第146話 大人と子供の意識の差

 ……なし崩し的に、連日東海道先生の家で寝泊まりしてしまった。が、だからと言ってラッキースケベ的なイベントに恵まれたわけではない。基本俺が息をする空間はリビングに限られるし、彼女の私的な生活部分は最低二枚の扉を挟んで行われるからだ。


 まだ外も暗い早朝。キッチンの方から聞こえる音に気が付いてそちらを向くと、エプロンを着た東海道先生が朝食を用意していた。まだ朝の六時だというのに、よくこうも活発でいられるな。


「おはようございます。先生……」


 ベッド代わりのソファから起き上がって、声を掛けた。


「おはようございますじゃなくて、ごきげんよう、でしょう」


「勘弁してくださいよ。こんな朝っぱらに……いつもこんなに早いんですか?」


「……昨日みたいな朝は、あれきりだわ。今朝は佐竹君がいるんですもの。朝食くらいは食べて貰わないとね」


 どうも、先生にとって誰かのために料理をする、ということが喜ばしいことのようだ。そういえば昨日のまかない飯もやたらと豪勢な品数だった。あれは、ネットで調べて作りました、というレベルではない。脳内のレシピ通りに手を動かしたって感じだ。


 その気づきから、東海道先生には恋人がいるのではないか――という疑問はほとんど一直線に結びついた。


「先生」


「なあに?」


「先生にゃ……んあぁ~」


 言いながら、腹の底から欠伸が込み挙げてくる。


「もう――早くシャワーでも浴びて目を覚ましてきなさい。昨日買った換えの下着も忘れないでね」


 俺は大人しく言われたとおりにする。


 さっぱりしてリビングに戻ると、よくある朝食のセットがダイニングに用意されていた。流石に昨日のまかないよりはシンプルで品数も少ないが、俺からすればこんなに立派な朝食を見るのも久しぶりである。


「なんか、悪いですね。泊めて貰った上に食事を用意して貰うなんて……今更ですが」


 早速席に着いてから、テーブルの上を見回した。白米に味噌汁、焼き魚、……おお、サラダまである。久しぶりに見たな……。


「福利厚生ですのよ。雇い主としては、従業員の幸せを第一に考えていますからね」


 先生も、エプロンを外しながら対面に着席する。今気付いたが、彼女の方は既に最低限の身支度はしているらしい。……今って、まだ朝の六時半だよな? 一体何時に起きてきたんだろう。先生って職業は大変らしい。


「まあ、とにかく、いただきます」


「はい。召し上がれ」


 料理に少し手を付けてから、昨日先生に料理を振る舞われたら褒めろと言われたのを思い出した。

 

「あ。美味しいですよ」


「あなた、白米と焼き魚にしか手を付けてないじゃないの。そんな料理褒められても嬉しくありませんわ。わたくしが炊飯器とグリルのメーカーだったならまだしも」


「……」

 

 飯を食ったら褒めろと言ったり、褒めてみれば料理を選べと言ったり……。


「ところで、さっきは何を言いかけたのかしら」


「さっき?」


「シャワーを浴びる前に、何か私に聞こうとしていたでしょう?」


「ああ。先生って、恋人はいるんですか?」


「こいび――」宙を泳いだ先生の腕がコップに引っ掛かって、机の上を水浸しにしてしまう。「あらっ。あらら。あら」


 それから布巾で手元を拭こうとするのだが、どうにも手つきが怪しい。立ち上がり、先生の手から作業を奪ってから、言った。

 

「分かりやすいくらい動揺するじゃないですか……。いるんですか?」


「わたくしに恋人なんて――いるわけがないでしょう!?」


 鼓膜に大声を叩き付けられて、キインと鳴る。


「な、なにも耳元で叫ばなくたって良いでしょうが……! 朝から元気だなあ」


「佐竹君はわたくしのことを、恋人がいるのに他の男性を家に泊めるような、ふしだらな女性だと思っていたの? なんて失礼な子なのかしら!」


 俺はあんまりびっくりしたんで、ぽかんと先生の顔を見つめてしまった。


「先生――俺のことを一端の男性扱いしているんですか? 俺、子供ですよ?」


「……言葉の綾だわ。忘れてちょうだい」


「はあ」


 忘れろとは言うが、このやり取りで先生との間に何か大きな段差のようなものができてしまった気がする。熱量の差と言うのか、何と言うか……。


 なんだかおかしな雰囲気のまま、その日は仕事も無いので真っ直ぐ家に帰った。


 *


 先生との一件があったからか、週末を迎えるまではあっという間に過ぎた。


 土曜は、東海道先生の母親が東京に遊びに来る初日であり――ショウタロウと郁がデートをする日だ。


 朝起きて、色々身支度をしていたらラーメンにお湯を注ぐ前にインターフォンが鳴ってしまった。玄関を開くと朝だというのにブスッとした甲塚が突っ立っている。今回のデート情報は俺が仕入れたものなので、前もって甲塚に報告しておいたのだ。

