第144話 言わなきゃバレない

 禁忌――と言えばおおげさだが、とても他言ができない一夜を過ごした翌日の学校は、呆気ないほど普段通りの日常でしかなかった。授業はスケジュール通り進んでいくし、他の教諭は勿論、東海道先生も普段以上に緊張していたり、やや手抜きのメイクを恥じ入ったり、おかしな様子は一ミリとも垣間見せない。


 目敏くシャンプーの香りに気が付いた甲塚は別として、どうやら俺が言った「言わなきゃバレない」理論は俺が思った以上にその通りだったらしい。


 言わなければ、誰も気付かない。世間というものは自分が思っている以上に他人を気にしていないし、そういう日常の隙間に秘密という粒子は流れ混んでいくのである。


 いつものように帰りのホームルームで東海道先生が長話を始める頃には、すっかり禁を破った罪悪感なんかは腹の中で消化してしまっていた。


 帰りのホームルームが終わり、自分以外の生徒が一人残らず消えた教室で俺は、


「こんなものか」と、呟いて立ち上がる。


 拍子抜けなような、それでいて、何を肩肘張っていたんだと自分を笑うような……。


 *


 部室の扉の前に立つと、珍しく郁と甲塚の話し声が聞こえてきた。


 意外に思いながら姿を見せると、顔を付き合わせていた二人がピタリと会話を止め、俺を見る。


「二人が雑談なんて珍しいな。何の話をしていたんだ?」


「別に珍しくなんてないよ。私と甲塚さん、普通に話するもん。ね?」


「しないわよ。一方的にオタクトークをするのが、あんたにとっての普通なわけ」


「え!? いやいや。私だって年柄年中そんな調子ってわけじゃ……」


「……ま、お前らも結構付き合いが長くなってきたし、それくらい仲良くもなるよな。時間で考えれば、二人は他のどの生徒よりも一緒にいる女子同士ってことになるんだろ」


 言いながら、いつもの郁の隣の席に座った。……何故か二人の目線が俺から離れない。


「ど、どうかしたか? さっきからじろじろ眺めて……」


 困惑していると、いきなり郁が俺の首筋に鼻を近づけて来た。驚いて椅子ごと引き下がる。


「なんだよ!?」


 動揺する俺をちっとも気にせず、郁は難しい表情で首をかしげる。


「いや。甲塚さんが、今日の蓮良い匂いがするって変なこというからさ。でも……うーん。別に普段通りだと思うけど?」


「そりゃそうでしょ。フレグランスシャンプーの匂いなんて午後まで長続きしないもの。香水ならまだしも」


 俺はギョッとして、少し咳払いをした。


「まだその話を引っ張るのか……?」


「当たり前でしょ。最近暇だし、佐竹がいきなり良い匂いをさせて朝早く登校してきた、なんて退屈を紛らわせるには丁度良い日常ミステリーじゃない」


「それは母さんのシャンプーを借りたってことで決着が付いただろ!?」


「匂いの件はそうかも知れない。けど、早起きした理由が分からない」


「それはそう。匂いのことは甲塚さんの気のせいかもしれないけど、私を置いて勝手に登校しちゃったのは何なの? なんか変だよ、蓮」


「う……」


 言葉で俺を組み伏せると、甲塚は腕を組んでにやにや笑い出した。


「白状しなさいよ」


「何を」


「買ったんでしょ?」


「何を!?」


「フレグランスシャンプー。宮島に聞けば、あんたのママにそんな趣味は無いって言うじゃない。だとすれば、考えられるのはあんたが薔薇の香りのするシャンプーを購入した、ということだけ。……くっくくく」


「……」


 俺は唖然としながら、力が抜けてかくんと頭を垂らしてしまった。それが彼女たちには首肯に見えたらしい。甲塚はますます勝ち誇ったように笑い声を挙げて、郁は意外そうに目を見開く。


