしい風格を携えたように見えた。


「キス、して」


 俺はちょっと考えて、彼女の右手を取った。指先から弦のサビの匂いがする。


「すいません……嘘が、下手なんで」


 右手の甲に唇を一瞬付けて、離す。


「これで勘弁してください」


 先生は、ぱちくりと自分の右手の甲を見つめると、次第に肩を揺らして笑い出した。


「ふ、ふふ……ふっふっふ。あははははっ! ははははは!」右手を天井のライトに掲げて、くるりくるりとギターごと楽しそうに回り始める。「佐竹君ったら、キザですわっ!」


 そう面と向かって言われると恥ずかしくなる。でも、これが俺にできる精一杯だったんだ。


「キザですいませんね……! なんなら、今すぐその手を洗ってください!!」


「嫌だわ。そんなことしません!」


 先生は笑いながら、手の甲に――さっき、俺が口を付けた箇所にキスをする。


「今度の街では、泣き虫になりましょうか! たまに笑うくらいが丁度よくて、誰かに嫌われたって強いより良いでしょうし? 電車じゃ優先席に座って……夢を見られるかは分からないけど」


 突然先生がのべつまくなしに喋り始めたので、どうしてしまったのかと思った。が、妙に節を付けて喋っている辺り、これは何かの歌詞なんだろうと気が付く。


「今度の朝は、弱くなりましょう! 泣いて暮らしたって、誰かに嫌われたってどうせ人が好きでしょうし。鈍行電車のつり革を掴む右手に、夜の匂いがする人を、わたくしは思い出すでしょう……けど」不意に、先生が俺の目を見据えた。「きっといつかは迎えにくるわ。わたくしはそれを待っている。……あとしまつにはまだ早いから」

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