 

 今日も先週末と同じようにお洒落すぎない装いで、ベースボールキャップにオーバーサイズのパーカー。ミリタリーグリーンのカーゴパンツ。……ここまでバリエーションがあると、一度甲塚のクローゼットを見学してみたくなってきたな。


「今日もご苦労さん」


「ん」


「……お前が本気でお洒落をしたら、どういう系統のファッションになるんだ?」


「……別に、普通よ。普通の、没個性的なファッション」


 なるほど。……全く想像ができない。


「ま、上がれよ。取り敢えず」


「ん。……今朝は、匂いがしないのか……」


「なんだって?」


「何でもない」

 

 今は朝の十時。


 先週の郁は、たしか十一時頃に家を発ったから、合流するタイミングとしては結構余裕がある。


「俺インスタントラーメン食べるけど、お前も食べるか? 何も食ってきてないんだろ」


「私、朝食べないわよ――と言いたい所だけど、今日はお昼食べられるとも限らないしね。手間じゃなければ、頂くわ」


 食べられるときに食べておくというわけか。


 なんか、軍隊染みてるな。


 甲塚と囲う食卓は、東海道先生が対面に座るそれとはエラい違いだ。食事が貧相なら、会話も無い。競い合うように麺を啜って、水を一杯飲み込んでしまえばもうマンションのエントランスへ向かって家を出る。


 うちのマンションにはソファなんて高尚なものは置いていないので、階段の一段目に座って宮島家の玄関を視界に捉えておく。育ちが悪いと思われそうだが、後の尾行を考えれば少しでも体力は温存しておきたいし――今日のプランは何一つ教えられていないのだから。


「学祭を入れれば三回目のデートってことになるのかな。今日は何処へ行くつもりなんだろ」


「……そうね。もうお互いのことは大体話しただろうし、ここらで新鮮な体験でもするのが良いんじゃない。水族館とか、映画館とか。そういうものを見れば、取り敢えず話題が無いってことにはならないでしょ」


「なるほどな。そういえば、この間からデートに関して一家言あるような物言いしてるけど、お前、付き合ったことあるの?」


 甲塚が、眉間に皺を寄せて睨んできた。


「同年代の馬鹿男に、なんで私が付き合ってあげないといけないわけ?」


「いや、別に付き合った方が良いって言いたいわけじゃなくて……」


 フン、と鼻を鳴らして、再び宮島家の玄関に視線を戻した。


「人間を観察していれば、円滑な人間関係のイロハなんてものは自然と憶えるものよ。特に、スクランブル交差点なんて一日のうちに一体何組のカップルが行き来すると思ってるの? あそこじゃ男女が切った張ったの騒ぎを起こすことも珍しくないんだから」


「人を観察してるだけで、そんな社会能力が身に付くとは思えないんだけど」


「何よ。私を見てもそう思うわけ?」


「むしろ、お前を見ているからそう思うんだが」


 そんなこんなで無駄な会話をしたり、入居者の足音が聞こえてきたらのっそり階段からどいたりしていると、いつの間にか十一時を過ぎていた。郁の姿は、まだ見えない。


 この辺りで薄々感じていたが、俺たちの予想は大きく間違っていたのだ。先週が朝からだったからといって、今週もそうだという保証は何処にもない。


 それから一時間経っても二時間経っても動きが無いので、そのうち俺たちは一方がエントランスで監視、もう一方が俺の部屋で休憩するという二交代制に落ち着く。彼女が俺の部屋で何をして過ごすのかは知らないが、パソコンの検索履歴以外に恥ずかしがるようなものは、今更無い。


 結局、郁が姿を見せたのは十五時だった。


 ……そういえば、今頃東海道先生は彼女の母に東京を案内しているところだろうか。


 俺のスマホには先生からの着信が二件来ていたのだが、この時の俺はまだ気付かない。

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