 ……なるほど。そうなるのか。


 流石の甲塚も、俺が女性の家に泊まった、ということまでは思考が飛躍しないらしいな。匂いが東海道先生の髪と同じ、ということについては、彼女の中では些細な違和感としてどこかに飛んで行ったんだろう。結構なことだ。


「あんた、そういえばセンスが無くて困ってるって電話してきたわね。それで早速やったことが早起きして? ちょっと良い匂いのするシャンプーを使うこと?」


「……」


「安、直」


「すいません……」


 謝ることしか、俺にはできない。


「ふん。どうせネットで調べたような知識でしょ。モテる男、特徴、検索! とか、そんな」


「ちょっとまって。そんな相談を、なんで甲塚さんにするわけ? 私だって蓮に上からアドバイスしたい」


「いや、俺が甲塚に電話したわけじゃなくて、その時は甲塚から俺の方に――」


「うる、さい」


「すいません……」


「ふ~ん。ふ~ん」郁は頻りに鼻を鳴らして頷くと、頬杖を突いて目を細めた。「蓮、モテる男になりたいんだ。誰の気を惹こうとしているのかな」


「……分かることを、一々聞くな」


 俺が答えると、郁は嬉しそうに頬杖を突いた掌で頬をごしごし擦った。


 一方甲塚は冷え切った表情で、


「は? なにそのやり取り。キッショ」と眉を顰める。


 *


 昨日と同じように部室で一時間程度過ごして校舎を出ると、同じ時間に出た生徒たちがちらちらと空を眺めている。


 小雨だ。


 制服に染みが出来ない程度だが、じんわりと肌を濡らすような細い雨が降っている。そういえば、昼から空はうっすらと黒い雲が覆っていた。


 ……とはいえ、この程度の雨なら殆ど霧のようなものだ。


 スマートフォンで東海道先生宅の住所を入力し、最短経路で到着した。このマンションのセキュリティは家の鍵とは別に住居者用のIDのようなものが必要らしく、エントランスに入るにも住居者の許可がないといけないようだ。


 呼び出し口で先生の部屋番を入力すると、すぐに通じた。


「鍵を持っているでしょう……部屋を開いて、上がっていらっしゃ、い」


 ……なんか、様子が変な気がする。


 思えば、東海道先生は今朝タクシーを降りてから俺を突き放すような素振りをしていたんだよな。


 反省を踏まえて俺と距離を置こうとする一方、単純に労働力として俺を家に呼ばなければならない。……東海道先生を悩ませるのは、そんなジレンマなのではないだろうか。


 ――ところが、俺の予想は大きく裏切られることになるのだった。


 恐る恐る部屋の扉を開いた俺の目に飛び込んで来たのは、ダイニングテーブルに乗った色鮮やかな食事の数々。パッと目に付く料理だけでもサラダ、焼き魚、味噌系のスープに、何か混ぜ物をした色のご飯、付け合わせが複数……。


 そのままアイランド型キッチンに目を移していくと、昨日までは殆ど使った痕跡が無かったのにドカンと膨らんだスーパーの袋やら、野菜屑やら、跳ねた油やら――


 そんなものから俺の視線を遮るように東海道先生が立ちはだかった。


「か、片付けまでは手が回らなかったのですわ。こっちより、そっちの方を向いて。そっち」


 言われた通り、料理の載ったダイニングに目を戻す。すると、東海道先生がエプロンを脱ぎながら視界に入ってきた。


「驚いたでしょう」


「驚きました。結構、本気で」


「ほ、ほほ。……頑張った甲斐が、あったわ……」


 そう笑うなり、東海道先生はだらりとイニングチェアに座り込んでしまった。昨日までは食材も無かったはずだから買い出し、それに複数品もの料理、……勿論、学校を早くに退勤するには日常業務を早くに終わらせないとならないんだろう。


 この人は、どうやらこの料理を作るために今日一日頑張ったらしい。


 何故だ。

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