第149話 酒乱
真夜中に息を切らして辿り着いた東海道先生のマンションは、やっぱり中の豪華さに比べればこぢんまりと佇んでいるように見えた。
しかし、ここまで来たは良いけど、どうするか――
「ゴホッ」
エントランスを前に深呼吸をしようとしたら、重い咳が一つ出た。
もう十二月も頭。走って肺に出し入れするには、空気が冷えすぎているのだろう。
俺は丸めた拳に息を吐いて、吸ってを数度繰り返すと覚悟を決めた。
――なんのかんの言ったところで、ここまで来てしまったものはしょうが無いじゃないか。もしも先生の母親と出くわしたりしたら、その時は――合鍵を返しに来たとか何とか言って、全力で誤魔化すとしよう。
呼び鈴を押すと、割とすぐに応答があった。が、何か返答があるわけでもなくゲートだけが自動で開く。
……とにかく、来いということか。
これで大したことじゃなかったら、なんてじゃじゃ馬お嬢様なんだと罵倒してさっさと帰るか。
*
一応部屋のインターフォンを鳴らしたが、東海道先生が玄関先まで出てくることは無かった。これは予想していたことだ。ついでに、これで別の人間が出てこないということは、彼女の母親が部屋にいないということになる。
俺は安心して、自分でロックを外して部屋に入っていった。
すると、いきなり真っ暗闇が俺を出迎える。
――違うな。リビングの、対になっているフロアライトが常夜灯モードになっているんだ。天井に仕込まれたLEDの方は消灯しているから、部屋を照らすのは電球に近い熱感のオレンジ色だけである。
先生はダイニングテーブルに肘を突いていた。椅子の上に崩れた体育座りのような格好で座っていて、……着ているのは、ネグリジェってやつだろうか? やたらと肌が透けて、その割にフリルの多いドレスのようなものだ。
「一体なんですか、この有様は」
ダイニングテーブルに乗っているのは、琥珀色の液体が入った酒瓶だ。一体あのキッチンのどこにあったんだと思う程の本数で、立っていたり倒れていたり空になったりしている。
「佐竹君。……」
「先生のお母さんは? 今日は泊まっていくんじゃなかったんですか」
「あんな人、追い出しちゃったわ!」
手に持っていた瓶を、ゴンと置いて言う。大分怒っているようだ。
「一体、何があったんですか」
「それがね、聞いて頂戴。聞いて。佐竹君、聞いてったら。あなたが立ったままだと、わたくしがお説教をしているみたいじゃないの」
先生はしつこく俺を対面に座らそうとするが、俺はさっきから部屋の明かりを探して壁をペタペタ触っているのだ。
「聞いてますよ。その前に部屋がこう暗くちゃ話にも集中できないでしょうが。……ああ、もう。ハイセンスな家ってのは、電気のスイッチも分かりにくいんだから」
「はぁ~あ。もう」
東海道先生はそう言うと、脈絡もなく天井に向かって指パッチンをしてみせた。
すると、なぜかリビングの照明が全灯になる。
えっ? どういう仕組み……?
「そんなのいいから。座りなさい」
「はあ」
先生の対面に座って、俺はギョッとした。暗がりじゃ気付かなかったが、先生の着ているネグリジェは透けすぎて黒い下着が丸見えになっている。それどころか、やや幼児体型な体のラインまでほぼ直視できてしまっている。
ただ、本人はさほど気にしていない――というか、顔どころか体中の肌が赤くなって、目が完全に据わっている……一体どれだけ飲んだんだろう。
目のやり場に困るので、体を横に向けて座り直した。
「で? お母さんと一体何があったんですか」
「それがね。本当に人を馬鹿にしたことなんだわ。お昼は二人で東京観光して朗らかな雰囲気だったって言うのに、わたくしの家に着くなり、急に怒りだしたのですわ」
「どうして。……音楽関係のものなら、跡形もなく地下に移送したじゃないですか」
東海道先生が頭を振る。
「いいえ。本当に、あの作業が馬鹿らしくなるような理由なのよ。……この部屋に、男の匂いがしないのが気に入らないんですって!」
「あ、男の匂いですか」
なんか、生々しい話だな。
「そうよ。家族といえど、とんでもないセクシャルハラスメントだとは思わない!?」
「……先生のお母さんは、娘のことを心配していたんじゃないですか。きっと……」
視界の端の東海道先生が足を組んでふんぞり返る。いくら貧相な体型とはいえ、こうも股を開いて居直られちゃ意識せざるを得ないではないか。
そして、自慢じゃないが俺はリアル女性の肌というものに、それほど耐性が無いらしい。画像の女で見るそれとは、既視感のようなものはあってもシチュエーションの圧が違うと言うのか、とにかく、異様に喉が渇いて緊張してしまう――ということが、今分かった。
とにかく視線を横に逸らして自衛するしかないな。ここは。
「ふん。なにが娘の心配ですか。話を聞いてみれば、あの人はわたくしが東京の高校教師なんか三年そこらで辞めて、伴侶となる男性を連れて大阪に戻ってくるものと思っていたらしいのよ。わたくしたちが必死に隠した音楽なんて、全く関係無かったの。高校教師という職業が、あの人にはしょせん腰掛け程度のものにしか思えないんだわ! わたくしが、どれだけ狭い選抜枠を潜り抜けて桜庭高校の教職を勝ち取ったか、なんてまるで興味無いみたい」
