第148話 トンネルの中を進む
東海道先生の着信に気が付いたのは、帰りの電車に乗り込んでからであった。
着信は二度。一度目は十二時三分で、二度目は十四時十六分。……甲塚と話をしていたか何かで気付かなかったんだろう。それからはずっと歩いていたしな。
しかし、先生が俺に一体何の用だ。
折り返しで電話を掛けようとしたところで、指が止まった。今は彼女の母が泊まりに来ている筈だ。だとしたら、今俺が連絡すれば通信先の空間にその人がいるかもしれない。だったら、ちょっと具合が悪いよな。
……しかし、どうして胸騒ぎがするんだろう。
夜に家を出て、マンションの前をうろうろし始める。今、家のリビングでは俺の母親がテレビを観ているんで考え事をしていても集中できないのだ。
母親が東京に来ると行ったこの土曜に、先生が二度も俺に連絡を試みた。これは何か異常事態が発生したことを意味しているのではないか――という予想が頭に擡げる。
彼女にとっての最悪な事態は、音楽趣味が何かしらの事故があってバレてしまうことだろう。話の通りの厳格な母親であれば、本当に東海道先生を大阪の実家に連れ戻してしまうかもしれないし、それが実行できるパワーがあるんじゃないか。
「……」
「蓮? 何してるの?」
「ん!?」驚いて声のする方を向くと、宮島家の玄関からひょっこり郁が顔を出している。「……なんだ。郁か」
「なんだとはしっつれいだな~」
郁は風呂上がりだったらしい。パジャマの上にカーディガンを羽織り、サンダルを突っかけて外に出てくる。
「寒いだろ、そんな格好じゃ」
「部屋の窓から蓮がうろうろしてるの見えたんだもん。何してるの?」
「いや、別に――そうだ。今日のデートはどうだった?」
「あれ? 何で私が今日デートしたこと知ってるの?」
「悪いけど、人間観察部でショウタロウの動向は追わせて貰ってるんだ」
流石に尾行していることまでは明かさないが、これくらいは言っても良いだろう。逆に後々の会話からボロが出そうだし。
「なあに。そんなに私とショウタロウ君の仲が気になるわけ?」
「人間観察部で、って言っただろ。ショウタロウが絡んでいることなんだ。コトは俺の感情だけで左右する問題じゃない」
「なんか大袈裟じゃない?」
そんな話をしながら、俺たちは何となく近くの公園までの道を歩き始めた。
「大袈裟でもない。……人間観察部の調査では、郁とショウタロウの仲はそれほど悪く無い、という見解もある」
「それ、どうやって調査してるのかすっごい気になるんだけど……」
「それは秘密だ。で、実際ショウタロウのこと、どうなんだよ。少しは印象変わったか?」
「うん。臼井君って、思ったより馬鹿だった」
俺は思わず乾いた笑い声を挙げてしまった。
親しくなって見つけた臼井の一面が、馬鹿とは。概ね同意するところではあるけどな。
「あ、でもね。良いところもあるんだよ? 一緒に歩いていると、凄く私を気遣ってくれていることが伝わってくるし、誠実なんだよね、多分」
「誠実? あいつが?」
「……もしも私が、佐竹蓮っていう幼馴染みのいない他の女の子で、それで臼井君にデートに誘われていたならって考えたら、夢みたいなことだな……ってこの頃思うよ」
そういう郁の顔が、赤く染まっているので俺は驚いた。
俺が感じるショウタロウの闇に、あれほど距離が近づいた郁でも気が付かないのか――それとも、むしろそこに惹かれるものがあるのか。
そうと気が付いたら、隣を歩く幼馴染みが、俺が知っていた彼女と少しだけ違う人間のように思えてきた。
公園の入り口が見えて来た辺りで、突然郁が振り返る。
「……ていうか、さ」
「ん?」
「最近の蓮、なんか変」
「何だ急に」
「甲塚さんにこそこそ相談なんかしたりして、朝も私より早く学校行ったりしてさ。……それに、あのシャンプーの匂いは何なの?」
「だから、それは色々わけがあって――ていうか、お前シャンプーの匂いなんてしないって言ってたじゃないか」
「そりゃ、あの場はああいうしかないよ。だって蓮の髪から東海道先生の匂いがするんだもん」
「!?……」
俺は腰が抜けそうになるほど驚いた。悲鳴を挙げなかっただけでも自分を褒めてやりたいところだ。
そういえば、郁というやつは何かと匂いを嗅いだり嗅がせたりということが多い。鼻が良いというか――匂いフェチではあるんだろう。そんな彼女なら、霧散しかけたフレグランスシャンプーの香りを捉えることくらい容易だったのか。
俺が言葉を発せずにいると、二の腕を手で擦る郁が続ける。
「甲塚さんの前でそういうことを言ったら、また彼女、変な勘ぐりしちゃうでしょ? だから黙ってたんだけど……一人で、考えれば考えるほど分からなくなっちゃって。何で蓮が東海道先生と同じ匂いを漂わせているんだろう? って……」
「……」
「最近、眠る時少し怖い。もしかしたらこの夜に、私の知らないところで私の知らない相手と大人になろうとしている蓮がいるんじゃないかと……」
そう言う郁の肩が震えている。
「それ、考えすぎだよ。……流石に、寒いだろ。そろそろ帰ろう」
「う、うん」
結局、公園に入らないまま俺たちは来た道を戻って行く。
郁と、心の距離が離れつつある気がする。きっと俺たちはそれぞれが大人になる道を歩み始めていて、その過程に、たまたまお互いの姿が見えないトンネルがあるんだろう。
ただ、トンネルを抜けた先に合流する道があるかどうかは今以て分からない。
――郁を家に送り届けた後、自分のマンションに戻ろうとしたところでスマホが震えた。
……! 東海道先生だ。
すぐに通話を繋げると、まず湿度の高い呼吸音が聞こえてくる。
「先生?」
「……」
唾を飲み込むような音が聞こえた。
「――泣いているんですか?」
「……」
なんか尋常ではないことが彼女の身に起こったことは確からしい。
東海道先生の母親が――とは思ったが、
「今から、先生のマンション行きます」と、勝手に口が動いていて、足は走り出していた。
一度走り出したのなら仕方が無い。俺にできることは、走り続けるだけだ。
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