第143話 忙しい朝、そして疑念

 東海道先生宅で、慌ただしい朝仕度が始まった。


 聞けば、朝の職員会議が八時半にあるらしい。そもそも教員の登校時刻は若いほど早くに出勤する習わしがあるらしく、いつもの東海道先生なら遅くとも八時丁度には出勤していると言う。一応、今の時点では正式な遅刻ではないものの、遅れていることには変わりない。


 そんな事情を聞かされてから、俺は東海道先生が出るのをヤキモキした気分で待っているのだ。今、奥のバスルームから強かな水音が聞こえていて、俺はリビングをうろうろ彷徨いながら彼女が上がってくるのを待っている。


「せんせー! ちょっと、早くしないと遅刻ですよ」


 バスルームの方に向かって注意すると、「ぁーぃ」とくぐもった返答が水音に紛れて聞こえてきた。間も無く、扉越しにドタドタとバスルームから私室、私室からクローゼットへ慌ただしく移動する音が聞こえて……と思ったら、急に静まりかえる。


「先生!? はやくしないと……」


「もう少し!」


 流石に着替えも終わっているだろうからと、耐えかねて私室やバスルームへ続く扉を開く。


 先生は寝室の鏡台で髪をセットしているところだった。寝て、涙で崩れた化粧はすっかり修復されている。この部屋は全面灰色の絨毯張りで、中央に一人用とは思えないベッドと、下着類が入っているだろうクローゼット。他にも家具があるが、全体的にやや少女趣味が目立つ。


 俺は、呆れて寝室の出入り口に寄りかかった。


「そんな、お洒落をしている時間があるんですか。全く女性の身支度ってもんは時間が掛かる……」


 東海道先生は変な機械で髪をくるくるしながら、鏡越しに俺を睨んでくる。


「あなたこそ、そんなところで一体何をしているの。そんなボサボサな頭で授業を受けるなんて、担任として許しませんわよ」


「ん……? あれ?」


 鏡に映った俺をよく見てみると、髪の毛の半分が真っ平らに固まっているではないか。ソファで寝たからか……。くそっ。手櫛ではどうにも治まらない頑固なとんがりだ。


「早く、シャワーを浴びなさい。急がないと置いていきますからね」


「え……良いんですか?」


「あなた、昨日から着替えていないじゃないの。下着は仕方がないにしても、せめてシャツくらいは着替えなさい。通路のクローゼットにYシャツが入っているから」


「女物に着替えろって言うんですか!?……どういう趣味?」


「……ユニセックスに決まっているでしょ! つべこべ言わずにさっさと仕度なさい!」


 *


 そんなわけで慌ただしく家を出た俺たちだったが、八時十五分にタクシーに乗り込めば、学校まではものの五分で到着した。そんな僅かな時間の間にも、コンパクトな鏡で化粧をしているから東海道先生は凄い。正直、俺には顔に何を塗っていて何が変わったのかさっぱり分からないし。


「……よく考えたら、先生はともかく俺が急いで来ること無かったんじゃないですか? 授業開始は九時だし、俺、先生の家の扉閉められるし」


 タクシーからは例の如く校門から少し離れた通りで降りた。早足で歩きながら言うと、東海道先生が目を見開いた。


 ……言ってから気が付いたが、先生からすれば、俺なんて担当クラスの生徒というだけだ。家から物を盗まれたりすることが怖い、ってこともあるだろう。


 だが先生は、


「それもそうですわね。あんまり慌てていたから気が付かなかったわ」と、特に裏の思考も感じさせずに言う。「いけないわね。一人暮らしが長いものだから……」 


「ところで、今日も放課後に先生の家へ真っ直ぐ向かうんでしょうか」


「そう――」東海道先生は少し視線を泳がせてから、頭を振った。「いいえ。それはいけません。考えてみれば、教師が一介の生徒をタクシーで送り届けるというのはおかしいもの。放課後は、徒歩でいらっしゃい」


「あ。……そうですか」


 今更そこを拒否られるというのは意外だったが、まあ生徒と教師のことだし……異論を挟む余地もない正論ではある。


 朝の忙しさですっぽ抜けていたが、そもそも東海道先生とタクシーに乗って登校している、ということが極めて異常なんだ。それも、彼女の家で一晩を超してからのことだぞ。


 人間観察部の中じゃ、先生がバンド活動していることなんて可愛い秘密だった。が、流石に今日のことは他言できない――甲塚に気付かれるわけには、いかないな。

 