「なるほど。……そりゃ、荒れるわけだ」
先生にしてみれば、母親に自分自身の裏のアイデンティティどころか表のアイデンティティまで真っ向から否定されたことになる。これでは、放課後に汗水垂らして作業していた俺たちが馬鹿みたいではないか。
「でも、それで結局どういう話になったんですか?」
「どういう話って?」
先生は、すんと鼻を啜って言った。アルコールで鼻の奥が腫れているらしい。
「だって、お母さんのこと、泊めもせずにそこらにほっぽり出しちゃったんでしょ。……まずいんじゃないですか」
「どうせタクシーでも拾って、ホテルにでも泊まるでしょう。母だもの。……で、でもね」
また、先生が鼻を啜った。ところが今度は鼻が詰まっているわけではない。泣き出しているのだ。
……これで、先生の泣き顔を見るのは二度目か。
大人の泣き顔をってのは、参るんだよな。
「さ、さっき、メールでね、こ、こ、この部屋、来年までに引き払っておけって、言うのよ、あの人」
「マジですか!?」
東海道先生は、涙を指で拭いながらこっくり頷く。
「この部屋を……出る、か……」
俺は改めて東海道先生の家を見渡した。そういえば、この部屋の家賃なんかは先生の実家が出しているという。……なるほど、先生を大阪に連れ戻すパワーとは、詰まるところこの家の処遇を決める力か。引っ越すと言ったって、東海道先生だけじゃ簡単にはいかない筈だ。なんたって彼女は膨大な数の衣服と、音楽機材を所有しているから。安価な部屋に住むとなれば、その多くを手放さなくてはならない。
「わたくし――どうしましょうっ!」
先生は助けを求めるように俺に聞いてきた。
「どうするって……どうしたら良いか、俺が先生に答えを教えてあげたら、良かったんですが」
俺は心の底からそう思った。
「俺は、先生。俺は、まだ子供で……どうしたら良いのか、分からないんです」
「何を言うの、あなた!」先生が机の縁を掴んでガタンと揺らす。「分かりきったようなことを言ったのはあなたじゃない。私は刹那主義者で、後先考えない教師失格者だって!」
「きょ、教師失格とまでは言ってないんですが……。少し被害妄想が過ぎますよ。俺は先生の敵じゃないんですよ」
「――ショックだったの!」
「ええ?」
「佐竹君の言っていることが、正しいと思ったから……」それまで獰猛に吠えていた先生が、急にしゅんとしてしまう。「確かに、私に教師としてあなたの進路にあれこれ言う資格は無いと、そう思ってしまったわ。だってこんな生き方をしてきて、これまでのツケを今支払うことになっているんですもの。こんなに非道い先生なんていません」
「先生。だから、俺は先生が教師失格だとまでは思っていないですよ」
上目遣いに、先生が俺を見る。
俺は、できるだけ顔から視線を下げずに続けた。
「確かに先生はキャラの割に滅茶苦茶ですけど――滅茶苦茶なりに教師していますって。刹那主義者とは言っても、ちゃんと教員受かって、バンドは人気になる位に人生のバランスが取れているじゃないですか。そういう格好良い先生って、もしかしたらこの世界で東海道先生だけなんじゃないですかね」
「ふぅ……んっ」
先生は興味深そうに俺を見ながら、瓶の酒を口から胃になみなみと注ぐ……。
「だからさ、自分から自分の仕事を否定すること無いですよ。これだけ執着しているんだから、教師っていう仕事が好きなんじゃないですか、あなたは」
「いくら仕事が好きだからって、家を追われるのではおしまいですわ。わたくしは、きっと寒空の下で凍え死ぬんだわ」
これだけ言ってもまだ悲観的な先生に、俺は逆に怒りを覚えてきた。
「なにを……このっ」先生が持っている瓶を取り上げる。「全く。こんなもんがあるからいけないんだ」
「あ!」
俺はキッチンまで行くと、瓶に残っていた酒を流してしまった。瓶が空になると、テーブルに残った他のウイスキーも抱えて持って、次々と流していく。先生は慌てて止めようとするが、足に来ているもんだからよたよたと家具にぶつかっている。
彼女が流しに辿り着く頃には、すっかり酒を流し終えた後だった。
「あなたって子は、何をするの!?」
怒りが酔いを凌駕したのか、割とハッキリした口調で怒鳴ってきた。
「きっと、あんたみたいな人を酒乱って言うんだな。勉強になりますよ、ほんと」
「……高いのよ!? 子供が弁償できると思ってるの!?」
「今の先生が高い酒飲んだって、下水に流すのとそう変わらないでしょうが」
先生は落ち着きなくキッチンをうろうろすると、耐えかねたように言った。
「もう、出て行って頂戴」
「……分かりましたよ」
俺は、言われた通りに東海道先生の家を出て、エレベーターで真っ直ぐ地下の倉庫に向かった。それから、この間苦労して運んだ普段使いのギターを持って、再び東海道先生の家の扉を合鍵で開く。
「うえっ!? どうして!?」
「二度と来るなとは、言われてないんで」
この行動には流石に酔った東海道先生も驚愕したのだろう。
口をあんぐり開けて叫んだかと思えば、俺が持っているギターに視線を止めて、少し正気を取り戻した顔をしてくれた。
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