「それじゃ、一旦家に帰って。着替えて、飯を食べて……それから先生の家に向かおうかな」


 先生が、目玉だけで素早く俺を二度見する。


「だ、だめよ」


「え」


 これも拒否られるのか? なんか、いきなり当たりが強くなっている気がする。


「別に、時間が遅くにずれ込むことはないと思いますよ。家から、走れば……」


「そういうことじゃなくて。……いえ、そういうことではあるのですけど。――ああ、もう! とにかく、だめなものはダメ。今日は部活を早引きしたら真っ直ぐ私の家に来ること。分かった?」


「わ、分かりましたよ」


 校門の辺りにはポツポツと生徒が見える。こんな時間に登校する連中とは袖振り合う仲ですらないので、見知った奴はいないようだ。だからか、俺が担任の東海道先生と校門をくぐるのを不思議がる奴もいない。


「全く、こんなに慌ただしい朝は初めてですわ」


 東海道先生はそう言い残すと、早めた足のまま職員用玄関の方へ向かって行った。


 後ろ姿の上品さに、昨晩のへべれけな彼女は見る影も無い。


 *


 教室の席に着いていたのは、朝練でもっと早くに登校してきた体育会連中だった。俺が姿を見せると、一瞬「おっ」という表情になるが、すぐに興味を失って一生懸命制汗ペーパーで背中や顔を擦り始める。


 授業開始までは、まだ三十分以上もある。


 やること無いな……。普段のこの時間は、スマホのアラームが鳴る中しぶとく布団に篭もっている頃合いだ。


「あ」

 

 そうだ、そうだ。このままではスマホのアラームが鳴ってしまう。消しておこう。


 ……スマホを点灯して気が付いた。そういえば、郁にも連絡しておかなければならない。きっと、この時間はもう起きている頃合いなんじゃないだろうか。一人で起きる朝と誰かと共にする朝では、回る歯車が違う。


 そんな用事を済ませていると甲塚が現れた。


 まだ三十分もあるのに。教室から消えるのも早ければ現れるのも早いとは、スピードスターだな……。なんか珍しい鳥を見たような感動がある。


 彼女の方も俺が席に座っていることが意外だったようで「おっ」という表情になった。


 が、すぐさま興味を失って自分の席に座ってしまう。俺は結構驚いてしまった。


「……お前なあ。朝の挨拶くらいしたらどうなんだ? 俺が朝早くに来てるんだぞ? そんなレアイベント、スルーするか? 普通」


 早速物言いをしに行けば、朝から怠さ全開に目線だけを上げる。


「スルーするまでもないでしょ。てか、そっちから来てるし。で、東海道の件は何だったわけ?」


「別に大したことじゃない。週末、先生のお母さんが来るらしくて、片付けを手伝ってるんだ」


「……手伝ってる? 現在進行形?」


 甲塚の隣の椅子を借りて、密談モードに切り替える。


「ほら――例の秘密関連の物品がな。親に秘密なんだってさ」


「ほーん」


 甲塚は退屈そうに欠伸をしながら、相槌を打った。

 

「……お前が興味無いのは、東海道先生の家庭事情か? それとも俺か?」


「どっちもかな。東海道の家庭なんて学校の外のことだし。今更佐竹なんて興味ないし」


「喜ぶべきなのか……?」


「でも、一応忠告しておく」甲塚は、ただでさえ潜めた声をより小さくして言った。「東海道のバイトの件、あまり外で言わない方が良いわよ」


「そう言われると、そんな気がしてきたな。時給良いし、クラスの陽キャ連中に知られたら、……」


「ちょっと待った――!」


 いきなり強い口調で俺の話を遮ってきた。


 甲塚の怠そうな雰囲気は何故か霧散していて、興味関心の光が瞳の中に宿っている。


「あ、あれ……? どうした?」


「佐竹から良い匂いがする」

 

「別にお菓子は持っていないけど」


「違う……シャンプー。これ女物でしょ」

 

「え!?」


 慌てて顔を甲塚から顔を離す。そういえば、今朝は東海道先生が使っているシャンプーを借りている。一晩明かした件は、言わない限り絶対バレないと思っていたのに。


 まさかこんなところから甲塚の疑惑を買うとは……!


「この匂い、どこかで嗅いだことがあるんだけど――どこだったかな。憶えがあるわ。それも結構頻繁に嗅いでいる……」


 やばい。甲塚が観察モードに入っている。


「ひ、人のシャンプーの匂いなんかを勝手に分析するな。今朝切らしてたから、母さんの借りただけだよ」


「……ふーん。ローズ系のフレグランスシャンプーなんて随分な趣味してるんだ。あんたのママ」


「べ、別にどうだって良いだろ……」


 納得したフリをしているが、甲塚の目の光は消えていない。


 まさか、今更人間観察部部長の恐ろしさを再体験するハメになるとは――

 

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